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お届け説教アーカイブス(1)2020年3月22日〜2023年3月26日
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お届け説教 2023年4月2日〜  

※架空の出来事に基づいています。

※自宅礼拝の方は、後半の讃美歌・当該日の聖書から始めてください。
  良きメディテーションを得られて後、拙い説教をお読みください。




2024年5月19日 聖霊降臨節第1主日 ペンテコステ


説教題    『タコに骨はない(Octopus has no bones)』 

聖 書    エゼキエル書 37章1〜11節 
 旧約聖書(新共同訳)  1357ページ
        使徒言行録   2章1〜4節 
  新約聖書(新共同訳)  214ページ

讃美歌(21) 384  神の息よ  (1,3,4)       
      


♪タコに骨なし あたしゃ十五で色気なし あら、エッサッサー♪ 町内に安来節(やすぎぶし)を歌う子どもの声があった。父親が怪我をして長く仕事に出ていなかった。窶(やつ)れた母親の姿があった。誘い合わせて登校する同級生の家であった。安来節を歌っていたのは同級生のミノルだった。「お父ちゃんとお母ちゃんに笑うてもらおう思うて、お父ちゃんの真似して、ボク、歌うてやってん」。ミノルの父親は、腰を振り振り、どじょうを捕まえる仕草も滑稽な安来節の名手であった。夕餉(ゆうげ)には、狭いながらも楽しい我が家に、コップ酒の上機嫌があった。ミノルがため息をつく。「お父ちゃん怪我して、うちの家、ほんまに骨のないタコみたいになってしもうたんや」。

エレミヤが四十年も前に預言した捕囚が現実となり、今、エゼキエルは、異国の地、バビロンの収容所に押し込まれる身となり、はや五年が過ぎようとしていた。『バビロンの流れのほとりに座わり、シオンを思ってわたしたちは泣いた(詩編137:1)』。今、神の民は、バビロニアによって骨抜きにされた。はるか離れたエルサレムの地も灰燼に化そうとしている。主なる神を忘れ、傲慢の限りを尽くした神の民に一縷の望みもなかった。エゼキエルはその時、三十歳、本来ならば若きエリート祭司として溌溂とエルサレム神殿に仕えていたはずであった。失意のエゼキルは、水路にしゃがみ込み、小石のひとつも水面に投げてはため息をついている。収容所近くを流れる水路は、囚われの民に高度の農業技術を見せつけるための整備された灌漑設備であったと思われる。民は物心ともにバビロニアナイズされてしまった。第二次大戦後のドイツやイタリア、日本のにおけるアメリカナイズに似たエートス(?θο?)の骨抜きがあった。

エゼキエルは、安来節を踊った。エルサレムは、怪我をして働けなくなったはミノルの父親、やつれた母親は民の姿であった。エゼキエルは、父母を思うミノルとなって、次なる壊滅的なバビロニアの侵攻を泥鰌掬いをもって訴えた。自分のからだを縄でぐるぐる巻きにして芋虫となり、人糞を燃料にした火でパンを焼き、明日の現実をギリヤーク・尼崎も顔負けの路上パフォーマーの限りを尽くした。

 『どうして歌うことができようか。主のための歌を、異教の地で。(詩編137:4)』。ミノルはビー玉の誘いを断った。早く家に帰ると言う。「お父ちゃんとお母ちゃんの顔見るの辛いねんけど。ボク、歌うねん。タコに骨なしやちゅうてな」


『ギリヤーク・尼崎』:伝説のパフォーマー 検索されたし


讃 美 歌(21)  348 神の息よ(1,3,4) 
Breathe on me, breath of God






エゼキエル書 37章1〜11節 
主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。


使徒言行録  2章1〜4節 
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。





2024年5月12日 復活節第7主日 母の日


説教題    『そういうビャヤイ』 

聖 書    列王記下 2章1〜11節     
旧約聖書(新共同訳)  577ページ
        ヨハネによる福音書7章39節  
新約聖書(新共同訳)   179ページ

讃美歌(1) 510  まぼろしの影を追いて
 


「こちらを立てれば、あちらが立たず。そういうビャヤイ、ビャヤイがありますが、そういうビャヤイに、君たちならどうしますか」。女子学生が口調を真似る。「わたしのビャヤイはですねぇ。ふたりの男子からデート申し込まれて、そういうビャヤイにですねぇ」。「そっくりやわ。あんた」。「ビャヤイちゅうのが可愛いのよ。あのセンセ」。ずんぐりむっくり、ドブネズミ背広の老教授が大教室の大黒板を背に旧約聖書を講義する。「二つに切り裂いても自分が生んだとする子どもを渡せという女と、そんな残忍なことをするぐらいなら、その子はその女に差し上げますともう一人の女が言うのであるが、そのようなビャヤイ、そのようなビャヤイに、ソロモン王はどちらの女を赤ん坊の母親と認めたか。分かりますか」。「ビャヤイ、ビャヤイ、言うたはるわ」。「ほんま、ほんま、カッワイーッ」。『ビャヤイ』とは説明するまでもなく『場合』のことなのだが、そのもったりとした口調が学生たちの人気を集めた。

「もう、ビャヤイは聞けへんねんてぇ。辞めはってんてぇ」。老教授は定年となり、惜しまれながら学園を去った。ところが、ビャヤイだけは残った。後釜に座った教授が学生を取り込もうとしてビャヤイを騙(かたっ)たのである。ビャヤイの真似をすればするほど、受講者が減少した。挙句には、講義中にスマホを弄る学生を叱り飛ばし教室から追い出す暴挙に出た。ビャヤイは半年と持たず、陰険な採点者と化した。「エピゴーネンは、やだねぇ。惨めなもんでゲス」。落語研究会の学生が太鼓持ちの物真似で茶化した。

エリシャは、エリヤに、「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と言った(2:9)。偉大な預言者エリヤは、直弟子のエリシャの目の前で、天馬が引く炎の戦車に乗って天に挙げられた。エリヤはイザヤよりも百年早い紀元前850年ごろた北イスラエルにおいて、邪悪な王に国が滅びるビャヤイを命がけで警告した大預言者である。師と仰ぐエリヤの霊的賜物、そのエリヤの『ビャヤイ』を正しく継承した預言者がエリシャであった。神の前に徹底して自らを低くする者が、神によって高く挙げられることを見届けたエリシャは、度が過ぎるほどの真面目さをもって師エリヤの一挙一動を真似る。De Imitatione Christi. そして、言う。あなたの霊の二つ分が欲しいと。二つ分とは長子相続の取り分のことであるが、エリシャの要求はそれ以上をも含む。 

♪生まれる前から結ばれていた ― そんな気がする紅の糸♪ 紅(くれない)の糸。命くれない。あんたは、瀬川瑛子か。             



相続に悩む子沢山 


                           
讃美歌(1) 510  まぼろしの影を追いて


2)おさなくて罪を知らず むねにまくらして むずがりては手にゆられし むかしわすれしか
3)汝が母のたのむかみの みもとにはこずや 小鳥の巣に帰るごとく こころやすらかに
4)汝がためにいのる母の いつまで世にあらん とわに悔ゆる日のこぬまに とく神に帰れ




列王記下2章1〜11節
主が嵐を起こしてエリヤを天に上げられたときのことである。エリヤはエリシャを連れてギルガルを出た。エリヤはエリシャに、「主はわたしをベテルにまでお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、二人はベテルに下って行った。ベテルの預言者の仲間たちがエリシャのもとに出て来て、「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」と問うと、エリシャは、「わたしも知っています。黙っていてください」と答えた。エリヤは、「エリシャよ、主はわたしをエリコへお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、二人はエリコに来た。エリコの預言者の仲間たちがエリシャに近づいて、「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」と問うと、エリシャは、「わたしも知っています。黙っていてください」と答えた。エリヤはエリシャに、「主はわたしをヨルダンへお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、彼らは二人で出かけて行った。預言者の仲間五十人もついて行った。彼らは、ヨルダンのほとりに立ち止まったエリヤとエリシャを前にして、遠く離れて立ち止まった。エリヤが外套を脱いで丸め、それで水を打つと、水が左右に分かれたので、彼ら二人は乾いた土の上を渡って行った。渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい。」エリシャは、「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と言った。エリヤは言った。「あなたはむずかしい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない。」彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。


ヨハネによる福音書7章39節
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。






2024年5月5日 復活節第6主日 

説教題    『ウイッシュボーン』 

聖 書    出エジプト記 33章7〜17節    
旧約聖書(新共同訳)  149ページ
         ローマ信徒への手紙8章27〜30節  
新約聖書(新共同訳)  349ページ

讃美歌(1)  312 いつくしみふかき



 「おったん。また、豆かよ」。腹を空かせたカウボーイたちがチャックワゴン(台所付馬車)に群がり、口々に、琺瑯(ほうろう)の皿にペチャっと盛られた玉杓子一杯分の、申し訳程度の塩漬け肉が豆に隠れるシチューなるものに、言いたい放題の悪態をつく。「嫌なら食わなくいいんだぜ」。おったんことウイッシュボーンさんが小柄な体を背骨が折れるほど反り返らせ、大男たちを一蹴する。乾いた鞭の音に、♪ローレン・ローレン♪のテーマソングが続き、荒くれ男たちが土埃を浴びながら何千頭もの牛を追う。テキサスからモンタナまで2000キロを優に超える青天井の旅である。昭和の30年代、普及し始めたテレビ画面に映し出された西部劇、ローハイドの一場面である。ボスのフェイバーさんの女房役を演じる風采の上がらない『おったん』ことウイッシュボーンに対照的な役柄に、威勢が良く長身の美男子、ローディー・イエイツ、ボスの右腕、若き日のクリント・イーストウッドの姿もあった。

毎回、カウボーイたちが問題を起こす。些細ないざこざや仕事の配分への不完全燃焼が蓄積するのである。ボスの鶴の一声で解決する場合もあるが、消毒不十分の小さな傷口が膿になる場合もある。カウボーイたちは自然と、自分勝手な話を聞いてもらおうと、いらいら、せかせかと洗い物をするウイッシュボーンのおったんのキッチンカーの周りに集まる。

ある場面が思い浮かぶ。映画であったか。小説であったか。妄想の出来事であったのか。老いた修道院長が若い司祭に頼みごとをする。「君の告解(こっかい・懺悔を聞いてもらう)を受けたい」。戸惑う若い司祭。ウイッシュボーンのチャックワゴンならぬ薄暗い告解室に、晴れやかな老司祭の顔があった。しけた牧師館の書斎、書斎といっても腐った大学や病院の階段下の掃除用具入のような空間にも、ウイッシュボーンの世界があった。ちなみに、ウイッシュボーンという役柄の名は、鳥の胸のあたりのY字の骨のことらしく、二人で引き合って長いほうが残った者の願い(ウイッシュ)が叶うことに由来する。当たるも八卦、外れるも八卦という事である。

『主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである(33:17)」』。

八卦占いと臨在の幕屋(会見の幕屋)の近似性を語るとお叱りがあるかも知れないが、約束の地を目前にして、モーセは今一度自らのリーダーシップを神に問う。モーセの願い(ウイッシュ)が利己的なものでないことに神の祝福があった。
              



教会学校 春の遠足 1980年ごろ

                                         
讃美歌(1)  312 いつくしみふかき What a friend we have in Jesus




出エジプト記33章7〜17節 
モーセは一つの天幕を取って、宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けた。主に伺いを立てる者はだれでも、宿営の外にある臨在の幕屋に行くのであった。モーセが幕屋に出て行くときには、民は全員起立し、自分の天幕の入り口に立って、モーセが幕屋に入ってしまうまで見送った。モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった。モーセは主に言った。「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません。あなたは、また、『わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示す』と言われました。お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意を示してくださるか知りうるでしょう。どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください。」主が、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と言われると、モーセは主に言った。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう。」主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」


ローマ信徒への手紙8章27〜30節
人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。





2024年4月28日 復活節第5主日 労働聖日

説教題    『人の言う事はキカン(機関)』

聖 書    エゼキエル書36章25〜32節      旧約聖書(新共同訳)1356ページ
        ガラテヤの信徒への手紙5章7〜10節  新約聖書(新共同訳)349ページ

讃美歌(1)  515 十字架の血に           

「キシモト君、うちの教会では、祈祷会の後、みんなでビール飲むことになっている」。そのような雰囲気ではない。どう考えても。牧師夫人が盆にビールを運んできた。コップは一つである。長老たちの厳しい目がビール瓶とコップに向けられる。牧師は平然としている。「キシモト君、まあ、一杯やり給へ」。

水曜日の午後七時半といえば、どの教会でも祈祷会が持たれていた。牧師の聖書講義に続いて信徒が思い思いに祈るのである。出席者は若干名である。祈祷会は、保守的信徒の牙城であった。若者は来ない。この例は、祈祷文を読む教派でもなければ、軽快でポップなゴスペルを楽しく歌う教派の集会のことでもない。この教会では、厳めしい奉り調の祈りが長々と続く。一人終われば、間髪入れず補足の祈りが続く。挙句は、牧師の説教を添削するような祈りで締め括られることもある。1970年前後にその傾向が固着したと思われる。教会に世代対立が生じた時代であった。テレビドラマの中で、息子が父親を『あんた』と呼ぶシーンがそれを象徴したと記憶している。

ビールを勧める牧師は、海軍機関学校に青年期を過ごした人である。「人の言う事を聞かん、キカン(機関)と言ってね」。理系の人である。説教はロジカルであった。聖書を希釈しなかった。戦争責任を強く感じていた。保守的教会員が強く主張する開拓伝道に消極的であった。時に否定的でもあった。共栄圏を嫌った。天の声は聞いても、人の言う事は、キカン(機関)かったのである。
 長老たちの圧迫にうんざりしていた青年たちが牧師の周りに集まり始めた。牧師は八代亜紀のファンであった。青年たちは、『歌謡曲好きの話せる牧師』だと吹聴した。「キシモト君、あの連中も分かってない。♪雨、雨、降れ、降れ、もっと降れ、わたしのいい男(ひと)連れて来い♪いい歌じゃないか。雨が、生き地獄のこの世の試練、それが、酷くなればなるほど、わたしの良い人連れて来いってさ、イエスさまを連れて来いと歌っている。八代亜紀は、いいねぇ」。青年たちの教会改革にもキカン(機関)、聞く耳を持たなかった。

『わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える(36:26)』。エゼキエルが恥を知れと言い放った民、パウロが物分かりが悪いと叱責したガラテヤ人、この両者の都合を、預言者と使徒は、キカン(機関)かった。ビールを勧めた牧師は、キリスト教の『教』を『道』に換えて、キリスト道と呼んだ。禅への強い傾きがあった。「まず、座れ」が口癖であった。ビール問答に説破(せっぱ)があったかどうか覚がない。       
   


この一杯 

       
讃美歌(1) 515 十字架の血に
   
    
(2)弱きわれも 御力を得 この身の汚れを 皆 拭われん
(3)真心もて 切に祈る 心に満つるは 主の御恵み
(4)ほむべきかな わが主の愛 ああほむべきかな わが主の愛
(繰り返し)主よ われは 今ぞゆく 十字架の血にて きよめ給え

エゼキエル書36章25〜32節
わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。わたしはお前たちを、すべての汚れから救う。わたしは穀物に呼びかけ、それを増やし、お前たちに飢えを送ることはしない。わたしが木の実と畑の作物を豊かにするので、二度と飢饉のために、国々の間で恥をこうむることはない。そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。わたしがこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ、と主なる神は言われる。イスラエルの家よ、恥じるがよい。自分の歩みを恥ずかしく思え。



ガラテヤの信徒への手紙5章7〜10節
あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。




2024年4月21日 復活節第4主日


説教題    『はるかに近い (ferner Naehe - Weiter Ferne)』

聖 書    ヨハネによる福音書 21章15〜24節  新約聖書(新共同訳)  211ページ
        イザヤ61章11節           旧約聖書(新共同訳)  1163ページ

讃美歌(21)  484 主われを愛す          



♪エっさん、ワテらを好きやさかい♪ エっさんとは、エスさま。イエスさまのことである。「昔の讃美歌ちゅうたらオタマジャクシあらしまへん。歌の文句だけや。にっちょ(日曜)学校のセンセが口移しで教えるんや」。「へぇー。本当ですか」。「嘘ちゃうで」。『主我を愛す』の文語調を教会学校の教師が、こどもたちを面白がらせようと工夫したらしい。♪エっさん、ワテらを好きやさかい♪ 他のバージョンもあるらしい。「好いちょるばい」、「好きやけん」、などなど。ところが、時代を遡って明治の時代には、英語歌詞をそのままを歌わせたらしい。Jesus loves me, this I know ― 子ども耳には、ジーザス・ラッスミー・ジッサイ・ノーと聞こえ、For the Holy Bible tells me so ― ホーライ・バイブル・テッスミッソーとなり、最後のThey are weak but He is strong ― 聞き取れず、『デーアル・ヒコポン・ヒースロン』になったという。ちなみに、同志社創立者新島襄は、この讃美歌を抑揚なく棒読みでぼそぼそと歌った?と伝えられている。

復活のイエスはペトロに、『わたしを愛しているか』と三度も尋ねた。ペトロは、心外に耐え兼ね、『なんば言いよっとか。愛しちょるに決まっとるばい!』と半泣きになって言い返した。『遊女は客に惚れたと言い、客は遊女にまた来ると言う(ママ)』。勝新太郎、田村高廣のコンビでお馴染みの映画『兵隊やくざ』の一場面が脳裏をよぎる。将校に化けた二等兵の勝新太郎が兵舎の風呂場で浪曲を唸る。遊郭のお愛想の一節である。束の間の逢瀬が濁声(だみごえ)に乗り風呂場に調子よく反響する。沢口靖子が主演したNHKの朝のドラマ『みおつくし』に漁師たちが遊郭へ繰り出すシーンがあった。ペトロの姿をその中に見ても何の不思議はないが、今、ペトロは、其処(遊郭)ではなく、此処、復活のイエスの前にいる。遊女に『ゆびきりげんまん』を迫られているのではない。

イエスはペトロに、『はるかな近さ』を求める。はるかに近いとは妙な表現だが、一つの例がある。ナチス時代から相当の時間が経過したふたりのドイツの哲学者の間に交わされた遣り取りである。ハイデガーがヤスパースに、「戦中は、いろいろありましたが、あなたの80歳の誕生日を、はるかな近さ(ferner Naehe)から祝います」とカードに書いた。ヤスパースの返事は、「アホぬかせ。(Weiter Ferne・はるかな遠さ)」であった。

イエスは、ペトロの『はるかな近さ』に、「わたしの羊を飼いなさい」と返答した。いろいろあったことは、許された。


ある会合 距離は近い?


讃美歌(21)  484 主われを愛す 




(2) わが罪のため さかえをすてて  天(あめ)よりくだり 十字架につけり
(3)みくにの門(かど)を 開きてわれを  招きたまえり いさみて昇(のぼ)らん

Jesus loves me, this I know, for the Bible tells me so. Little ones to him belong; they are weak, but he is strong.
Yes, Jesus loves me! Yes, Jesus loves me! Yes, Jesus loves me! The Bible tells me so.



ヨハネによる福音書 21章15〜24節 
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

イザヤ書61章11節
大地が草の芽を萌えいでさせ、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、主なる神はすべての民の前で恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。





2024年4月14日 復活節第3主日

説教題    『よく言うよ』

聖 書    ペトロの手紙一 1章13〜25節   新約聖書   (新共同訳)    429ページ
       イザヤ書61章1〜3節         旧約聖書(新共同訳)  1162ページ

讃美歌(21) 327 すべての民よ、よろこべ       


「先輩、ちょっと部屋を片付けたらどうですか」。先輩は、自らの人生を野垂れ死にという形で幕を閉じた。新聞配達の途中であった。風呂と歯磨きを嫌った。安酒の臭いを残したまま、霧の早朝、自らの吐瀉物の中に身を沈め、息絶えた。五十五歳の一人暮らしであった。神学校時代の上級生である。下宿が同じであった。部屋が隣同士であった。万年床が夥しい本で埋まっていた。汁の残ったラーメン鉢、一口だけ齧った菓子パン、洗わない下着、ありとあらゆる不衛生が散乱していた。「先輩、聖書には、主の日に備えて身を清く保ちなさいと書いてありますけど」。「それはだね。その日が来てから、やりゃいいのさ」。話口調だけは、垢抜けした関東アクセントであった。神学校卒業後、教会を転々とし、遂に、どの教会からも呼ばれなくなった。難解な説教と不潔な生活が嫌われたのである。行き倒れは、新聞販売店の寮に安住の地を得た矢先の出来事だった。

神学校時代のある日、先輩は、数日留守をすると言って郷里(くに)へ帰っていった。実家は元大庄屋である。息子に甘い母親に金銭を強請(ねだ)るためであった。父親からは勘当を言い渡されていた。父親の不在をを嗅ぎ分ける猟犬の鼻があった。「キシモト君、なにか美味いものを食いに行こう」。先輩は、下宿に帰るやいなや膨らんだ財布を披露した。「部屋が綺麗だけど、掃除をしてくれたのかい。なんだか落ち着かないなあ」。「先輩と最後の審判の日に別れ別れになりたくないですからね」。「良く言うよ」。

『無知であったころの欲望(1:1)』。『あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい(1:15)』。

ペトロの言葉には、そうではなかった(過去の)自分を良く弁えた響きがある。ペトロが無知という言葉を使う時、それは、他人(ひと)のことではない。例えば、『罪びとの頭』とパウロが自らを言い表す時、その言葉は、高い学識や見識に依拠した抽象性を伴う。賢く整った人の修辞学である。粗忽(そこつ)なペトロは、失敗者の経験を得手とする。偉そうなことを言えないからこそ、誰にも無知の轍(てつ)を踏んで欲しくない。
十字架のイエスを鶏が無く明け方までに三度も拒んだ。イエスから口が酸っぱくなるほど繰り返し教えられても、聖書(旧約)の言葉の成就を理解できなかった。人情優先の熱い人と言えば聞こえは良いが、ペトロの脳内には、いつも、散らかった部屋のような乱雑があった。「その日が来てから、やりゃいいのさ」。そこまでは言わなかったのだが。手紙を読んだ人たちも、「良く言うよ」とまでは返さなかった。      


某シティーボーイ牧師の足元


讃美歌(21) 327 すべての民よ、よろこべ 





ペトロの手紙一1章13〜25節
だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。


イザヤ書61章1〜3節 
主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わし/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる。



2024年4月7日 復活節第2主日


説教題    『ちょっと待てと言われても』

聖 書    ペトロの手紙一 1章1〜9節   新約聖書(新共同訳)  428ページ
         出エジプト記 15章1〜節     旧約聖書(新共同訳)  117ページ

讃美歌(21) 325 キリスト・イエスは        讃美歌・聖書は裏面あるいは2頁



「根無し草なんや。帰る所なんか、あらへんのや」。「平家の落人(おちうど)やとか言うてたんとちゃうの」。「あんなこと、みんな、嘘や」。親兄弟、親族は言うに及ばず近隣にも相当な迷惑をかけて生まれ故郷を捨てた。口を開けば他人を呪う言葉しかない。酔えば、作文した氏素性を繰り返し、だんだんに大声となり、遂に、その場に居合わせた誰かに一喝され、借りてきた猫のようになる。飲み屋の女将からは、お愛想に、『平家はん』と呼ばれているが、常連たちには、『へーやん』と小馬鹿にされている。へーやんは、今年、還暦だという。 

故郷無き者、ロマンティックな響きを持つ言葉である。『ハイマートロス』とドイツ語で気取れば、へーやんの横顔に哲学が見える。--- ♪余所者(よそもの)としてやって来て、余所者として去っていく♪ ---  シューベルトの歌曲、『冬の旅』の歌い出しでである。豊かな人間関係に恵まれ、不自由のない暮らしをしていても、時に、ふと、居場所への不安を感じることがある。余所者だ。所詮(しょせん)、自分は余所者だと思う瞬間がある。ドイツ歌曲が可哀そうな自分を優しく代弁してくれる。その心情は、誰の心にも潜む。傷心の旅人の彷徨、へーやんの人生双六に上りはない。

若い娘がヒッチハイクをしながらあてのない旅をするというフランス映画がある。観た映画ではないが、映画のタイトルは、シューベルトの歌曲に同じく、『冬の旅』とある。結末は、主人公が余所者として様々な人々と出会い、消耗し、果てには、凍てついた水路の溝に凍死体となって発見される。映画館の客を欲求不満にさせて、ジ・エンド。フランス語の、『fin』の文字がズームして終了のブザーが鳴る、、、、のだろう。

『各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たち(1:1)』。バビロニア捕囚は強国の次に現れた強国によって幕引きとなったが、エルサレムへの帰還は充分とはならず、多くが他国の余所者として散らされた。『平家はん』ならぬ『ヘブライ関係の方々』として辛い日々を余儀なくされた。『今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかも知れませんが、、、(1:6)』。
ヘブライの人たち、『へーやん』に二つの生き方があった。律法のもとに管理されるか、復活の主を信じる信仰に生きるか。神の怒りの歴史に戻るか、神の愛を未来に語り継ぐか。へーやんは、もはや、余所者、エトランジェではない。ペトロは、その時を、忍耐をもって、少し待てと言う。 




                闇の中を 



讃美歌(21) 325 キリスト・イエスは


  


ペトロの手紙一 1章1〜9節
イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。


出エジプト記 15章1節
モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し馬と乗り手を海に投げ込まれた。主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。






2024年3月31日 イースター・復活節第1主日
               

説教題    『お母ちゃんと十字架』

聖 書    マタイによる福音書27章27〜44節  新約聖書(新共同訳)  57ページ
        イザヤ書 55章6〜9節       旧約聖書(新共同訳)  1152ページ

讃美歌(21)  321しずかな喜び           



「あんたも、お母ちゃんと一緒に教会へ行こ」。「なに言うてんの、お母ちゃん。ウチは、クラブで忙しいんや。それに、もう、ちっちゃい子やあらへんし。わたしは、教会へは行きません。連れ回さんといて」。「なんや、あんた、『わたしは、行きません』だけは敬語かいな」。娘だけではない。交際中は礼拝に付き合ってくれた夫も、結婚してからは、車で送ってはくれるが、教会の前で妻を降ろすとさっさと何処かへ消えてしまう。礼拝が終わったころ教会から少し離れた路上でタバコを吸っている。「あんた、悪いな。今日、婦人会(女性部)のこと言うのを忘れてたわ。四時ごろ出直して来て」。不機嫌を通り越した無機の表情が夫の顔にあった。

夫と娘は牧師の訪問を歓迎した。夫の下手なサキソフォーンに牧師がピアノ伴奏を付けた。娘は牧師に古典落語の艶話をせがんだ。牧師は大学時代、オチケン(落語研究会)では名の知れた学生であった。「センセ、この人らに教会に行くように言うてくださいよ」。「まあ、ぼちぼちと」。「また、そんな。センセのそのええ加減、優柔不断に文句言うてる教会員いますよ。わたしは、センセの味方ですけど」。夫に尋ねた。「奥様が、礼拝でどれほど心が満たされたかとか、そんな聖書の読み方があったのかとか、そのようなことを家で話されることございますでしょうか」。「センセ、妻は、そんなことを一度も言ったことはないですね。誰々さんが台所の段取りを滅茶苦茶にしたとか。誰々さんがバザーを勝手に仕切ったとか。教会のことちゅうと、いつも、膨れっ面ですわ」。「お母ちゃんが、信仰のこと、ウチが納得できるように説明してくれたら教会に行ってあげてもええかな」。娘が傷口に塩を擦り込む。『そうすれば、信じてやろう。(27:42)』

