最初のページに戻る お届け説教NOW(2023年3月26日〜
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お届け説教(1) 2020年3月22日〜2023年3月19日
※架空の出来事に基づいています。
2023年3月26日 受難節第4主日
説教題 『ひとことでは言えません』
聖 書 ヘブライ人への手紙 5章1〜11節 新約聖書(新共同訳) 405ページ
哀歌 1章 12〜13節 旧約聖書(新共同訳) 1284ページ
讃美歌(21) 讃美歌(21) 311 血しおしたたる
「おっちゃん、シャツを縫うたよ。これ着てみて」。「よう似合うわ。神父さんみたいや。」
ハイカラ―の牧師シャツが縫い上がった。おっちゃんの家には若い娘さんたちが寝泊まりしていた。「この娘さんたちな、可哀想でな。ワシは話を聞くだけなんやけど。みんな家に帰りょらんのや」。おっちゃんは『何でも屋さん』で生計を立てていた。「ワシは、学はない。尋常高等小学校や。そやけど人に使われるのは苦手なんや」。鍋釜の修理、ペンキ塗り、下水の詰まり、電球の取り換えなども格安で請け負う。仕事は非常に丁寧である。
おっちゃんの楽しみは聖書講義であった。妻と娘が良い聞き手であった。おっちゃんの過酷な生育環境から読み込んだ講話は妻や娘を自由なひとりの人間へと導いた。プロの牧師には到底真似の出来ない芸当である。深い悩みを抱える娘の友人たちがおっちゃんの家に身を寄せるようになった。何の悩みもないと思わるような良家の娘さんたちが、おっちゃんの話しに耳を傾けた。「あんたの心の中にあるアマレク人をやっつけんと、あかんのや」。「ワシもあんたらもこの世の奴隷や」。ミシンを踏む器用な娘さんがビクトリア朝時代の牧師シャツを仕立て上げた。「おっちゃんは、うちらの牧師さんや」。
『この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく』。神の言葉を語り、迷える人を思いやり、人の苦しみを一身に受ける。神に依り頼む者に祝福を与える。大祭司の役割がそのようなものだとすれば、おっちゃんは、真に『その人』であった。大祭司も市井の牧師も、本来、自然発生的でなければならない。アブラハムは、戦利品の十分の一をメルキゼデクに捧げ祝福を受けた。その時、メルキゼデクは、元祖大祭司となる。大祭司は、いわゆる『天然もの』なのである。一方、レビ族の世襲祭司たちは、いわば『養殖もの』である。年に一度、ひとりの大祭司を選び、贖いの日に聖所に入り血の生贄(いけにえ)を契約の箱の上に塗り付ける祭儀を繰り返すのである。契約の箱の上の犠牲の血は、大祭司の体と装束にも振りかけられる。
血まみれのデモンストレーションに変革の大鉈(なた)が振り下ろされた。犠牲の血は竪琴に合わせる讃美の歌に代わった。歌って踊る『亜麻布のエポデ装束』の大祭司、ユダ族の王、ダビデこそ、真の大祭司イエスの雛型、預言的啓示であった。ダビデは、神の箱をシオンの丘に運び入れるクライマックスに達するや否や大装束を脱ぎ捨て、裸になって小躍りしたと記されている。
パウロの筆は止まらない。『話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません』。
讃美歌(21) 311 血しおしたたる
ヘブライ人への手紙 5章1〜11節
大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。また、神は他の個所で、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。
哀歌 1章 12〜13節
道行く人よ、心して目を留めよ、よく見よ。これほどの痛みがあったろうか。わたしを責めるこの痛み、主がついに怒ってわたしを懲らすこの痛みほどの。主は高い天から火を送り、わたしの骨に火を下し、足もとに網を投げてわたしを引き倒し、荒廃にまかせ、ひねもす病み衰えさせる。
2023年3月19日 受難節第4主日
説教題 『ハイビーム (high beam)』
聖 書 マルコによる福音書 9章1〜15節 新約聖書(新共同訳) 78ページ
出エジプト記 34章 29〜30節 旧約聖書(新共同訳) 152ページ
讃美歌(21) 298 ああ主は誰がため(1,5)
「最近、バスのライトが眩(まぶ)しいな」。「いっっぺん、苦情言うたろ思うてんねん」。高級外車が昼間からヘッドライトを点灯している。夕暮れ前からヘッドライトを点灯している車も増えた。近頃のヘッドライトは白く眩しい。LEDの強力な光が歩行者を虐(いじ)める。明るいうちからライトを点けるのは野暮な運転だと思っていた。トンネルを出てもライトを消し忘れたまま走るなどもっての外、酷く恰好悪いことではなかったのか。「キシモトさん、何言うたはりますねん。これからはLEDの時代でっせ」。裸電球のようなライトは絶滅寸前だ。いち早く対向車に自分の車を気付かせたり、歩行者を見やすくしたいのだ。ライトの上下切り替えはコンピューター制御らしいが、感度がギリギリの設定でほとんどの車はライトが上向き、『ハイビーム』である。その光は、白く、甚だ、眩しい。人間より目線の低い散歩中の犬の身にもなってやれと言いたい。
『すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、衣は真っ白に輝いた』。大型バスの低い位置にあるLEDの強烈な閃光を真正面から受けた散歩中の犬の混乱にも似た出来事だった。ペトロ、ヤコブ、ヨハネたちをポケモンショックが襲った。二十年ほど前、テレビアニメのポケモンにかじりついた多くの子どもたちが過剰なストロボの連続に体調異状を来す事故があった。人間ドックでお馴染みの眼底検査を一時間続けられたと言えば分かりやすい。
変容するイエスの姿に三人の弟子たちは、犬のように怯(おび)えた。怯えは無知を曝(さら)け出した。『ペトロは、どう言えばよいか分からなかった』。バーチャルショーは度を超すほどに、空間と時間が破壊された。エリヤがモーセと共に現れてイエスと語り合ったのである。適切な表現ではないが、往年の名物芸人お決まりの感嘆の台詞がペトロの口から発せられる。「小便ば、ちびりますたい」。
伝統的な聖書解釈には、モーセは律法、エリヤは預言者を象徴し、イエスはその福音をもって旧約聖書の世界を凌駕(りょうが)したとある。お墨付きの神の声、『これに聞け!』は、説教題の定番である。イエスの癒しと奇跡が、十字架と復活にセットである事を、ペトロの弟アンデレさえ選考から外す厳しさをもって示される。『ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて』。この出来事は、イエスの復活の日まで三人の弟子たちの心に封印された。イエスのハイビームに誰もが幻惑される。『光あれ!』(創世記1:1)
讃美歌(21)298 ああ主は誰がため(1,5)
マルコによる福音書9章1〜15節
また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。
出エジプト記 34章 29〜30節
モーセはシナイ山から下りた。山を下りるとき、彼は二枚の証しの板を手にしていた。モーセは、主と語るうちに彼の顔の肌が光を帯びていたことを知らなかった。アロンとイスラエルの人々が皆モーセを見ると、彼の顔の肌が光を帯びていた。それで彼らはモーセに近づくことを恐れた。
2023年3月12日 受難節第3主日
説教題 『直進性 (straight and narrow way)』
聖 書 ルカによる福音書 9章18〜25節 新約聖書(新共同訳) ページ
イザヤ書63章9節 旧約聖書(新共同訳) ページ
讃美歌(21) 303 丘の上の主の十字架
「センセ、牧師になる決心しました。どんな勉強したら良いでしょうか」。「牧師になんかなれませんよ。気が付いたら牧師やったちゅうことならあるかも知れませんけど」。合点がいかないらしい。この人の苦手な理屈を言ったらしい。不向きであることをやんわり伝えようとしたのであるが、この人は動じることなく畳み掛けた。「それなら、気が付いたら牧師になっている勉強の仕方を教えてください」。「ダメだこりゃ」。声には出さなかった。
所属教会の牧師は、けんもほろろに一蹴したらしい。この人の『直進性』が常々、牧師から嫌われていたのである。この人は、三時間も車を走らせて、神学校を出たばかりの牧師のところに、あらゆる交通違反を繰り返しながらやって来た。この人の『直進性』が好ましく思えた。老練な牧師でさえ、願っても得られない献身者の指導が降って湧いたのである。この人が牧師になっても良いと感じた。神学校を経由せず社会人のままで試験を受ける特別コースがある。この人は、特別コースの勉強の仕方を聞きに来たのである。この人は、プロの牧師になろうとしているのではない。『牧師さん』になってみたいのである。この人なら、素人牧師を貫けるだろう。勘違いをすることはないだろう。入門書を数冊紹介した。「入門書に始まり入門書に終わる」。思い付きの試験対策を伝授した。遅い時間になった。「あなたの気持ちは既に、神さまに届いていますよ」。プロのリップサービスが過ぎた。帰り道は覆面パトカーの餌食になったらしい。
『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』。信仰者を悩ますイエスの言葉である。十字架を背負うことの意味は誰にでも分かる。分かるが、『直進』は難しい。「イエスの十字架を仰ぎ、自己中心の考えを捨てて、神さま中心の生活を求めましょう」。模範解答が講壇から投げかけられる。プロの悪い癖だ。捨てきれない自分を極限まで語ったりはしない。
この人が、その生涯を閉じた。『谷間に三つの鐘が鳴る』。一昔前流行ったのポピュラー音楽である。ジミー・ブラウンの生涯に、誕生、結婚、葬儀に合わせて三つの鐘が鳴る。この人は、過疎の村に教会を建てた。その『直進性』は、プロの困難をいとも簡単にやり遂げる。
斎場の職員が柩に入れる花を手渡してくれた。一際(ひときわ)綺麗な花を、この人の顔の側面に添えるようにと。
ある斎場の天窓
讃美歌(21) 303 丘の上の主の十字架
ルカによる福音書9章 18〜25節
イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても(人が全世界をもうけても:口語訳)、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。
イザヤ書63章9節
