最初のページに戻る
ボクらの滑(ぬめ)り跡
-すべてそうさくしたおはなしです-
No.1 創刊号(1~10話 11~20話 21~30話 31~60話 61~66話)
No.2 夏号 休み特集号(No.2)
No.3 秋号(1~10話 11~20話 21~24話)
No.4 歳末特集号(1~10話)
No.5 冬号(1~10話)
No.6 夏号(1~15話)
No.7 続1(1~12話)
No.8 続2(1~7話)
No.9 続3(1~8話)
-すべてそうさくしたおはなしです-
(ちゃぺる 8-7 ) 皆 と 一 緒 4月5日(月)
陽のひかりは、暖かく柔らかいのに、風が冷たい。
母は、そんな日も外仕事に出ている。
高学年だけが近くの沼地へ遠足に出かける。
母の作った弁当を広げた。
俵の握飯に、薄く焼いた卵を巻いたもの。
海苔を巻いたもの。
極めつけはハムを巻いて細い海苔を帯にしたもの。
皆と一緒のものが良かったのに。
平素の生活との余りの落差が辛かった。
三日続いた曇り空が、晴れの日となった。
妻とあり合せのおかずで昼食をとる。
「あなた、ハムを海苔のようにご飯に巻いて食べると美味しいわよ」と妻が言う。
「それは、あまりしたくないな」と私。
「あなたは、何でもわたしが勧めるものにケチをつけるのね。
わたしだから勤まるのよ。ほんと、変人なんだから」
春の陽が差し込んで、キッチンが暖かい。
ガラス戸の向こうには、肌寒い風が吹いていることだろう。
だから、ご飯にハムを巻いたものは食べたくないのだ。
三十年一緒に暮らしても、そんなことも分かってもらえない。
皆と一緒のものが良いと言っているのに。
(ちゃぺる 8-6 ) イ カ ス ミ 3月19(土)
南風の中に、時折冬の忘れ物のような冷たい空気が混じる。
海遊館など無かった時代の天保山を二人で歩いた。
ミナミの女の子らしい派手な服装にたじろいだ。
「キシモト君、あのコとデートしてあげて。
昔付き合ってた人によう似てるんねんて。キシモト君に」
休講の掲示板に小躍りして、近くの大衆食堂へ繰り出した。
ボクたちは、わざと学生の行くような所を外した。
大阪から来た短大生がその中にひとり。
誰かの彼女だろうと気にも留めなかったが、
見かけとは随分違って仕草が小説に出てくるような昔の女。
彼女は、小さな椀にご飯を盛り、
縮緬雑魚に大根おろしを掛けた小皿をガラスケースから取り出した。
「イカスミ。あんた、今日、えらい大人しいやんか」
彼女は、正木たゐ子の友人だった。
翌朝、掲示板の前で正木に会った。
「イカスミの彼氏、高校の時にな、バイクで死んでん。
キシモト君によう似てるねん」
冬の終わり、二月の末に結婚した。
披露宴の台所は、戦場だった。
派手なドレスのまま、
イカスミは、手際よく素手でサラダを作ってくれた。
(ちゃぺる 8-5) 心 算 り 3月7(月)
「ワシはな、牧師のヨメはん、何人、泣かして来たや知れん」
「ゼニの取れる説教せにゃいかんでな、センセ」
会堂建築費の見込み違いを役員会が穴埋めすることになった。
一人頭で割った額の献金を余儀なくされた。
「それ、ワシが全額負担しますワ」
役員会にお茶を運んできた妻が即座に言った。
「志村さん、それはいけません。
皆さんも、志村さん一人に負担させてはいけません」
志村長老が妻を睨んだ。
「何でや、奥さん。
あんたはな、黙ってお茶出しとったらええんじゃ。
キシモト先生の奥さんやから言うて図に乗ったらあかんで」
「志村さん、お言葉ですけど、足らない分は今回お出しなって、
次回余ったら全部自分が頂かれるお心算りでしょう」
志村さんの奥さんが余命三ヶ月で天に召された。
泣き崩れる志村さんに妻が寄り添った。
もっと優しくしてあげられなかったのかとの妻の一言に、
志村さんが泣いた。
「牧師のヨメはんに、ワシ、初めて泣かされたワ」
(ちゃぺる 8-4 ) 茶 碗 蒸 し 2月14(月)
「徳子、茶碗蒸し、熱いか?」
坂本先生は、奥様を見送られた日、会食の席で丁寧な挨拶をされた直後、
長女に茶碗蒸しの具合を尋ねられた。
愛子奥様は、九二歳で天に召された。
坂本家に養子で入った先生は、温厚で気配りが細やか。
九五歳の現役産婦人科医である
先生は、出入りの工務店に、仏間をサンチャゴ聖堂さながらに改装させ、