十字架のイエスも散々だった。お前にだけは言われたくない。根性のねじ曲がった律法学者やパリサイ人の僻(ひが)みのみならず、同じ十字架に貼り付けられた本物の極悪人からも、コケにされた。「自分も救えんもん(者)がひと(他人)救うやて。臍で茶沸かすで」。「そうや、そうや」。

昭和の昔、『あー、うー宰相』のあだ名を持つ総理がいた。国会での厳しい質疑に、「あー、うー」を何度も繰り返した。多くの人に及ぼす言葉の影響を考えて口が重くなった。辛口の財政再建政策を自らの十字架としたらしい。

「お母ちゃんにも、言い分あるんやで、あんたらに」。
十字架のイエスにお母ちゃんを重ねることは、不適切だろうか。




讃美歌(21)  321しずかな喜び







マタイによる福音書27章27〜44節
それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。



イザヤ書 55章6〜9節
主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。





2024年3月24日 棕櫚の主日・復活前第1主日


説教題    『ボロ自転車にランデブー』

聖 書   ヨハネによる福音書 12章12〜19節  新約聖書(新共同訳)  192ページ
       ゼカリヤ書 9章8〜12節      旧約聖書(新共同訳)  1489ページ

讃美歌(21) 307 ダビデの子、ホサナ         讃美歌・聖書は裏面あるいは2頁



「先生には、十分な謝儀を差し上げることが出来ませんでした。それを思うと私は、、、」。妻に支えられながら号泣した。サーベルを腰に佩びた時代に、町の警察署長を務めた教会員である。会計役員であったが、会堂の新築と同時に引退し、妻の介護を受けながら静かに暮らしていた。署長時代に妻と共に入信した。クリスチャンを取り締まるうちに、ミイラ取りがミイラになったのである。取り調べの対象に牧師と妻がいた。係員の調書をもとに尋問した。何を訊いても、ふたりは、『神は、愛なり』をオウムのように繰り返した。それでも厳しく、時勢の心得を問い質した。この世の終わりと神の審判があると言う。国も民も悔い改めなければならないと言う。署長は、その根拠を示せと詰め寄った。荒唐無稽な返答があった。しかし、眠れない一晩を過ごし、翌朝、牧師館の扉を叩いた。三十年が過ぎ、今、名誉牧師を招いた感謝会の席にいる。

牧師は、太鼓を叩いて人を集め、街角で説教をした。時に石礫(いしつぶて)が飛んだ。ヒコクミン、スパイの罵声が浴びせられた。署長も何度かその光景を見ることがあった。牧師は、戦時にあって取り残された人を訪問した。食べ物や薬を届ける訳でもない。ただ、ひたすらに、国の役に立たないとされた人たちを訪ねて、祈った。牧師は、ボロ自転車に署長の妻を乗せて、野を越え山を越え、憑(つ)かれたようにペダルを踏んだ。人妻とのランデブーに好奇の目が寄せられたことは言うまでもない。
 署長には、サイドカーの送り迎えがあった。時に、特別警護の命を受けた馬上の人でもあった。傅(かしづく)者たちが整える威厳があった。署長の本名は捨吉と言った。貧しい小作の倅であったが、懸命の努力を重ねて立身出世を成した。本名を嫌って、『勝利(かつとし))』と改めた。人生を勝ち取ったのである。些細な失敗も許されない。その緊張が、時に、築き上げた世界が音もなく崩れる悪夢となった。

署長は、ボロ自転車の牧師と自転車に相乗りする妻を心から尊敬した。奪い取られない威厳、尊厳があることを強く感じた。会計役員に立候補し、牧師と家族を支えた。子ロバに乗ったイエスをエルサレムの人々が歓呼をもって迎える。そうか!そうなのか!子ロバにボロ自転車が重なった。

感謝会のお開きに、和服姿の上品な婦人が現れた。「お父さん、迎えに来たわよ」。高級乗用車の後部席の牧師を教会員が見送った。牧師は、慣れない手つきでパワーウインドウを開けて、手を振った。  


懐かしのミゼット


讃美歌(21) 307 ダビデの子、ホサナ 

 



ヨハネによる福音書 12章 12〜19節
その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」



ゼカリヤ書 9章 8〜12節
そのとき、わたしはわが家のために見張りを置いて出入りを取り締まる。もはや、圧迫する者が彼らに向かって進んで来ることはない。今や、わたしがこの目で見守っているからだ。娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。またあなたについては、あなたと結んだ契約の血のゆえに、わたしはあなたの捕らわれ人を水のない穴から解き放つ。希望を抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ。今日もまた、わたしは告げる。わたしは二倍にしてあなたに報いる






2024年3月17日 復活前第2主日

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説教題    『もう、誰も、死ぬな、殺すな』

聖 書    ヨハネによる福音書 12章20〜26節  新約聖書(新共同訳)  192ページ
        詩編90編 1章1〜12節        旧約聖書(新共同訳)  929ページ

讃美歌(21)  296 いのちのいのちよ         讃美歌・聖書は裏面あるいは 2頁



「ねじりコンニャクちゅうのは、こうやるんか。面白いな」。「面白がってる場合やないよ。コンニャクなんぼ(いくら)あると思うてんの。それ全部、短冊に切って真ん中に包丁入れてひっくり返すって、おっちゃん言うたはるよ」。「あんな大きな窯で豆煮てるわ。こんまい(小さい)エビも入れて、甘辛い匂いたまらんな。ボク、あれ、大好きやねん」。「あんたら、口やのうて手ぇ動かしなさいよ」。「おばちゃん。ボクらは、ちゃんとやってます。喋ってるのは女子だけです」。

駅前商店街に、友人の父母が焼け跡から築き上げた総菜屋があった。年末は、猫の手も借りたいほどの忙しさである。店の近くに昭和の朝ドラの舞台になるような住居があった。靴を脱げば、すぐそこは、若者たちのフリースペースだった。友人の父親は商店街の会長さんだった。誰彼の区別なく面倒見の良い人であった。南の島の兵隊であった。あの激戦地で、その島だけには戦闘が無かった。本当の話に興味をそそられた。のんびりした南の島に退屈な時間が流れる。おっちゃんは、自慢の腕を振るって兵隊たちを喜ばせたと言う。サンゴ礁の海にダイナマイトを投げ込んで大量にとった魚を燻製にしたこともあったという。

おっちゃんとおばちゃんは、コンニャクに続いて、ゴボウ、ニンジン、レンコン、子芋など、次々に切ったり刻んだり、皮を剥いたりを指示した。少し疲れが出てきた。お喋りのタネが付き始めた。幼児教育を勉強している女子が少し尖った口調で言った。「あんたら、経済学部で何を勉強してるの」。ピアノやダンス、声楽などの実習に明け暮れる女子大生には、暇を持て余した遊び人のような経済学部の学生を弄(いじく)ってみたい気持ちがあったのかも知れない。「そうやな、例えば、ゲンカイコウヨウ・テイゲンの法則とか」。「何、それ?」。「限界効用逓減の法則ちゅうねんけど、要するに生産性や精神的満足度の効率を科学的に分析するんや」。「余計、わからんわ」。「要するに、ボクらには、この単純作業の効率を上げるために、今、ちょっと、休憩が必要ということかな」。「なるほどね。やっぱり、あんたら、ちょっとは、賢いねんな」。

 一粒の麦が、大麦の場合七〇倍になると言う。ちなみに、小麦は数倍である。いずれにしても、ひとつの命が多くの命に繋がるとイエスは言う。一粒の麦が、地に蒔かれる。それを『麦の死』とイエスは言う。

 限界効用逓減の法則を捻じ曲げて、人の命の効率を計測するのが、『戦争』である。



少女は平和を願う

                         
讃美歌(21)  296 (1・4) いのちのいのちよ  



ヨハネによる福音書12章20〜26節
さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」


詩編90編1〜12節
主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神。あなたは人を塵に返し、「人の子よ、帰れ」と仰せになります。千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます。あなたの怒りにわたしたちは絶え入り、あなたの憤りに恐れます。あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます。人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて、あなたの憤りをも知ることでしょう。生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。







2024年3月10日 受難節第4主日

説教題   『今だから話そう―ステンドグラスと香油』

聖 書   ヨハネによる福音書 12章1〜11節  新約聖書(新共同訳)  191ページ
       サムエル記上 10章1〜7節       旧約聖書(新共同訳)  441ページ

讃美歌(1)  391 ナルドのつぼ            



「礼拝堂にステンドグラスを寄贈する言うたら役員も牧師も大反対や。センセ、これ、どない思う」。格三さんがベンツを牧師館に乗り付けてきた。格三さんことカクちゃんは、隣町の教会員である。教会員といっても酪農と田畑を言い訳に礼拝には来ない。病弱の妻に先立たれていた。年に数回、隣町の教会に出張した。カクちゃんの姿が礼拝堂にあった。「会費を納めんとな」。カクちゃんは、献金のことを会費と言った。そのために、年に数回、教会に来るのである。五代目の信徒である。「信仰のことは、よう分からん。そやけど、葬式は、してもらわなあかんからのう」。

明け方の四時ごろ電話が鳴った。カクちゃんの家が燃えていると。国道から脇道へ、真っ暗な濃霧の山道を走った。焦げ臭いにおいが車内に漂ってきた。赤い回転灯が、法被(はっぴ)姿の人影を忙(せわ)しくコマ送りする。怒号が飛び交う。母屋が全焼した。カクちゃんが消防団の人たちに羽交い絞めにされている。「お爺とめぐみが、、、」。父親の寝たばこが原因らしい。娘のめぐみちゃんが逃げ遅れた。めぐみちゃんには軽い知的障がいがあったが、一人で汽車に乗ってよく遊びに来た。根気よく妻と手芸を楽しんだ。帰りは車で送った。めぐみちゃんは、後部席で妻と腕組みをしながら牛舎の子牛のことなどをエンドレスに喋った。その記憶が焼け跡に残った。

「キシモト君、君に任せるよ。ぼくは、サァ、こういうの苦手だから」。専任牧師は葬儀を丸投げした。町内との調整も押し付けられた。カクちゃんの家は寺の檀家でもある。前夜式は教会、葬儀は寺となった。葬列に守られながら二つの棺桶が墓所に向かった。土葬であった。略礼服のカクちゃんは、目だけの包帯姿であった。

「センセ、わらびでも採りに行こか」。春が来た。カクちゃんは牛舎にいた。新しく建て直されたガレージにはベンツがあった。村のひとたちは、何も言わなかったが、教会は懐疑の目でカクちゃんを見た。保険の『ホ』の字が礼拝堂を浮遊した。カクちゃんは、ステンドグラスの製作者のアトリエへと300キロ走った。後日、めぐみちゃんのイメージが教会に届いた。「神学的に適切ではないネ」。牧師が言った。役員も言った。「カクちゃん、それ、えらい高かったやろ。なんで、お金で教会にくれへんのや」。
ヨハネは、香油をささげたのはマグダラのマリアではなかったと記す。イエスが生き返らせたラザロの妹マリアが、その人だったとする。
 


今だから話そう


讃美歌(1)  391 ナルドのつぼ 



(2)よわき民に ちからを おぐらき世に ひかりを
あたえて主の たかき御旨 なさばや なさばや
(3)怖ずるものに 平和を なげくものに のぞみを
わかちて主の ふかき恵み あらわさん あらわさん



ヨハネによる福音書12章1〜11節
過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。


サムエル記上10章1節
サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、言った。「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです。





2024年3月3日 受難節第3主日


説教題    『ダウラギリ山』

聖 書    ヨハネによる福音書 6章58〜71節  新約聖書(新共同訳)  176ページ
        ヨシュア記 24章16節        旧約聖書(新共同訳)  378ページ

讃美歌(21)  297 さかえの主イエスの        


「なんで、君は、まだキャンパスにおるんや」。「フラ語の単位落として、留年やねん」。フラ語とは、一般教養のフランス語のことである。その単位が卒業までに取れなかったらしい。「そやけど、なんで、ここで会うのや。君も何か単位落としとるんか」。「ボクは、院生や。もうちょっと勉強しとうなって残っとるんや」。仲間たちの多くは就職して社会に出ていた。髪を短くし、スーツを着て、会社面接に臨んだ。留年と院生の髪は肩まで伸びたままであった。もっとも、五十年後の同窓会で、留年のハリネズミ頭がドリフターズの荒井注になっていたのには驚いた。『なんだ馬鹿ヤロー』を真似てくれと何度もせがまれては、お道化て同窓会を湧かしてくれた。バーコード頭が、かつての『おフランス野郎』の尖りを丸くしていた。彼のエスプリは不変であった。

エスプリとは、英語で言えばスピリット(精神)のことであるが、それがフランス語となれば、批評、洒落、辛口の場面に応じた即興となる。留年は、就職に踏み絵のイメージを重ねた。転(ころ)ばないと言った。就職しないためにわざとフランス語の単位を落としたのだと言う。気の良い仲間たちは眉に唾を付けながら真面目に言い分を聞いてやった。

遊び仲間がいなくなったキャンパスは、留年と院生には無人島のようであった。しけた財布では喫茶店もままならず、アジ看板を背にベンチで長話を楽しんだ。急に、留年がため息混じりの言葉を吐いた。「要するに、みんな、裏切り者や」。相槌を打ってやった。彼女とふたりで人形劇の道具をトラックに積み込んで離島の子どもたちを喜ばすと言った奴がいた。イタリアに行ってピエロの修行をすると言った奴がいた。戦地や秘境の写真家になると言った奴もいた。

学園紛争が下火になった時期であった。ベンチの先に、端がめくれ上がったアジ看板があった。襖の下張りのような古いビラが見えた。『ダウラギリ山登頂』の文字があった。留年は、『ウラギリ・ダ』と順序を変えて読んだ。「どいつも、こいつも、裏切者や」。
 『弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった86:66』。弟子たちの『多く』がイエスの許を離れて行った。イエスの言葉に躓(つまづ)いた。パンの奇跡を見せたイエスが、パンとは自分である。天のパンであると告げた。自らを食べよと言った。弟子たちは混乱した。イエスは、信じない者たちに、『ウラギリ・ダ』と言った。キャンパスに取り残された者たちの中に、イエスが居る。寄り添っている。 
   



狸の親子  

                                                                
讃美歌(21)  297 さかえの主イエス



(3)みよ 主のみかしら み手とみ足より 恵みと悲しみ こもごもながるる
(5)ああ 主の恵みに 応うる道なし わが身のすべてを 主の前に献ぐ




ヨハネによる福音書 6章58〜71節 
私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。生ける父が私をお遣わしになり、私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は永遠に生きる。」これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「これはひどい話だ。誰が、こんなことを聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのに気付いて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子が元いた所に上るのを見たら、どうなるのか。命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたの中には信じない者がいる。」イエスは最初から、信じない者が誰であるか、また、ご自分を裏切る者が誰であるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、私はあなたがたに、『父が与えてくださった者でなければ、誰も私のもとに来ることはできない』と言ったのだ。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも去ろうとするのか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。



ヨシュア記 24章16節 
民はこう答えた。「主を捨てて、他の神々に仕えることなど、私たちがするはずがありません。






2024年2月25日 受難節第2主日


説教題    『もっこしょのてったい』

聖 書    エフェソの信徒への手紙5章6〜20節 
新約聖書(新共同訳) 357ページ
        列王記下 6章15〜17節       
旧約聖書(新共同訳)  587ページ

讃美歌(21) 301 深い傷と流れる血に         讃美歌・聖書は裏面あるいは2頁




「娘の作文を見たら泣けてきてな」。長い付き合いの友人である。ある日、ファックスと電話があった。娘が学校で書いた作文に胸が詰まったと言う。将来の夢について書かされたものらしい。『わたしは、大きくなったら、もっこしょのてったいをしたいとおもいます。』ケーキ屋や看護師ではなく、『もっこしょのてったい』と書いて担任教師の判じ物としたらしい。早く大人になって、父親の木工所を手伝いたいと言うのだ。小学一年生の将来が、職人の給料も滞る左袵(ひだりまえ)の木工所にあった。端切れの木片で作ってもらった人形と揃いの小さな椅子を大切にしていた。耳をつんざく電動機械が唸り声をあげる工場に寡黙な職人たちの姿があった。古びたオート三輪が工場の入り口を塞いでいた。「うちの工場で作ったものは、ほとんど次の注文があらへんのや」。貴族の館に納める家具ではない。堅牢で安全な椅子やテーブル、棚などが主要製品であるが、学校関係の入札では、いつも負けてしまう。「そんな値段で出来るはずがないのや」。

『時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです(5:16)』。木工所の友人は、バブルの時代に命を削った。同級生たちは時世の勢いを追い風に羽振りの良い生活を享受していた。三代続いた木工所は時代から取り残された。海外の安い労働力に町工場が対抗できるはずがなかった。酒飲みの父親を嫌っていたが、いつの間にか、亡き父親が通っていたスナックの常連となり、記憶がなくなるまで飲んだ。時に、泥酔の挙句、鳥になり、ガードレールに登り、落下し、顔面を五針も縫った。「この顔で、銀行は、あかんわな」。
 銀行の融資が受けられなくなった。紳士から金を借りたが、取り立てにはサングラスがやってきた。中学時代の友人が工場をカタに援助を申し出た。詐欺であった。妻が娘を連れて出て行った。一人暮らしのアパートで死を迎えた。携帯電話には長電話の相手の番号と履歴しかなかった。妹が電話をくれた。「兄が、亡くなりました」。

パウロは、獄中からエフェソの信徒に向けてこの手紙を書いた。小アジアはパウロのこころの古里である。聖霊の働きを信じ、賛美と感謝と謙遜をもってキリスト者らしく生きることを勧める。信仰による徳をもって、主人と奴隷、家長と家族、親と子、夫と妻の関係性を保てと指導する。少なくとも文面からは。聖書を聖書としてそのまま読むのが筋かも知れないが。

『今』は悪い時代だと、パウロは言った。一人寂しく逝った友の脳裏に去来したものの中に答えがあるような気がする。  


          
20歳1970年 

                               
讃美歌(21)  301 深い傷と流れる血に


  



エフェソの信徒への手紙5章6〜20節
むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。―― 光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。―― 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。


列王記下 6章28〜29節  
王は更に、「何があったのか」と尋ねると、彼女は言った。「この女がわたしに、『あなたの子供をください。今日その子を食べ、明日はわたしの子供を食べましょう』と言うので、わたしたちはわたしの子供を煮て食べました。しかしその翌日、わたしがこの女に、『あなたの子供をください。その子を食べましょう』と言いますと、この女は自分の子供を隠してしまったのです。」





2024年2月18日 受難節第1主日   
14日(水)灰の水曜日
                    

説教題    『(誤)アルトスよこせ→(正)アルトンよこせ
          Give me that(artos)! → Give me that (arton)! 』

聖 書    マタイによる福音書4章 1〜11節   
新約聖書(新共同訳)  4ページ
        出エジプト記17章1〜5節         
旧約聖書(新共同訳)  122ページ

讃美歌(21)  300 十字架のもとに(1・3)      



「ワシは、体がこまい(小さい)やろ。そやから、素手で喧嘩したことはないんや。なんでもええから、そこらにある固いもん持ったら、ワシの勝ちや」。レンガを掴む仕草に凄みを利かせる。この人に近寄ってはいけない。「この形は、なんじゃいな。そっくりや、アレに」。「おっちゃん、原語でいうたらあかんで」。果物を挟んだ菓子パンを弄(もてあそ)び戯(たわむ)れる。「あんなおっちゃんになったら、あかんのやで、学生さん」。「そろそろ昼やな」。夜の12時を『昼』と言う。昼食休憩を挟んで作業は明け方の五時まで続く。深夜のパン工場の仕分けラインに、来る日も来る日も、暴力とエロスの無駄口が延々と流れる。人間の極限があった。大学紛争の時代、入学した三日後に生活が破綻した。学びと遊びは両立しない。パン工場の夜勤を二年続けた。

ある日、ラインの四、五人先で、大きな音と共に人が倒れた。誇張された卑猥な話に、夜勤ハイが重なり、誰かがラインのスピードメーターのツマミを右一杯に回した。鰊(にしん)漁のヤン衆よろしく、ほいさっさのふざけた音頭に狂気の仕分け作業が始まった。数分後、口から泡を吹いて、ひとりの男が床に沈んだ。男はその場で土下座をして泣き出した。「堪忍してえな。な、みんな、お願いや」。寝たきりの親と障がいの妹を抱えて、昼は製缶工場、夜は眠い目をこすりながらパン工場の夜勤を掛け持ちしていた。

『すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ(4・3)」。

『人の生くるはパンのみに由(よる)にあらず(文語訳)』と続く。パン工場のラインにイエスがいる。そのはずだ。しかし、イエスの言葉は浮いている。先ほどまで、おっちゃんの下ネタに付き合っていたのに、急に高尚、高邁なことを言い出すのか。浅ましい物的欲求を退けるイエスに過度の酸素を送ろうとするうろ覚えの意訳を思い出した。『人は、パンが無くても生きる』。

『アルトス(ギリシア語でパン)よこせ!』のプラカードを掲げて学生寮が大学側に食堂の改善を求めた。寮担当の教授が言った。「アルトスは主格なので、その表記には対格のアルトン(パンを)にしなさい」。パンを目的語としている限りイエスが申命記から引用した『神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』に到達しないような気がする。




線で囲んだ部分がarton(パンを)−@西小倉めぐみ教会礼拝堂 


讃美歌(21)  300 十字架のもとに(1・3)
   

(3) 十字架のかげに われは立ちて  み顔のひかりを たえず求めん
  この世のものみな 消ゆるときも くすしく輝く そのひかりを


マタイによる福音書4章 1〜11節 
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。


出エジプト記17章1〜5節    
主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。




2024年2月11日 降誕節第7主日 
                   
説教題    『それ 』

聖 書    申命記 8章1〜10節        
旧約聖書(新共同訳)  294ページ
        ヨハネによる福音書 6章8〜11節 
新約聖書(新共同訳)  174ページ

讃美歌(1) 514 よわきものよ             

          


「お前のためや。お前のためや」。怒鳴り声が放課後の校舎に響き渡る。泥濘(ぬかるみ)のグラウンドに激しく二つの影が絡み合う。人が殴り合う鈍く重い音が、放課後の教室に飛び込んでくる。全校生徒の目が土砂降りのグラウンドに注がれる。泥だらけになった二つの陰の判別は困難を極めたが、馬乗りになって怒鳴り声を上げた片方が特定された。「覚坊(カクボウ)や」。誰かが言った。覚坊とは、何の教科を教えているのか誰も知らない謎の教員のことであった。制圧された生徒は、鉄板をグラインダーで加工したジャングルナイフのようなものを常に携行してカツアゲ(金品の強要)を生業とする札付きの生徒であった。

覚坊先生は中三の担任であった。寺に生まれたらしい。実名には、覚の下に難しい一文字が付いているのだが、名字も何やら難しく、生徒たちは、その弁慶のような風貌から覚坊と呼んでいた。ある日、テープレコーダーを下げて教室に現われ、英語の教師だと自らアナウンスした。またある日の昼休みに、放送劇が教室のスピーカーに流れたが、シリアスな台詞の遣り取りに、全校生徒の弁当を持つ手の箸が止まった。覚坊先生は、放送部員に混じって殺人犯のリアルを演じていた。

卒業して、数年後のある日、偶然にも、覚坊先生に駅前で声を掛けられた。『般若』という喫茶店に誘われた。「サチコがお前のこと、どうしてるって聞いとったぞ」。同じクラスの女子の名前だった。「お前、今、付き合うてるのおるんか」。「ええ、いますけど」。「ひとりか」。「ひとりです」。「ひとりは、いかん。いろいろ、ぎょうさん(多数)と付き合わなあかん」。両切の煙草を勧められた。「あんたみたいなゴリラと暮らしてられへん。ヨメにそう言われてな。今、可哀想な身の上の女(ひと)と一緒に暮らしとるんや」。

非行生徒には、ナイフだけで生きて行くことはできないと鉄拳をもって教えた。卒業生には、恋愛は、ひとりだけではいけないと諭した。『それ』で無くてもやって行けるものを後生大事にするなと言われたように思う。

『人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる(8:3)』。

約束の地を前にして斥候がもたらした情報に怯え、神の導きを信じなかった民への仕打ちが四十年に及ぶキャンプ生活であった。パンを求める民に、神は天からパンを降らせたが、神が与えたのは『それ』だけではなかった。『それ』は、鉄拳に打ちのめされた生徒の手に握られていたジャングルナイフに置き換えても不自然はない。



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讃美歌(1) 514 よわきものよ
     
 

(2)岩のごとく かたきこころ くだくものは みちからのみ
(3)われになにの いさおしあらん ただ主の血に きよくせらる
(4)死の床より 起くるその日 勇みうたわん 主のみいさお
(繰り返し)主によりて あがなわる わが身の幸は みな主にあり


申命記8章1〜10節
今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。

ヨハネによる福音書6章8〜11節
弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。





2024年2月4日 降誕節第6主日 
                 

説教題    『トコトコ てくてく』

聖 書    ヨハネによる福音書5章 1〜15節 
新約聖書(新共同訳) 171ページ
        ヨブ記23章2〜3節       
旧約聖書(新共同訳)  805ページ

こどもさんびか 106 どんどこどんどこ         


 
「起きや。学校に遅れるで」。「もうちょっと、もうちょっとだけ」。「なに言うてんの。遅刻するで。いつまで寝とんの。起きへんのやったら」。蒲団を引っ剥がすと思いきや、母親は中二の息子のベッドに潜り込んだ。「ああ、極楽、極楽やわ。若い男と一つ蒲団。お父ちゃんなんか要らんわ」。息子が跳び起きた。「おかん!何するねん!」。「毎朝、息子を起こすの大変やねん。優しいこと言うとったらクソババアとか言いよる。うちがベッドに入ったら一発。慌てて起きよるんや。奥の手かましてやるねん」。

二千年前、この親子の遣り取りを羨ましく見ていた人がいた。その人は、我が身の不自由を38年間も嘆き呪い続けてきた。母親の悪ふざけにベッドを飛び出る少年の健康な日常がその人には無かった。
 
五つの回廊に囲まれた池があった。その池の名をベトザタ言った。慈しみの家という意味である。その池は、ランダムに表面の水が揺れ動いた。その動きのある時に一番飛び込みをすれば癒されるとされていた。『この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた(5:3)』。多数の病人や障がいを持った人たちがいたことは確かであろうが、効能の程は甚だ疑わしかった。藁(わら)にもすがる思いが霊験灼(れいげん・あらたか)かに言い換えられたのであろう。五つの回廊は、モーセ五書を、すなわち、旧約聖書の代表的な前半の五書、律法を象徴している。この律法によれば、狭く解釈した律法によれば、池に一縷(いちる)の望みをかける病人や障がい者たちは、罪人である。罪の報いを受けている認識が自他共にあった。病院待合室で世間話に花を咲かしているご利用者様などでは決してなかった。後ろめたい陰鬱(いんうつ)な空気が池の周りに漂っていたのである。