彼らの苦難を常に御自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって彼らを救い、愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に、彼らを負い、彼らを担ってくださった。しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた。
2023年3月5日 受難節第2主日
説教題 『ちょちょいのちょい』
聖 書 ルカによる福音書 11章14〜20節 新約聖書(新共同訳) 128ページ
列王記下 1章2〜3節 旧約聖書(新共同訳) 576ページ
讃美歌(21) 306 あなたもそこにいたのか
「面白いアルバイトが万博であるんや。一緒にやらへんか」。ステージに霧が立ち込める。セリから現れる藤娘(ふじむすめ)に青白いスポットライトが当たる。ある展示館に学生アルバイトの募集があった。20人ほどのグループで応募することが条件だった。1970年の大阪万博である。大学は封鎖されていた。隔日勤務に万博会場フリーパスが付いて日当は相場の2倍。仲間はすぐに集まった。
ドライアイスをスライスして何カ所もある舞台裏の湯桶へ投入する。労働力を均等にした分担表を作れと言う。そういう事は『お前』が得意だからだと皆が言う。先ず、30センチ角のドライアイスをバンドソー(帯鋸)でカットする。この少々危険な作業はリーダーの木工所の息子が担当した。『お前』は、日替わりの分担表を作成した。全員が納得した。30分作業して一時間休憩の繰り返し。休憩時間が楽しかった。『お前』は、調子に乗って狡賢(ずるがしこ)いことを思いついた。二時間の休憩が取れるように管理室の目を盗んでドライアイスの分量を調整したのである。
半年以上に及ぶアルバイトは、『十五少年漂流記』の興奮に始まったのであるが、俄(にわか)貴公子たちの生活は時を待たずして堕落した。リーダーの『木工所の息子』、は少数派となり、『お前』は、多数派に祭り上げられた。二時間の休憩を三時間にしろ。日当の割り増しを代理店に交渉しろ。お前なら、『ちょちょいのちょい』で出来るだろう。
木工所の息子は『お前』に言った。「君にそんなことをして欲しくて誘ったんじゃない」。木工所の息子はいつもポケットに文庫本を捻じ込んでいる。青白い文学青年だ。「また君は、いつもの微熱が出たみたいやな」。『お前』は、話しをはぐらかす。『お前』は、木工所の息子に突き放される。「まるで君は、『蠅の王(Lord of the Flies)』に出て来るジャックや」。無人島に漂流した少年たちは、知的なリーダを煙たがり野ブタを狩って仲間を取り込むすジャックに靡(なび)く。切り落とした野ブタの首に蠅(はえ)が群がる。少年たちは、その首を『王』のように崇める。ウイリアム・ゴールディング小説である。
カナン人は、自分たちの神の名を『バアル(王)・ゼブル(至高)』と呼んだ。神の民は、それをヘブル語で『バアル(王)・ゼブブ(蠅)』と駄洒落にした。イエスが反対者に擦(なす)り付けられた汚名、『ベルゼブル』がそれである。
帯鋸を慎重に扱う木工所の息子の『神の指』に目を注ぎたい。
モールス信号を送る指先
讃美歌(21) 306 あなたもそこにいたのか
(1) あなたもそこにいたのか 主が十字架についたとき ああ いま思いだすと
(2) あなたもそこにいたのか 主がくぎでうたれたとき ああ いま思いだすと
(3) あなたもそこにいたのか 主が槍でさされたとき ああ いま思いだすと
(4) あなたもそこにいたのか 主を墓におさめたとき ああ いま思いだすと
(繰り返し) 深い深い罪に わたしはふるえてくる
ルカによる福音書 11章14〜20節
イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
列王記下1章2〜3節
アハズヤはサマリアで屋上の部屋の欄干から落ちて病気になり、使者を送り出して、「エクロンの神バアル・ゼブブのところに行き、この病気が治るかどうか尋ねよ」と命じた。一方、主の御使いはティシュベ人エリヤにこう告げた。「立て、上って行ってサマリアの王の使者に会って言え。『あなたたちはエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして出かけているが、イスラエルには神がいないとでも言うのか。
2023年2月26日 受難節第1主日
説教題 『プラスチックマン(イカサマ野郎)』
聖 書 ルカによる福音書 4章1〜15節 新約聖書(新共同訳) 107ページ
申命記 8章2〜6節 旧約聖書(新共同訳) 294ページ
讃美歌(21) 298 ああ主は誰がため
「うち家、喫茶店みたいでしょう」。「ま、何ちゅうか、昭和の喫茶店みたいですね」。懐かしい映画音楽がリビングに流れる。サイフォンの珈琲を出してくれる。それを見た記憶も朧(おぼろ)な砂糖壺には角砂糖。小さなトングが添えてある。「彼女とデートしたころを思い出すでしょう」。北白川あたりの喫茶店を懐かしんだ。映画音楽はCDだと思っていたがLPレコードだった。壁一面にレコードのジャケットが所狭しと飾ってある。目に留まった一枚のジャケットがあった。公民権運動が激しさを増す時代に流行ったリズム&ブルースあるいはモータウンサウンドと呼ばれたポピュラー音楽である。「それをかけてください」。リクエストした。
揃(そろ)いのスーツに身を包んだグループの名は、クールファイブならぬ『ザ・テンプテイションズ(The
Temptaions)』と言う。Temptation(s)とは『誘惑』の意味である。複数形となっているので『諸々の誘惑』である。『飲む・打つ・買う』にとことん溺れるイメージをグループ名にしている。駄目男の甘いボーカルが強いリズムとダンスに弄(もてあそ)ばれる。聞き覚えのある曲は『マイ・ガール(オレのオンナ)』だけだったが、タイトルの中に興味を引く一曲があった。『プラスチック・マン(Plastic
Man)』。なんじゃ、こりゃ。プラスチックとは『可塑(かそ)』の意味であることぐらいは知っていた。歌詞を訳してみたが意味が掴めない。プラスチックの意味が分からない。何故それが『マン』と結合するのか。前後に看板を挟んで雑踏を歩く商売をサンドイッチマンと言うのだが。
この曲の主人公は、ギャンブラーらしい。それも下手なイカサマをやるらしい。
プラスチックとはイカサマのスラング(俗語)だろうか。歌詞の一部を訳してみた。
――― このイカサマ野郎、プラスチック野郎、賽(さい)の目を誤魔化すんじゃネェ。
年貢の納め時だ。たった今、お前は、夢から覚めるのだ。黒は黒、白は白、
間違いは間違い、正しい事は正しい事。お前は、破滅だ ―――
イエスは、『石をパンに』に換えるイカサマをサタンに迫られる。この世の栄華も呉れてやるとサタンは言う。その『諸々の誘惑(テンプテイションズ)』にイエスは耐える。
讃美歌(21) 298 ああ主は誰がため
ルカによる福音書4章1〜15節
さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
申命記8章2〜6節
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。
2023年2月19日 降誕節第9主日
京都教区センター教会(配信礼拝)
説教題 『野蛮と義理 rude or courtesy』
聖 書 使徒言行録 28章1〜節 新約聖書(新共同訳) 269ページ
イザヤ書 41章 10節 旧約聖書(新共同訳)1126ページ
讃美歌(21) 462(1,3) はてしも知れぬ
「おらが、温めてやっただよ」。浜辺に打ち上げられた若侍を漁民の娘が介抱する。瀕死の若侍に一晩添い寝した。粗末な単衣の前を合わせながら娘が恥じらう。「忝(かたじけな)い」。美形の剣士の口数は少ない。剣士は、村人を虐(いじ)める悪代官を成敗し村を去る。娘が峠でいつまでも手を振る。『終』の赤い文字が画面中央からズームアウトして昭和の映画館はカタルシス(精神浄化)の幕引きとなる。
皇帝への上訴を願いパウロはローマへ船出する。親衛隊に連行される。パウロの罪状は、敢えて言うなれば、『人騒がせ罪』である。適切な回避が暗示されたが、元祖パリサイ派の人にその世渡りは無理であった。事情聴取に立ち会ったアグリッパ王が呆れた。『あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに(使徒言行録26:32)』。イエスの十字架から三十年の歳月が流れている。今更、ユダヤ・イスラエルの知恵(世渡り)を持ち出したところで何になろう。パウロは、『人騒がせ』を皇帝の心にまで届けたかった。イエスの福音は、この世の春を嘯(うそぶ)くローマの洗練を遥かに凌駕するものであることを歴史に残したかったのである。
パウロの思惑が大きく外れる。パウロ一行の船は嵐に巻き込まれ座礁する。這這の体(ほうほうのてい)で上陸した所は、マルタ島であった。『島の住民は大変親切にしてくれた(使徒言行録28:1)』。明治の時代、和歌山は串本沖で、トルコの軍艦が遭難した際に漁民たちが総出で救援活動をした状況を想起させる。『おらが温めてやっただよ』。
村の住人がパウロ一行を助けた。住人とは、『バルバロイ』と原文にある。それは、ギリシア語を話さない人々という意味であって蛮族のことを必ずしも意味しないと上品な釈義書は教える。そうではないだろう。口語訳では、『土地の人々』と訳している。『蛮』のニュアンスがある。紀元前五千年に遡る巨石文明やフェニキア人の覇権を誇ったマルタ島ではあったが、パウロたちが出会った人々は文明の影を生きた義理堅いネイティブであったと深読みしたい。土地の人々の惜しみない親切にパウロは土地の代官の父親の癒しを手始めに住民たちへの義理を返す。
パウロはマルタ島に福音を伝えたと無理な喧伝がなされるが、使徒言行録はそのような記述をしていない。『蛮』をキリスト教化する。実に危険な考えである。教会の難儀、座礁を思わぬ人たちが黙って親切に助けてくれることを知らない無邪気があってはならない。この島で起こったことは、イーブン(貸借無し)の事柄であったのである。
この人たちから義理を受けたらどうしよう。
讃美歌(21) 462(1,3) はてしも知れぬ
(2)母のみどりご ねむらすごとく みこえしずかに あらしをおさめ
主よ 水先の しるべしたまえ
(3)さしゆくはまべ まぢかくなりて 磯うつなみの さかまくときも
主よ 水先の しるべしたまえ
使徒言行録 28章1〜14節
わたしたちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、わたしたち一同をもてなしてくれたのである。パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みついた。住民は彼の手にぶら下がっているこの生き物を見て、互いに言った。「この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ。」ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかった。体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、彼らはパウロの様子をうかがっていた。しかし、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、「この人は神様だ」と言った。さて、この場所の近くに、島の長官でプブリウスという人の所有地があった。彼はわたしたちを歓迎して、三日間、手厚くもてなしてくれた。ときに、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった。それで、彼らはわたしたちに深く敬意を表し、船出のときには、わたしたちに必要な物を持って来てくれた。三か月後、わたしたちは、この島で冬を越していたアレクサンドリアの船に乗って出航した。ディオスクロイを船印とする船であった。わたしたちは、シラクサに寄港して三日間そこに滞在し、ここから海岸沿いに進み、レギオンに着いた。一日たつと、南風が吹いて来たので、二日でプテオリに入港した。わたしたちはそこで兄弟たちを見つけ、請われるままに七日間滞在した。こうして、わたしたちはローマに着いた。
イザヤ書 41章 10節
恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。
2023年2月12日 降誕節8主日
説教題 『それだけは止めてくれ』
聖 書 ヨブ記 2章1〜13節 旧約聖書(新共同訳)1037ページ
ルカによる福音書5章12〜13節 新約聖書(新共同訳) 66ページ
讃美歌(21) 433 あるがままわれを
「うちの親父にプロレスのことをショーだとか言ってはいけないよ」。友人の父親は、名の知れたエバンジェリスト(名物説教者:キシモト訳)であった。ある日、友人宅を訪ねた。牧師館のテレビはプロレス中継の真っ最中であった。「お茶でも飲んでいきなさい」。「いえ、今日は失礼します」。関わってはいけない。「親父は、自分に反対する役員を『サタン!』なんて喚(わめき)き散らすんだ。役員が、悪役レスラーに見えるらしいんだね」。
サタンの原意は、『告発する者』である。人情弁護士に対決する意地悪検事を思わせる。ヨブ記はそのような模擬法廷の場に我々を誘う。裁判長は神、弁護士は天使、検事はサタンである。『サタンも』の『も』が意味深である。弁護側の証人はヨブの三人の友人たちである。ヨブはイスラエルやユダの人ではない。何人(なにじん)でもない。友人たちも漠然としたオリエントの名士たちである。ヨブ記は、『もし、そういうことだとしたら』で構成されている。架空の話だとの断りを入れている。洒落が分からない人を苛立たせない。熱狂的なプロレスファンの内にあるリアルへの敬意が払われている。レスペクトがある。
ヨブは、何の落ち度もない人であった。善人であった。富と平和に満ちた一族の長でもあった。それが、サタンの不快となる。神の前に完璧な人間が存在するわけがない。そう見えることが、そもそも大罪である。サタンの告発は厳しい。無罪を有罪にしてこそ剃刀(かみそり)検事である。サタンはヨブの破壊を神に願って許しを得た。ヨブは全てを取り上げられたが、音を上げなかった。サタンは、気付く。肝心なことを忘れていた。『皮には皮』。まさに、文字通り、ヨブの生皮を引き剥がすことを。中世ヨーロッパの教会は、尋問と称して真っ赤に焼いたペンチで魔女やプロテスタントの皮膚を捩(ね)じったと言う。『お前の皮は他の誰かの者の皮ではない』。悲鳴を上げろ。神を呪え!
『それと見分けられないほどの姿』。ヨブは酷い皮膚病に侵される。二目と見られない姿となる。明治期、京都府北部の教会に『丹波ヨブ』と呼ばれた一人の信徒がいた。重い皮膚病に罹(かか)り盲目となる。村里を離れた谷底に自らを隔離した。何者かに毒を盛られ、濃膿の悪臭が充満する小屋の中にその生涯を閉じた。しかし、丹波ヨブは、母の信仰を胸に刻み、最後まで自分を見舞う牧師と教会員、丹波のことを祈ったと伝えられている。
イエスは、ヨブや野林格蔵(丹波ヨブ)を癒したと福音書は語る。ヨブ記の架空性への挑戦、挑発を感じる。『それだけは止めてくれ』。生皮を剥がれても、イエスの癒しがある。回復がある。恥ずることなく、知性を疑われても、プロレスをショーだと言ってはならない。
丹波ヨブ碑の前にて。南丹市日吉町胡麻
讃美歌(21) 433 あるがままわれを
(1) あるがままわれを 血をもてあがない イェス招きたもう み許にわれゆく
(2)洗うすべもなき わがとがも罪も イェス潔めたもう み許にわれゆく
(3)うたがいの波も 恐れのあらしも イェス鎮めたもう み許にわれゆく
(4)こころの痛手に 悩めるこの身を イェス医したもう み許にわれゆく
(5)たよりゆく者に 救いといのちを イェス誓いたもう み許にわれゆく
(6)あるがままわれを かくまで憐れみ イェス愛したもう み許にわれゆく
ヨブ記2章1〜13節
またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。さて、ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。
ルカによる福音書5章 12〜13節
イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。
2023年2月5日 降誕節7主日
説教題 『大家の浄瑠璃』
聖 書 コヘレトの言葉 3章9〜20節 旧約聖書(新共同訳)1037ページ
マルコによる福音書4章1〜8節 新約聖書(新共同訳) 66ページ
讃美歌(21) 210 来る朝ごとに
「浄瑠璃が悲しゅうて泣いてるんやおまへん。大家はんの浄瑠璃に皆(みんな)寝てますのに、大家はんが座ってるとこ、ワテの寝床だんねん。ワテだけ寝れまへんねん」。大家が長屋の連中をご馳走で釣って下手な浄瑠璃を無慈悲に聞かせる。風邪で寝込んだ小学生の頃、ラジオで聴いた落語のうろ覚えである。
旧約聖書の『伝道の書』が『コヘレトの言葉』とタイトルが変わった。翻訳者の苦労は分かるが不評の声もある。『エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉』、『ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉』と一章一節が始まる。他にも多くの訳があるが、共通してソロモン王の名は伏せられる。コヘレトとは『集会(教会)、転じて説教者』を意味する。人の集まる所でそれなりの者が人の道を説く。講壇に立ってみたい。一度、『それ』をやってみたい。大家の退屈な義太夫は観客が不在では成り立たない。素人がやりたがる、なりたがる。勘違いされた『それ』はしばしば、冷笑の対象となる。イエスの種蒔きの譬えをそのまま復唱する説教に然(さ)も似たり。
ソロモン王は、肩書を外して一介の説法者、ソロモン入道として神を語った。この書は、『一切は空(くう)の空』で始まる。全ては空しいの前置きがある。成功者の影を伝えたかった。伝道者(コヘレト)の言葉はさらに続く。『何事にも時があり』。さらに続く。『すべて定められた時がある』。これを、したり顔であたかも自分のオリジナルであるかのように新入生へのスピーチとする入学式があったりする。さらに続く。『神のなされることは皆その時にかなって美しい』。手許の聖書では、『美しい』を『時宜(じぎ)にかなう』と訳している。神の時と自らの時の勘違い。大を生かすために小を抹消した瞬間。ソロモンは若気の至りでそれを時宜(グッドタイミング)、美しいと感じた。穴があれば入りたい。ソロモンの作とされる箴言や伝道の書は、イエスの種まきの譬えを丸写しに語る無邪気の危険を孕(はら)んでいる。大家の滑稽を仮面に、ソロモン王はピエロを見事に演じたのである。
南十字星を仰ぎ椰子の葉陰に憩う南の島々に一つの神話がある。その昔、人々は天に日毎の糧を求めた。最初に石が降りて来た。人々はそれを拒んだ。二度目にバナナが降りて来た。人々は歓喜した。石は不変。バナナは腐る。人の命の有限性の説明とされている。腐るバナナの『その時』を見極めることは難しい。ソロモン王と雖(いえど)も例外ではなかった。それ故に、『一切は空』とソロモンが呻(うめ)いた言葉は、『在りて在る』を示す濃厚な輪郭であったと気付きたい。
2023年『友』に寄せて
妹に
託せし最後
われ涙
友の残せし
スマホが履歴
讃美歌(21)210 来る朝ごとに
コヘレトの言葉 3章9〜20節
人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と。わたしは知った。すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。今あることは既にあったこと。これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる。太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。わたしはこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある。人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。
マルコによる福音書 4章1〜8節
イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
2023年1月29日 降誕節6主日
説教題 『神殿の空白』
聖 書 ハガイ書 1章1〜12節 旧約聖書(新共同訳)1476ページ
マルコによる福音書 13章1〜2節 新約聖書(新共同訳) 88ページ
讃美歌(21)449 ちとせのいわよ