歯科医の次男には位牌を作らせた。
位牌は、横長で、十二使徒のレリーフ仕立てであった。
先生は、太いマジックで一気に妻の名前を刻んだ。
「マーガレット・アイコ・サカモト」
誰も、何も言えなかった。
先生は、茶碗蒸しに舌を焼く客たちを満足気に眺め、
長女に酒肴の不足がないように厳命した。
「キシモト先生、私はね、牧師さんがね、年が若いからと言ってね、
説教を聞かんちゅうのね、いけないと思うんですね」
坂本先生は、そんなことを言いながら、
割り箸の袋に書いた句を私に見せてくれた。
妻逝きて 残雪淋し 裏愛宕
(ちゃぺる 8-3 ) お か ず 2月9(火)
「心斎橋の雑踏の中で喋ってるみたいやったで。
だれも聞いとらへんのや。そんな礼拝やったわ」
釣田牧師は、中高生相手の説教が大得意。
思春期の下半身を擽るような『おかず』を散りばめながら
人の心の奥底を見事に解き明かす。
釣田牧師は、ぼやいた。
「分からんのかな。ボクの話。もう古いのかな。
そうや、来週、君に来てくれ言うとったで」
「釣田さん、先生がボクを指名したんちゃいますか」
礼拝堂に入った瞬間、そこは、梅田の地下街さながらだった。
これでは、さすがの釣田牧師もなす術がない。
ぼそぼそと、辛気臭い説教を始めた。
行をしているような気分だ。
騒がしさに比例してマイクから遠ざかり、声を絞った。
係りの教員が、マイクのゲインを上げ、必死になって、
マイクに近づけとサインを送る。
「キシモト君、君なら上手いことやったやろ」
「いや、釣田さん。『おかず』持って行くの忘れましたわ」
釣田先輩に出来ないことを私が出来るということだけは、
絶対に、避けたかった。
(ちゃぺる 8-2 ) ゾーリンゲン 1月8日(土)
三箇日を風邪で臥せってしまった。
何とも情けない。
四日目の朝、鏡を覗き込んで我が目を疑う。
ゴミ屋敷になっていた母の家を年末に片付けた。
誰かが置いていった刃物だと母が気味悪がった剃刀があった。
しかし、それは、紛れも無く、父が愛用したゾーリンゲンだった。
「甘粕さんですね。ワシ言うたった。黙って頷きよってな」
父が祖父に反抗して大陸へ渡り、理髪師をしていた頃、
甘粕大尉が、腕の良い父の所へ忍んで通ったらしい。
中二の頃、父が、そのおどろおどろしたゾーリンゲンで顔を当れと言った。
何故か、映画で見たパットン将軍やらナチスの将校やらが、最前線でそれを
使うシーンが思い浮かんだ。
「怖がったらあかん。楽にするんや」
真横で、父は、目を閉じて自分の髭を剃って見せた。
三日間剃っていない髭に、ゾーリンゲンを押し当てた。
恐怖で腰が引けた。ジレットに持ち替えようかと迷った。
目を閉じ、背を伸ばし、無心になって、無事、剃り終えた。
(ちゃぺる 8-1 ) 薀 蓄 の 範 囲 1月1日(土)
三人で岩清水八幡宮へ出かけた。
お参りではなく、出かけたのである。
五月蠅いことを言う友人がひとりいたからである。
物知りのひとりが、岩清水と鰯を掛けて、
貴人が雑魚を食する言い訳としたとの薀蓄を傾けた。
『至聖所』が気になった。
見物だけでは物足りなく、矢を貰おうと。
矢を貰ったのは、『物知り』君と私の二人だった。
『五月蠅いことを言う』君は、偶像礼拝だと言って拒否した。
『物知り』君は、その後長く独身を通し、最近、再婚した。
結婚に対する知識だけを著しく欠いていたからである。
『五月蠅いことを言う』君は、
絶対唯一神への信仰エネルギーを事業に展開し、成功を収めた。
しかし、彼には、オフィシャルとプライベートの生活がある。
妻と恋人への愛をそのように表現し、公言している。
偶像礼拝禁止の教えは、今も厳守しているらしい。
『物知り』君が、その教えの同じ並びに、『なんじ、姦淫するなかれ』もあるのではと、
昔のよしみで忠告した。
しかし、それは、薀蓄の範囲に留まった。
-すべてそうさくしたおはなしです-
No.1 創刊号(1~10話 11~20話 21~30話 31~60話 61~66話)
No.2 夏号 休み特集号(No.2)
No.3 秋号(1~10話 11~20話 21~24話)
No.4 歳末特集号(1~10話)
No.5 冬号(1~10話)
No.6 夏号(1~15話)
No.7 続1(1~12話)
No.8 続2(1~7話)
No.9 続3(1~8話)
最初のページに戻る