ベトザタの池に長患いの人(男)がいた。通りがかりのイエスの目が注がれる。その人は、茣蓙(ござ)一枚の上で寝たきりであった。イエスは言った。『良くなりたいか』。その人は、池の水が動いても不自由な体ゆえに遅れをとってしまうと泣きを入れる。それでも、イエスは、『良くなりたいか』を何度も繰り返した。「そやから、何度も言うてますやろ。わては、体が動きまへんのや!」。男は、同じ言葉を繰り返したに違いない。問答の末、イエスは、中二男子のおかんになって、茣蓙に潜り込んだ。男は、飛び起きた。「何、しやはりますねん!」。愉快な場面であった。癒しに続き、罪の赦しがあった。イエスが誰であったかも分からないままに。   


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こどもさんびか 106 どんどこどんどこ


     

ヨハネによる福音書5章 1〜15節 
その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。


ヨブ記23章2〜3節
今日も、わたしは苦しみ嘆き、呻きのために、わたしの手は重い。どうしたら、その方を見いだせるのか。おられるところに行けるのか。 






2024年1月28日 降誕節第5主日 

                  

説教題   『無敵のパイオツ』

聖 書   ヨブ記 22章1〜17節     
旧約聖書(新共同訳)803ページ
       ヨハネによる福音書9章 37〜40節   
新約聖書(新共同訳)186ページ

讃美歌(21)  532 やすかれ、わがこころよ    讃美歌・聖書は裏面あるいは2頁


 「いや、ほんま。ほんまに、ほんま。いや、ほんま」。それだけを繰り返して、舞台袖にはける落語家がいた。カンカン帽に安物のギター。怪しげなイントロに続き、いい加減なフラメンコに似せた節回しが始まる。♪ボインはお父ちゃんのもんとちゃうんやでぇ〜。ボインと言うのは嬉し恥ずかし昭和のことば♪ ちょび髭に黒縁メガネが如何にもいやらしい。ピンク漫談である。ボインは、流行語にもなった。ボインというのは、豊かな胸の女性のことである。オノマトペ(擬音語)から派生した言葉らしい。あの娘はボインちゃんだとか言った。 

(注)説教題のパイオツとは、逆さ読みにする芸人の符丁で女性の胸の事

縄文時代にもボインちゃんがいた。女性の胸部と臀部をデフォルメした土の人形、土偶(どぐう)である。ドキュメンタリー番組などで見かける形は後期のものらしいが、初期のものは、生々しさの抜けたシンプルな作りになっている。豊穣を祈るシンボルとして祭儀に用いられたと考えられている。

圧倒的なボリュームの女性の胸、ボインに暴力のイメージを重ねると、『全能者』という言葉が出来上がる。その使用はヨブ記に集中する。『全能者』という語は、乳房という語と破壊という語で出来ている。乳房は生産の連鎖に結びつく。それを一瞬にして粉微塵にしてしまう破壊のイメージが混合同居して、全能者という語を作るのである。

ヨブ記は、正しい人ヨブが、全てを奪われても神を信頼し続けたことがテーマとなっている。当事者と友人たちとの遣り取りが興味深い。お前は神を呪わないのか。善人ぶっているだけではないのか。知らずに犯した罪があるのではないか。心当たりがあるはずだ。それを認めれば、神は祝福してくださるにちがいない。剥奪された全財産も腫物だらけのお前の体も、全能の神が回復してくださると助言する。まともなことを言っているように聞こえるが、傍観の域を超えない。

うろ覚えであるが、学生の頃学んだ神学者、ドロテー・ゼレの言葉を紹介したい。神の働きと言っても神がその手段を持たないために、人間の手によってしか、その働きは見えないので、全能の神を持ち出すことは、神を騙(かた)る格好の場ともなる。十分な警戒が必要だと。けだし名言である。エゼキエルも言う。『自分の正しさで自分だけを救える者(エゼキエル書14:20)』。全能者である神は、創造と破壊を備え持つ御方である。努々(ゆめゆめ)失念してはならない。
      



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讃美歌(21)  532 やすかれ、わがこころよ  



ヨブ記 22章1〜17節      
テマン人エリファズは答えた。人間が神にとって有益でありえようか。賢い人でさえ、有益でありえようか。あなたが正しいからといって全能者が喜び、完全な道を歩むからといって神の利益になるだろうか。あなたが神を畏れ敬っているのに、神があなたを責め、あなたを裁きの座に引き出されるだろうか。あなたは甚だしく悪を行い、限りもなく不正を行ったのではないか。あなたは兄弟から質草を取って何も与えず、既に裸の人からなお着物をはぎ取った。渇き果てた人に水を与えず、飢えた人に食べ物を拒んだ。腕力を振るう者が土地をわがものとし、もてはやされている者がそこに住む。あなたはやもめに何も与えず追い払い、みなしごの腕を折った。だからこそ、あなたの周りには至るところに罠があり、突然の恐れにあなたはおびえる。また、暗黒に包まれて何も見えず、洪水があなたを覆っているのであなたは言う。「神がいますのは高い天の上で。見よ、あのように高い星の群れの頭なのだ。」だからあなたは言う。「神が何を知っておられるものか。濃霧の向こうから裁くことができようか。雲に遮られて見ることもできず、天の丸天井を行き来されるだけだ」と。あなたは昔からの道に悪を行う者の歩んだ道に気をつけよ。彼らは時ならずして、取り去られ、流れがその基までぬぐい去った。神に向かって彼らは言っていた。「ほうっておいてくれ。全能者と呼ばれる者に何ができる。」


ヨハネによる福音書9章 37〜40節
イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。




2024年1月21日 降誕節第4主日 


説教題 『良かれと思って (mother’s apron strings) 』

聖 書    ヨハネによる福音書 2章 1〜12節 
新約聖書(新共同訳)  165ページ
        出エジプト記 17章1〜3節    
旧約聖書(新共同訳)  122ページ

讃美歌(1) 430 妹背(いもせ)をちぎる(1・3) 
 讃美歌・聖書は裏面あるいは2頁



「あんた殺して、お母ちゃんも死ぬ」。「お母ちゃん、かんにん、かんにん。ボク、もうせえへんから」。「お母ちゃん、もう、恥ずかしゅうて、恥ずかしゅうて」。町内に響き渡る叱責と号泣。かっぱのお母ちゃんの声だ。台所の母が包丁を持つ手を止める。「しゃあないなあ。あの人も。引き揚げてすぐに主人失くして。にこよん(ママ)で朝星夜星。別嬪さんやけど、堅い人やから水商売大っ嫌い。貧乏しても子どもはちゃんと育てんとあかんが口癖やもんな」。年下からも『かっぱ』と呼ばれていた遊び仲間がコロッケの買い食いをした。近所の者が母親に余計なことを言ったらしい。かっぱのお母ちゃんは、子供にろくな物を食べさせてないと噂される恥に激高したのであった。

かっぱのお母ちゃんは、息子を完全にコントロールした。かっぱ先輩の思春期は、傍眼(はため)にも痛々しかった。思春期男子の反抗や性への悶々とした葛藤は無いものとされた。かっぱ先輩は、美輪明宏のヨイトマケの唄を地で行った。国立大学へ進み、大手建設会社の技術者にもなった。棟割り長屋に休止符が打たれ、郊外の瀟洒な邸宅に母親と妻子との長い同居生活が続いた。ある日、妻と母親との間に些細な諍(いさか)いがあった。かっぱ先輩は母親に言った。「お母ちゃん、離れて暮らそう」。

「男には外に出たら七人の敵がいるんや」。「その敵と毎晩仲良う飲み歩いて午前様かいな」。町内に響き渡る夫婦喧嘩。♪ちょいと一杯のつもりで飲んでいつの間にやら梯子酒♪。かっぱ先輩母子を嘲笑うような不真面目。この不真面目が、昭和の経済と文化を支えた。童謡サッチちゃんでお馴染みの阪田寛夫さんに面白いエピソードがある。阪田さんは七人の敵と夜の街を彷徨するジャーナリストの典型だったらしい。酔いどれて帰宅する寛夫さんを厳格なクリスチャンホームが待っていた。必殺仕事人の中村主水の帰宅を待ち構えるりつとせんよろしく、長刀を小脇に抱えた母親が妻に加勢する。「あんた殺して、わたしらも死んでやる」。高名な作家の家庭事情が愉快である。

イエスも相当な母親支配のもとに生育したと思われる。カナの婚礼の場面であるが、この時すでに、マリアは、降誕劇の乙女ではない。厚かましい台所采配はイエスの弟子の親族宅だったとも推測されるが、マリアは、いつものように、イエスをかっぱ先輩扱した。潮時を感じて、イエスは言う。「離れて暮らそう」。『しかし、母は…(2:5)』。それでも、マリアは意固地を通す。その振る舞いを胸に手を置いて考えてみたい。



あるライブハウスでの結婚式(写真と本文は関係ありません)


讃美歌(1) 430 妹背(いもせ)をちぎる(1・3)  



(3) 愛のいしずえ かたくすえ  平和のはしら なおく立て
    かみのみめぐみ 常におおえば さいわい 家に たえざらなん



ヨハネによる福音書2章 1〜12節
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。


出エジプト記17章1〜3節
主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」





2024年1月14日 降誕節第3主日・公現後第2主日


説教題    『連れもって行こら(Let’s go togather!)』

聖 書    ヨハネによる福音書1章 35〜50節 
新約聖書(新共同訳)  164ページ
        サムエル記上 3章3〜5節     
旧約聖書(新共同訳)  432ページ

讃美歌(21)  507 主に従うことは          


「さすが正月やね。お客さん一杯やで」。「どこも行くところなかったんかい」。「君、お客さんになんちゅう失礼な。すんまへんな。さて、みなさま、新年あけまして、おめでとうございます。今年もよろしくお引き立てのほど、お願い申しあげます」。「君とは思えん。えらい丁寧な物の言い様やないか」。「そら、お客さんあってのボクらや。お客さんに感謝せな」。「そんなら、君、お客さんの拍手と10万円入りの祝儀袋とどっちがええ」。「そんなもん、10万円のほうがええに決まっとるやないか」。正月の演芸館は大入り満員。掛け合いが続く。「そやな、お客さんあってのこっちゃもんな。ところで、君、最近、家を建てて車も買うたんやて。ようけ儲けて。懐の財布に気ぃつけや。このごろ楽屋でコレ(人差し指曲げる)あるらしいで。財布を楽屋に置きっぱなしになんかしたらあかんで」。「その心配はないで。財布は楽屋に置いてある」。「そら、危ない」。「いいや、大丈夫や」。「なんでや」。「そやかて、今、マイクの前、君と一緒やないか」。

箸にも棒にも掛からぬ持て余し者が、落語や漫才の師匠の情けにすがって弟子になる。住み込みの修行が待っている。一向に稽古を付けてくれる気配がない。師匠や女将さんの顔色を見る日が延々と続く。「辛抱できるか」。師匠の言葉に従うしかない。楽して遊んで暮らせると思ったのが大間違い。そろそろ芸を仕込んでもらえるかと思いきや、「お前は、卒業や。出て行きなはれ」。売れっ子芸人の一丁出来上がり。

バプテスマのヨハネに持て余しの弟子がいた。勝手な想像だが。アンデレと師匠と同じ名前のヨハネである。ふたりには、漫才養成所の同期生のような出会いがあった。と。想像する。ふたりには、それぞれに兄がいた。アンデレの兄は、若衆宿を仕切るシモン、後のペトロ、もう一人は、網元の跡取り、ヤコブ兄貴である。ふたりは、兄たちから雑魚(ざこ)扱いされていた。と。想像する。居場所のないふたりは意気投合してバプテスマのヨハネの押しかけ弟子となるが、その師匠からも子ども扱いされた。と。想像する。「ワシが拾うてやらんとな、お前らを」。

『その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った』。ふたりは、イエスに従う者となった。雑魚が兄たちに言った。「兄貴、俺たちは凄い人に会うたんやで」。兄たちも、イエスに従う者となった。連れが次々とイエスに従う者となった。未熟なふたりの弟たちこそ、初期キリスト者、あるいは、異邦人キリスト者、あるいは、月足らずで生まれた使徒と自らを称したパウロのイメージに重なる。    


写真は本文と関係ありません。


讃美歌(21)  507 主に従うことは  



ヨハネによる福音書1章35〜50節

その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」


サムエル記上 3章3〜5節   

まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた
主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。







2024年1月7日 降誕節第2主日 公現後第一主日
            

説教題    『うたっちゃえクラブ(歌茶絵倶楽部)』

聖 書    イザヤ書 42章10〜18節       旧約聖書(新共同訳) 1129ページ
        マルコによる福音書1章 1〜11節  新約聖書(新共同訳) 61ページ

讃美歌(21) 暗き世に星光り              讃美歌・聖書は裏面あるいは2頁



「堪忍しておくれやす」。「いいや、勘弁ならん。裸踊りでもやってもらおうやないか」。親分衆の居並ぶ宴会の席で、偽の八尾の朝吉が化けの皮を剥がれ絶体絶命。騙(かた)りを演じるのは、裸の大将でお馴染みの芦屋雁之助。思わぬ意趣返しの場に親分衆が偽物を散々甚振(いたぶ)る。「裸になって踊ったらよろしゅおまんのか」。突如、本物の朝吉、勝新太郎がドスの利いた声で現れ、もろ肌脱いで河内音頭を歌い始める。縮上(ちじみあが)る親分衆ひとりひとりを睨み付ける。「オンドレか(あなたですか)、弱いもん虐めして嬉しがっとる奴は!」。今東光(こん・とうこう)原作の映画、『悪名』の一場面である。ブラウン管テレビの時代、年末になるとシリーズものとして再放送された。

裸踊りを神に命じられた預言者がいた。ユダ王国の貴族であり祭司でもあったイザヤである。ソロモン王の驕り高ぶり、民に課した重税は王国を分裂へと導いた。北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされた。神は、アッシリアを自らの代理人とし、民を罰したのであった。イザヤは、その頃、南王国ユダに生まれ、四十年間、エルサレムで活動した。ウジヤ ヨタム アハズ ヒゼキヤの四人の王に直接言葉を交わせる立場にあった。悪い王にも良い王にも仕えたが、良き理解者であったヒゼキア王の息子によって鋸挽(のこびき)の刑に処せられ、その生涯を閉じた。

イザヤは、裸踊りの人であった。神に命じられての奇行であったが、元来、その素地はあったのかも知れない。あるいは、宮廷人の油断、ピエロが過ぎたのかも知れない。しかし、神は人を見る。イザヤは使える。と。北王国が滅びたように、南王国もバビロニアによって滅ぼされる。民は裸同然にバビロニアに連行される。実際、それは現実となるのであるが、惰眠を貪り過去の栄光に酔いしれ、民を苦しめ、偶像礼拝に溺れる王や偽預言者には馬耳東風であった。民の余りの頑なさに、神は、イザヤに、百年後の民の姿を演じるように命じる。『さあ、あなたの腰から荒布を解き、足から靴を脱ぎなさい』。イザヤは、素っ裸になって一休禅師が髑髏(どくろ)の杖を突きながら正月の京の町を巡り歩いた如くに、エルサレムの町をストリーキングした。その異様は、時空を越え、苦難の僕(しもべ)、イエスをも指し示したのであった。

町内の歌と茶と絵に遊ぶ仲間たちが新年に集まった。「裸にならんとあかんのとちゃいますか」。「その通りや」。「『うたっちゃえクラブ(歌茶絵倶楽部)』 ちゅうのはどうでしょう」。「そいつは名案や」。『新しい歌を主に向かって歌え(42:10)』。



マラソン大会(写真と本文は関係ありません)


讃美歌(21) 暗き世に星光り


イザヤ書42章10〜18節
新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの、島々とそこに住む者よ。荒れ野とその町々よ。ケダル族の宿る村々よ、呼ばわれ。セラに住む者よ、喜び歌え。山々の頂から叫び声をあげよ。主に栄光を帰し、主の栄誉を島々に告げ知らせよ。主は、勇士のように出で立ち、戦士のように熱情を奮い起こし、叫びをあげ、鬨の声をあげ、敵を圧倒される。わたしは決して声を立てず、黙して、自分を抑えてきた。今、わたしは子を産む女のようにあえぎ、激しく息を吸い、また息を吐く。わたしは山も丘も廃虚とし、草をすべて枯らす。大河を島に変え、湖を干す。目の見えない人を導いて知らない道を行かせ、通ったことのない道を歩かせる。行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐにする。わたしはこれらのことを成就させ、見捨てることはない。偶像に依り頼む者、鋳た像に向かってあなたたちがわたしたちの神、と言う者は、甚だしく恥を受けて退く。耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。


マルコによる福音書1章1〜11節
神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。




2023年12月31日 降誕節第1主日  
  *公現日2024年1月6日

                    
説教題   『金銀パール・プレゼント』

聖 書   マタイよる福音書2章1〜15節     
新約聖書(新共同訳)  164ページ 
       イザヤ書11章1〜2節         
旧約聖書(新共同訳)  1500ページ

讃美歌(21) 274 救い主 キリスト          


「博士たちは、なんで、ラクダになんか乗って来たん」。「それはね、楽だからです」。こどもたちが腹を抱えて笑う。駄洒落を楽しんだ昭和のクリスマス。教会で只のお菓子がもらえる。みんな『よゐこ』であった。不思議な力が教会にあった。年の暮れの大阪、菓子と言えば、松屋町(まっちゃまち)の菓子問屋に、俄商人たちの姿があった。シスターたちの一団もその中に混じる。自転車やバイクに山のような荷を括りつける。風呂敷包みを背負う。「なんちゅうても、まっちゃまちやで。安うにようけ買えるわ」。年に一度だけ教会に顔を見せる『よゐこ』たちをマリアに抱かれた幼子イエスの無垢に重ねる。「今年も、ようけ(大勢)来よるかな。にっちょ学校(日曜学校)のこどもらの分は別やで」。教会は、とりわけ、戦後の教会は、こどもファーストの世界であった。

東方の三博士たちは、幼子イエスに、只のお菓子ならぬ『黄金・没薬・乳香』を奉げた。それは、二歳以下の男子の皆殺しを命じる惨忍な王、ヘロデ王の胸元に突き付けた弱者ファーストの強烈なビジュアルメッセージであった。三博士は、三賢者とも表現される。英語で言うところの、ワイズ・メンである。賢者は、ギリシア語でマゴイ、ラテン語に転じてマギ(magi)となる。その語は、オトボケ手品師マギー司朗でお馴染みのマジックの語源でもある。賢者たちは、血に塗れた闇の力にマジックを仕掛けた。有難くも、勿体なくも東方の世界から、はるばると、高級外車ならぬ現代なら一億円は下らない最上級モデルのラクダに乗って、頂点を極めた学僧、高僧として、西方は唐天竺(から・てんじく)から尊い経典を持ち帰る三蔵法師や空海さながら、最新の観測データをモバイルパソコンに打ち込みながら、ベツレヘムの安宿に辿り着いたのであった。

疑問がある。イエスが貧しい大工の子として育ったなら『黄金・没薬・乳香』は正月の睨鯛(にらみだい)みたいなものだったのかと。一昔前、ある洗剤会社が、『金銀パール・プレゼント』をコマーシャルの謳い文句にしていた。妙に、旋律と歌詞が耳に残っている。洗剤を買うと抽選で貴金属がもらえる。洗剤会社の創始者は、クリスチャンだった。真珠業で名を成した親族もいた。客を年に一度教会に現われるクリスマスの『よゐこ』に見立てていたのだろうか。

『黄金・没薬・乳香』とは、余りにも即物の極みに響くが、福音書記者は金銀パールの経営者に同じく、ギリシア・ローマ世界の『よゐこ』を無条件に好きだったのかも知れない。


1975年 某CS幼稚科(本文と画像は関係ありません)  


讃美歌(21) 274 救い主 キリスト

  

マタイによる福音書2章1〜16節
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。

イザヤ書11章1〜2節
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊。主を知り、畏れ敬う霊。




2023年12月24日 待降節第4主日・降誕節第1主日
            

説教題    『セーラー服と赤鼻のおばちゃん』

聖 書    ルカによる福音書1章24〜38節  新約聖書(新共同訳)  100ページ
        ゼカリア書2章1〜18節      旧約聖書(新共同訳)  1481ページ

讃美歌(21) 266  イエスは生まれた         
 


「あれ、だれや。ボクのクラスの子みたいやけど」。「おっちゃんの娘や」。「どういうこっちゃ」。近所に同級生がいた。働き者のおばちゃんと親子二人暮らし。おばちゃんは戦争で夫を亡くしていた。朝早くからリヤカーを引いて豆腐を売り歩いていた。夜は国道沿いに出来たばかりのドライブインで皿洗いをしていた。小柄で色白のおばちゃんは、冬になると頬と鼻の先が薄く赤みを帯びた。近所のひとたちは、陰で、『赤鼻のおばはん』と小馬鹿にした。おばちゃんは身持ちが良くなかった。「赤鼻のおばはん、またオトコ連れ込んどる」。部屋にいたセーラー服は、おばちゃんの新しい夫の娘であった。おばちゃんたちは仏壇のある一階に、同級生とセーラー服は二階の仕切りの無い八畳間にいた。セーラー服は平気で着替えをした。「気にならへんのか」。「きょうだいやもんな」。おばちゃんと同級生の生々しい生活の一端を垣間見た。不思議な刺激だった。

乙女マリアに天使ガブリエルが現れ、救い主の懐妊が告げられる。受胎告知といわれる場面である。ガリラヤのナザレなる侘しい村の少女の体に、救世主が宿ると大権現様直々のお告げがあった。この光景が、この上ない神々しいものとして歴史に刻まれる。田舎娘の大天使への応答は、見事な模範解答であった。「お言葉通りになりますように」。村娘のイメージが、沢口靖子が演じたNHKのドラマ『お登勢』を彷彿とさせる。然り!マリアは沢口靖子、お登勢なのである。百姓娘を演じるお登勢が奉公先の上士の息子から求愛されるシーンがあった。沢口靖子は、否、お登勢には、既に、契りを交わした又家来の藩士がいた。「うちゃ、もう、娘やあらへんのや」。

意地悪な解釈書は、マリアを神格化しない。傷物のマリアをド甲斐性なしのジジイが事情を分かって貰い受けたとする。それが、両者を戒律の世界からのサバイバーとするという筋書きである。マリアの年齢を13歳から15歳まで、ヨセフを四十男あるいは五十男と想定する。それ故に、マリアは早くにヨセフと死別し、再婚し、イエスの弟妹が生まれたとする。イエスに弟妹がいたことは事実であったので、聖霊との関係によってイエスを生んだマリアは再婚して、血の繋がらない連れ子の母となった。あるいは、新しい夫の子を産んだとするのである。赤鼻のおばちゃんの家の事情にどこか似ている。 

処女による神の子の誕生は、当時の世界では珍しいことではなかった。超自然なことなどではない。科学者ルカが、グレコ・ローマンの人びとの常識、一般教養を利用して、お言葉を受け入れたる者への大いなる祝福を淡々と語るのである。


先輩にもらった聖母子画


讃美歌(21)  266  イエスは生まれた




ルカによる福音書1章23〜38節
その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。


ゼカリヤ書2章11〜17節
シオンよ、逃げ去れ。バビロンの娘となって住み着いた者よ。栄光によってわたしを遣わされた、万軍の主があなたたちを略奪した国々に、こう言われる。あなたたちに触れる者はわたしの目の瞳に触れる者だ。わたしは彼らに向かって手を振り上げ、彼らが自分自身の僕に奪われるようにする。こうして、あなたたちは万軍の主がわたしを遣わされたことを知るようになる。娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来て、あなたのただ中に住まう、と主は言われる。その日、多くの国々は主に帰依してわたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住まう。こうして、あなたは万軍の主がわたしをあなたに遣わされたことを知るようになる。主は聖なる地の領地としてユダを譲り受けエルサレムを再び選ばれる。すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる。」





2023年12月17 日 待降節第3主日

              

説教題    『シナモンちゃんと’O'教授のクリスマス物語
(The Christmas Tales of Cinnamon & Prof.’O’) 』

聖 書    マラキ記 3章13〜18節      
旧約聖書(新共同訳)  1500ページ
        ヨハネによる福音書1章 22〜24節 
新約聖書(新共同訳)  164ページ

讃美歌(1)  108 わがこころは            


「先生、今年から牧師の推薦状が要らないって、どういうことなんでしょうか」。某神学部編入試験合格発表のその日、掲示板の前で『O』教授に声を掛けられ、喫茶店に誘われた。「君は、何がいいかね」。「ホットでいいです」。ホットとはホットコーヒーのことである。「アイスクリームはどうかね。ヒョウイチ君」。教授が学生の名前を知っている。それも合格したその日に。他の学部では考えられない。この学部には、そのような文化があるのかと思ったが、そうでもなかった。学部生が極端に少なかったのである。苦肉の策が受験希望に添える所属教会牧師の推薦状の廃止であった。その年、学部長に就任した『O』教授の英断だったのかもしれない。

所属教会の牧師が神学部受験に必要な推薦状を書いてくれなかった。「別な学部へ行くか、社会に出るか、それから、私のところに来なさい」。自分の教会にも出席しなくて良い、書生のようなことも今日限りだと言われた。指示に従った。大学紛争の時代であった。大阪万博もあった。四年が過ぎた。その日、所属教会の牧師は何も言わずに一枚の便箋をくれた。二行に満たない推薦状であった。

バビロニア捕囚は世代が交代するほどの長きに及んだ。帰還を許された時には、ヘブルの民は自分たちが何者であるかを知りようもなかった。それでも、五月蝿く言われたくないために『そこそこの』神殿を再建したが、それに伴う信仰は『そこそこ』どころではなかった。神殿再建から百年が経過する。ついに預言者の堪忍袋の緒が切れる。旧約聖書の殿(しんがり)をマラキ書が務める。マラキとは、『名を伏せた神の使者』の意味である。偶像礼拝とその社会との交雑が断罪される。制止できないほどの状況があったのであろう。祭司職と神殿を支える十分の一献金も蔑ろにされた。それでも民は言う。「いったい神が、何をしてくれたと言うのであろうか」。

牧師の推薦状が不要になった『そこそこ』の某神学部は生き延びた。豊かな人材の宝庫ともなったが、恥知らずを重ねたかも知れない。『O』教授最晩年の病床を訪ねた。うちのシナモンちゃんに、『O』教授はドイツ語で語りかけながら言った。「ヒョウイチ君、なにクソ! という気持ちが大切だよ。メリー・クリスマス!」。   


Froehliche Weihnachten! 2015年12月20日
写真と本文は関係ありません。


讃美歌(1)  95 わがこころは  




(2)数に足らぬ はしためをも 見すてず よろずよまで さきわいつつ めぐみたもう うれしさ
(3)みなは清く おおみわざは かしこし よよにたえぬ みいつくしみ あおぐものぞ うくべき。
(4)低きものを 高めたもう みめぐみ おごるものを とりひしぎて 散らしたもう みちから


マラキ記 3章13〜20節    
あなたたちは、わたしに、ひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言う。どんなことをあなたに言いましたか、と。あなたたちは言っている。「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても、万軍の主の御前を喪に服している人のように歩いても何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ。」そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。わたしが備えているその日に彼らはわたしにとって宝となると、万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむようにわたしは彼らを憐れむ。そのとき、あなたたちはもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう。見よ、その日が来る。炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る。


ヨハネによる福音書1章 22〜24節
そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。

      


2023年12月10日 待降節第2主日

説教題    『大人気(信仰)のないこと』

聖 書    列王記上22章26〜38節      旧約聖書(新共同訳) 573ページ
        ヨハネによる福音書5章38節    新約聖書(新共同訳) 173ページ