「親父は、商人は算盤(そろばん)が弾けたらそれでええちゅうて、学校へやってくれまへんでしたんでっせ」。社長は相当父親を恨んでいる。和服の妻が水割りを作る。奥行きのある古い商家の一室を改築したホームバーが自慢だ。「センセは大学院まで出とるちゅうやないですか。大した生活しとらんのに」。酒癖が悪い。先代社長は教会の大長老であった。路傍伝道の太鼓の音がお茶屋帰りの若旦那の遊興に休止符を打った。清貧の極みを地で行く伝道者に出会った。長老は、禁煙の苦しみからゴミ箱の吸い殻を漁る痛恨を繰り返しながらも立派な信仰者のレッテルを獲得した。相当な無理、見栄があった。贅沢はいけない。知識は人を傲慢にする。教養人を嫌った。牧師が長く続かなかった。牧師給に厳しかった。「牧師の子どもに教育は要らん」。それを自分の息子にも強いた。教会員の生活にも五月蝿(うるさ)く干渉した。折しも、新会堂建築の機運が高まった。教会員は丘の上の瀟洒(しょうしゃ)な教会をイメージした。資金も調った。「贅沢なもん作らんでもええ」。長老の鶴の一声が教会総会の決議を覆した。
イエスは、エルサレムの神殿に感嘆する弟子の一人に向かってその有限性を一刀両断する。この時の神殿は、バビロニア捕囚によって徹底的に破壊されたソロモンの神殿を帰還民が規模を縮小して再建した第二神殿と呼ばれるものをヘロデ大王が豪華な大改修を加えたものであった。ユダヤ人へのご機嫌取りのシロモノであったが、弟子の感嘆に十分価する丘の上の教会であった。丘の上の教会は、弟子の耳には、キンコンカン、キンコンカン。キミ、コンカイ、キミ、コンカイ。『君、来んかい、君、来んかい』と軽やかな鐘楼の音を響かせた。イエスは苦笑いする。「君、来んかい? 君にはそう聞こえるのか。ガラ〜ン、ガラ〜ン、礼拝堂は、がらがら、と鳴っているじゃないか」。
『今、お前たちは、この神殿を廃虚のままにしておきながら
自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか』
バビロニア捕囚は、民の不信仰を糾(ただ)すために神が仕組んだものと聖書は記している。バビロニアからの帰還も、神がしたたかなペルシャ王の『慈悲』を民に向けさせに過ぎない。帰還した民(残りの民)は、神殿再建をさておき、先ず自分たちの寝場所の確保を優先した。破壊され廃墟となった前の神殿から板切れを剥ぎ取って自分たちの家を建てた。それは預言者ハガイの逆鱗に触れる出来事であった。その怒りは、イエスの心に届くまで燻(くすぶ)り続けたのである。
寒中お見舞い申し上げます。(雪だるま君)
讃美歌(21)449 ちとせのいわよ
(1) 千歳の岩よ わが身を囲め 裂かれし脇の 血しおと水に
罪もけがれも 洗いきよめよ
(2)かよわき我は 律法(おきて)にたえず もゆる心も たぎつ涙も
罪をあがなう 力はあらず
(3)十字架の他に 頼むかげなき わびしき我を 憐れみたまえ
み救いなくば 生くる術なし
(4)世にある中も 世を去る時も 知らぬ陰府にも 審きの日にも
千歳の岩よ わが身を囲め
ハガイ書1章1〜12節
ダレイオス王の第二年六月一日に、主の言葉が預言者ハガイを通して、ユダの総督シェアルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュアに臨んだ。「万軍の主はこう言われる。この民は、『まだ、主の神殿を再建する時は来ていない』と言っている。」主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。「今、お前たちは、この神殿を廃虚のままにしておきながら自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。今、万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。種を多く蒔いても、取り入れは少ない。食べても、満足することなく、飲んでも、酔うことがない。衣服を重ねても、温まることなく、金をかせぐ者がかせいでも穴のあいた袋に入れるようなものだ。万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受けると主は言われる。お前たちは多くの収穫を期待したが、それはわずかであった。しかも、お前たちが家へ持ち帰るとき、わたしは、それを吹き飛ばした。それはなぜか、と万軍の主は言われる。それは、わたしの神殿が廃虚のままであるのに、お前たちが、それぞれ自分の家のために走り回っているからだ。それゆえ、お前たちの上に天は露を降らさず地は産物を出さなかった。わたしが干ばつを呼び寄せたので、それは、大地と山々と穀物の上に新しいぶどう酒とオリーブ油と土地が産み出す物の上に、また人間と家畜とすべて人の労苦の上に及んだのだ。」シャルティエルの子ゼルバベルと、大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者は皆、彼らの神、主が預言者ハガイを遣わされたとき、彼の言葉を通して、彼らの神、主の御声に耳を傾けた。民は主を畏れ敬った。
マルコによる福音書13章1〜2節
イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴(しるし)があるのですか。」
2023年1月22日 降誕節5主日
説教題 『裏のおばちゃん』
聖 書 コリントの信徒への手紙一 1章10〜17節 新約聖書(新共同訳) 299 ページ
民数記9章15〜20節 旧約聖書(新共同訳)227ページ
讃美歌(21) 505 歩ませてください
「おばちゃんですよね。裏に住んでおられた」。裏の家からはオルガンと讃美歌が聞こえていた。他所の人たちが出入りしていた。その家には町内に一台だけのスクーターがあった。子どもたちは、『ラビット』あるいは『たんたん』に跨ったおっちゃんを羨望の眼差しで追いかけた。ガソリンスタンドを経営しているらしい。裕福な家であった。おばちゃんに誘われて日曜学校にも行ったが、裏の家の事などすっかり忘れるほどに時が流れた。ところが、偶然にも、おばちゃんと再会した。不慮の事故により十歳の頃から寝たきりになった女性牧師を特別伝道集会の講師に招いた。おばちゃんは講師の身の回りの世話をしていた。あのにこにこした表情に変わりがなかった。三十年ぶりであった。裏のボクちゃんが牧師になっている。おばちゃんの驚きは大きかった。
「いつも裏からオルガンと讃美歌が聞こえてましたね。素晴らしいクリスチャンホームやと思うておりました」。「そんな風に見ていてくれたのね。うちの家を。嬉しいわ。でも実際は、家庭も教会もあなたの見ていたものとは違っていたのよ」。その言葉が気になった。おばちゃんは所属教会を出たという。詳細を興味本位に聞かない自制が働いた。おばちゃんの教会は北欧系の宣教師が開いた教会であった。「おばちゃん、あのサンタみたいな牧師さんは今でもおられますか」。「お子さんが先生の不注意で大火傷されたり、教会内で対立があったり、体も悪くされて、お国へ帰られたわ。音信不通なのよ」。
パウロは、クロエおばちゃんの家からコリントの教会の現状を旅先で知らされた。恐る恐る訪れたコリントの町はアテネでの散々な思いとは打って変わった福音宣教の吸い取り紙であった。凝り固まったユダヤ教からの執拗な嫌がらせはあったがユダヤ教会堂の隣の家が集会場となるほどに福音(新宗教)は受け入れられた。心地良く一年半もの期間を伝道活動に専念することが出来た。英気も十分に養われた。
ところが、去った教会に問題が生じている。よくある自意識過剰の牧師が陥る錯覚ではない。「俺がいなくちゃ」。ではなく、パウロがいなくても機能する教会を育てたはずなのに。コリントの町は、この世の春を享受していた。『コリントの人』と言うと、それは酒池肉林に溺れることを意味したらしい。いや、肉欲だけだはないだろう。精神の世界も相当贅沢なものであっただろう。それゆえ、『コリントの人』は、常に満たされない。その状態を、パウロは、『滅び』と言った。
『十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなもの』
矢部登代子師の右隣が裏のおばちゃん
讃美歌(21) 505 歩ませてください
コリントの信徒への手紙一1章1〜節
さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
民数記9章15〜20節
幕屋を建てた日、雲は掟の天幕である幕屋を覆った。夕方になると、それは幕屋の上にあって、朝まで燃える火のように見えた。いつもこのようであって、雲は幕屋を覆い、夜は燃える火のように見えた。この雲が天幕を離れて昇ると、それと共にイスラエルの人々は旅立ち、雲が一つの場所にとどまると、そこに宿営した。イスラエルの人々は主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。雲が長い日数、幕屋の上にとどまり続けることがあっても、イスラエルの人々は主の言いつけを守り、旅立つことをしなかった。雲が幕屋の上にわずかな日数しかとどまらないこともあったが、そのときも彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。
2023年1月15 日 降誕節4主日
説教題 『やらせる・やらせてもらう』
聖 書 出エジプト記18章12〜24節 旧約聖書(新共同訳)123ページ
使徒言行録 6章2〜3節 新約聖書(新共同訳)223 ページ
讃美歌(21) 278 暗き闇に星光り
「うちの娘を嫁に貰いたいなら、ちゃんとした人を仲に立てて言うべきじゃないのか」。お言葉ですが、ヨメに貰いに来たのではありません。二人は結婚すると申し上げに参りました」。「仲人は必要ないというのかね」。「勿論です。人を立てればボクを気に入らない場合、お父さんも断りの理由を探さねばなりませんからね」。ショートピースを二
箱空にした。三箱目の封を切った。「キミは、そのような煙草を吸うのかね」。文字通り、人を煙に巻いたような最初の挨拶となった。「キシモト君、煙草をやめる方法を教えてあげよう」。二年後の正月だった。「禁煙に失敗するのは煙草を遠ざけるからそうなるんだな。どの部屋にも、どのポケットにも煙草とマッチを用意しておくんだな」。
チャールトン・ヘストン演じるモーセが大きく手を差し伸べ海を二つに分ける。シネラマ映画館の観客にどよめきが起こる。ファラオの大軍団が葦の海に沈んで行く。物の本によると出エジプトの出来事はエジプト史に微塵の痕跡すらない作り話とされる。あったとしても小規模の反乱程度だったと言う。聖書のダイナミズムは、特撮映画の無邪気と勘違いされてはならないと言う事だろう。
ファラオの追手を撃退したモーセに民は絶大な信頼を寄せたなどとは記されていない。約束の地への旅はロマン溢れるものではなかった。必要な生活物資の絶対量が不足していた。天からのパン(マナ)に養われたと言うが、その持続性は疑わしい。着の身着のまま、身の回り品といえば瓢箪の水筒程度。不平不満がモーセに集中する。モーセは生真面目にも400 万人の個別対応に応じた。心身の疲労は頂点に達した。この時、モーセは妻子を妻の実家に残していた。