讃美歌(21)  246 天のかなたから      讃美歌、聖書は裏面あるいは2頁


「今朝、鶴橋の駅で電車に乗ろうとしたら無理に割り込んで来る人がおってな、めっちゃ腹が立っから怒鳴りつけてやったんや。そしたらな、ボクを突き飛ばしよったんや。その人のこと、君らどう思う」。中学校の朝礼の時間である。生活指導の教員が通勤途上の出来事を引き合いに出して決まりごとの説明の例とした。生徒に人気のある教員ではない。授業は、ねちねちと生徒を甚振(いたぶ)る教員である。いつものように生徒たちは下を向いて聞き流していたが、ひとりの生徒が不規則発言を行った。「それは、大人気のないことや思います」。講堂が凍り付いたが、本人は平然としている。そういうタイプの生徒だった。教員の顔は、丸潰れ。校長は、にやにや。

場の雰囲気を物ともせず、何気なく何でも思ったことを反芻(はんすう)することなく言葉を発するひとりの生徒が、生活指導の教員を満座において『大人気ない』と言ってのける。なんと嫌な生徒、いけすかん奴メと、教員は心のうちに思ったに違いないが、レスペクトを欠くこの生徒に、いつもの常軌を逸した叱責を浴びせることは出来なかった。生徒たちの目がそれを許さなかった。校長のしたり顔が癪(しゃく)に障る。

荒野を彷徨(さまよ)う一介のヘブルの民が『在りて在る神』に出会い、紆余曲折を経て、ダビデ、ソロモンによって栄華を極める王国を築き上げたのであるが、ソロモンの死後、王国は南北に分裂した。王国は、やがてバビロニア捕囚によってその幕を閉じるのであるが、共通の敵であるアラム(ダマスカス)に対して同盟を結ぶ時代もあった。その時期、それぞれの王に政治や外交(戦争)の手腕があったのである。しかし、それは、預言者の目から見ると神を忘れた時代でもあった。力関係は最初、南のユダ王国が勝っていたが、北のイスラエル王国アハブ王の時代には逆転していた。アハブの名は、悪名の代名詞でもある。メルビルの小説『白鯨』に登場する巨大鯨にに片足をもぎ取られたことを根に持ち執拗な戦いを挑む船長の名にもなっている。

アハブ王は、ユダのヨシャファト王と同盟を結びアラム国に戦いを挑む。アハブ王は四百人の預言者に勝利を約束されるが、ひとりの預言者だけは王の戦死を予告する。王は激怒したが、格下のヨシャファト王に立派な陣羽織を御仕着せて囮(おとり)とし、自らは迷彩の戦闘服に身を固める。しかし、思いもよらぬ敵の一兵士の何気なく放った矢が防具の僅かな隙間を貫き、預言者ミカヤの言葉通りとなる。

「大人気(信仰)のないことやと思います」。生徒と預言者の声が重なる。 

               
懐かしいレコードを楽しむ。


讃美歌(21)  246 天のかなたから  


 


列王記上22章26〜38節
イスラエルの王は命じた。「ミカヤを捕らえ、町の長アモンと王子ヨアシュのもとに引いて行って、言え。『王はこう言われる。この男を獄につなぎ、わたしが無事に帰って来るまで、わずかな食べ物とわずかな飲み物しか与えるな。』」ミカヤは王に、「もしあなたが無事に帰って来ることができるなら、主はわたしを通して語られなかったはずです」と言い、「すべての民よ、あなたたちも聞いておくがよい」と言った。イスラエルの王は、ユダの王ヨシャファトと共にラモト・ギレアドに攻め上った。イスラエルの王はヨシャファトに、「わたしは変装して戦いに行きますが、あなたは御自分の服を着ていてください」と言い、イスラエルの王は変装して戦いに行った。アラムの王は配下の戦車隊の長三十二人に、「兵士や将軍には目もくれず、ただイスラエルの王をねらって戦え」と命じていた。戦車隊の長たちはヨシャファトを見たとき、「これこそイスラエルの王にちがいない」と言い、転じて彼に攻めかかろうとした。ヨシャファトは助けを求めて叫んだ。
そこで戦車隊の長たちは、彼がイスラエルの王ではないと知り、追うのをやめて引き返した。ところが一人の兵が何気なく弓を引き、イスラエル王の鎧の胸当てと草摺りの間を射貫いた。王は御者に言った。「手綱を返して敵陣から脱出させてくれ。傷を負ってしまった。」その日、戦いがますます激しくなったため、王はアラム軍を前にして戦車の中で支えられていたが、夕方になって息絶えた。傷口から血が戦車の床に流れ出ていた。日の沈むころ、「おのおの自分の町、自分の国へ帰れ」という叫びが陣営の中を行き巡った。王は死んでサマリアに運ばれた。人々はこの王をサマリアに葬った。サマリアの池で戦車を洗うと、主が告げられた言葉のとおり、犬の群れが彼の血をなめ、遊女たちがそこで身を洗った。


ヨハネによる福音書5章38節
また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。



2023年12月3日 待降節第1主日(アドベント)
                


説教題    『とんだ道化なのか』

聖 書    ローマの信徒への手紙11章13〜26節 
新約聖書(新共同訳)  290ページ
        イザヤ書 52章1〜2節          
旧約聖書(新共同訳)

讃美歌(21)  242 主を待ち望むアドヴェント     



「マーガレット、あなた、今日のあなたはステップの間違いが多かったわよ」。「あら、ジェーン、あなたこそ、ターンを間違えてばかりで、殿方がお困りだったわよ。「おふたりとも、お止しなさい。みっともないわ。皆様にご迷惑よ」。マーガレットとジェーンを制したのは、スー・エレンだった。他にも、ナンシー、ベティーと呼び合う女性たちがいる。昼下がりの阪急電車の車内である。ひとりひとりが大きなバッグを抱えている。聞くともなく聞こえる賑やかな会話から想像するに、そのバッグの中身はカントリー・ダンスの衣装や小物が詰まっているらしい。西部開拓時代の貴婦人たちの無邪気が昼下がりの列車内に繰り広げらる。おばちゃんたちの倒錯の世界に際限がない。

パウロは、異邦人キリスト者に歴史の光があたると断言する。イエスを受け入れない頑迷なユダヤ人(ユダヤ教徒)を厳しく非難するが、ユダヤ人の目には異邦人キリスト者なる輩は、西部開拓時代の貴婦人になりすました大阪のおばちゃんたちに同じと写った。アジアンなおばちゃんたちが、毳々(けばけば)しいドレスや羽飾りの帽子に身を纏(まと)い紅毛碧眼(こうもうへきがん)の淑女を装う。その名もマーガレットと来たものだ。噴飯ものだ。滑稽だ。いや、由々しき冒涜だと。

 『わたしは異邦人のための使徒であるので(11:13)』。

パウロは、カントリーダンスのおばちゃんたちを決して笑わない。ユダヤ教の亜流とされたイエスの教えを受け入れたグレコ・ローマンの人たちがクリスチャンと呼ばれ、『なにかええもん』に見えて来れば来るほど、ユダヤ人は反発した。ユダヤ伝統を引き継ぐキリスト者も同様であった。「あんなもんと、一緒にせんといてくれ」。あんなもんとは、イザヤの預言の言葉にある『無割礼の汚れた者(イザヤ書52:1)』のことである。

血の繋がりだけではユダヤ人とはされない。モーセの教えとその実践によってユダヤ人(教徒)となる。それが、神に選ばれ愛される民であるとする。イエスは、それならば、なぜ神に愛され選ばれた民が、その有難い教えを形骸化し、隣人と己を不自由にしているのかと問う。

「あんたとこ、今日もご主人さんは、お留守番?」。ナンシーがマーガレットに尋ねる。「うちのオッサンは、じぃーとしてんのがええんやて、茶の一杯も沸せんくせに家におるねん」。「ワシもお前みたいに、自由に、毎日、あちこち飛び回ってみたいわ」。そのジェラシー、健全な妬(ねた)みをパウロをユダヤ人に期待する。 

           
おとうちゃんちゃん、ここ、どこ?


讃美歌(21) 242 主を待ち望むアドヴェント 
 



ローマの信徒への手紙 11章 13〜26節
では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。


イザヤ書 52章1〜2節
奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が、あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。







2023年11月26日 降誕前第5主日 収穫感謝日

                   


説教題    『目の黒いうちは』

聖 書    エレミヤ書 23章1〜8節      旧約聖書(新共同訳) 1219ページ
         ヨハネによる福音書 18章33〜38   新約聖書(新共同訳)  205ページ

讃美歌(1)  504 みのれるたのもは          




「ワシの目の黒いうちは、させんぞ、そんな無体なこと」。「この場所は、教会の敷地内、境内地ですよ」。「境界線のこと言うとるんやない。木を切ったらいかんと言うとんのじゃ」。畳屋の主人が脚立に手を掛けながら声を荒げる。畳屋とは裏向かいである。礼拝堂の増築を役員会が決定した。木が邪魔になる。伐採を申し出た。鋸(のこぎり)一丁で切り倒すと豪語した。一抱えもある大きな木であったが、枝を払いながら先から順に切り始めた。畳屋の主人は、裏の牧師が剪定(せんてい)をしていると思っていたらしいが、幹に鋸の刃が入ったと同時に待ったが掛った。「ワシの目の黒いうちは、させんぞ、そんな無体なこと」。

若気の至りに町内のギャラリーが加勢した。畳屋の主人を圧倒した。「今度来た牧師は若うて元気があるのう。鋸一丁であんな大きな木を切り倒したで。えらい馬力や」。平素から畳屋の主人の偏屈を心良く思っていなかった町内の人たちが『教会さん』に味方したのである。調子に乗って幹を輪切りにして野次馬にプレゼントした。古代史に登場する蛮族が略奪品を山分けする光景そのものであった。次の日曜日、切り株の周りに役員たちが集まった。「せっかくやけど、センセ、増築は止めることにしますわ」。畳屋の主人と気不味い挨拶を交わす日々が続いた。「木は生き物でっせ」。畳屋の主人の無言が堪(こた)えた。「汝、殺すなかれ」。痛恨の極みであった。春になると切り株から孫生えが賑やかに芽を出した。転任の日が来た。初めて裏の家の玄関に回った。正直に詫びた。「申し訳ないことを致しました」。畳屋の主人の口元が微(かす)かに綻(ゆる)んだ。

神はエレミヤに、アーモンドの木を見せる。アーモンドの木は傾(かぶいて)いている。偏向している。無鉄砲である。神は、腐敗した王や偽預言者に一発喰らわせとエレミヤに命じる。お前の『純情』が必要なのだと。ヱレミは、民の行く末を憂う涙の預言者となる。神は苦境の民の味方にはならないと告げる。宗教警察の逆鱗に触れた。鞭打ちの懲罰を受けたが、エレミヤは、神はバビロニアを自らの代理として罪深い民を罰する。ユダ王国は根絶やしにされると告げる。王国最後の王ヒゼキアは目の前で王子たちを殺害され、それが最後の光景となるべく両眼を抉(えぐ)られ、残りの生涯を捕囚の地で終えた。ヒゼキア王は、国際政治に長けた名君であったが、それが仇となった。民をミスリードしてしまった。国を失った民に希望だけが残った。

『わたしはダビデのために正しい若枝を起こす(23:5)』。

 畳屋の主人の言葉が切り株のような心に若枝を芽生えさせる。
 


写真と本文は関係ありません。



讃美歌(1)  504 みのれるたのもは 


 
(1) 実れる田の面は 見わたす限り 穂波のたちつつ 日陰ににおう
(2)しののめと共に とく起出でて 暮果つるまでも 刈らしめ給え
(3)かりいれ豊かに かりては乏し いそしむ僕を 主よ 増し給え
(4)かりいれ終えなば あまつ御倉に おさめて祝いの 筵(むしろ)にはべらん

垂穂(たりほ)は色づき 敏鎌(とがま)を待てり いざいざ刈らずや 時すぎねまに



エレミヤ書 23章1〜8節
「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。それゆえ、見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもはや、「イスラエルの人々をエジプトの国から導き上った主は生きておられる」と言って誓わず、「イスラエルの家の子孫を、北の国や、彼が追いやられた国々から導き上り、帰らせて自分の国に住まわせた主は生きておられる」と言って誓うようになる。


ヨハネによる福音書18章33〜38節
そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」




2023年11月19日 降誕前第6主日         
    


説教題    『生(な)さぬ仲 (Blood is thicker than water?)』

聖 書    出エジプト記 2章1〜10節    旧約聖書(新共同訳) 95ページ
        ヘブライ人への手紙 3章1〜6節  新約聖書(新共同訳) 403ページ

讃美歌(21)  462 はてしもしれぬ           


「大丈夫か」。「すこし休んだらええって先生が」。「そうか」。「夕方に迎えに来てくれたらええよ」。「そうか」。流産は夫婦の深い反省となった。名前は、『優(ゆう)』。愛称を女子なら、『ゆうちゃん』、男子なら、『ひょういち』に5(go)を足して『ひょうろくちゃん』と決めていた。ひょうろくちゃんに妹が出来た。ドイツから迎えた養女シナモンである。シナモンちゃんは、お出かけが大好きである。「お兄ちゃんは」。「ひょうろくお兄ちゃんはね、お留守番よ」。「すみません。ちょっと気難しくて、一緒に来ないんです」。妻が言い訳をする。長い年月が過ぎてもふたりは、夫婦の愛しい子どもたちである。四十年前、息子を不慮の事故で亡くした老教授夫妻を訪問する。広い応接間が所狭しとテディベアに溢れている。「ひょうろくちゃんは」。「お兄ちゃんはね、お留守番よ」。シナモンが教授夫人に甘える。




昭和初期に写真館で撮った家族写真がある。着流しの祖父、袴に学生帽の父、結婚前の清楚な着物姿の伯母と切り取られた部分の一枚である。切り取られた部分に父の継母が写っていたと思われる。実母は、父が十歳の時に他界した。美しい女性であったらしい。父の端正な顔付きから想像に難くない。父の祖父との確執が長く続いた。父が継母の写った部分を剃刀で切り取ったのであろう。実母の写真は、継母が棄てたのであろう。父方のふたりの祖母の顔を知らない。

生(な)さぬ仲とは血の繋がりのない親子のことである。「うちがお嫁さんになったろか。お母ちゃんになったろか」。死別した妻への義理を果たすかのように、シングルファーザーの働き盛りが一人息子を保育園に送り迎えする。夕暮れ時、迎えにきた父親の前で保育士が息子の頭をなでる。「また、明日ね」。そのような日々が続き卒園式を迎える。この別れが最後になってはいけない。保育士、若い保母さんと敢えて言おう。優しい伊予のアクセントでシャイな父子に生(な)さぬ仲をプロポーズする。「うちがお嫁さんになったろか。お母ちゃんになったろか」。

ファラオの娘はナイルの岸辺で、ヘブルの赤ん坊を拾う。ファラオは、ヘブルの民の反乱を怖れて生まれてくる男子を皆殺しにしていた。王宮の奥深くに育てられた王女は、父の残虐を直接に知ることはなかったが、うすうす何かを感じていた。官女たちが赤ん坊がヘブルの子であることを王女に忠告したが、聞き入れなかった。王女には何らかの健常でない心や体の部分があったかも知れない。後に、ヘブルの民を率いた預言者モーセと生(な)さぬ仲となったのある。ファラオの娘が金子みすゞに重なる。        


ママと一緒にお出かけしましょう。ボクはお留守番するのだ。


讃美歌(21)  462 はてしもしれぬ  




(2)母のみどりご ねむらすごとく み声しずかに あらしをおさめ 
  主よ 水先のしるべしたまえ
(3)さしゆくはべ まぢかくなりて 磯うつなみの さかまくときも
  主よ 水先のしるべしたまえ



出エジプト記 2章1〜10節
レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」


ヘブライ人への手紙3章1〜6節
だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。





2023年11月12日 降誕前第7主日 


説教題    『ジイさまとバアさま』

聖 書  ローマの信徒への手紙4章13〜25節 
新約聖書(新共同訳)  278ページ
      創世記12章1〜9節         
   旧約聖書(新共同訳)   15ページ

讃美歌(1)  513 あめにたからつめるものは    聖書箇所と讃美歌は裏面あるいは2頁



「鉋(かんな)をかけられたと思いなさい」。「ここのジイさまやバアさまときたら。素直じゃ無くてね」。「園長のわたしの言うことを鉋をかけられたと思へ言うても、逆らうことしか知らん。勝手な事ばっかり言いくさって。注意してもなおらん。我儘(わがまま)なひとが多過ぎて頭痛の種ですわ。センセ、これどない思う」。ジイさま、バアさまとは言うが、園長も八十歳を超えている。ここは、ほんの少し贅沢な高齢者ホームである。「舎監を騙(だま)して歌劇を観に行ったことあるわ」。「女中に寄宿舎まで荷物持たせて、夏休みまでの分ちゅうて、舎監に百円(ママ)渡したの覚えてるよ」。「五つの村合わせても寄宿舎のある女学校へ行ったの。わたしだけやったわ。うちは大地主やもの」。「京都の大きな呉服屋へお嫁に行って次の日帰って来たった言うやないの。あなた」。「ツレと一緒に遊郭で豪遊したことがあったな。中学生やった。後で親父に折檻(せっかん)されたわ」。昔の好き勝手が今日に続いている。「センセ、年月重ねたら人間出来ると言いますけど、あれは嘘だっせ」。

『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい(創世記12:1)』。アブラハムは七十五歳にして、常軌を逸した神の声を聞いた。若者の言葉でいうところの『無茶振り』である。、妻は、六十五歳であった。牧畜業で相当な財を成していたというから、舎監の目を盗んで歌劇を観に行ったバアさまと学生の分際で芸者をあげて父親の大目玉をくらったジイさまのカップルと想定して良いかも知れない。夫婦には子供がいなかった。出来なかった。その事は互いに触れないこととしていた。残りの人生を介護付き高齢者マンションに暮らし、たまの気晴らしに世界一周豪華客船のスイートルームを楽しむを由としていたのである。

神の声を聞いて十年が過ぎた頃、夫婦のわだかまりが強く表出した。妻は、自分に仕える下女ハガルをアブラハムに差し出した。男子イシュマエルが生まれる。アブラハム八十六歳であった。船場の旦那さんが外に子供を作ったことで御寮んさんとの揉(も)める。花登筐の小説の世界が待っていた。天の計らいでアブラハム百歳、妻サラ九十才にして後継者が与えられる。ジイさまとバアさまは、紆余曲折、やっと神の声を聞く者へと導かれた。信仰の父と崇められ、時に民の誇りとなったが、それが、驕(おご)りとなった時、使徒パウロは、アブラハムは信ずべき事を信じたまで、さすらいの民への神の恵みが、ジイさまとバアさまの功(律法)に依拠するものでないと明言したのである。
 


写真は本文と関係ありません。


讃美歌(1)  513 あめにたからつめるものは   

  

(2)すくいぬしの いさおにより うれしき身となりぬ
   なやみおおき 世にもさながら みくにのここちして
(3)主はわがうた わがよろこび ただひとつのすくい
   いざや伝えん 世にあまねく このよきおとずれを


ローマの信徒への手紙4章13〜25節  

神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。


創世記12章1〜2節
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。






2023年11月5日 降誕前第8主日 


説教題    『おとうちゃまも死ぬの』

聖 書    ローマの信徒への手紙 7章19〜24節 
新約聖書(新共同訳)283ページ  
        創世記 3章1〜6節            
旧約聖書(新共同訳) 3ページ

讃美歌(1)  320 主よみもとに近づかん    



「おとうちゃまも死ぬの? 娘たちが言ったのです」。その声は震え、鷹のような眼から大粒の涙が流れた。礼拝堂が響(どよめ)いた。月に一度、昼休みの後の五時限にロング礼拝なるものがあった。その日は、長々とした退屈な説教を聞く日と決まっていた。居眠りと私語の時間となっていた。時折、教師が生徒を叱ったが、それは講師への形ばかりの儀礼であった。その日の講師は、若い牧師であった。登壇と同時に生徒の失笑が漏れた。牧師は禿頭(とくとう)であった。思春期の男子ばかりの礼拝堂である。薄毛を笑う屈折がある。牧師は緊張の面持ちを隠せない。憤りだったかも知れない。生徒たちは牧師を観察した。禿を笑ったのであるが、顔立ちは髭の剃りあとも青々と、彫りの深いギリシア彫刻のようであった。スパイ映画に出てくるようなウエストを絞った濃紺のコンチネンタルスーツに均整の取れた長身を包んでいる。

 「今日、なさんのところに来る前にですね。家を出る時ですが、ふたりの娘が何を思ったのか、おとうちゃまも死ぬのって聞くんですよ」。居眠りをする者が目を開け、私語はぴたりと止んだ。ふたりの娘は五歳と三歳だと言う。「姉と妹がですね。ふたりともお尻まで長く髪をのばしているんですけどね、大きな目が四つ、わたしをじっと見詰めて、おとうちゃまも死ぬのって聞くんですよ」。「おいおい、あのセンセの娘さんたち、えらい可愛らしいんとちゃうの」。「ほんまやな、センセは禿げてても長い髪やいうたはるで、お尻までやて」。「あのセンセ、男前やから、女の子は父親に似るちゅうから、えらい別嬪(べっぴん)やで、そうに決まってるわ」。「一緒に風呂入ってるんかな」。「ボク、センセの娘さんと結婚するわ」。「俺は、妹の方やな」。男子の歪んだ妄想が膨張する。

牧師の幼い娘たちは、最近、痛ましい事故でおともだちが亡くなり葬儀に参列した。無邪気な日常の平衡が崩れることを知った。「エンジェルになって天国へ行かはってん」。ふたりは、何処かへ出かける父親を玄関で見送った。声を合わせて聞いた。「おとうちゃまも死ぬの?」。「それを聞いて、わたしは、わたしは、、、」。牧師は絶句して、講壇に泣き崩れた。礼拝堂は水を打ったように静まり返った。生徒の目が講壇に集中した。ロング礼拝にあるまじき光景があった。

 『わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか(ローマ7:24)』。

気を取り戻した牧師は、静かに言った。「罪びとは、必ず死ぬと、聖書に書いてあります」。チャイムが鳴っても席を立つ生徒はいなかった。


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讃美歌(1)320 主よみもとに近づかん

  
(2)さすらう間に 日は暮れ 石の上の 仮寝の 夢にもなお あめを望み
主よ みもとに 近づかん
(3主の使いは み空に 通うはしの 上より 招きぬれば いざ登りて
主よ みもとに 近づかん
(4)目覚めてのち 枕の 石を立てて 恵みを いよよ切に 称えつつぞ
主よ みもとに 近づかん
(5)うつし世をば 離れて あまがける日 来たらば いよよ近く みもとに行き
主の御顔を 仰ぎ見ん


ローマの信徒への手紙 7章19〜24節  
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。(25節)わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。


創世記3章1〜6節
主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。



2023年10月29日 降誕前第9主日 

 

天地創造を思わせる一休寺の朝

説教題    『はじめに、始めに、初めに』        

聖 書    創世記1章1〜19節       旧約聖書(新共同訳)  1ページ
        ヨハネによる福音書1章1〜10節 新約聖書(新共同訳) 163ページ
 
讃美歌(1) 90  ここもかみの           



「あそこに、お父ちゃんの工場があるねん」。ハンドルを握る左手前方に長いフェンスに囲まれたいくつもの工場棟が見えて来た。ゲートに出入りする大型トラックを白手袋の警備員が誘導する。妻の父親に挨拶に行く日だった。トロフィーや賞状で飾られた悪趣味な社長室が思い浮かんだ。ダブルの背広に葉巻を燻らせる鼈甲(べっこう)眼鏡の進藤栄太郎に対決する日が来た。いまさら引き返すことも出来ない。「君のお父さんの工場ってここか」。「違う、違う。そのゲート入ったらあかん。向こうに見えてる工場が、お父ちゃんの工場」。「そんなもん何処にあるねん。見えへんで」。「キシモト君、小さな工場とはいえ、一国一城だぜ。娘も短大とはいえ、最高学府に学ばせた」。「お嬢さんを幸せにするなどと言う台詞は用意しておりませんので」。「よく来た。タバコを止める秘策を教えよう」。この時の安堵の気持ちをどのように言えば良いものか。

小さな教会に赴任した。正確にはいくつもの小さな教会の掛け持ちであった。車を二時間走らせて夜の八時の礼拝に向かう。最大で五名の出席であるが、オルガン席の妻とふたりだけの日もある。それでも、プログラム通りの礼拝に変わりはない。無人の席を前に説教をした。妻の実家を大会社と勘違いしたネタを盛り込んだ。妻が笑ってくれた。そこには、願っても得られない幸せがあった。ところが、同じ礼拝堂に悲しい物語があった。前任の先輩牧師は信徒のいない礼拝に耐えきれず、週報で紙飛行機を折り、憑(と)りつかれたように礼拝堂に飛ばし続けたらしい。床に墜落した紙飛行機を拾い集めたのは牧師夫人であった。

 『初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた(1:1)』。(共同訳:『初めに』、口語訳:『はじめに』、英訳: In the begining)

神学校の礼拝堂入り口の壁に旧約聖書の一丁目一番地がヘブル語で刻まれている。壁のヘブル語には『るび』のようなものが省かれている。少し勉強しないと読めない。「これをすらすら読めた者に単位をやる」。ヘブル語の教授が約束した。翌日、教授を礼拝堂に連れて行き単位を獲得した。岳父との遣り取りの二番煎じを楽しんだ。

『初めに、神は天地を創造された(1:1)』。共同訳は、『初』としている。前の訳は、少々狡く、平仮名で、『はじめ』としている。妻と二人だけの礼拝、それが、牧師人生の『始め』であった。神が天地を創るところを新聞記者が記事にした訳ではない。主観優先が徹底している。その優先は、数万人を集めるメガチャーチを物ともしない小さな礼拝堂の主観でもある。天地創造の『創る』は、神を主語とのみする場合の動詞であることを学んだ。『言は神と共にあった(ヨハネ1:1)』。我々の小さな群れを創ったのは神(YHWH)である。


讃美歌(1) 90  ここもかみの  




(1)ここも神の 御国なれば あめつち御歌を 歌い交わし
  岩に樹々に 空に海に 妙なる御業ぞ 表れたる
(2)ここも神の 御国なれば 鳥の音 花の香 主をばたたえ
  朝日 夕日 栄えにはえて そよ吹く風さえ 神を語る
(3)ここも神の 御国なれば よこしま暫しは ときを得とも
  主の御旨の ややに成りて あめつち遂には 一つとならん


創世記1章1〜19節
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。


ヨハネによる福音書1章1〜10節
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。一人の人が現れた。神から遣わされた者で、名をヨハネと言った。この人は証しのために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じる者となるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。




2023年10月22 日 聖霊降臨節第22主日



説教題    『数、数だっせ』

聖 書    士師記 7章1〜7節        旧約聖書(新共同訳)  392ページ
        ルカによる福音書 19章15〜17節  新約聖書(新共同訳)  147ページ

讃美歌(1) 344 とらえたまえわがみを
   


「お口を湿らせてあげてください。もう長いことないと思います」。看護師が聴診器を外して首に掛けた。「だれか、そこらの自動販売機でカップ酒を買うて来るんや」。「園長先生、この方、クリスチャンです。そんなこと、あかんのとちゃいますか」。「なに言うとるんや。この人は、無類の酒好きやったけど、ずっと我慢しとったんや」。寮母が、割り箸の先にカップ酒を湿らせたカット綿を山田さんの唇にあてた。口元が微かに動く。寮母が耳を近づける。「美味しい言うたはります。園長先生」。山田さんは、ホームに入居して間もなく洗礼を受けた。聖書研究会の常連だった。「センセ。『ドシキ』は面白おますな」。山田さんは士師記(シシキ)を『ドシキ』と読んだ。周りの人たちが過ちを指摘しても一向に気にすることはなかった。山田さんは、血を血で洗うイスラエル人とカナン人の抗争の生々しさから、士師記に何かしらの『土(蛮)』臭さを感じていた。

『ユダの人々はエルサレムを攻撃し、剣をもってこれを占領、町には火を放った(1:9)』

山田さんの枕元にアルバムがあった。聖書研究会の後、山田さんの部屋で見せてもらったアルバムである。その中の一枚、海軍兵学校時代のクラス写真が特にお気に入りであった。「これが、ワシや」と紅顔の美少年を指差してくれた。この集合写真はどう見ても、何処にでもある男子高校のクラス写真に似ていた。前列中央の担任が背広でなく軍服であることを除いて。海軍兵学校と言えば、本郷功次郎が兵学校学生に扮し首席で迎える卒業の場面で恩賜の短剣を恭しく拝領するシーンがあったが、山田さんのアルバムに並ぶ顔ぶれと違って随分ヒネた学生であった記憶がある。

山田さんの青春は戦争塗れであった。国が形振(なりふ)り構わずの戦争に突入していた時代の人である。高角砲を指揮した。「少尉殿、角度の計算はお済でしょうか」。すでに暗算の答えが出ている古参の下士官に小馬鹿にされる経験もした。理論と実践が命懸けとなる現場に飲み込まれていた。山田さんは、ギデオンが兵士をより分けるシーンを興味深く読んだ。初陣の武者震いの記憶が蘇る。「信仰者には、このように普段の生活の場面における気の緩みを神から指摘されることがあるのです。選ばれた一握りの精鋭が、この世に勝利するのです」。牧師の解説に、「センセ、それは少し違いまっせ。戦争ちゅうもんは、数、数だっせ」。  
 
ギデオンの精鋭たちは、夜陰に紛れてラッパと壺を砕く音で敵を混乱に導き同士討ちさせる奇策によって勝利を収めた。なんらかの示唆を感じるが、これを霊の戦いなどと深読みしないでおこう。

        


この帽子が、少数精鋭の幻想となる。



讃美歌(1) 344 とらえたまえわがみ

(1)とらえたまえ わが身を 主よ みこころしめして
   日々まことをおしえて はなちたまえ、罪より
(2)とらえたまえ わが身を われに宿りたまわば
   とわの愛をつたえて 地にみくにを来たらせん
(3)とらえたまえ わが身を 主のみ手にぞおさめて 
   またき道をひらきて ゆかせたまえ みもとに
(4)とらえたまえ わが身を みたしたまえ みたまを
   わがすべてをささげて こたえまつらん みむねに


士師記7章 1〜7節
エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミディアンの陣営はその北側、平野にあるモレの丘のふもとにあった。主はギデオンに言われた。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。」こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った。主はギデオンに言われた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない。」彼は民を連れて水辺に下った。主はギデオンに言われた。「犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい。」水を手にすくってすすった者の数は三百人であった。他の民は皆膝をついてかがんで水を飲んだ主はギデオンに言われた。「手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい。」


ルカによる福音書19章 15〜17節
さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』




2023年10月15日 聖霊降臨節第21主日 

                 

説教題    『もう一軒行こか (ROSA'S CANTINA)』

聖 書    ルカによる福音書17章20〜節   
新約聖書(新共同訳)  143ページ
        創世記19章24〜25節       
旧約聖書(新共同訳)   27ページ

讃美歌(1)  ああうれしわがみも   


「キシモト君、もう一軒行こか。いい店があるんだよ」。教授の酒癖が悪いことは聞いていたが、一滴喉を湿らせると別人になった。「先生、もう六軒目ですよ。ボクは充分いただきました」。「何を言うとるか。キシモト君。君の充分や満足を聞いとるんじゃない。私の充分がどうかということじゃないか。私を差し置いて君の充分がどうのこうのと。無礼者!飲み足らんのじゃ。私を待っとる店があるんじゃ」。「あら、センセ、お久しぶりどす。どこで浮気しとーおしたんどす。センセの意地悪。イケズ」。「な、キシモト君、いい店だろう」。教授との一晩の付き合いがドイツ語演習93点となって返って来た。「キシモト君、それを、枕営業ちゅうんやで」。院生仲間に僻(ひが)まれた。

飲み足らずに何軒もの店を梯子する。これを四国霊場八十八ヶ所を巡るお遍路さんや
ジョン・バニヤンの『天路歴程』に登場する一人の信仰者(クリスチャン)の試練の旅に擬(なぞ)えると顰蹙(ひんしゅく)を買うかも知れないが、飲み足りない宗教の専門家(ファリサイ派)たちも、明け方近くまでネオン街をうろついて、疲れ、ついに切羽詰まって最後の一軒はどこだと、イエスに神の国の場所を尋ねた。教授が連れて行ってくれた女将のいる店はどこにあるのかと。

 「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
実に、神の国はあなたがたの間(あいだ)にあるのだ(17:20)」

宗教の専門家たちは、『見える形』の天国を求めていることをイエスに見破られてしまう。天国は、一番都合の悪い『あなたがたの間に』あると言われてしまう。間、中身、本質、それは、膿(うみ)に塗(まみ)れた恥部として隠しておきたいのだが。合わせて、『ここ・そこ』に翻弄(ほんろう)される哀れもイエスに暴露されてしまう。自分の考えの無い人が言う。モダンの賞味期限が切れると、ポスト・モダン。構造主義に陰りが見え始めると、ポスト・構造主義だと。

行き付けを探し求めて、エルパソの『ローザのカンティーナ(酒場)』に辿り着いたひとりのカウボーイがいた。黒髪のメキシコ娘にぞっこん惚れ込んだ。その名をフェリーナと言った。ある日、フェリーナにちょっかいを出した若造を撃ち殺してしまう。逃亡の挙句、若造の仲間たちに報復される。瀕死のカウボーイは、フェリーナの腕の中(間)で息絶える。直情の愚かを、天の国を自分の『間(あいだ)』の事とした例に挙げることは、少し、過激だろうか。

♪浮世だにさながら 天つ世の心地す♪
           


フェリーナの愛苦しい微笑みが       


讃美歌(1)  ああうれしわがみも   Blessed Assurance, Jesus Is Mine!


作詞:ファニー・クロスビー(1820 - 1915)



(1) ああうれし わが身も 主のものとなりけり 世だにさながら 天つ世の心地す

(繰り返し)
歌わでやあるべき 救われし身の幸 讃えでやあるべき み救いのかしこさ

(2)残りなくみむねに 任せたる心に えも言えず妙なる 幻を見るかな
(3)胸の波収まり 心いと静けし  我もなく世もなく ただ主のみいませり




ルカによる福音書手17章20〜30節

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、
ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。・・・・・・・
そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。(17:37)」


創世記19章24〜25節
主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。





2023年10月8日 聖霊降臨節第20主日 伝道献身者奨励日
                

説教題    『後足(あとあし)で砂を・・・』

聖 書    フィレモンへの手紙 12〜20節   新約聖書(新共同訳 ) 399ページ
         レビ記 25章 38〜40節      旧約聖書(新共同訳)  204ページ

讃美歌(1)  512 わがたましいのしたいまつる




「心配したで」。倉庫の管理者が家を訪ねてきた。合わせる顔がなかった。「いえ、もう、ボクのことは放っておいてください。戻るつもりはありませんから」。学生の頃、フォークリフトを動かしていた。大手家電メーカーの倉庫だった。梱包されたブラウン管を二階建家屋ほどの高さの棚に積むのである。ある日、倉庫内に雷鳴のような音が響き渡った。積み上げに失敗した荷が雪崩(なだれ)を打って崩れたのである。倉庫一杯のブラウン管が割れる音であった。横転したフォークリフトから操作員が投げ出された。パレットを持ち上げ状態で旋回してバランスを崩したのである。重心が高くなる操作は厳禁されていたが、守られてはいなかった。数日後、よく似た事故を起こしてしまった。荷を庇(かば)ったので胸を強打した。管理者に何も言わずに帰った。無断欠勤を続けた。逃亡したのである。自己嫌悪に苛(さいな)まれた。



エフェソでパウロに出会い信徒となったコロサイ出身の裕福なローマ市民がいた。その名をフィレモンと言った。『フィレモンへの手紙』の宛先人である。フィレモンはコロサイ教会の役員であり、パウロを支えていた。成功した事業者でもあり自慢の妻子に囲まれる円満な家庭人でもあった。フィレモン家に大事件が発生した。奴隷のオネシモが逃亡したのである。オネシモは、その若さと未熟さのゆえに、主人フィレモンに後足で砂をかけるような不始末を仕出かしたのである。金銭トラブルの類であったと推測されるが、それ以上の何かがあったかと思われる。

立派なクリスチャンなる人の常がある。フィレモンもその例に漏れなかったと勝手な想像を試みたい。凡そ、信心、信仰の経営者には、良かれと思って放つ指導的なひとこと、本人が気付いていない、社員や従業員への余計がある。オネシモはフィレモンに、常々何かを言われていたのかも知れない。上から目線の押し付けを昨今の言葉で言えば、『パワーハラスメント』、『モラルハラスメント』となる。主人の家を逃げ出したオネシモは、真っ先に、獄中のパウロに会いに行く。パウロのことをフィレモンから聞いていたのだろう。オネシモは、パウロのカウンセリングを受ける。『我が子』とまで呼ばれるような関係となる。オネシモは、押し付けがましさを感じない大人に生まれて初めて出会ったのである。

『重心を高くして旋回してはいけない』。そんなことは、百も承知である。ガミガミ言われたくはない。為を思う気持ちが主従や上下の関係ではなく、共に分かちあう(コイノニアの)気持ちから発せられていたならば、オネシモ事件は起こらなかったかも知れないが、それは、面白くない。    


草刈は御安全に 


讃美歌(1) 512 わがたましいのしたいまつる




(2)身のわずらいも 世のうれいも われとともに分かちつつ
いざなうものの ふかきたくみ やぶりたもう うれしさよ 
ひとは棄つれど きみはすてず みめぐみはいやまさらん 



フィレモンへの手紙 12〜20節
わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。


レビ記 25章 38〜40節
わたしはあなたたちの神、主である。わたしはカナンの土地を与えてあなたたちの神となるために、エジプトの国から導き出した者である。もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。雇い人か滞在者として共に住まわせ、ヨベルの年まであなたのもとで働かせよ。





2023年10月1日 聖霊降臨節第19主日 世界聖餐日
                   


説教題    『それでも、頭(ず)が高い』

聖 書    ヤコブの手紙 2章1〜4節    新約聖書(新共同訳 ) 422ページ
        アモス書   6章3〜5節     旧約聖書(新共同訳)  1436ページ

讃美歌(1) 271 いさおなきわれを



「しぇんしぇい(先生)、あんたな、もう、うちのホームの礼拝に来んでもええ。あんたの説教は気分ば悪うなるちゅうて、年寄りたちがみーんな言うとる。キシモト先生だけでよか」。園長は頬骨の張った顔を真っ赤にしている。「なんぞ、みなさんの気に障るガイな(異常な・変な)こと言うたかね」。のんびりした伊予弁が園長の神経を逆撫でる。伊予弁の先輩牧師と隔日交代で老人ホームの礼拝を担当していたことがあった。

先輩牧師は、ホームの礼拝に手加減がなかった。園長は一番前の席で聞いている。先輩は、園長を好きではなかった。園長も同様であった。「ある発展途上の国でですね、裕福な欧米の白人女性観光客がですね、タクシーから降りたんですわ、そうしたらですね、物乞いの集団に囲まれて身動きがとれなくなったんですわ、そうしたらですね、そのひとたちの強烈な臭いに、その女性観光客がですね、胸がムカついてですね、胃の中が逆流したんですわ、そうしたらですね、物乞いの一団が先を争ってその吐瀉物を手に受けたちゅうんですわ。みなさんもですね、世界には、それほど貧しいひとたちがいるちゅうことをですね、忘れたらあかんと思うんですよ。イエスさまは、そういうひとたちを我が友よと呼んで、その胸に抱き寄せたんですわ」。さすが先輩の説教だと思ったのだが、その光景をリアルに想像した入居者のひとりが席を立った。廊下の突き当りのトイレから嘔吐と何度も流す水洗の音に途切れがなかった。
 『あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来て、また、
汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。(2:2)』

ヤコブは、イエスのすぐ下の弟である。異父兄弟とする護教的解釈もあるが。ヤコブは、家族の中で、兄イエスに最も懐疑的であった。実に、まともな感覚の持ち主である。それ故に、身近な兄を本物と気付いた時、メシアニック・ジュー(福音に生きる元ユダヤ教徒)となる。弟ユダと共にエルサレム教会の指導者となる。この教会は、吐瀉物に群がる物乞いの集団であった。言い過ぎだろうか。ヤコブがパウロの信仰義認を曲げて書いたものが『ヤコブの手紙』であるとする立場がある。ヤコブの語る『信仰とその実践』は少々、品位を欠いていると言っても良いかもしれない。しかし、ユダヤ的伝統が濃厚ないくつかの貧しい教会での現実問題を、ヤコブはパウロのように抽象化することはなかった。金の指輪をはめた新来会者は、余程のレアケースであり、その応対にマニュアルがなかったのである。

                           
この中に先輩牧師がいる


讃美歌(1) 271 いさおなきわれを

 

(2)つみとがのけがれ 洗うによしなし イエスきよめたもう みもとに我ゆく
(3)うたがいの波も 恐れのあらしも イエスしずめたもう みもとに我ゆく
(4)心のいたでに 悩めるこの身を イエスいやしたもう みもとに我ゆく
(5)たよりゆくものに 救いと命を イエス誓いたもう みもとに我ゆく
(6)いさおなきわれを かくまで憐れみ イエス愛したもう みもとに我ゆく


ヤコブの手紙2章1〜12節
わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒?しているではないですか。もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。


アモス書6章3〜5節
お前たちは災いの日を遠ざけようとして、不法による支配を引き寄せている。お前たちは象牙の寝台に横たわり、長いすに寝そべり、羊の群れから小羊を取り、牛舎から子牛を取って宴を開き竪琴の音に合わせて歌に興じ、ダビデのように楽器を考え出す。



2023年9月24日 聖霊降臨節第18主日  


説教題    『うらなり牧師』

聖 書    
テモテへの手紙一 6章7節〜16節 新約聖書(新共同訳) 389ページ
アモス書8章9〜11節       旧約聖書(新共同訳) 1440ページ

讃美歌(21)  522 キリストにはかえられません



「牧師をやめようと思ってるんです。ボクには無理みたいです」。若い牧師がかつての指導教授に悩みを打ち明けている。「そうか。そやけど、君は酒も弱いみたいやな。さっきの乾杯のビールで顔真っ赤やで」。教授は、わざと的を外したような受け答えをする。「ボクは、先生みたいに押しが強くないんです」。教授は、犀(サイrhinoceros)のような体格と岩石に目鼻を付けたような顔立ちの人である。若い牧師は、漱石の坊ちゃんに登場する『うらなり君』である。三年に一度の全国牧師研修会が母校近くのホテルで開催された。『低迷と閉塞・・・どうする明日の教会』と題した犀教授の講演に続き、教授の威勢の良い乾杯の音頭で宴会が始まった。溜まりに溜まった牧師たちの鬱憤(うっぷん)と久しぶりの再開に会場は喧騒(けんそう)に包まれた。「あんた、まだ、あの教会におるつもりですか」。条件の良い教会に居座る牧師に冷や飯牧師が絡(から)む。互いの健闘を称え合うようなシーンなどはない。うらなり君は、壁際の椅子に沈んでいた。犀教授が肩に手を置き声を掛けたのである。

「ボクは牧師に向いていません。それに、経済的にも限界で、妻からもいろいろ言われてるんです」。「そうか。そやけど、あの辺で五月蝿そう騒いでる牧師の誰よりも、君は、牧師らしいのやで」。百戦錬磨の犀教授は、『うらなり』が『うらなり』のままで牧師を続けることが最後の勝者になることを知っていた。「もうちょっと、続けてみようやないか。君の雰囲気は変えたらあかん。ヨメはんにはワシが電話しといたる。どこかの講師の口でも探したるさかい、もうちょっとな」。

『年が若いからということで、だれからも軽んじられてはなりません。(4:11)』。

パウロが愛する我が子と呼んだ若い牧会者テモテに『うらなり君』が重なる。若い牧師を取り巻く環境は過酷である。テモテは、祖母ロイスと母エウニケの信仰を受け継いでいる。イメージは、実に、昔の物の言い様だが、『軟弱男子』である。若さと気弱、それに臆病が加わると、舐められる条件はすべて揃う。しかし、それは、舐められる側の問題ではなく、人を見下して舐めてかかる側に問題があるのである。 

青成瓢箪(あおなりびょうたん)に、犀が、お前は、ヤッピー(Young Urban Professionals若手都会派知的職業人)になどならなくて良いとアドバイスする。
                         

犀に励まされていた神学生の頃1975年

讃美歌(21)  522 キリストにはかえられません
    


(3)キリストにはかえられません いかにうつくしいものも
   このおかたでこころの 満たされているいまは



テモテへの手紙一6章7〜16節
なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。

アモス書8章9〜11節
その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする。見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。





2023年9月17日 聖霊降臨節第17主日 
                        

説教題    『お前らも、頑張れよ (Do your best!) 』

聖 書     創世記 37章1〜11節  
旧約聖書(新共同訳) 63ページ
         マタイによる福音書 20 章14〜16節 
  新約聖書(新共同訳)  38ページ

讃美歌(1)  530 はるのあした




「ひちごさんた?」。「七五三太やて。けったいな名前やな。なんて読むんやろ」。黒板に大きく書いた『七五三太』に聖書の先生が、えへんと咳ばらいをして、「校祖、新島襄(にいじま・じょう)先生の幼名、『しめた』、つまり、本名や」と言う。「正月の目出度い飾りもんをしめ縄飾りと言うやろ。その『しめ』を漢字で書くと七五三や」。分かったような分からないような人の名前を知った。

跡取りに恵まれなかった新島家に待望の男子が生まれた。上に姉が四人もいたのである。江戸末期のことであった。一家を取り仕切っていた祖父が、その時、感極まって「シメタ!」と言ったとか言わなかったとか。一家は事務方の江戸勤務であった。身分は低かったが、祖父に多角経営の才があり、七五三太は、ぼんぼんに育てられた。

そのぼんぼんが、江戸湾に浮かぶオランダ軍艦を見て、向こう見ずな『夢見る人』となった。ぼんぼんは、吉田松陰の轍(てつ)を踏むことなく密航を成功させた。船長付きの下僕となり、『おい、そこの小僧(ジョー)』と呼ばれながらも、癇癪(かんしゃく)を押え、苦節の日々に耐え、明治の偉人、新島襄となる。ぼんぼんには七五三太の他に厳めしい元服名もあるが、ジョ―の由来、旧約聖書に登場するヤコブの愛息の名ジョセフ(ヨセフ)を気に入って生涯の名とした。父母の元を遠く離れたエジプトの地で宰相にまで出世したアウエーの成功者ヨセフに自分の身を重ねたのである。
 
ヨセフは兄たちの妬みを買って大国エジプトの奴隷に売られる。十人の兄たちは父ヤコブの第一夫人の子どもたちであった。ヤコブは第二夫人のラケルを娶(めと)るために姉のレアを義理で妻にしたのであった。その歪んだヤコブの心は兄たちに刷り込まれていた。ラケルに待望の男子が生まれた。ヤコブもその時、「シメタ!(七五三)」と歓喜の声を上げたのである。どこかの某ジャニーさんのように、多くのボーイズの中からヨセフだけを露骨に可愛がった。当然、ヨセフは人の関係を読めない天狗ボーイとなり、『夢解き』と称して日常的に兄たちの機嫌を損ねる言動を重ねる。「お前らも、頑張れよ」。

新島襄もニューイングランドの豊かな食生活を江戸の粗食に耐える家族への手紙に記している。「クラムチャウダーやマトンのスープのような滋養のあるものを食さねばなりません」。「お前らも、頑張れよ」。空気の読めない一面を覗かせている。シリアス過ぎて人生を台無しにする人がいるが、呆れるような天衣無縫から学ぶべきものがあるのかも知れない。

イエスは、誰を神が愛そうと人の知る所ではない。後の者が先になる緊張を持てと言う。  




ぼんぼんたちの同窓会9月9日(アウエーで成功した者多し)



讃美歌(1)  530 はるのあした



創世記 37章1〜11節
ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。ヤコブの家族の由来は次のとおりである。ヨセフは十七歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。まだ若く、父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した。イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。ヨセフは言った。「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」兄たちはヨセフに言った。「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ。ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した。「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った。「一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。」兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。


マタイによる福音書20章 14〜16節
自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」



2023年9月10日 聖霊降臨節第16主日 
                  

説教題    『瞼(まぶた)の母』

聖 書    ルカによる福音書書 14章25〜35節 新約聖書(新共同訳) 137ページ

        サムエル記下 18章1〜4節     旧約聖書(新共同訳) 509ページ

讃美歌(21) 507 主に従うことは


「なんで写真の真ん中があらへんの」。父に尋ねたことがあった。何も言ってくれなかった。そのアルバムには子どもが勝手に見てはいけない圧があった。敢えて聞いた。父は十歳の時に母と死別している。妹は三歳で死んだらしい。この写真は、実母が死んで間もないころだと思われる。祖父と父、伯母との間の切り取られた部分に継母(ままはは)がいたと思われる。百年近い時間が経過してなお剃刀の切口も生々しい断面。父が、相当激しい感情をもって『無いもの』にしたのだろう。「お父さんは、後妻さんとお祖父ちゃんを嫌っていたからね」。母には、その頃のことを話していたらしい。二度目の妻とも祖父は死別した。父は、近親と自身への嫌悪に長く悩んだ。 




『父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない(14:25)』。

イエスには、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの弟たちがいた。名を記されなかった妹も複数いる。伯父、伯母、いとこたちの名もある。イエスはごった煮家族の悲喜こもごもを知らない人ではなかった。大人しい性格の父ヨセフではあったが、ちゃぶ台返しのシーンが全くなかったとは思えない。妻マリアが『おとめ』から『ふとめ』に変容するにつれて、ヨセフ一家は、微笑ましくも、濃厚な親族関係が織り成す肝っ玉母さんや寺内貫太郎一家の日常に投げ込まれて行く。それは、水を葡萄酒に変えたカナの結婚式におけるイエスの最初の奇跡の場面において頂点に達した。他人の家の台所を平気でかき回す母マリアの図太い神経にイエスは苛立つ。あれこれと指図するマリアを制して、「婦人よ。いい加減にしなさい」。厳しい言葉を投げつけた。

イエスは、一緒について来た大勢の群衆に振り向いて言う。わたしの弟子になりたいなら父母を憎めと。親との確執に悩む者には人口に膾炙する言葉かも知れないが、このイエスの言葉は、物怪の幸い(もっけのさいわい)ではない。親を憎むぐらいなら信心を止めときますワ。それが普通である。この憎むという言葉は、『程度の誇張である』とする解釈に支持される。マタイも懸命にフォローする。『わたしよりも父や母を愛する者は(マタイ10:37)』。程度の差がどのようなものであれ、天秤の片方に『自分の十字架を背負う』があり、もう片方に釣り合わない分銅がある。

父の継母や祖父に対する憎しみが消えることはなかった。薄命の実母を聖母マリアとも慈母観音とも思い、胸に抱き続けた生涯であったが、父がマリアと観音を憎むに至ることは無かった。


讃美歌(21) 507 主に従うことは




ルカによる福音書14章25〜35節
大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」



サムエル記下18章1〜4節
ダビデは彼に従う兵を調べ、千人隊の長と百人隊の長を任命した。次いでダビデは兵士を三部隊に分け、三分の一をヨアブの指揮下に、三分の一をツェルヤの子、ヨアブの弟アビシャイの指揮下に、三分の一をガト人イタイの指揮下においた。ダビデ王は兵士に言った。「わたしもお前たちと共に出陣する。」兵士は言った。「出陣なさってはいけません。我々が逃げ出したとしても彼らは気にも留めないでしょうし、我々の半数が戦死しても気にも留めないでしょう。しかしあなたは我々の一万人にも等しい方です。今は町にとどまり、町から我々を助けてくださる方がよいのです。」「わたしはお前たちの目に良いと映ることをしよう」と王は言って、町の城門の傍らに立ち、兵士は皆、百人隊、千人隊となって出て行った。



2023年9月3日 聖霊降臨節15主日 



聖 書  ルカによる福音書 14章7〜15節 新約聖書(新共同訳)   136ページ
      申命記26章5〜9節    旧約聖書(新共同訳)   320ページ

説教題  『ご招待いたします』

讃美歌(1)  271 いさおなきわれを


「センセ、センセ。やかん持ってうろうろされたら困りますがな。センセは、前に、ここに座ってください」。よれよれの背広、しわくちゃのシャツ、歪んだネクタイ、老牧師は大きなアルミのやかんから手を放そうとしない。貧弱な体躯の背は曲がっている。食糧難の時代、牧師館の裏庭で育てた不衛生な野菜が愛娘の命を奪った。痛みを知る牧師であった。「わたしは、お茶汲みですから」。下らない冗談を言う。恐縮する信徒に笑みを浮かべながら老牧師はテーブルを回る。

「そりゃ、もう、裸踊りでも何でもさせてもらいましたんやで」。宴席で腹芸を披露するという。「それは、いったい、どういう趣旨の集まりですか」。「難しい人たちが集まるんや。取引先や。どこに誰を座らせるか。誰と誰を離して座ってもらうとか。気を遣うんや」。宴会は社長の腹踊りでお開きになるという。社長の太鼓腹いっぱいの真っ赤な口紅のおてもやんが免罪符となる。「ああでもせんと、機嫌よう帰ってもらえんのや」。

イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家に入ったとある(14:1)。その日は安息日であった。水腫を患う人がいた。イエスは安息日の規定を破ってその人を癒(いや)した。その行為は、その場に居合せた権威筋の者を黙らせる名刺代わりとなった。この水腫は、肺や腹にたまる上品な水などではなく下半身が膨張する恥の水であったとする注解がある。

『イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて(14:7)』。

招待客たちに、『なにかええもん』、『冥途の土産』が目の前に降って湧いた。宴会が、大物歌手のディナーショーと化し、客が良い席に移り始めた。いささかの小競り合いも始まった。ファリサイ派の議員がおてもやんを腹に描き始めた。上席へのラッシュに収拾が付かない。イエスがマイクを握る。『賢者は言う。愚か者だけが我先を争う。(Wise men say ony fools rush in)』。イエスは、おどけて言う。「わたしは、エルビス・プレスリーですか」。

『へりくだる者は高められる(14:11)』。

末席に座っていればまず間違いないのか。イエスは、安物の処世訓を披露したのか。そうではない。神に選ばれた民であるからこそ、歴史の末席を享受して来たのではないか。『滅びゆく(さすらいの)一アラム人』は、古代オリエント世界への命懸けの信仰告白であった。それは、迫害下の初期キリスト者にとっての教会と社会の緊張にも擬えられる。   



誰が誰だか分からない宴会の集合写真          


讃美歌(1)  271 いさおなきわれを

   