単身赴任先に、しゅうと(舅)のエトロが娘と孫を連れてやって来た。王宮で育てられたモーセが自らの出自を知った時、モーセは、主の民を虐待したひとりのエジプト人を殺害し逃亡者となっていた。リチャード・キンブルを匿(かくま)い娘の婿としたのが異教の祭司エトロであった。不様(ぶざま)な仕事場に『岳父(がくふ)様』が現れたのである。
舅は婿に言った。「キミのやり方は間違っている」。「ひとりで何もかもやってはいかん」。「やらせるのだ。任せるのだ。キミは責任だけ取ればよい」。仕事中毒はニコチン中毒にも似たり。「どの部屋にも、どのポケットにも煙草とマッチを用意するのだ」。
モーセは、チェーン・スモーキングから解放された。
静かな正月だった1980年頃
讃美歌(21) 278 暗き闇に星光り
(1) 暗き闇に 星光り わが行く道 示して
救い主の います村に 導き行け われらを
(2)かいばおけは 露に濡れ 幼き.主は まどろむ
み使いらは み子を守り 歌声もて たたえぬ。
(3)感謝に満ちて われらいま 深き愛を あらわさん
博士たちは 主にささげぬ 黄金、乳香、没薬
(4)たぐいもなき たからさえ 捧ぐるには 足らねど
まずしき身の うたと祈り 主は喜び 受けたもう
出エジプト記18章12〜24節
モーセのしゅうとエトロは焼き尽くす献げ物といけにえを神にささげた。アロンとイスラエルの長老たちも皆来て、モーセのしゅうとと共に神の御前で食事をした。翌日になって、モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた。モーセのしゅうとは、彼が民のために行っているすべてのことを見て、「あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか」と尋ねた。モーセはしゅうとに、「民は、神に問うためにわたしのところに来るのです。彼らの間に何か事件が起こると、わたしのところに来ますので、わたしはそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです」と答えた。モーセのしゅうとは言った。「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう。」モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、その勧めのとおりにし、、、、、
使徒言行録6章2〜3節
そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。
2023年1月8日 降誕節3主日
説教題 『筋を通そうとしたのでもなく』
聖 書 マタイによる福音書 3章4〜17節 新約聖書(新共同訳) 3〜4ページ
イザヤ書30章10〜14節 旧約聖書(新共同訳) 108ページ
讃美歌(21) 505 歩ませてください
「そやから、来るの嫌やいうたやないか」。後ろの席の夫婦がもめている。「ご主人さん、あんたは洗礼受けてへんから、そのパン食べたらあかんのよ」。すぐ横の婦人が目を吊り上げる。どこにでもいる要らん事言いの余計があった。聖餐式のパンが回って来た。妻は申し訳なさそうに執事の差し出す銀の皿に手を伸ばした。「二度とお前とは教会へ行かんからな。ワタクシは結構ですと言うつもりやったんや。なんや、あのおばはん」。
おばはんの圧に押された牧師は次回から式文に手を加えた。「洗礼に至っておられない方は、聖餐に与ることをご遠慮願います」。反発があった。心ある信徒の誰もがパンと葡萄酒を受け取らなかった。牧師は詫びた。二度と教会に行かないと言った人が、その年のクリスマスに洗礼を受けた。「洗礼は罪の許しやと牧師さんが言うたけど、あれが利いたな。ワシは罪深い人間やからのう」。
イエスは、三十歳ごろバプテスマのヨハネから洗礼を受けたとされる。イエスの誕生から半ページも読まないうちに三十年の時が流れる。聖書は乱暴な書物である。イエスはヨルダン川に集まる人々に混じってヨハネから洗礼を受けた。どこかのおばはんに言われたのだろうか。『あんた、洗礼受けんとそのパン食べたらあかんで』。まさか。
ヨハネは荒っぽい。ネアンデルタール人のような恰好をしている。イナゴを食べている。原始の人であった。加工されていない人間であった。時の人となった。歯に衣着せない人の魅力は測りがたい。人々は、マゾヒズムに酔った。『もっと強い鞭をくれ』。
ヨハネは、自らの不幸や民の不運を他人のせいにするなと迫る。お前の罪が原因だと。人々は、心から自らの罪を告白しヨルダン川にその身を沈めた。ファリサイ派やサドカイ派の人々もやって来た。ファリサイ派とサドカイ派は反目している関係のはずである。貧しき大衆の指導者を自負するファリサイ派と王侯貴族の付属物のようなサドカイ派は水と油のはずである。敢えて言えば、大衆を怖れる一点だけが共通項である。ファリサイ派もサドカイ派もおばちゃんポリスには弱かった。「あんた、洗礼受けんとパン食べたらあかんよ」。
熊さん八さんと同じ列に並んでいるイエスに順番が回って来た。ヨハネは狼狽(うろた)える。「センセ、それはおまへんで」。
「ヨハネ兄さん。あんたから洗礼受けんで、どないなりまんねん」。
ヨハネはイエスの言うままに洗礼を授けた。
それは、天の喜ぶところであった。
『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』
はっぴょん・にゅー・いやー!
ぴょんぴょん撥ね跳ぶ一年でありますように。
讃美歌(21) 505 歩ませてください
(1) 歩ませてください 真実もとめて 労苦を惜しまず 仕えあう道を
(2)導いてください 愛のみ言葉で 主よ この私を なすべきつとめに
(3)悟らせてください たじろぐことなく 不正にうちかつ 信仰の道を
(4)歩ませてください みあとに従い 希望に輝く 平和への道を
マタイによる福音書3章4〜17節
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。、斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
イザヤ書30章10〜14節
彼らは先見者に向かって、「見るな」と言い、預言者に向かって「真実を我々に預言するな。滑らかな言葉を語り、惑わすことを預言せよ。道から離れ、行くべき道をそれ、我々の前でイスラエルの聖なる方について語ることをやめよ」と言う。それゆえ、イスラエルの聖なる方はこう言われる。「お前たちは、この言葉を拒み、抑圧と不正に頼り、それを支えとしているゆえこの罪は、お前たちにとって高い城壁に破れが生じ、崩れ落ちるようなものだ。崩壊は突然、そして瞬く間に臨む。その崩壊の様は陶器師の壺が砕けるようだ。容赦なく粉砕され、暖炉から火を取り、水槽から水をすくう破片も残らないようだ。」
2023年1月1日 降誕節2主日
説教題 『ふたりの妻』
聖 書 サムエル記上 1章1〜20節 旧約聖書(新共同訳) 428ページ
ローマの信徒への手紙12章1節 新約聖書(新共同訳) 291ページ
讃美歌(21) 246 天のかなたから
「あなたは、夫の兄弟とも結婚しておられますが、そのことをどう思われますか」。無神経な質問がディレクターの口から発せられる。ラバやロバに交易品を背負わせ険しい山道を命懸けの旅する商人たちが立ち寄る村の生活を切り取ったドキュメンタリー番組の一場面である。世界の屋根に暮らす村の住人たちは総じて痩せていた。目だけがギラギラと光っていた。肌は乾燥した褐色だった。一人の女性が夫とその兄弟と婚姻関係を結ぶ。道徳の問題ではない。貧しさを生きる苦肉の習俗である。マイクを向けられた女性は下を向いて無言だった。屈辱に耐えていた。秘境とその地に生きる人々を紹介する企画ではあったが、『踏み込んだ質問』が番組の品位を著しく欠いた。
男兄弟がひとりの女性を妻として共有する。貧しさという事情が背景にある。その逆に裕福な男が複数の妻を持つ例がある。アブラハムに始まる信仰の民もその範疇(はんちゅう)にあった。「あなたには複数の妻がいますが、それをどう思いますか」。「妻たちのことでは、いつも頭を悩めております」。そのような答えが返って来るかも知れない。
『エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった』。側室や妾ではない。妻がふたりいたと明記されている。エルカナは偉大な預言者サムエルの父である。サムエルは、ダビデに油を注いだ預言者である。神と民に仕える国に相応しい王の鋳型を作った預言者、キングメーカー、フィクサーである。
サムエルの母ハンナは不妊に悩み苦しんだ挙句、子が授かるならばその子を神に捧げると請願を立てた。大岡裁きではないが、サムエルは、エルカナのものにでもなく、ふたりの妻のものにでもなく、神のものとなった。
クリスマスは、12月25日をもって仕舞ではない。欧米の教会と枝違いの東方教会では1月6日の公現日を降誕祭としている。年が明けても、クリスマスシーズンなのである。エルカナの妻たちが夫や子供を自らの占有物とした愚に学ばねばならない。母親の分身とも言うべき我が子を自分の所有としない。神に仕える者として自分の手から離す。イエスの母マリアも息子イエスから『あんた呼ばわり』された時、お告げを聞いたあの時の我に戻った。
バザールカフェ代表のマーサ・メンセンディークさんが、クリスマスの喜びは愛の分かち合いにあるとニュースレターに書いている。『神はそのひとりごを賜った』。独り占めは宜しくないのだ。
洗礼式:2022年12月25日宮本ヲスヱ墓前
讃美歌(21) 246 天のかなたから
サムエル記上1章1〜20節
エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに一人の男がいた。名をエルカナといい、その家系をさかのぼると、エロハム、エリフ、トフ、エフライム人のツフに至る。エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった。エルカナは毎年自分の町からシロに上り、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。シロには、エリの二人の息子ホフニとピネハスがおり、祭司として主に仕えていた。いけにえをささげる日には、エルカナは妻ペニナとその息子たち、娘たちにそれぞれの分け前を与え、ハンナには一人分を与えた。彼はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ。今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった。夫エルカナはハンナに言った。「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」さて、シロでのいけにえの食事が終わり、ハンナは立ち上がった。祭司エリは主の神殿の柱に近い席に着いていた。ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」そこでエリは、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。一家は朝早く起きて主の御前で礼拝し、ラマにある自分たちの家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を御心に留められ、ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。
ローマの信徒への手紙12章1節
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
2022年12月25日
降誕日・降誕節1主日
説教題 『イエスが、生まれた』
聖 書 ヨハネによる福音書1章1〜18節 新約聖書(新共同訳) 163ページ
ミカ書 5章1節 旧約聖書(新共同訳) 1454ページ
讃美歌(21) 266(1,4) イェスは生まれた
「まあ、みなさん、聞いとくなはれ。『かもめはかもめ』。あれ、なんだんねん。研ナオコの歌」。「始まりましたでぇ。年寄りのボヤキ」。「かもめが、かもめやなかったら、なんやちゅうじゃい!」。若者に人気のあるヒットソングをこき下ろす。「責任者出て来い!」。相方のヨメが高血圧を制止する。「偉い人が出て来やはったどないするねん」。「謝ったら仕舞やないか」。「ええ加減にしなさい」。先ほどの威勢はどこへやら。ボヤキ漫才は、客席への『祝祷』をサービスして楽屋に消える。
松任谷由実という歌手がいる。団塊の世代には、ボヤキ師匠にとっての研ナオコのような歌手であるが、『風のなかのスバル、砂の中の銀河』で始まるプロジェクトXというNHK番組のテーマ曲と言えば、ああ、そうかと思い出せるかも知れない。
『ワンス・アポンナ・タイム−遥かな過去から−今日まであなたを求めて−リインカーネーション』。
カーラジオから松任谷由実の曲が流れて来た。一昔前のヒットソングらしいが初めて耳にした。横文字の意味を教えて欲しいと妻が言う。『リインカーネーション(re-incarnation)』は耳慣れない。「輪廻転生(りんねてんしょう)の英語訳やけど、二人はどこかで一度出逢っていた運命の関係やというようなこと歌うてるみたいやな」。リインカーネーションの『リ(ふたたび)』を取れば『受肉(incarnation)』の意味となる。『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた』。二語に共通するカーネーションは『肉』に繋がる語源を持っている。赤い肉片のような花弁の花の名の由来ともなっている。「要するに、この『肉』ちゅうことが、いわゆる『観念的』ちゅう概念に対照的なニュアンスを与えるんや」。「講釈はもうええわ。輪廻転生だけ分かったらええんよ」。運転に専念するように促された。
ヨハネは悩んでいた。イエスや兄弟子たちから可愛がられたヨハネは、殉教を免れ長く生きた。イエスの十字架、紀元70年のエルサレム神殿の崩壊を目の当たりにした。信徒の世代も二世、三世へと移り変わった。何かが『薄く』なっている。時代に媚びを売る抽象的なフレーズがまかり通る。『かもめはかもめ』。ヨハネの心はボヤキ師匠の苛立ちにも似た思いが充満していた。昔が良かったと言うのではない。観念に閉じ込められない信仰、『肉』となった神の言葉を研ぎ澄まされた言葉で示したかった。観念を乱暴にも『口先だけ』と言い換えよう。『受肉』、まさに、あなたの信仰がボディー(具体性)を有しているかどうかをヨハネは問うている。
『言(logos)は神と共にあった』。
この時期の、この赤い薔薇の花弁を見よ!
讃美歌(21) 266 イェスは生まれた
(1)イェスは生まれた ハレルヤ うれしいこの日 ハレルヤ
イェスは生まれた ハレルヤ われらのために ハレルヤ
(2)栄光は神に ハレルヤ 力満ちる主 ハレルヤ
われらたたえよう ハレルヤ 聖きよいそのみ名 ハレルヤ
(3)み子は来られた ハレルヤ 受肉の神秘 ハレルヤ
まことの神よ ハレルヤ まことの人よ ハレルヤ
(4)来たりて拝め ハレルヤ まぶねのイェスを ハレルヤ
われらたたえよう ハレルヤ 平和のみ子を ハレルヤ
ヨハネによる福音書1章1〜18節
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
ミカ書5章 1節
エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
2022年12月18日
降誕前1主日礼拝・待降節第4主日
説教題 『Big X'mas(ビックリ・マス)』
聖 書 ルカによる福音書1章26〜35節 新約聖書(新共同訳) 100ページ
イザヤ書 11章1〜5節 旧約聖書(新共同訳) 1078ページ
讃美歌(21) 266(1,4) イェスは生まれた
「お早うさん。あんたら、うちの言うこと、よおう聞きや」。「今日は、オンナの牧師さんやて」。「そやけど、綺麗な人やな」。「あんたらな、男に騙(だま)されたらどうなるか分かってる?」。脈絡がない。校門のマリア像に『御機嫌よう』の挨拶が習わしの女子高である。「クリスマスのお話しなさいって校長先生に言われて来たんよ」。「マリアさんのお話するけど、びっくりしたらあかんよ」。『来たんよ』、『びっくり』に独特な抑揚がある。
礼拝講師に招かれた女性牧師は、十代の半ばに妊娠と中絶を経験している。行きづりの恋だった。ひと夏の出来事であった。学校を中退した。自暴自棄の生活が長く続いた。「神さまの前には、そのまままで良いのですよ」。ネオン街で『流しの牧師』に出会った。自分と同じ境遇の女たちに出会った。人が人を磨いた。気が付いた時には、腰まである黒髪に真っ白のパンツスーツが眩(まばゆ)い女性牧師になっていた。彼女が語る赤裸々な過去がそのルックスに太い輪郭を与えた。
「あんたらな、マリアさんはな、言うてみると、貧しい国の路上生活者みたいな少女やったやで」。聖書解釈は、かなり過激である。彼女は、風俗関係で荒く稼いだ三千万円ほどの貯金を神学校の学資と世界旅行に使い果たした。女子高生たちに隠し事なく語り掛けた。「十五歳で妊娠って言われたら、どんな気持ちになると思う?」。礼拝堂がざわつく。講師は、そのざわつきを十秒ほど許した。「な、想像しただけでも。怖いやろ」。彼女は、路上で生まれ路上で死んで行く人々を見た。少女が犯され妊娠する。誰の子かなど分からない。乙女マリアを路上の少女たちの中に見る目を『御機嫌よう』の生徒たちに求めた。「知らんは、あかんよ」。駄目を押した。
イエスは、ごみ同様に扱われる人々の中に生まれた。それが、クリスマスの出来事だったとメッセージが締め括られた。天使がマリアに言う。『おめでとう、恵まれた方』。『主が共におられる』。なんと迷惑な言葉だろう。生まれたばかりの赤ん坊が公園のトイレに棄てられる。マリアの身に起こったことの十月十日(とつきとおか)先の事件だったかも知れない。
マリアの名は、モーセとアロンの姉、ミリアムに同じだという。
葦の海にファラオの軍団を沈めた戦勝をタンバリンを片手に祝った元祖チアリーダーである。その名は、『神の愛でし女』の意味だが、古い解釈書に『苦い』の意味もあったような気がする。
桃から生まれた人もいる
讃美歌(21) 266(1,4) イェスは生まれた Bright and joyful is the morn
ルカによる福音書1章26〜35節
ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
イザヤ書 11章1〜5節
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。
2022年12月11日 降誕前2主日礼拝・待降節第3主日
大住世光教会・泉伝道所・京都教区センター教会
説教題 『鳩時計が、ぽっぽぽっぽ』
聖 書 ゼファニア書3章13〜20節 旧約聖書(新共同訳) 1474ページ
ルカによる福音書1章19〜25節 新約聖書(新共同訳) 100ページ
讃美歌(21) 261 もろびとこぞりて
「この人からデートしようって、仕事場に電話がかかってきたのよ」。「それは、よくある話じゃないですか」。「なに言うてんのよ。キシモトさん。どこからかかって来たと思う。電信柱の上からよ。この人のするこというたら」。話が呑み込めない。NTTが電電公社だった頃の話らしい。技術者の山中さんは交換手だった女性にあの手この手でアタックしていた。プラグをあちらこちら抜いたり差したりしている忙しい最中にヘッドホンから山中さんの声があったというのだ。「今はデジタルの時代でっさかいそんなこと出来まへんけど、昔の電話ちゅうのは機械式でっさかい、この人のヘッドホンに電信柱でもどこからでもワシの声を聞かせることなんか訳なかったんでっせ」。「まさか、電信柱の上からとは思わへんかったのよ」。
デジタルの時代が来た。山中さんは早々に退職した。「あんなもん見放してやったんや」。山中さんは郷里へ戻り人里離れた山小屋で鳩時計を作り始めた。鳩時計には、妻と行ったスイス旅行の思い出が詰まっていた。あっという間に、作業場は売れない鳩時計で一杯になってしまった。五百を超える鳩がぽっぽぽっぽと谷間にこだました。妻が、ある日、パート先の寿司職人と何処へと消えた。山中さんは、ひとりになった。会社も妻もない。山中さんは、『山の中』に一人残された。
北王国が滅び、エルサレムを唯一の拠り所とするユダ王国もその運命は風前の灯であった。神は、ユダ王国だけではなく、反イスラエル・反ユダの周辺の国々をもバビロニアに呑み込みませようとする。北のアッシリア、南のクシュ(エチオピア・エジプト)西のペリシテ、東のモアブ・アンモンにも神の裁きを下しエルサレムへの警告とする。しかし、民の心は、ヨシア王が断行した主なる神をモーセの時代に戻す改革から遠く離れていた。『異邦人の服を着たすべての者を罰する(1:8)』。民は周辺の国々や新興大国バビロニアの文化にどっぷりつかっていた。自分の子どもを生贄(いけにえ)として偶像に差し出す貪欲(どんよく)の世界に呑み込まれていた。ファッショナブルな『異邦人の服』に身を包み、世紀末的狂瀾怒濤に酔っていたのである。