ルカによる福音書14章7〜15節
イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。

申命記26章5〜9節
あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。「わたしの先祖は、滅びゆく(さすらいの)一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。



2023年8月27日 聖霊降臨節14主日 


説教題    『飲まず食わず休まず (no weekend) 』

聖 書    出エジプト記 23章10〜12節    旧約聖書(新共同訳)  132ページ
       ローマの信徒への手紙14章7〜19節 新約聖書(新共同訳)  294ページ

讃美歌(1) 503 はるのあした


「車のキーが見つからへんのやけど」。「冷蔵庫の中に入ってたよ」。「あっ。そう」。これだけで良い。それ以上、会話を膨らませてはいけない。「車のキーが見つからんのやけど、お前知らんか」。「何でわたしが知ってんのよ。また、いつものように、冷蔵庫の中にでも入れているのとちゃうの」。「何やて。もし、そうやとして、ワシが冷蔵庫の中にキー入れとったら面白いんかい。ワシがおかしくなったと思うとるんかい」。「そんなこと言うてへんやないの。なんでもわたしのせいにして」。「ワシは一生懸命働いて疲れとんのや。ちょっとは思いやりのある言葉はないんかい」。「検査の結果があまり良くなかったんやけど」。「あっ、そう」。これだけで良い。「結果が、良くないと言うとんのや。お前、気にならへんのか」。「そんなこと言われても、わたしは医者やないし、どないしようもないやないの。言うときますけど、わたしのせいには、せんといてくださいね」。

近所の夫婦の会話であったかも知れないし、自分のことであったかも知れない。言ってみれば、これは人間の金属疲労である。折っては曲げ、曲げては折る。そのうち辛うじて繋がっている部分がユリ・ゲラーのスプーンよろしく断裂する。要するに油切れ。オイル交換無しで走り続ける車に同じである。連作を嫌う野菜をろくな施肥もしないで同じ畑に植え続けることにも似ている。

モーセは、休閑地を作らない農業を禁じる。使用人の休日を徹底させる。六年耕して一年畑を休ませる。六日働かせて七日目に休ませる。これは、まさしく経営者向けの業務マニュアルである。実利的な効用を訴えている。『元気を回復するためである(23:12)』。

この思想は、飲まず食わず休まず(飲ませず、食わせず、休ませず)の古代オリエント世界に天地がひっくり返るほどの衝撃を与えたことであろう。文明の爛熟、世界の中心カルデアのウルの地に背を向けて彷徨う民(ヘブル)となったアブラハムに神は大いなる祝福を与える。その民が後代、大国エジプトの奴隷となった。耐えがたい隷属があった。しかし、神に立てられたひとりの指導者が苦難と試練の四十年を経てヘブルの民を約束の地へと導く。モーセは、約束の地へ入ることを神に許されなかったが、新天地を目指す次世代の民に戒めを残す。それは、遺言とも言えるものであった。
 『休む、休ませる』。命と引き換えに言えるほどの強い言葉である。権力の背景があれば、『飲まず食わず休まず』を強要することは容易い。神は、あなたのための安息を約束する。それは、あなたも、他者のこころを安息へと導いているかどうかを問うている。パウロは、ローマの信徒たちに、互いが疲れ切ってしまうような信仰生活の在り方に苦言を呈している。

『平和や互いの向上に役立つ(ロマ14:19)』。   


ツルハシとは、鶴のくちばし(鶴嘴)と書く                                                

讃美歌(1)503 はるのあした


    


出エジプト記23章10〜12節
あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。

ローマの信徒への手紙14章7〜19節
わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。






2023年8月20日 聖霊降臨節13主日 

説教題    『マングースの衝動 (mongoose impulse) 』

聖 書     アモス書 5章18〜24節   旧約聖書(新共同訳) 1435ページ
         ヤコブの手紙1章21〜27節  新約聖書(新共同訳) 421 ページ
        
讃美歌(21)  348 神の息よ


「ワシは、牛飼いやから、体動かしながらでも頭働かす時間たっぷりあるんじゃ」。
海軍が自慢である。といっても少尉任官と同時に戦争が終わったらしい。開拓者として馴れない酪農の世界に入った。農学部に学んだらしいが、海軍に同じく実践がなかった。畜産を汚れ仕事と思い込んでいるので助けてくれる同業者はいなかった。トレーラー付きの耕運機に妻を乗せて教会に通った。その様子が、1970年代の若者ファッションに似ていたことは愉快ではあった。妻の清純な容姿と人柄に負うところが大であったのである。洗礼を受けたが、牧師批判と教会員の誰彼なくに噛み付くことが生きがいとなった。若い牧師が赴任してきた。「ワシに何でも聞いてくれ」。ある日、新聞チラシの裏にびっしりと書き込んだ教会員を戦闘員に擬(なぞ)えた伝道計画書を牧師に見せた。「貴重なご意見をありがとうございます」。軽くいなされた。農業者としても信仰者としても、ペーパー少尉殿がその実を享受する日は来なかった。



ソロモン王の国が南北に分裂し、列強の脅威がじわじわと押し迫るころ、傲慢な北王国イスラエルに警告を発した一介の農夫がいた。北王国との境に近い南王国ユダのテコアという村の『農家さん』であった。数多あるプロの預言者ではなく、一介の農夫に神の言葉が託されたのである。アモスは、羊を飼いイチジクを育てる農業者であることに自負があった。預言者の真似事など畏れ多いという。
 神はアモスに問う。神に愛された民が、民を愛さない王によって蹂躙(じゅうりん)されている。一握りの富裕層と高位聖職者の欺瞞が民の行く末を危うくしている。物言わぬ羊とイチジクに語りかける年月を重ねてきたお前なら、神の公正と神の義が理解できるだろうと。アモスは、北王国の最高位の預言者アマツヤと対峙することになった。「お前の母ちゃん出べそ」。アマツヤとその家族を叩いた。(7:17)

マングースとハブを戦わせるテレビ番組があった。昭和の夏休みの記憶である。毒蛇がマングースに100%負ける。マングースは毒蛇に遭遇すると攻撃せずにはいられないらしい。物言わぬ多くの民がハブやコブラのような毒を持った長いものに巻きつかれている。アモスの心はマングースとなり、毒蛇アマツヤの脳天を噛み砕いた。
 神は農業者なら実感できる譬えをアモスに示す。夏の果物を入れた籠を見せて、何かと問う。アモスは夏の果物だと即答する。神は、それは、夏の果物(カイツ)ではなく国の最後(ケーツ)だと駄洒落を飛ばす。(8:2) アモスは、見事に神の言葉をキャッチした。


画像と本文は関係ありません。



讃美歌(21)  348 神の息よ



アモス書5章12〜20節
お前たちの咎がどれほど多いか、その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り、町の門で貧しい者の訴えを退けている。それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ。善を求めよ、悪を求めるな、お前たちが生きることができるために。そうすれば、お前たちが言うように、万軍の神なる主は、お前たちと共にいてくださるだろう。悪を憎み、善を愛せよ、また、町の門で正義を貫け。あるいは、万軍の神なる主が、ヨセフの残りの者を、憐れんでくださることもあろう。それゆえ、万軍の神なる主はこう言われる。どの広場にも嘆きが起こり、どの通りにも泣き声があがる。悲しむために農夫が、嘆くために泣き男が呼ばれる。どのぶどう畑にも嘆きが起こる。わたしがお前たちの中を通るからだと、主は言われる。災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。人が獅子の前から逃れても熊に会い、家にたどりついても、壁に手で寄りかかると、その手を蛇にかまれるようなものだ。主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。


ヤコブの手紙1章21〜27節
だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。




2023年8月13日 聖霊降臨節12主日 

2023年8月13 日 聖霊降臨節第12主日 
大住世光教会・泉伝道所・京都教区センター教会・宇治教会
                            

説教題    『頼むわ(たのんま)』

聖 書    テサロニケの信徒への手紙一 1章 1〜10節 新約聖書(新共同訳)374ページ
エゼキエル書 12章 21〜23節       旧約聖書(新共同訳)1311ページ
       
讃美歌(21) 533 どんなときでも



「ボクの葬式は頼むよ」。「なにを言う。同い年でどっちが先か分からないじゃないか」。「頼むわ(たのんま)」。『たのんま』は、彼の口癖である。袴姿の娘さんと一緒であった。女子大の卒業式の帰りに立ち寄ったという。いよいよ最後の治療になるという。心残りは受洗と葬儀だという。約束させられた。「たのんま」。面会謝絶の病室に向かった。看護師詰所に妻がいた。妻には牧師同伴の入室が認められた。息も絶え絶えの嗄(かす)れ声があった。「たのんま」。

友人が自分のことを頼むといったのは、この時が最初で最後だった。友人は、『節度』を絵に描いたような人物であった。長い付き合いであるから、若気の至りの場面にも、友人はいたが、仲間が限度を超えることに注意を払っていた。行き過ぎを仲間に思い止まらせた。『たのんま』の一声である。英語でいうところのカモン(come on)の響きがあった。冗談なら止めておけ。そのニュアンスが、『たのんま』にあった。今どきの若者たちが好む脱力系である。人を傷つけない。

 『あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣(なら)う者、
  そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです』

小アジアからヨーロッパに向かうパウロの伝道旅行はピリピに始まり、次に立ち寄ったテサロニケでは、わずか二ヶ月あるいは四か月を超えない短い期間に、多くのギリシア人たちが信仰に導かれた。それを心良く思わない現地のユダヤ人たちからの陰険な策謀があった。当局の取り締まりへの口実を与えたのである。反社会の首謀者とされたパウロたちはテサロニケの町を脱出せざるを得なくなったったが、愛弟子のテモテからその後のテサロニケの信徒たちが迫害に耐え信仰を成長させていることを聞き及ぶ。この手紙は、最初に書かれたパウロの手紙とされている。まさに特筆に値する出来事の記録であったのである。

テサロニケの人たちは、グレコ・ローマン文化の象徴ともされる大衆のカタルシスに依存する社会構造の中に投げ込まれていた。迫害のターゲットとされたのである。その仕組みは、現代も同じである。大衆のカタルシス(スカッとする思い)とは、戦争報道が生々しく映し出されるテレビ画面(コロッセウム)を肴(さかな)に晩酌を楽しむ無邪気を意味する。

『たのんま』の声が聞こえる。   


友人の遺影に添えた十字架のオーナメント



讃美歌(21) 533 どんなときでも





テサロニケの信徒への手紙一 1章 1〜10節
パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。
彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。           


エゼキエル書 12章 21〜23節
また、主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、イスラエルの土地について伝えられている、『日々は長引くが、幻はすべて消えうせる』というこのことわざは、お前たちにとって一体何か。それゆえ、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。『わたしはこのことわざをやめさせる。彼らは再びイスラエルで、このことわざを用いることはない』と。かえって彼らにこう語りなさい。『その日は近く、幻はすべて実現する。』



2023年8月6 日 聖霊降臨節第11主日 平和聖日
                            

説教題    『ブーン、ブーン、ポンポンポン』

聖 書    ローマの信徒への手紙 12章9〜21節 
新約聖書(新共同訳) 117ページ
        出エジプト記 22章24〜28節    
 旧約聖書(新共同訳) 341ページ

讃美歌(1)  453 きけやあいのことばを



「葬儀どうしよう」。「教会では無理かな。自分で死んだんやから」。「それは冷たいんと違うか」。「村の人がどう思うかも考えんとな」。「あ、センセ、来やはった」。「センセ、大変でしたんやで」。開口一番、牧師は、教会員に詫びた。「申し訳ございません」。床に頭を擦りつけた。山道を一時間運転して駆け付けた。兼務している教会であった。悩める信徒への牧師としての対応が不十分であったと自分を責めたが、棺(ひつぎ)に目を注ぐことはなかった。

難病の苦しみに耐えかねて一人の信徒が自らの命を絶った。鴨居に帯。自らに刑を科すかのような死であった。家族や親族から憤りの声があがった。「ヤソや。ヤソがいかんのや」。折り畳むように長老の鶴の一声があった。「教会での葬儀は、ならん」。信徒たちは長老に睨(にら)みつけられた。牧師の耳元に囁(ささや)いた。「センセ、どないなりますんねんやろ」。

ブーン、ブーン、ポンポンポン。邪気を払うような、消魂(けたたま)しい、ツー・サイクルエンジンの音が緊張の場面を切り裂く。マフラーから吐き出される白煙の中からもう一人の牧師が現れた。「センセや。センセが来やはった!」。先に来た牧師とは正反対の山道をおんぼろバイクでやって来た。この牧師は兼務牧師の都合の悪い時に礼拝を担当していた。靴を玄関に投げ飛ばし、柩(ひつぎ)に直行した。乱暴に顔の白布を剥ぎ取り、大声で泣いた。「痛かったやろう。辛かったやろう」。長老が声を掛けようとした。「五月蝿(うるさい)い! 黙っとれ!」。突き飛ばすような剣幕が長老に向けられた。「痛かったやうろ。辛かったやろう」。青く滲(にじん)んだ喉元を摩(さすり)り続けた。泣き虫牧師は、大声で泣き続けた。誰か釣られるようにすすり泣いた。ひとり泣き、ふたり泣き、大魚に追われる鰯の群れのように泣き声がひと塊となった。狼狽(うろた)える兼務牧師の頭上に涙の宣言があった。「この人に、神の許しあり」。その声は、ブーン、ブーン、ポンポンポン。白煙と共に去っていった。

『あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい』。迫害下のキリスト者への教えを普遍的な教訓や座右の銘にしてはなりません。偽りの無い愛は、自分自身にも向けられている。主が、どれほど深く、あなたを(お前を)愛しておられるか。どれほど、涙を流してくださったことか。
何も分かっていなかった頃。27歳。(1977年)この頃『泣き虫牧師』に出会う。


讃美歌(1)  453 きけやあいのことばを



ローマの信徒への手紙12章9〜20節
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」


出エジプト記22章24〜28節
もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。
神をののしってはならない。あなたの民の中の代表者を呪ってはならない。あなたの豊かな収穫とぶどう酒の奉献を遅らせてはならない。あなたの初子をわたしにささげねばならない。



2023年7月30 日 聖霊降臨節第10主日
 


説教題    『田の水を抜く』

聖 書     ペトロ第一の手紙 3章13〜22節 
新約聖書(新共同訳)  432ページ 
         サムエル記上 19章1〜5節   
旧約聖書(新共同訳)  565ページ
       
讃美歌(1)  452 ただしくきよくあらまし



「いま、電話ええか」。「かまへんで」。キヨシは、大きな農家にひとりで暮らしている。田や畑、ハウスもある。「俺、なんであんな遠くの学校へいったんかのう」。父親と懇意であった。農業と養鶏をひとりで切り盛りしていた。妻は病弱であった。頑丈なヨメがいないことは農家の致命傷だった。舅姑もいた。針金のような体躯のひとであったが、全身は筋肉であった。その顔に不平不満を見たことがない。妻は祈りのひとであった。姑の小言に柔らかい言葉を返した。妻は静かに世を去った。喪も開けぬうちに再婚した。頑丈なヨメが来たが、すぐに出て行った。そのヨメとの間にできた息子からの電話であった。バスで片道三時間。遠くの学校へ行った。教え子である。スマホに憑(とり)りつかれ、日に何度も電話をして来る。話の内容はいつも同じである。数年前、病死した父親のこと、天候と田畑のことの無限ループである。

「お父さんはえらかったな。キヨシもちゃんとやってるか。今年の稲はどうや。近所のひとと上手いことやってるか」。人の話を聞かないおっちゃんとの会話が楽しいらしい。「いっぺんにいろんなこと言うたら混乱するわ。おっちゃん落ち着いて話しや」。30分は付きあう。「稲のことやけど、田の水、抜いたで」。この猛暑の中、田の水を抜いたら稲が枯れてしまうのではないかと思った。「おっちゃん、なんも知らんのやな」。

田は谷の水を水源としている。昼夜の気温差がある。旨い米ができる。田の水は刈り入れ近くまで何もしないと思っていたが、何度か水を抜いては満たしを繰り返すらしい。根に酸素を供給して根腐れを防いで成長を促したり、土中の有毒ガスを抜くことが目的である。その水の管理が夏の真っ盛りの中での作業となる。水を溜め過ぎず、湛水と落水を繰り返すと言うのだ。「そら、大変なやな。道理で旨い米が出来るちゅうことか。それ、お父さんがやってたみたいにキヨシもできるんか」。「できるってよ」。「要するに、稲に鞭(むち)を入れるちゅうことやな」。「ま、ま、そういうこやな」。

田畑や鶏小屋で作業する父親の姿が思い浮かんだ。キヨシはひとりで健気に生きている。ペトロの教え子たちも迫害の時代を健気に生きた。信徒たちは、炎天下に水を抜かれた田の稲さながらであった。成長が促され、有毒な教えからも遠ざけられた。『もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう』。口述筆記させたペトロの手紙はあまりに洗練されていて本人が書いたものでないとされるが、田の水の管理が学術書に仕立てられたとしても、額に汗する人への敬意は変わらない。 


                     
蝉の脱皮(7月22日)


讃美歌(1)  452 ただしくきよくあらまし


  
(1) ただしく清くあらまし なすべき務めあれば おおしくつよくあらまし 
   負うべき重荷あれば  負うべき重荷あれば
(2)まことの友とならまし 友なきひとの友と あたえてこころにとめぬ
   まことの愛のひとと まことの愛のひとと
(3)またきにむかいて進まん みちにて気をゆるめず うえなきめあてをのぞみ
   笑みつつたえずすすまん 笑みつつたえずすすまん


ペトロ第一の手紙 3章13〜22節
もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。


列王記上19章1〜5節
アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。




2023年7月23 日 聖霊降臨節第9主日 

                            

説教題    『聖戦の思ひ出』

聖 書     ヨシュア記 2章1〜11節    旧約聖書(新共同訳)  341ページ
         ルカによる福音書 8章1〜3節  新約聖書(新共同訳)  117ページ
       
讃美歌(21)  517 神の民よ




「なんか背中が痒いんやけど」。「蚤(のみ)の市はやめときって何度も言うてるでしょう」。「あそこで蚤に噛まれたんやろか」。蚤の市とは、某寺院の骨董市のことである。ちなみに蚤の市をフリーマーケットと呼ぶが、蚤(flea)の集(たか)った古物にその名の由来がある。アルバムを見つけた。『聖戦の思ひ出』と表紙にある。銃剣を佩びた作業服のような軍服姿、機関銃、従軍看護婦たちの笑顔、『外地』の名勝地などなど。伴淳三郎、花菱アチヤコの映画、『二等兵物語』のスチール写真に同じものが几帳面に貼り付けられている。一枚、裏返しの写真があった。『武勇』の一枚である。勝ってくるぞと勇ましく。散々敵を懲らしたる。人の尊厳を切り刻む一枚であった。アルバムの持ち主は、なぜか、この一枚を捨て切れなかった。

苦節四十年、砂漠をさまよう聖書の民が約束の地に辿り着く。『乳と蜜の流れる地』、地上の楽園が目前に迫った。神は、楽園の先住民を滅ぼし尽くせと命じる。『強く、雄々しくあれ(1:7)』。戦国時代の撫(な)で斬りさながらである。サメ漁師の一瞬のためらいは命取り。無慈悲な殺戮が繰り広げられた。総指揮官は、モーセのカバン持ちであったヨシュアである。その名をギリシア語で読めば、イエスとなる。実に、悩ましい。

第一攻撃目標は堅固な砦の町、エリコの城塞であった。ふたりの斥候が遊興の里に身を潜める。その居場所はすぐにも当局に知れてしまったが、イエスの先祖にもつながる一人の花魁(おいらん)ラハブの機転によって難を逃れた。危機一髪のところであったが重要な情報を得た。『あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことをわたしたちは聞いています(2:10)』。敵の士気は低下し戦意を喪失しているらしい。敵は総崩れとなった。

聖書の民が残虐の限りを尽くした。これはまずい。なんとか工夫しなければならない。先住民を信仰者の心の奥に潜む罪になぞらえた。「あなたの心に巣食うアマレク人を完膚無きまでに打ちのめさねばなりません!」。

聖なる行為として異なる文化を根絶やしにする。言い訳が難しい。辛うじて、あるとするならば、大航海時代の国家公認の海賊行為に異なり、命は奪っても所有物には手を付けなかったことであろうか。金銀も『汚れたもの』として封印されたのである。裏返しにしたい出来事の一枚ではあるが共栄圏の欺瞞(ぎまん)は、せめても、無かったと信じたい。
         

性懲りもなく骨董市に足が向かう                      


讃美歌(21)  517 神の民よ
   



ヨシュア記2章1〜11節
ヌンの子ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、「行って、エリコとその周辺を探れ」と命じた。二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった。ところが、エリコの王に、「今夜、イスラエルの何者かがこの辺りを探るために忍び込んで来ました」と告げる者があったので、王は人を遣わしてラハブに命じた。「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡せ。彼らはこの辺りを探りに来たのだ。」女は、急いで二人をかくまい、こう答えた。「確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、わたしはその人たちがどこから来たのか知りませんでした。日が暮れて城門が閉まるころ、その人たちは出て行きましたが、どこへ行ったのか分かりません。急いで追いかけたら、あるいは追いつけるかもしれません。」彼女は二人を屋上に連れて行き、そこに積んであった亜麻の束の中に隠していたが、追っ手は二人を求めてヨルダン川に通じる道を渡し場まで行った。城門は、追っ手が出て行くとすぐに閉じられた。二人がまだ寝てしまわないうちに、ラハブは屋上に上って来て、言った。「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています。あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いていますそれを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」。


ルカによる福音書8章1〜3節
すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。




2023年7月16 日 聖霊降臨節第8主日 
                            
説教題    『あんたは、タマヨか』

聖 書     ルカによる福音書 7章36〜48節 新約聖書(新共同訳)   117ページ
         サムエル記上 24章16〜18節   旧約聖書(新共同訳)  469ページ

讃美歌(21)  348 神の息よ



「そんな酷(ひどい)ことを、貫一さん、あんまりだわ、あんまりだわ」。彼(お宮)は正体もなく泣頽(なきくず)れつつ、寄らんとするを貫一は突退(つきの)けて、「操(みさお)を破れば奸婦(かんぷ)じゃあるまいか」。「いつ私が操を破って?」。



「熱海の海岸(かいがぁ〜ん)散歩する〜。貫一お宮のふたぁ〜り連れ。あー、ギーヤ、ギーヤ」。「なんや、そのギーヤ、ギーヤちゅうのは」。「バイオリンやないか。これに活弁が付くんや。キンイロヨルマタ。君、知らんの?」。「キンイロヨルマタ?それも言うなら尾崎もみじのコンジキヤシャ(金色夜叉)やろ」「尾崎もみじ、君こそ笑わしよるな。それも言うなら尾崎コーヨー(紅葉)や」。「そりゃ、しっつれい致しました」。

金満家がちらつかせたダイヤモンドに目が眩んだお宮が許婚(いいなずけ)の貫一を裏切ってしまう。学生帽にマント姿の貫一が、熱海の海岸でお宮を罵(ののし)り、高下駄で蹴り飛ばす。愛か金か。ストーリーは、分かりやすい。お宮に裏切られた貫一は、屈折のあまり高利貸しとなる。キンイロヨルマタ、金色夜叉、夜叉とは悪鬼、オニである。その貫一が、金に困って心中を図る男女に出会い、良心を取り戻す。読者サービスが過ぎるほどに面白い。
戦時下の伊予の片田舎に、仲の良いふたりの女学生がいた。町内の演芸会が近づいていた。背の高い母が貫一を演じる。借り物の訪問着に厚化粧のお宮が、島田珠代(タマヨ)よろしく、高下駄の制裁場面を大袈裟に演じ観客の喝采を浴びる。

高価な香油の壺が、パリサイ人たちの目には、操と引き換えのダイヤモンドに写った。ルカ福音書は、パリサイ人を貫一に、お宮を『罪の女』としているが、他の福音書では、貫一は弟子たちに、お宮はマリア(マグダラの)となっている。

『この人(女)が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる』。
貫一の洋行の費用を捻出せんがために、お宮は、操を差し出した。その行為は、罪の女が、イエスに示した『一度の大きな愛』に似ている。『金色夜叉』は未完のままの小説であるに同じく、イエスの言葉は、読み手の想像を終わらせない。愛と金の問題は、われわれに、余りに身近であり、誤魔化せないからである。


伊予の片田舎の素人芝居。貫一を演じるのは母である。
戦争が終わろうとしていた。高下駄が笑いを誘う。



讃美歌(21)  348 神の息よ




ルカによる福音書 7章36〜48節 
さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。


サムエル記上 24章16〜18節  
主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださいますように。」ダビデがサウルに対するこれらの言葉を言い終えると、サウルは言った。「わが子ダビデよ、これはお前の声か。」サウルは声をあげて泣き、ダビデに言った。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。




2023年7月9日 聖霊降臨節第7主日 
                           
説教題    『ドタバタ喜劇』

聖 書     使徒言行録20章1〜12節  新約聖書(新共同訳)   253ページ
         エレミヤ書38章5〜6節   旧約聖書(新共同訳)  1249ページ

讃美歌(21)  348 神の息よ


「センセ、みなさん田圃や畑で疲れてますねん。何ページお開きくださいちゅうのだけは勘弁してください」。「礼拝中は、寝ないで頂きたいのです」。「そら無茶やわ」。牧師は遠くの町から夜の礼拝にやってくる。講義のような説教が始まる。牧師は、新約聖書と旧約聖書のページを交互に忙(せわ)しく捲(めく)り、信徒にもそれを求める。「前のセンセは良かったな。そろそろ終わるちゅう頃に目ぇ覚めたもんな」。

パウロの話しが長々と深夜に及んだ時、ひとりの青年が睡魔に襲われ、腰を掛けていた三階の窓から落下して死んでしまった。その死は、パウロの同行者、ドクター・ルカによって確認されたが、パウロが、即座に、その青年を生き返らせ、居合わせた人たちに大きな喜びと慰めを与えた。



これは、いったい、どういうことだろうか。

使徒言行録は、前の聖書のタイトルでは『使徒行伝』となっている。英語表記のほうは、Acts of the Apostles(使徒たちの諸活動)である。先頭部分のActsをその表記としている。アクトの意味は活動であるので、『行伝』という訳には、読者をひきつける力があった。さて、アクト(Act)を、なになにする人、ティーチ(教える)をティーチャー(教える人、教師)のようにアクターと変化させると、『活動する人』ではなく、アクター(Actor)は、『役者』の意味になる。想像を巧みにすると、お叱りがあるかも知れないが、使徒言行録、使徒行伝は、売れっ子作家の演劇台本に然も似たりと言えるかも知れない。

『この騒動が収まった後、』。いつもの状況があった。ユダヤ的伝統をイエスの福音に被せて信徒を支配する敵対者の動きである。ドタバタの影響を受けてパウロは息のかかった弟子たちと行動を別にする羽目になった。所帯は大きいが経済的困窮にあるエルサレム教会へ援助の献金を届けなければならない。最優先である。東に向かわねばならない。いっぽう世界宣教のゴールは地の果て、西の方向である。赤子のような信徒がパウロの到着を一日千秋の思いで待っている。身は一つ、思いは二つ。階上の部屋を舞台に、旅の計画とその困難が語られる。同じ内容が、まとまりなく、何度も繰り返されたことであろう。それは、一日の働きを終えたひとり青年には過酷であった。窓から転落し地面に叩きつけられた。眠気を堪(こら)えていた大勢の人の目も覚めたことだろう。

パウロの『しまった!』があった。台本は無視された。『騒ぐな。まだ生きている』。医師ワトソンと名探偵シャーロックホームズの阿吽の遣り取りが即興で差し込まれた。役者やのう。エウティコ(ユテコ)もパウロも。ワトソン君も。


讃美歌(21)  348 神の息よ





使徒言行録20章 1〜12節
この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、そこで三か月を過ごした。パウロは、シリア州に向かって船出しようとしていたとき、彼に対するユダヤ人の陰謀があったので、マケドニア州を通って帰ることにした。同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった。この人たちは、先に出発してトロアスでわたしたちを待っていたが、わたしたちは、除酵祭の後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼らと落ち合い、七日間そこに滞在した。週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」
そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。



エレミヤ書38章5〜6節
ゼデキヤ王は答えた。「あの男のことはお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。」そこで、役人たちはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの水溜めへ綱でつり降ろした。水溜めには水がなく泥がたまっていたので、エレミヤは泥の中に沈んだ。




2023年7月2日 聖霊降臨節第6主日 
                            

説教題     『カモナ・マイハウス』

聖 書     使徒言行録11章1〜14節    新約聖書(新共同訳)  235ページ
         レビ記11章1〜3節        旧約聖書(新共同訳)  177ページ

讃美歌(21) 459 飼い主わが主よ



「あんたの教会の長老さん、昨日の晩、祇園で見かけたで。ご機嫌な顔したはったわ」。「あの方は、禁酒禁煙でっせ。見間違いちゃいますか。そういうあんたは」。「ワシは、天下御免や。行きつけのバーで飲んどっただけや」。「あの人は、そんな所うろうろする方やおまへん」。「ええやないか。かまへんやないか」。「あんたと同じやない。他所で言い触らさんといてや」。「分かってる。分かってる」。

酒乱の夫の暴力に耐えかねて教会の門を叩いた婦人がいた。酒の付き合いを強要されることを嫌って信徒になった会社員がいた。酒席の苦手な公務員がいた。酒を嗜む人は少なくとも表向きには一人もいなかった。灰皿のある教会も無かった。しかし、言わずもがなの無理があった。ある長老は、禁煙に苦しみゴミ箱の吸い殻を漁ったと言う。牧師の訪問に晩酌の膳を大慌てに片付けた例もあった。千鳥足で歩く飲み屋街を互いに知らぬふりをしてすれ違った教会員同士のニアミスなども封印された。クリスチャンは立派でなければならなかった。

『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした』。ペトロは取引先の社員とラウンジからほろ酔い気分で出てきたところを目撃された。「それじゃ、よろしゅう頼んまっせ」。「こっちこそ、今後ともよろしゅうお願いしますわ」。肩を叩き合い握手までしているところをフォーカスされた。ペトロは独断で、異邦人にユダヤ的伝統を強要しないとの取引を交わした。『なにかええもの』になりかけていた初期キリスト教には受け入れがたい先走りであった。ユダヤ的伝統を継承する指導集団の反発があった。日米通商条約を結んだ井伊直弼と攘夷派の対立構造を思わせる。

ユダヤ的伝統をひとことで言うならば、それは、生活規範の露骨な固持である。ユダヤの家に生まれた者は、割礼を受ける。食べてはならないと決められているものを食べない。これを引きずってイエスの福音に生きることは、矛盾する。ペトロは、忘我の状況で見た幻を語る。汚れたものを食べてはならないとするならば、イエスは自分を食べて(受け入れて)くれなかったであろう。パウロも言う。『我、罪人の頭なり』。

付き合い程度の酒席ぐらいなら。勧められる煙草の一本ぐらいなら。その寛容に至った時には、酒は家飲み。個人の嗜み。タバコは社会から抹殺されていた。福音の時は、遅きに失した。言い過ぎだろうか。教会は、本気で人を招いているだろうか。うちへおいでよ。カモナ・マイハウス。昔のラジオから流れていた江利チエミの歌声が何故か耳に残る。




                  
讃美歌(21) 459 飼い主わが主よ


    
(2)良き友となりて 常にみちびき まよわば尋ねて つれ帰りませ
   我らの祈りを 受け入れたまえ 我らは主のもの ただ主に頼る 
(3)赦しのみちかい 救いのめぐみ きよむる力は ただ主にぞある
   我らをあがない 生命をたまう 我らは主のもの 主に在りて生く
(4)主よ いつくしみを 我らに満たし 今よりみむねを なさしめたまえ
   我らをあわれむ み恵みふかし 我らは主のもの ただ主を愛す


使徒言行録11章1〜10節
さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。


レビ記11章1〜3節
主はモーセとアロンにこう仰せになった。イスラエルの民に告げてこう言いなさい。地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。





2023年6月25日 聖霊降臨節第5主日 


説教題    『たまたま、水たまり』

聖 書    使徒言行録 8章26〜38節    新約聖書(新共同訳)   228ページ
        エゼキエル書 34章30節      旧約聖書(新共同訳)  1352ページ

讃美歌(21) 425 こすずめもくじらも



「馬車を引く馬の蹄鉄から火花が散るんや。石畳やからな」。満州国建国を我が目で見てやろうと十八歳の青年が理髪師の七つ道具をトランクに詰めて海を渡った。早い話が家出である。「ある時、どこかで見た人の顔に剃刀あてとったんや。ピーンと来た。甘粕さんでしょうと訊(き)いたんや。頷(うなず)きよってな」。サロンの理髪師には歴史上の人物に遭遇する機会がある。お洒落で優雅な異国の生活が一変した。現地招集による関東軍へ入隊であった。「白の背広に蝶ネクタイで行ったんや。衛兵が私服の憲兵と勘違いして敬礼しよった。後で、背広がボロボロになるまで匍匐前進(ほふくぜんしん)の制裁や」。凍てつく石畳を火花を散らして馬車が夜のハルピンの街を駆ける。シャーロックホームズの辻馬車しかり、自分が乗った馬車が闇に消えていくのを窓から見たというゲーテの疾風怒濤(しっぷうどとう)時代のシルエットである。父は、石畳に響く固い蹄(ひづめ)の音を聞くたびに思った。馬車には誰が乗っているのだろうと。

馬車や輿(こし)の御簾(みす)が貴と賤を分ける。覗き見てはいけない。想像もしてはならない。知らない人ではなく、知ってはいけない人が乗っている。その人が、何らかの興味を持つ光景が目に入った時にのみ従者に声がかかる。「籠を止めよ」。草履が揃えられ殿が姿を現す。
ピリポは、仲間たちと別の道を行くことを天使に命じられた。その道は、宣教活動の主流につながる道ではなかった。『そこは寂しい道である』。レギュラーを外された補欠選手であった。石ころの一つも蹴り飛ばしながら街道を歩いているピリポの前に豪勢な拵(こしらえ)の大名行列が現れた。馬車を中央に挟んだキャラバン隊であった。聖霊がピリポに命じる。『追いかけて、あの馬車と一緒に行け』。補欠選手に声が掛かった。

馬車にはエチオピアの高官が乗っていた。女王カンダケの宦官(かんがん)がイザヤ書を声に出して読んでいた。宦官はイザヤ書の解き明かしをピリポに求める。苦難の僕(しもべ)とは誰か。王であるべき者が人々の苦しみを一身に受け救いへと導く。その人こそイエスであると。耳にしたことがない話であった。人を押し退け、功を積み上げて高位高官の地位を得たであろう宦官は、腰手拭いの下積み時代を思い出していた。しもべの心を久しく忘れていたことを。

そこに、たまたま、水たまりがあった。『ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか』。乾季には消えてなくなる川が残した僅かな水たまりである。宦官は、文字通りイレギュラーな洗礼を補欠選手から授けられた。
讃美歌(21) 425 こすずめもくじらも



(1)こすずめも くじらも そらのほしも つくられたかたを たたえてうたう
(2)おおじしんも あらしも いなびかりも つくられたかたに たすけもとめる
(3)なないろにかがやく にじと十字架 そらのはかをみて かんしゃささげよう
(4)うえ かわき やまいと ろうひのよに つくられたものは いやしもとめる
(5)りんじんとてきとの へだてはなく かみはあいとへいわ おあたえになる


使徒言行録 8章26〜38節 
さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。


エゼキエル書 34章30節
そのとき、彼らはわたしが彼らと共にいる主なる神であり、彼らはわが民イスラエルの家であることを知るようになる、と主なる神は言われる。        




2023年6月18日 聖霊降臨節第4主日 
                            

説教題   『ミニスカート (my favorite fashion) 』

聖 書    ルカによる福音書 8章41〜53節  新約聖書(新共同訳)   120ページ
        イザヤ書 63章14節        旧約聖書(新共同訳)  1165ページ

讃美歌(21) 342 神の霊よ、今くだり (1,4)



「なんであんなもん、穿(は)いたんでしょうねぇ」。「あんたも、そんなもん穿いとったんかいな」。「なに言うてんのん。スタイル抜群やったんよ」。「後ろからやろ」。「それ、バックシャンとかちゅうたな」。病院通いと老いの話題に突破口が開かれた。「ハンドバックでお尻隠して天王寺駅の階段を昇ったものよ」。「そういえば、ほんま、みんな短いスカート穿いとったわ」。「要するに、ピチピチしとったんや」。「オー!モウレツ!とかちゅうて」。「ワシも股引(ももひき)みたいなジーパン穿いとったんやで」。「それは、ないやろ。あんたは、昔から、ずんぐりむっくりや」。

どこかが悪い。どこかが痛い。年寄りの挨拶、仁義である。健康に何の問題もない。検査で何かを指摘されたことがない。それでは、仲間に入れてもらえない。「あんたはんも若い頃、短いスカート穿いてブイブイ言わせとったんでっしゃろな」。股関節の手術を繰り返すマスク美人に、遊び人のジジイが自治会館ふれあいクラブを怪しげな喫茶店と勘違いする。このジジイは糖尿病に苦しんでいる。

忙しいイエスには、個別対応が複雑に交差する。瀕死の会堂司の娘のベッドに駆け付ける途中であった。娘は十二歳である。娘は、十三参りを済ませたか済ませないかの年頃に死の宣告を受けたのである。イエスさまに拝んでいただく他に助かる術(すべ)はない。父親は相応のお包みを用意したであろう。ヨメに尻を叩かれてイエスを探しに行ったのであろう。

割り込みがあった。帰宅ラッシュ時の京橋駅のような。『長血の女』の割り込みである。姫様の治療に向かう御殿医の籠を長血の女が止めたのである。『女』を『女性』とする阿(おもね)った訳もある。そうではない。ここは、蔑んだ呼称、『オンナ』が適訳である。会堂司ヤイロのお嬢様と対比させなければ、文脈を腐った鰯にしてしまう。だからこそ、このオンナを、『マイ・ディア(いとしい娘よ)とイエスは呼んだのである。

遠い昔、牧師のカバン持ちをしていた神学生時代、ひとりの『オンナ』に出会った。痛々しい身体があった。イエスの衣の房(房は神の言葉のシンボル)に触れた女性だった。彼女も、ミニスカートの時代の女性であった。ミニスカートは、『露骨な健康』をシンボライズしている。会堂司の愛娘(まなむすめ)も、イエスの衣に触れてあわや無礼打ちの長血の女も、どれほどミニスカートを穿いてみたいと思っていただろう。
『娘よ、あなたの信仰があなたを救った』。根拠を示せと言うのか。偉そうなことを言うのではない。



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讃美歌(21) 342 神の霊よ、今くだり(1,4)


   

(4)主の深き 愛をもて わが心 燃え立たせ 魂も身も献げ 愛に生かしめたまえ 



ルカによる福音書8章41〜53節
そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。


イザヤ書 63章14節
谷間に下りて行く家畜のように、主の霊は彼らを憩わせられた。こうして、あなたはご自分の民を導き、誉れある名声を得られた。





2023年6月11日 聖霊降臨節第3主日 こどもの日(花の日)


                            
説教題   『キャンパス・キッズ』

聖 書    使徒言行録 2章37〜47節   
新約聖書(新共同訳)  216ページ 
        列王記下  2章 23〜24節   
旧約聖書(新共同訳)  579ページ 

讃美歌(21) 197 ああ主のひとみ



「こっちや、こっち。こっちに持ってきてプレートの上に乗せるんや。学生さんたち」。年上の大学生や大学院生を顎で使う。フォークリフトのレバーを肩肘で操作しながら偉そうな口を利く。アルバイトの学生たちは蟻のように動く。大学生たちは大学紛争のバリケードから出稼ぎに来ていた。腹が減っては戦は出来ない。食べ物を巣に持ち帰らねばならない。「お兄ちゃんたちはええな。親に大学やってもろうて。アルバイトで小遣い稼いで」。煙草を吹かしながらアルバイト学生たちを弄(いじ)る。

『信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った』。それがいつまで続いたかは不明であるが、よちよち歩きの教会に持ち物を共有する理想があった。聖霊降臨、ペンテコステの出来事は、キリスト教史における青春であった。1970年代前後の若者ファッションに似た世界があった。聖霊降臨、ペンテコステの出来事は、意気消沈していた弟子たちに再び大きな活力を与えた。自他共に認めるところの無学の人がギリシアの哲人も顔負けの演説の人、プロパガンダの人となる。『ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし』。時代を厳しく糾弾すると同時に、その原因は個々の心にあると指摘する。世の中が悪いと言って一揆に誘うのではなく、あなたはどうなのかと問いかける。『邪悪なこの時代から救われなさい』。その日、三千人の入信者があった。三千人が持ち物を共有したのである。鉛筆ナメナメが微笑ましいが、眉唾と言ってはならない。。

大学紛争の時代、バリケードの中にバリケードを作った学生たちがいた。大学で学べないことを学びたい。たまたま来日していたアメリカ伝承民謡の歌手と繋ぎが取れた。門付け芸人が持つようなチューニングの緩いバンジョーを伴奏に、しわがれた声が重なった。学生たちは、ペトロの説教を聞いた人々のような陶酔を味わった。アパラチアの山々に隠れ住むように暮らした貧しい人々の生活の唄に自分たちの未熟を知った。少し英語の出来る学生が通訳となって質疑応答となった。民謡を歌った歌手はかなりの年であった。欧米人は老けて見えるので学生たちには聖画にある『神』に見えた。そのレスペクトが『神』の心を和ませた。学生たちを、親しみを込めて『我が子らよ』、『キャンパス・キッズ』と呼んだ。

こどもの日(花の日)の礼拝である。バリケードの出稼ぎ隊の学生たちも、ペンテコステに聖霊の力を得た使徒、信徒たちも、青臭い、こども、キッズであった。束の間の持ち物共有思想そのものが『宗教』にならなかったことは幸いである。大人の反面に学ぶキッヅであり続けたい。           


ショベルローダーにも乗りました。                            


讃美歌(21) 197 ああ主のひとみ






使徒言行録 2章37〜47節 
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。


列王記下2章 23〜24節
エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上って行くと、町から小さい子供たちが出て来て彼を嘲り、「はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け」と言った。エリシャが振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた。
(この個所が、なぜ、説教に結びつくか、お考えください)



2023年6月4日 聖霊降臨節第2主日
                            

説教題   『ホームサイン』

聖 書   使徒言行録 2章1〜11節   
新約聖書(新共同訳)  214ページ 
       サムエル記上16章12〜14節 
旧約聖書(新共同訳)  454ページ 

讃美歌(1) 499 みたまよくだりて


「ネオダインを練り始めてください」。助手に指示が出る。ぼそぼそとした声は聞き取りにくいが、助手は言われる前から何かを始めている。ネオダインとは、耳を劈(つんざ)く高周波音も悍(おぞ)ましく、延髄を突き刺すようなドリルで空けた歯の穴を一時的に塞ぐセメントのようなものだろう。ネオは新しい、ダインは、多分、接着剤の事であろう。痛い目にあわされ、今日で治療は終わりのはずが当てが外れた。「ネオダインを練り始めてください」。それは、明日も来いのサインである。「痛かったら言ってください」。こちらのサインは、全て無視された。

見えない、聞こえない。言葉を発することが出来ない。ヘレン・ケラーを知らない人はいない。二歳を前にして猩紅熱(しょうこうねつ)のために幼い魂は漆黒の世界の孤児となった。両親は、意思疎通に癇癪(かんしゃく)を起こす野獣のような娘の行動を不憫に思い、なすがままにさせた。ヘレンは、孤立した聴覚障害者の常であるが、身近な人に欲求を訴える身振り手振、『ホームサイン』だけを自分の言語とした。限定された生活空間の中で、只管(ひたすら)ネオダインを練らせ、周囲が発する痛みのサインを無視した。そのようなヘレンが言葉を獲得する。サリバン女史の捨て身の指導が『水(ウオーター)』の意味を知らしめた。劇的なシーンは戯曲や映画にもなった。
 

ヘレン・ケラーの署名
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%BC#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Helen_keller_signature.svg

悩ましい例がある。「センセ、ギリシア語とかドイツ語とか言わんでください。ワシらは、授業みたいな説教やのうて、分かりやすい話をして欲しいんです。ワシらは難しいことは分かりまへんけど、信仰はおますねん」。説教者は孤立する。しかし、その信仰とは、往々にして、聖書の適当な数行をお守り袋に入れ、信仰歴と称する椀子(わんこ)の数で教会員を人間的に支配する横着を意味している。ホームサインで聖書を読んでいるに過ぎない。『ウオーター』の意味に辿り着いていない。

弟子たちは、五旬祭を迎え、収穫されたばかりの美味しい小麦のパンを食べながら元の生活を思い浮かべていた。十日前、天に上るイエスはネオダインを練り、明日があると言ったが、弟子たちはクリニックの予約に迷った。『皆が同じ場所に集まっていると』。迷える者たちが集まると陸(ろく)な考えに至らない。ホームサインが弟子たちを広がりの無い世界に閉じ込めた。

『突然、激しい風が吹いて』。
あのドリルの音が聞こえた。ガリラヤの言葉が、世界の言葉に同時通訳される。修辞学アプリも最新のものに更新された。ウオーターは世界の人の言葉となった。サリバン女史が距離を置いたヘレンの優生学と神秘主義への傾倒(苦い胆汁)は残しつつ。



讃美歌(1) 499 みたまよくだりて


                  

(1) 御霊よ降りて 昔のごとく 奇くすしき御業を 現あらわし給え

(繰り返し) 代々にいます 御霊の神よ 今しもこの身に 満ちさせ給え

(2)御霊よ降りて 恵みの雨に 渇かわける心を 潤うるおし給え
(3)御霊よ降りて 汚れをきよめ 尊とうとき救いに 入らしめ給え
(4)御霊よ降りて か弱きわれを きよけき力に 富ましめ給え


使徒言行録 2章1〜13節  
五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国出身の信仰のあつい人々が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、誰もが、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられた。人々は驚き怪しんで言った。「見ろ、話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして、それぞれが生まれ故郷の言葉を聞くのだろうか。私たちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、リビアのキレネ側の地方に住む者もいる。また、滞在中のローマ人、ユダヤ人や改宗者、クレタ人やアラビア人もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、戸惑い、「一体、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者もいた。


サムエル記上16章12〜14節
エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。




2023年5月28日 聖霊降臨節第1主日 ペンテコステ
                            

説教題   『ウサの言葉』

聖 書   創世記 11章1〜9節       旧約聖書(新共同訳) 13ページ 
        ルカによる福音書11章9〜13節  新約聖書(新共同訳) 127ページ 
        使徒言行録 2章7節       新約聖書(新共同訳) 215ページ 

こどもさんびか(旧)  77 せかいのこどもは (こども=初期キリスト者の暗喩) 


「君を入れてあと10人集めなあかんねん」。「12人でなにするのや」。「ええアルバイトあるんや。大学も封鎖やし。隔日勤務やけど、十か月間ぐらいかな、ようけ貰えるんや」。開幕前の万博会場に12人が集合した。東京から来た広告代理店の責任者から仕事の説明を受けた。クレージーキャッツの石橋エータローに良く似ている。芸人が着るようなブレザーが気になった。「ウサだよ。ウサ。メードインUSA(ユー・エス・エー)サ」。あか抜けている。身近にいない大人を見た。

岡本太郎の『太陽の塔』近くの『虹の塔』なる二番煎じな展示館が仕事場であった。ウサが企画したのである。日本的情緒漂う華やかなショーの裏方が現場であった。七色に彩られた塔の壁面裏の真っ暗な階段を何往復も駆け回り、指示書と懐中電灯を片手に単調な作業を繰り返すのである。「疲れるのサ」。「何いっちゃってるのサ」。「それはあかんのサ」。12人は、ウサの東京弁を小馬鹿にしたような掛け合いを励みに過酷なインターバルの作業に耐えた。「こんなに貰っちゃたのサ」。片手に近い現金が支払われた。「宵越しのゼニは持たないのサ」。アルバイト料を何に使ったかの記憶もなく、無為な青春の思い出だけが残った。

バベルの塔を象徴とする古代オリエントに花咲いた摩天楼の国も、ウサの言葉に翻弄(ほんろう)されて自滅した12人のアルバイト学生に変わらない運命を辿(たど)った。その国は、世界が一つの言語で成り立っていた利便を曲げてしまったのである。言葉が通じるということは、インターネットがもたらす相乗作用に似ている。互いの知を瞬時に共有するのである。『良いもの』を作り出すことができる。錯覚であるが。天にも届く塔の建設が始まった。自然素材は加工されねばならない。『石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルト』。標準語の号令に作業員たちが機敏に動く。工程は余裕の納期となる。時に事故がある。作業員が足場を踏み外して転落しても誰も気に掛けないが、貴重なレンガが職人の手を滑らせて落下すると、現場にどよめきが起こる。

愛の神は、人の驕り高ぶりを嫌った。与えたものなら取り去ろう。神は、人から共通の言葉を取り上げた。町の建設は中断された。世界は混乱(バラル)に陥る。バラルがバビロニアの判じ物と誰もが気付く。
『めいめいが生まれた故郷の言葉を聞く』。イエスの執り成しが神の心に届くペンテコステ(聖霊降臨)の日までその混乱は続いた。


 1970大阪万博 虹の塔 

                                            
こどもさんびか(旧)  77 せかいのこどもは (こども=初期キリスト者の暗喩) 


   


創世記11章1〜9節
世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。


ルカによる福音書11章9〜13節
そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

使徒言行録 2章7節
人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。




2023年5月21日 復活節第7主日
                            

説教題   『今日を限りに(make my day)』

聖 書   マタイによる福音書28章16〜20節  
新約聖書(新共同訳)  60ページ 
       マルコによる福音書16章14〜20節  
新約聖書(新共同訳)  98ページ 

讃美歌(21) 336 主の昇天こそ(1,2)  Auf Christi Himmelfahrt allein



「このクズ野郎、やってみろ。俺の日にさせてくれ(make my day)」。強盗に向かって特製の大型拳銃が炸裂する。強盗が吹っ飛ばされる。少しでも的を外せば人質も死ぬ。一刻の猶予もならない。荒業が観客のカタルシス(スカッとする感情)を誘う。ダーティー・ハリーの異名を持つはみだし刑事が上司の命令を鼻で笑う。『俺の日』は直訳過ぎるが、特別な一日、自分が主役の日という意味である。映画の字幕では『楽しませてくれ』となっていた。人質に銃やナイフを突きつけて要求を通そうとする犯人を無茶な手段で瞬時に制圧するのである。ダーティー・ハリーの『ダーティー』は『汚れた』、すなわち、犯罪者が言うところの『汚いサツの野郎』となる。




『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう(使徒言行録1章11節)』。復活のイエスは、四十日間、弟子たちと過ごした後、天に上って行った。あるいは、ルカによる福音書では、イエスは復活して間もなく天に上げられたとある。いずれにせよ、ロスアンゼルス・オリンピックのロケットマンさながらに、空中を浮遊し、イエスは、天の彼方へと上昇して行った。それは、弟子たちの目の前で起こった『実際』であった。

復活のイエスは弟子たちの前に現れ、弟子たちの目の前で天に上った。それを一日のように感じた者もいれば、それを四十日と感じた者もいた。あるいは、昇天の場をエルサレムだったと記憶する者と遠く離れた故郷ガリラヤであったと記憶する者もいた。聖書の記述はイエスの昇天のプロセスを故意に分かり難くしている。人質を盾に逃走車を要求する強盗犯のように、弟子たちは、元の生活という逃走車をイエスに求めたが、イエスは腰抜け二丁拳銃(往年の西部劇コメディー)ではなかった。ダーティー・ハリーよろしく強力なマグナム弾を弟子たちに喰らわしたのである。お前たちの『日』ではない、わたしの『日』である。メイク・マイ・デーの決め台詞を吐いて引き金を引いた。地の果てまで福音を宣べ伝える者となれ。わたしは、天に上り、神の右に座す。ビジュアルのわたしを望むな。あと、十日もすれば、聖霊がお前たちに下る。

バッハのコラールのタイトルにあるドイツ語の『Himmelfahrt』とは、『天国へのドライブ』のことである。もはや子ロバなどではなく、イエスは、スーパーカーのハンドルを自ら握って天に駆けて行く。

(注:タクシーに乗せられるようにして天に上げられた無原罪のマリアをカトリック教会は被昇天聖母様と呼ぶ)



讃美歌(21) 336 主の昇天こそ(1,2)  Auf Christi Himmelfahrt allein


  


マタイによる福音書28章16〜20節
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


マルコによる福音書16章 14〜20節
その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。
(結び2)
婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。




2023年5月14日 復活節第6主日
                            
説教題   『蒟蒻芋(こんにゃくいも)』

聖 書   ダニエル書 6章10〜20節     
 旧約聖書(新共同訳)  1390ページ 
       テサロニケの信徒への手紙二 3章1〜3節  
新約聖書(新共同訳)  382ページ 

讃美歌(21) 452 神は私を救い出された


「君のような貴公子に、務まるかと心配したのだけれど」。「あの教会の役員たちは、蒟蒻芋(こんにゃくいも)みたいな連中で、とても君の手に負えはないと思っていたのだけれど」。「ボクのぱっと見が却(かえ)って良かったんじゃないでしょうか」。教授は驚きの表情を隠せない。教授は、蒟蒻芋たちに義理があった。蒟蒻芋たちは教授の郷里の人たちであった。その義理の穴埋めに教え子を派遣することになった。「田舎の教会は難しいが、遣り甲斐もある。辛かったらいつでも帰って来なさい」。ヨメに行く日が来なけりゃ良いのに。芦屋雁之助の『娘よ』でもあるまいに。

赴任した翌週がイースターであった。礼拝後の役員会に鉄火場の緊張があった。「センセ、蒟蒻は、どないして作るか知っとるかのう」。年嵩(としかさ)の役員が最初に絡(から)んできた。ヨメの躾は最初が肝心と言わんばかりのしたり顔である。追従する役員たちも、彫り物をちらつかせる。「センセみたいな上品な方には難しいことを尋ねたかのう」。教授の蒟蒻芋たちへの『義理』の中身がなんとなく推測された。隣村の悪ガキたちに虐められている所を蒟蒻芋たちに助けられるようなことが幾度となくあったのだろう。「芋を切ったり、煮たり、ぐちゃぐちゃにしたり、丸めて、ぐらぐらと茹でて、アクを抜いたりですかね」。「これから先も長い事でしょうから、センセ、お手柔らかにお願いします」。

新妻と一緒に役員たちの田や畑、牧場、養鶏場を巡る日々が始まった。「奥さん、モンペがよう似合うとる。可愛いのう」。「そりゃ、愉快だ。蒟蒻どもを喰ったんだからね」。教授の顔が綻(ほころ)んだ。