エルサレムの人びとは、妻に逃げられても鳩時計を作り続ける『残れる人』にならなかったのである。恥を知る者を『残れる者』とゼファニアは言う。『残れる者』だけが神にその命と人生(Leben/Life)を回復される。
ひたすら神と人に仕えた老祭司夫妻も人の子の親になれなかった『残された者』ではあったが、バプテスマのヨハネの父母となった。
この子たちは今も『残っている』
讃美歌(21) 261 もろびとこぞりて
(1)もろびとこぞりて いざ、むかえよ 久しく待ちにし 主は来ませり
(くりかえし)主は来ませり、主は、主は来ませり
(2)悪魔の力を うちくだきて 捕虜を放つと 主は来ませり
(3)この世の闇路を 照らしたもう 光の君なる 主は来ませり
(4)平和の君なる み子をむかえ われらの救いと ほめたたえよ
ゼファニヤ書3章13〜20節
イスラエルの残りの者は不正を行わず、偽りを語らない。その口に、欺く舌は見いだされない。彼らは養われて憩い彼らを脅かす者はない。娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。その日、人々はエルサレムに向かって言う。「シオンよ、恐れるな。力なく手を垂れるな。お前の主なる神は、お前のただ中におられ勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」わたしは、祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れお前の重い恥となっていた。見よ、そのときわたしは、お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。わたしは足の萎えていた者を救い、追いやられていた者を集め、彼らが恥を受けていたすべての国で彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。そのとき、わたしはお前たちを連れ戻す。そのとき、わたしはお前たちを集める。わたしが、お前たちの目の前でお前たちの繁栄を回復するとき、わたしは、地上のすべての民の中でお前たちに誉れを与え、名をあげさせると主は言われる。
ルカによる福音書 1章19〜25節
天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」
2022年12月4日 降誕前3主日礼拝
説教題 『近くは、遠い』
聖 書 イザヤ書 61章1〜4節 旧約聖書(新共同訳) 1162ページ
ルカによる福音4章21〜33節 新約聖書(新共同訳) 108ページ
讃美歌(21) 231 久しく待ちにし
「キシモト君、久しぶりやな。こんな所で会うやなんて」。「先生、なに言うたはりますねん。先生は、分かって『ここ』に来てはりますのか」。かつての先生は、そこに居なかった。親しく敬愛した先生は、そこに居なかった。数年前、牧師会の席でタバコを吸っている猫背を見て以来のことであった。『ここ』は、神学校を卒業したばかりの新任牧師の教会であった。新任牧師は、付属幼稚園の園長を兼ねることになっていたが前任牧師の引退後、牧師の息子が園長に就任していた。教会近くに居を構える前任牧師一族が付属幼稚園を『食い物』にしたのである。前任牧師が急死した。葬儀は、新任牧師が司式すると思われたが、礼拝堂を舞台にした息子の業界デビューの場となってしまった。幼稚園経営関係者が列席の大半を占めからである。その悪巧みに、敬愛する老先生が利用されたのである。控室に飛んでいった。「キシモト君、久しぶりやな。こんな所で会うやなんて」。「先生は、分かって『ここ』に来てはりますのか」。葬儀の後、新任牧師は息子から園内礼拝堂の使用禁止を言い渡された。クリスマスを三日後に控えていた。
新婚の新任牧師は妻と理想的なキリスト教主義幼稚園を夢見ていた。ふたりは人形劇に寝食を忘れる学生時代を過ごした。人形に魂が宿り、ふたりが出向くところに奇跡が起こった。役員会は、ふたりの評判や噂を聞いて前任牧師隠退を機に若い牧師夫妻を後任として招聘した。役員会は、着任早々のふたりに奇跡を求めた。『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』。しかし、牧師の心は浮ついてはいなかった。地域に密着した息の長い地道な教会活動の展望を示し、赴任早々役員会と対立した。役員会は、急死した前任牧師の葬儀を若い牧師に任せない態度を示した。事情を知らない尊師格の牧師を遠くから呼び寄せることにした。仕返しである。園長を世襲した前任牧師の息子に、この展開はこの上ないクリスマスプレゼントとなった。
一方、行き場のなくなった新任牧師夫妻ではあったが、ふたりは赴任早々にもかかわら、教会と接点がなかった地域の人たちとの出会いを既に獲得していた。公民館を借りたクリスマス会は大盛況となった。
『ボクたちの教会が欲しいよお』。人形劇の小さなカーテンが降りる。
教会の外に奇跡が起こった。
役員会が勘違いの接近を牧師に求めたが、その拒絶が奇跡を生んだ。
ハイデガーがヤスパースに「あなたの八十歳の誕生を『はるかな近さ(ferner
Naehe)』から祝います」とカードに添えたが、その返信は、「アホぬかせ (Weiter
Ferne・はるかな遠さ)」であった。
今年はサンタに遭遇出来るかも知れない
讃美歌(21) 231 久しく待ちにし
(1)久しく待ちにし 救いの主来たり とらわれの民を 解き放ちたまえ
(くりかえし) 喜べ インマヌエル来たりて救いたもう
(2)この世に打ち勝つ 力の主来たり 勝利のことばを 与えよ われらに
(3)やみの夜をてらす 光の主来たり 暗き雲はらい 喜びをたまえ
(4)われらを導く 望みの主来たり み国の扉を いま開きたまえ
ルカによる福音書4章 21〜33節
そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。
イザヤ書 61章1〜4節
主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して嘆いている人々を慰めシオンのゆえに嘆いている人々に灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる。彼らはとこしえの廃虚を建て直し、古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
2022年11月27日
降誕前第4主日礼拝 アドベント
説教題 『その日の罠(わな)』
聖 書 ルカによる福音書21章21〜36節 新約聖書(新共同訳) 152ページ
エレミヤ書 33章12〜16節 旧約聖書(新共同訳) 1241ページ
讃美歌(21) 242 主を待ち望むアドヴェント
「日曜日、ボクは、妻が教会に行っている間が一番の休息の時です」。近くのコンビニで弁当を買って静かに本を読む至福の時が、夫にはあるようだ。「奥様も、日曜日の礼拝から心穏やに帰って来られるでしょう」。「何を言っておられます。妻は、礼拝に行く前から喧嘩腰で、帰って来ても不機嫌がなかなか収まりませんのや」。教会は懺悔(ざんげ)と祈りの場所と夫は考えている。「奥様は、牧師がその日どんな説教をしたかとか、教会員と楽しい交流があったとか、そのようなことを帰ってからお話されないのでしょうか」。「そのようなことは、こちらに来てから一度たりともありません」。妻のことを好きで好きで、惚れて惚れて結婚を申し込んだ。「わたしは、クリスチャンだから、あなたも礼拝に来てください。それが、一緒になる条件です」。夫は、堅苦しく長々とした説教を固い長椅子で聴く(聞?)くことになった。
四角四面の教会に妻は安らぎを覚えていた。その教派の持つ教条主義的な雰囲気が喧騒に満ちた生育環境と一線を画していたからである。その教会では、神が中心だった。人間臭いことが極力避けられた。それが、妻には心地良かった。夫は、結婚してから妻の教会に行くことはなくなったが、『日曜日の妻』が浮世の垢や汚れを拭ってくれた。
仕事の都合で遠くへ引っ越すことになった。妻は、近くの教会へ行くようになった。その教会は、神の教会ではなく、人間の教会であった。礼拝中にもかかわらず昼食の準備をするために人が動き回り、礼典の最中には鍋の蓋が大音響を伴って台所の床に落下する。妻は、新しく移った教会の騒々しさに耐えられなかった。『前の教会では』。その言葉が空しく心に反復した。一言手前の一言を言った。糠に釘であった。安らぎのない教会生活が続いている。
「センセ、わたしは、この教会にいるべきでしょうか」。このような相談は、一度や二度ではない。教会を自分の家の居間の続きのように思って傍若無人を決め込む人たちの横暴に苦しむ信徒がいる。その対処は、決して易しくはない。
『そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない』
教会の閉塞性が叫ばれて久しい。イエスは、立ち向かえとは言わない。神の国の接近と神の言葉の実現を機敏に感じる者に与えられる示唆がアドベント(到来)なのだと。
手のひらに秋の深まりが(京つれづれ)俵屋吉富
讃美歌(21) 242 主を待ち望むアドヴェント
ルカによる福音書 21章21〜36節
そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。よく言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」「二日酔いや泥酔や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が罠のように、突如あなたがたを襲うことになる。その日は、地の面のあらゆる所に住む人々すべてに、襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」
エレミヤ書 33章12〜16節
万軍の主はこう言われる。人も住まず、獣もいない荒れ果てたこの場所で、またすべての町々で、再び羊飼いが牧場を持ち、羊の群れを憩わせるようになる。山あいの町々、シェフェラの町々、ネゲブの町々、ベニヤミン族の所領、エルサレムの周辺、ユダの町々で、再び、羊飼いが、群れをなして戻って来る羊を数えるようになる。見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。
2022年11月20日
降誕前第5主日礼拝 収穫感謝日
説教題 『新米とジンギスカン』
聖 書 創世記 4章1〜8節 旧約聖書(新共同訳) 5ページ