捕囚の民の中にダビデ家の血を引く四人の貴公子がいた。筆頭にダニエルがいた。若様と傅(かしづ)かれる日々は一転したが、バビロニアの王は、ダニエルたちの気品と聡明さを重宝し十二分な衣食住を提供した。破格の待遇であったが、食事に問題があった。貴公子たちは、偶像に供えられた肉を拒み菜食を選択した。しかし、若い体力が衰えることはなかった。



王は不思議な夢を見た。その夢をダニエルは解き明かした。盛者必衰の理(ことわり)、天地創造の神の前には王と雖(いえど)も取るに足らないことを告げた。妬みに狂った側近たちが王を唆(そそのか)し、ダニエルたちを告発した。灼熱の炉、ライオンの餌食の刑が待ち受けたが、全能の神が貴公子たちを守った。

こどもの絵本のようなストーリー展開は、毅然とした信仰者の姿を貴公子の男前に投影したテッパンネタではなかっただろうか。復活信仰を支える応援歌であり、初期キリスト教の家庭礼拝の一幕を垣間見るようでもある。 


讃美歌(21) 452 神は私を救い出された


 
 

ダニエル書6章10〜20節
ダレイオス王は、その書面に署名して禁令を発布した。ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。役人たちはやって来て、ダニエルがその神に祈り求めているのを見届け、王の前に進み出、禁令を引き合いに出してこう言った。「王様、向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者があれば、獅子の洞窟に投げ込まれるという勅令に署名をなさったのではございませんか。」王は答えた。「そのとおりだ。メディアとペルシアの法律は廃棄されることはない。」彼らは王に言った。「王様、ユダヤからの捕囚の一人ダニエルは、あなたさまをも、署名なさったその禁令をも無視して、日に三度祈りをささげています。」王はこれを聞いてたいそう悩み、なんとかダニエルを助ける方法はないものかと心を砕き、救おうとして日の暮れるまで努力した。役人たちは王のもとに来て言った。「王様、ご存じのとおり、メディアとペルシアの法律によれば、王による勅令や禁令は一切変更してはならないことになっております。」それで王は命令を下し、ダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれることになって引き出された。王は彼に言った。「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように。」一つの石が洞窟の入り口に置かれ、王は自分の印と貴族たちの印で封をし、ダニエルに対する処置に変更がないようにした。王は宮殿に帰ったが、その夜は食を断ち、側女も近寄らせず、眠れずに過ごし、夜が明けるやいなや、急いで獅子の洞窟へ行った。


テサロニケの信徒への手紙二 3章1〜3節
終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです。しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。




2023年5月7日 復活節第5主日

                            

説教題   『規範と乖離』

聖 書   ガラテヤの信徒への手紙3章1〜10節 
新約聖書(新共同訳) 1283ページ 

       申命記7章6〜10節         
旧約聖書(新共同訳)  161ページ 

讃美歌(21) 298 ああ主は誰がため(1,4)


「わたくしたち牧師は、集まれば、なんだかんだと、持ち寄りの得意料理と安酒で、胃腸が壊れるほど、飲んで食べまくるんですわ」。「あ、そうそう、その前に、聖書の勉強会もするんですけどね」。「ちょっと待ってください。『わたしたち』は止めてください。ボクは、一滴も飲みませんからね。うちの教会員が聞いたら誤解するじゃないですか」。「何、言うてますねん。センセ。イエスは大酒飲みの仲間やったと聖書に書いてあるやないですか」。「それと、これとは別です」。「何が別なんや。君。君は、ほんまに勉強して説教しとるんか」。酒癖の悪い飲兵衛(のんべえ)牧師が絡(から)む。下戸(げこ)牧師は、留学生時代にロンドンで仕立てたチェンジポケット付きの三つ揃えスーツでやって来た。飲兵衛牧師は、短足が際立った野良着のようなジーンズに煙草の焼け穴も勇ましい、よれよれの、ジッパーの壊れたダウンジャケットを羽織っている。寒空の炊き出しから抜け出して来たのだと言う。その日の勉強会は、飲兵衛牧師の担当であった。

「復活を疑うトマスにですね、イエスは手の釘跡を見せて言うんですワ。見ないで信じる者は幸いやと言うんですけど、皆さんは、どない思わはりますか」。飲兵衛牧師は、出来上がったキリスト教から聖書を読むなと言う。教理、教派の思想を前提にするなと言う。「見ないで信じるちゅうのは、言うてみると模範解答ですわな。聖書が信仰の手引書みたいになって行く過程での鉛筆ナメナメと言うと分かりやすいかも知れませんな」。だらしなくタバコを吹かせながら溜息を付く。「そやけど、トマスちゅう人も災難でっせ。二千年も型に嵌(は)められて来たんでっさかい。疑り深いトマスちゅうレッテルを、ボクらは、自分のことを棚に上げて誰かさんにも、それ、間違いのうイジメでっせ」。

下戸牧師は、教区のホームページで集会を知った。その日が初めての参加であった。他教区から赴任したばかりだった。『断片(ペリコーペ)を繋ぎ合わせることではなく』。勉強好きの下戸牧師の気を引く集会案内だった。まさか、酔っ払いの牧師たちが集まっているとは夢にも思わなかったのである。下戸牧師は、この集会はパウロが言った『他の福音』、『異なる福音』のことだと強く感じた。危険な人たちが集まっていると。

しかし、関西弁丸出しの『鉛筆ナメナメ』が、帰宅後も下戸牧師の固い脳内に反響を繰り返した。パウロの言う物分かりの悪いガラテヤ人とは自分のことではないだろうか。飲兵衛牧師のよれよれのダウンジャケットのタバコの焦げ穴が、トマスがイエスの掌に見た釘跡に見えて来た。『スティグマ(聖痕)と私』。次週の説教題が教会玄関に貼り出された。 
         


流しで学資を稼いだ神学生時代(駄法螺)



讃美歌(21)   298 ああ主は誰がため(1,4)


 


ガラテヤの信徒への手紙3章1〜10節
ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。


申命記7章6〜10節
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。





2023年4月30日 復活節第4主日 労働聖日
                            

説教題    『腐ったパン』

聖 書    出エジプト記 16章8〜20節   
旧約聖書(新共同訳) 120ページ 
        コリントの信徒第一の手紙1 8章8〜9節 
新約聖書(新共同訳)309ページ 
      
讃美歌(21) 讃美歌(21) 飢えている人と 



「それでネ、こいつがネ、ちょっとごねてネ、引いて来たんですわ」。親指と人差し指が丸を作る。「引くちゅうような言葉使うたらあかんがな。これテレビやで」。漫才コンビの昔話に司会者の誘導が加速する。強談判や違法な行為によって金銭を得ることを『引く』というらしい。闇の世界が見え隠れする。

ある牧師夫妻が最初に赴任した教会の給料は、『謝儀』とは言うものの、雀の涙であった。その教会に笠地蔵伝説があった。祈って功徳を積むと牧師館の玄関に味噌醤油が届くと言えば聞こえは良いが、牧師虐めの屈折があった。夫妻は反発した。礼拝堂を英語とピアノの教室としたが、即座に禁止された。どこからも『引いて来る』ものが無くなり、夫妻は音を上げた。

転任の打診があった。夫妻は余程の用心をしたが、付属幼稚園の園長兼務に飛びついた。妻はベテランの職員を差し置いて主任を務めた。牧師給は笠地蔵教会と変わりはなかったが、幼稚園からの収入が夫妻を大いに満足させた。牧師は、聖書をエバンジェリカルに読む人ではなかったが、この時ばかりは、「天からマナが降った」と小踊りした。

モーセに率いられた出エジプトの民は、四百年に及ぶ虐げらた日々からの解放の喜びも束の間、たった二日目で音を上げた。携帯食が底を尽いたのである。民はモーセに詰め寄った。「腹減ったメシ食わせ」。神はモーセを通して民に告げる。約束の地への日毎の糧は人からではなく、天から『引く』のだと。毎日、一日分だけ、正確には安息日前日には二倍のパンのようなものが天から降ってくると。民は、天のパンを見て『これはなんだろう(ヘブル語でマナ)』と驚きの声を発した。ヘブルの民は40年、砂漠を彷徨い約束の地へ導かれたとあるが、この時の出来事は一過性の事柄であったかのように語られている。

笠地蔵教会から転任した牧師夫妻は、幼稚園から『引いた』収入で贅沢に溺れた。日曜の礼拝は応接間での茶会に変わった。信徒に献金を求めなかった。説教は面白可笑しい感話に留まった。信徒もその怠惰に慣れた。礼拝は段々に守られなくなった。牧師は、園長職を息子に譲り自らは理事長となった。息子の妻は主任を引き継いだ。職員の待遇は蔑ろにされた。牧師家族だけが法人からたんまり『引いた』。マナは翌日まで残すと虫がついて腐ったと聖書は記している。

『ただ、あなたがたのこの自由な態度が』。パウロの言葉を『引いて』他山の石としたい。        
        


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讃美歌(21) 飢えている人と


 


出エジプト記16章8〜20節
モーセは更に言った。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」モーセがアロンに、「あなたはイスラエルの人々の共同体全体に向かって、主があなたたちの不平を聞かれたから、主の前に集まれと命じなさい」と言うと、アロンはイスラエルの人々の共同体全体にそのことを命じた。彼らが荒れ野の方を見ると、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。主はモーセに仰せになった。「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。モーセは彼らに、「だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない」と言ったが、彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておいた。虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。


コリントの信徒への手紙一8章8〜9節
わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。




2023年4月23日 復活節第3主日

                            

説教題    『復活と回復』

聖 書    ルカによる福音書24章36〜49節 新約聖書(新共同訳) 161ページ 
        詩 編 4編6〜9節       旧約聖書(新共同訳) 837ページ 

讃美歌(21) 327 すべての民、よろこべ   


「点滴をしてもメザシ一匹の栄養にもならないんだよね」。重病人への見舞いの言葉だった。「よく食べますね。健啖家(けんたんか)ですね」。愛餐会のバラ寿司を頬張る隣席の老婦人に掛けたお愛想の言葉だった。この牧師の無神経は聞きしに勝る。明日の命も知れぬや病人の気持ちは察して余りある。「あのセンセは、なんど注意してもダメなんです」。

メザシ一匹をおかずに、どんぶり飯を三杯食べたことがある。活力漲(みなぎる)る若さがあった。夏のキャンプや合宿の思い出、遠い記憶である。確かに、あの時のメザシの栄養は点滴の比ではない。心の栄養価はそれ以上のものであっただろう。食に勢いがあるということは、生の実感である。折れそうな腕のどこにも点滴の針が通らず、辛うじて、痛々しく、指に、指より太く見えるような針が突き刺さっている。正視に耐えない。牧師の混乱があった。平素の無神経が加速した。「点滴をしても、メザシ一匹の栄養に及ばない」。

復活のイエスは、親しく弟子たちの前に現れる。弟子たちは、イエスと気付かない。聖書は信仰者の証言の書であるので、そのようなドラマ仕立てに異議はない。誰だか分からない人が、卒爾(そつじ)にも、「あなたがたに平和があるように」と挨拶をする。聖書の翻訳が新しくなって久しい。「新共同訳は、馴染めんな」。少なからずの古い信徒が異口同音に言う。その批判を予測したかのように意地を張って無理な翻訳を通そうとする。この挨拶の訳に大きな期待を寄せたが軍配は共同訳には上がらない。思い切った意訳への期待は外れた。以前の翻訳では、『やすかれ』と訳されている。

混乱する十一人の弟子たちに、イエスは、なにか食べ物はあるかと問う。点滴を求めたのではない、イエスは、辛うじて生きているような姿で復活したのではない。具体的な、日常の食物を求められた。イエスは、自分の体を散々弟子たちに触らせて、その言葉を発したのである。「なんか、食う物あらへんか」。「魚の焼いたんならおますけど」。

このニュアンスが翻訳に現れていない。イエスは、『魚の焼いたん』を差し出された。京都では、煮物を『焚いたん』、焼き物を『焼いたん』と言う。日常の会話表現が一般名詞となる。気取らず、盛らないのである。誰が、誰に『あなたがたに平和があるように』と棒読みの挨拶をするだろうか。況(いわん)や、イエスが愛する弟子たちに。

『魚の焼いたん』へ自然に繋がるイエスの挨拶を推測してみたい。『オーッス!』。
それはバタやんの挨拶ではないか。分かる人が少ないだろう。あなたの迷訳が期待される。                           


自家製シャケの燻製   


                               
讃美歌(21) 327 すべての民、よろこべ  
 

(2)明日をも知らぬ 世に住み 涙の谷 たどる身の
 悲しみも悩みも消え 今は喜びにあふる

(3) 主は栄光の御座につき みつかいらはほめ歌う
  主イェス死に勝ちたまえば 人は生くる とこしえに


ルカによる福音書24章36〜49節
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すとイエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」


詩編 4編6〜9節
ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びをわたしの心にお与えください。平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かにわたしをここに住まわせてくださるのです。




4月16日 復活節第2主日
                            

説教題   『空腹と屈辱 (hungry or insult)』
     
聖 書   列王記下 6章33節〜7章2節   
旧約聖書(新共同訳) 1283ページ 
       ルカによる福音書24章30〜31節  
新約聖書(新共同訳)  161ページ 

讃美歌(21)  325 キリスト・イエスは  



「おばちゃん、このリンゴ一個なんぼ?」。「150万円!」。「そら、また、えらい安いやんか。2千万円はすると思うたで」。「言うなあ、あんたも、ハハハ」。市井のひとたちの日常に屈託がない。ドタバタ喜劇の一場面が抜き取られる。



『サマリアは大飢饉に見舞われていたが、それに包囲が加わって、ろばの頭一つが銀八十シェケル、鳩の糞四分の一カブが五シェケルで売られるようになった』。勝手な計算をしてみた。少々間違っているかも知れないが超インフレの凄まじさを数値化してみた。ロバの頭とは究極の蛋白源と言う事だろう。通常の食材ではない。現在の価値に換算して400万円の数字になった。鳩の糞は、肥料にでもするのかと思ったが、それは、『ひよこ豆』のことらしい。業務スーパーで一缶100円ぐらいで売っている。これは計算の結果、25万円になった。500万円をガマグチに入れて市場には行く人はいない。ロバの頭も鳩の糞も、たとえ買えたとしてもと言うことであろうか。

『あなたの子供をください。今日その子を食べ、明日はわたしの子供を食べましょう』。かつて同盟を結んでいたアラム人が今や敵対者となった。サマリアは包囲され、補給路は絶たれた。屈辱に耐えても空腹には耐えられない体たらくを晒して喜劇の一場面となるのであるが、サマリアは、空腹にも屈辱にも耐えられなかった。預言者エリシャは言う。この不運はイスラエル自らが招いたものであると。ねじ曲がった反応があった。『この不幸は主(神)によって引き起こされた。もはや主(神)に何を期待できるのか』。

エリシャは主なる神の言葉を告げる。明日には、ロバの頭が闇市から消えてなくなり、パンに困ることはなくなるであろうと。『明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる』。水鳥の羽音を源氏の大群と思い違い平家軍が怯えて敗退した富士川の合戦さながらの事が起こった。神風が吹いたのである。『われ先にとぞ落ちゆきける』。サマリアは一時的にではあるが、回復した。

神は信頼できないとエリシャに告げた王の使者は、商品が溢れる市場を目にはしたが殺到する人々に踏みつけられ圧死した。エリシャの予告があった。『あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない』。

イエスは、復活の後、四十日にも及ぶ期間、弟子たちの前に親しく姿を見せた。自分の目で『私』を見て、『私』を食べ損ねるなと言わんばかりの四十日であった。


讃美歌(21) 325 キリスト・イエスは


    
(3)イエスの十字架は ハレルヤ われらの救い ハレルヤ
   天の使いと ハレルヤ 声をあわせよう ハレルヤ


列王記下 6章25節〜7章2節 (新共同訳)
サマリアは大飢饉に見舞われていたが、それに包囲が加わって、ろばの頭一つが銀八十シェケル、鳩の糞四分の一カブが五シェケルで売られるようになった。イスラエルの王が城壁の上を通って行くと、一人の女が彼に向かって叫んだ。「わが主君、王よ、救ってください。」王は言った。「主が救ってくださらなければ、どのようにしてわたしがあなたを救えよう。麦打ち場にあるものによってか、それとも酒ぶねにあるものによってか。」王は更に、「何があったのか」と尋ねると、彼女は言った。「この女がわたしに、『あなたの子供をください。今日その子を食べ、明日はわたしの子供を食べましょう』と言うので、わたしたちはわたしの子供を煮て食べました。しかしその翌日、わたしがこの女に、『あなたの子供をください。その子を食べましょう』と言いますと、この女は自分の子供を隠してしまったのです。」王はこの女の話を聞いて、衣を裂いた。  (中略)

エリシャがまだ彼らと話しているうちに、使者が彼のところに下って来て言った。「この不幸は主によって引き起こされた。もはや主に何を期待できるのか。」エリシャは言った。「主の言葉を聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる。』」王の介添えをしていた侍従は神の人に答えた。「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」エリシャは言った。「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない。」

ルカによる福音書24章30〜31節
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。





2023年4月9日 復活日(イースター)
                            

説教題     『丘と洞穴(ほらあな)』
     
聖 書     ルカによる福音書24章 1〜12節  新約聖書(新共同訳) 159ページ 
         詩編 30編2〜4節        旧約聖書(新共同訳) 860ページ 

讃美歌(21)  325 キリストイエスは   


「打ち首、獄門!こいつ惚(とぼ)けよって。早よう桜吹雪見せんかい!」。「血圧上がりまっせ」。昭和の時代である。病院待合室の大きなブラウン管に歪んだ映像が映し出される。音量はマックスである。元気な人が病院に来た時代があった。

再放映の大河ドラマ、『黄金の日日』に石川五右衛門が登場する。根津甚八が演じる。臭い演技が美味しい。釜茹での刑がイエスの最後を思わせる。煮え滾(たぎ)る湯の中に自らの身を投じる。その時、遠く離れた堺の町に禁令のバテレンの鐘が響き渡る。南蛮商人、助左衛門が鐘楼の綱を引く。松本幸四郎や栗原小巻が若い。ドラマでは熱湯が想定されたが、実際に秀吉が命じた手順は、先に五右衛門を油で満たした釜の中に沈め、薪を徐々に焚いて死に至らしめるという惨忍なものであった。刑場は怖い物見たさの黒山の人だかりとなった。大塩平八郎も死体を一年塩漬けにされた後、刑場に晒(さら)されたと言う。

見せしめの刑には膨大なコストがかかる。凝った装置と相応の係員を必要とする。それほどまでにして守らねばならない支配者の威光がある。その威光を支えるのは黒山の人だかりである。ゴルゴダの丘に同じ光景があった。イエスは十字架の上で苦しみ悶え、息絶えた。イエスは、死亡した。

衆人環視のなかにイエスの死が見届けられた。いっぽう、イエスの復活は、墓穴、洞穴(ほらあな)で告げられた。『婦人たちが恐れて地に顔を伏せると』。関係者だけの空間であった。誰かが、ファーブルのように、蛹(さなぎ)が羽化するような、イエスの復活を観察したのではない。科学(サイエンス)ではなかった。化学(ケミストリー)ではあったかも知れないが。状況証拠と言葉だけである。『あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ』。そこには、若造の言葉と女たちの困惑、死体を包んだ亜麻布の他に何もない。

イエスの復活を荒唐無稽と退けた弟子たちを『使徒たち』とルカは記している。『使徒』とは後代の呼称である。大の男たちの体たらくを晒しものにしているのである。

その洞穴(ほらあな)は、若さを侮られる者たち、社会の表舞台への道を閉ざされた女たちの居場所を最優先にした未来教会のひな型だったのかも知れない。

                           

N伝道所教会学校 1976年  

          
讃美歌(21)  325 キリストイエスは


   

(2)十字架にかかり ハレルヤ 死んで死に勝ち ハレルヤ
   生きていのちを ハレルヤ イェスは与えた ハレルヤ
(3)イェスの十字架は ハレルヤ われらの救い ハレルヤ
   天の使いと ハレルヤ 声をあわせよう ハレルヤ


ルカによる福音書24章 1〜12節
そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人(若者:マルコ福音書)の人がそばに現れた。婦人たち(マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ:マルコ福音書)が恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

詩編30編2〜4節
主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく、わたしを引き上げてくださいました。わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを、あなたは癒してくださいました。主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせ、わたしに命を得させてくださいました。



2023年4月2日 棕櫚の主日
                            

説教題   『虫眼鏡』
     
聖 書   マルコによる福音書 11章21〜11節  
新約聖書(新共同訳) 83ページ 
       ゼカリア書 9章 9〜10節         
 旧約聖書(新共同訳)1489ページ 

讃美歌(こどもさんびか改訂版)  5 こどもをまねく    


「グッドナイトの先生や!」。中学生や高校生から好意的なあだ名で呼ばれることは嬉しい。部活中の生徒たちがグラウンドから声を揃えてグッドナイトの先生だと呼びかける。照れた背中を見せながら手を振る。月に一度しか行かない学校なのに生徒たちが顔を覚えている。朝練や通学で疲れている生徒たちはパイプオルガンの音色に合わせて眠り始める。マイクの前に立つ。グッドナイトの挨拶を毛布代わりにそっと掛けてやる。「センセ、あんな話ししたら寝てられへんわ」。「そう言わんと。寝ててもええんやで」。

本人が喜んでいたかどうかは定かではないが、イエスをその背に乗せた小さなロバのイメージをあだ名にされた牧師がいた。自らの牧師人生、信仰人生に成功者のイメージを重ねる傲慢(ごうまん)を諫(いまし)めたかった。謙遜な者でありたい、取るに足りない者でありたい。イエスを背に乗せた子ロバのようでありたいと願った。保育園の子どもたちに同じ話を何度も繰り返した。「イエスさんを乗せた小さいロバは偉いなぁ」。「園長先生も、ちいロバさんやな」。子どもたちが付けたあだ名は、名物説教の定冠詞ともなり、素朴な信仰を求める教会人の心を揺さぶった。テレビドラマ化された作品を世に送り出した著名な作家もロバ牧師の説教の虜(とりこ)になった。



イエスが、エルサレムに入城した。子ロバに乗って平和の町(エルサレム)に足を踏み入れた。イエスを慕う人々が衣服や葉の付いた枝を道に敷き詰めた。この木の枝がナツメヤシであると推測されるので『棕櫚(しゅろ)の主日』と呼ばれる教会の暦となった。イエスを歓呼の声で迎えた人々の中に自分がいると多くの説教者が妄想した。錯覚した。これこそ、預言の成就であると。したり顔が講壇の上にあった。伝統的な聖書解釈は、イエスの乗り物にアクセントは無いとする。しかし、ロバ牧師は、虫眼鏡で聖書を読んでいた。「イエッさんは、小さいロバに乗っとるんや」。「預言の成就とか屁ったくれとか言うてはおれんのや」。

ロバ牧師には神学が無い。ただの人気取りだ。意地悪な嫉妬(しっと)があったと聞く。ロバ牧師は、神学校の出席を疎かにして伝道牧会に専念した。神学的学びの欠落を、戦争体験者らしく『名誉の負傷』と表現した。

『高ぶることなく、ろばに乗って来る』。ロバ牧師は、虫眼鏡でこの部分だけを読み取ったのであるが、弟子たちでさえ理解出来なかったイエスの十字架への道を最大限に拡大することが出来たのであった。



讃美歌(こどもさんびか改訂版) 5 こどもをまねく 




   
マルコよる福音書11章1〜11節 
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山に面したベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだ誰も乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、誰かが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばがつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせた人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばをイエスのところに連れて来て、その上に自分の上着を掛けると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の上着を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に祝福があるように。いと高き所にホサナ。」こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入られた。そして、周囲を一瞥した後、すでに夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


ゼカリヤ書9章9〜10節
娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。




2023年3月26日 受難節第4主日


説教題     『ひとことでは言えません』
     
聖 書     ヘブライ人への手紙 5章1〜11節  新約聖書(新共同訳) 405ページ 
         哀歌 1章 12〜13節           
旧約聖書(新共同訳) 1284ページ 

讃美歌(21)  讃美歌(21) 311 血しおしたたる    


 「おっちゃん、シャツを縫うたよ。これ着てみて」。「よう似合うわ。神父さんみたいや。」
ハイカラ―の牧師シャツが縫い上がった。おっちゃんの家には若い娘さんたちが寝泊まりしていた。「この娘さんたちな、可哀想でな。ワシは話を聞くだけなんやけど。みんな家に帰りょらんのや」。おっちゃんは『何でも屋さん』で生計を立てていた。「ワシは、学はない。尋常高等小学校や。そやけど人に使われるのは苦手なんや」。鍋釜の修理、ペンキ塗り、下水の詰まり、電球の取り換えなども格安で請け負う。仕事は非常に丁寧である。

おっちゃんの楽しみは聖書講義であった。妻と娘が良い聞き手であった。おっちゃんの過酷な生育環境から読み込んだ講話は妻や娘を自由なひとりの人間へと導いた。プロの牧師には到底真似の出来ない芸当である。深い悩みを抱える娘の友人たちがおっちゃんの家に身を寄せるようになった。何の悩みもないと思わるような良家の娘さんたちが、おっちゃんの話しに耳を傾けた。「あんたの心の中にあるアマレク人をやっつけんと、あかんのや」。「ワシもあんたらもこの世の奴隷や」。ミシンを踏む器用な娘さんがビクトリア朝時代の牧師シャツを仕立て上げた。「おっちゃんは、うちらの牧師さんや」。

『この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく』。神の言葉を語り、迷える人を思いやり、人の苦しみを一身に受ける。神に依り頼む者に祝福を与える。大祭司の役割がそのようなものだとすれば、おっちゃんは、真に『その人』であった。大祭司も市井の牧師も、本来、自然発生的でなければならない。アブラハムは、戦利品の十分の一をメルキゼデクに捧げ祝福を受けた。その時、メルキゼデクは、元祖大祭司となる。大祭司は、いわゆる『天然もの』なのである。一方、レビ族の世襲祭司たちは、いわば『養殖もの』である。年に一度、ひとりの大祭司を選び、贖いの日に聖所に入り血の生贄(いけにえ)を契約の箱の上に塗り付ける祭儀を繰り返すのである。契約の箱の上の犠牲の血は、大祭司の体と装束にも振りかけられる。

血まみれのデモンストレーションに変革の大鉈(なた)が振り下ろされた。犠牲の血は竪琴に合わせる讃美の歌に代わった。歌って踊る『亜麻布のエポデ装束』の大祭司、ユダ族の王、ダビデこそ、真の大祭司イエスの雛型、預言的啓示であった。ダビデは、神の箱をシオンの丘に運び入れるクライマックスに達するや否や大装束を脱ぎ捨て、裸になって小躍りしたと記されている。

パウロの筆は止まらない。『話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません』。





讃美歌(21) 311 血しおしたたる  



ヘブライ人への手紙 5章1〜11節
大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。また、神は他の個所で、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。


哀歌 1章 12〜13節
道行く人よ、心して目を留めよ、よく見よ。これほどの痛みがあったろうか。わたしを責めるこの痛み、主がついに怒ってわたしを懲らすこの痛みほどの。主は高い天から火を送り、わたしの骨に火を下し、足もとに網を投げてわたしを引き倒し、荒廃にまかせ、ひねもす病み衰えさせる。