ヤコブの手紙 4章1〜3節 新約聖書(新共同訳) 425ページ
讃美歌 536(1,2) むくいをのぞまで
「上の弟がね」。「なに言うとんのや。弟ちゅうたら下や」。「いいや。上の弟がね」。「なに言うとんのや。弟ちゅうたら、年下に決まっとるやないか」。「いいや、そうやないねん。二段ベッドの上に寝とる弟のことやから、上の弟や」。兄弟漫才師の持ちネタである。兄が惚(とぼ)けて、弟が苛々(いらいら)する。弟が警官役になり、兄が職務質問を受ける怪しい人物になる。「あなたのお名前は」。「今、言うぞ」。「ですから、お名前を」。「今、言うぞ」。「本官を愚弄(ぐろう)するのか、貴様!」。「貴様とはなんや。民主警察が善良な市民を貴様呼ばわりするとは何事か!」。「失礼しました。お名前は」。「今、言うぞ」。延々と繰り返される。警官の苛立ちが頂点に達し、『今井雄三』に至る。
兄弟は他人の始まり。遺産相続が『争族』と揶揄される場面にビンボー人の溜飲が下がることもある。血肉を分けた兄弟が憎しみ合うのである。映画『悪名』の中で、田宮二郎扮するモートルの貞が朝吉役の勝新太郎の男気に惚(ほ)れ込んで兄弟の盃を求めるシーンがある。「ワイは、そんなヤクザの猿芝居は嫌や」。「親分、それは言葉が過ぎまっせ」。「なに言うとるんじゃ。ワイとお前は、仲の良い兄弟でええやないけ」。仲の良い兄弟は、アウトローの世界にしかないと言えば極論だろうか。
神に祝福された最初の人間、アダムとエバに男の子が生まれる。兄の名は、カイン。弟の名は、アベル。農業者の兄は、農作物を捧げた。牧畜業の弟は、羊を捧げた。神は喜んでどちらも受ければ良いものをジンギスカンには舌鼓を打ったが新米には目もくれなかった。兄は拗(す)ねて、弟を殺してしまう。人殺しは、人間の性(さが)なのだと。あるいは、農耕文化と牧畜文化、今日的な言い様をすれば、デジタルとアナログを対比させ、偶然性に頼らねばならない文化は排されねばならないとするモダニズムの驕(おご)りが戒められているとか。 (注:古代世界にあって農業は最先端技術・文化)
殺された弟は、神の前に嘯(うそぶ)く兄に土の中から血の叫び声を上げる。殺人現場は、取っ組み合いではなかったようだ。兄は、弟の背後から石を頭にガツン。あるいは、正面からナイフをグサリ。前から殺(や)ったのか。後ろから殺ったのか。これだけで一冊の分厚い神学書が書けるかもしれない。
本日は、収穫感謝の礼拝でもある。ピルグリム・ファーザーズたちの命を助けた先住民と神への感謝を記念しているらしいが、先住民をアベル扱いした歴史は、霞(かす)んでいる。
『あなたがたは、欲しがっても得られず、人を殺します。(ヤコブの手紙4:2)』
兄のおとぼけに苦労する弟
讃美歌 536(1,2) むくいをのぞまで
(2)浅き心もて ことをはからず みむねのまにまに ひたすら励め
風に折られしと 見えし若木の おもわぬ木蔭に 人をも宿さん
創世記4章1〜8節
さて、人は妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は主によって男の子を得た」と言った。彼女はさらに弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。日がたって、カインは土地の実りを供え物として主のもとに持って来た。アベルもまた、羊の初子、その中でも肥えた羊を持って来た。主はアベルとその供え物に目を留められたが、カインとその供え物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに向かって言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしあなたが正しいことをしているのなら、顔を上げられるはずではないか。正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない。」カインが弟アベルに声をかけ、二人が野にいたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
ヤコブの手紙4章1〜3節
あなたがたの中の戦いや争いは、どこから起こるのですか。あなたがたの体の中でうごめく欲望から起こるのではありませんか。あなたがたは、欲しがっても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、求めないからです。のままに使おうと、よこしまな思いで求めるからです。
2022年11月13日 降誕前第6主日
説教題 『フォグランプ(あるいは余所者)』
聖 書 出エジプト記3章1〜12節 旧約聖書(新共同訳) 96ページ
エフェソの信徒への手紙1章8〜10節 新約聖書(新共同訳) 273ページ
讃美歌(1) 信仰こそ旅路を
『余所者(よそもの)としてやって来て、余所者として去って行く』。「これや、このところや。ここがええのや」。「キシモトさんが、クラッシックなんか聴くんかいな」。
洗濯物が乾かない霧の町が赴任地であった。30キロ離れた村の教会を兼任した。町の教会の礼拝の後は、ライトバンを駆って村の教会の夕礼拝に向かう。秋が深まれば霧が立ち込める山道を運転する日が多くなる。対向車が突然目の前に現れる。フォグランプなるものを取り付けた。霧が立ち込める夜の山道を黄色のライトが導く。車のカセットからはシューベルトの『冬の旅』が流れる。傷ついた旅人の心がセンチメンタルに歌い上げられる。二つの教会の往復に疲れがあった。「この教会も、そろそろ潮時ですかね」。独り言を言う。ハンドルを握る手が湿る。
電話のベルが深夜に鳴った。信徒宅が火事だと。フォグランプを頼りに霧の夜道を走った。夜が明け始めた。消防車の赤い回転灯が見えたが、すでに焦げ臭い匂いが車内に充満していた。消防団の半纏がヘッドライトの前を横切る。殺気だった男たちの怒号が響く。消火作業が終わっていない。強い臭いが辺り一面に立ち込める。「お爺さんとあゆみちゃんが、、、」。夫は顔面に火傷を負い救急搬送された。病弱の妻が助け出された。警官の事情聴取が始まった。妻の傍に座った。「おたくさんは?」。警官が尋ねる。「牧師さんです」。警官の聞き取りに妻がサインをして事情聴取が終わった。『です・ます』で綴られた調書に仕上がっていた。文面に強い違和感を覚えた。葬儀が執り行われた。喪主の顔面は、真っ白な包帯に包まれていた。「お爺さんの寝煙草らしいで」。ひそひそ声が聞こえた。
年が明けた。新しい教会へ移った。余所者としての生活が始まった。このようなことを幾度繰り返したことだろう。主の民は、余所者の辛苦を糧にしてその霊性を高めたとされるが、それを祝福と受け止めることは易しいことではなかった。主の民は、四百年間、ファラオが治めるエジプトの地で余所者であった。濃霧の中に閉じ込められていた。その高い湿気の中で人の心が燃え上がるようなことはなかったであろう。
モーセは、一瞬にして燃え尽きるはずの柴が燃え続ける光景を見せつけられた。モーセは確信する。余所者としてやって来たのだから、余所者として去って行くのだと。すべてを捨てて神が約束されるカナンの地へ向かおうと。
霧の村の信徒宅は跡形もなく焼け落ちたが、余所者でないがために家を建て直し先祖伝来の田畑を守り続けた。しかし、試練は、さらに続いたのであった。
某高校の体育祭1967年
讃美歌(1) 270 信仰こそ旅路を
(1)信仰こそ旅路を 導く杖 弱きを強むる 力なれや
心勇ましく 旅を続け行ゆかん この世の危あやうき 恐るべしや
(2)わが主を頭かしらと 仰ぎ見れば 力の泉は 湧きて尽きず
恵み深き主の 御傷みきず 見まつれば わずかに残る火 再び燃もゆ
出エジプト記3章1〜12節
モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
エフェソの信徒への手紙1章8〜10節
神は、この恵みを私たちの上に溢れさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、御心の秘義を私たちに知らせてくださいました。これは、前もってご自身でお決めになっていた御心によるものであって、時が満ちるというご計画のためです。それは、天にあるものも地にあるものも、あらゆるものが、キリストのもとに一つにまとめられることです。
2022年11月6日 降誕前第7主日 永眠者記念日
説教題 『ヨシエ・テルコ・ヲスヱ』
聖 書 創世記18章1〜節 旧約聖書(新共同訳) 23ページ
ローマの信徒への手紙9章1〜4節 新約聖書(新共同訳) 273ページ
讃美歌(1) 477 イエスきみにありて
「二人引きの人力で真夜中の往診したもんや」。「センセの後からわたしも人力で追いかけて」。九十歳を過ぎてなお産婦人科の看板を降ろさない。近所に住む看護師さんが先生に昔話をせがむ。大庄屋のような家屋と診療室が繋がっている。応接室が牧師を招く小さな礼拝堂になっている。痩身の老体をゆったりとソファーに沈めながら先生は、産科医の武勇伝を語ってくれた。真っ暗な峠道を二つ三つと、二人引きの人力車で越え、元気な産声を谷間に響かせたと言う。老体の医師とおばあちゃん看護師の取り合わせが若い牧師夫婦の心を躍らせた。
アブラハムと妻サラの前に天の使いが現れた。三人の旅人がアブラハムのテントの前を通り過ぎようとした。アブラハムは、何かを感じた。何がなんでも引き止めなければならない。夫婦ともに百歳に手が届く年齢であった。長く子を授からないことを嘆き諦めていた。妻の承知のもとに下女に子を産ませたが、それが却って、夫婦の揉(も)め事の種となっていた。天幕内離婚とも言うべきやり場のない修羅場があった
天の使いたちは、二人引きの人力車に運ばれるかのようにアブラハムとサラの前に現れた。アブラハムは、幸運の女神の前髪を掴んだ。チャンスは、逃してはならない。とっておきのスイーツを妻に作らせた。使用人たちには、フルコース料理の支度を命じた。飲ませて、食わせた。自らは、至れり尽くせりの給仕に専念した。天の使いたちは上機嫌となり口が軽くなった。一人の天使が、アブラハムとサラの間に来年の今頃、二人の間に子が生まれるとを告げる。サラは、聖書の常として、男性に劣る性、道化役として描かれたが、神の約束をせせら笑う大役を見事に演じた。『せせら笑う』のヘブル語が嫡男イサクの名の駄洒落であることを知る人は少ない。
永眠者を記念する礼拝にあたり、三名の故人となった女性信徒を記念したい。ヲスヱは戦中、当局を相手に毅然と信仰を表明した助産師の名である。彼女もまた、二人引きの人力車ならぬ黒塗りの自転車を駆り、未だ古い因習が残る戦後の農村において幾多の命を取り上げた。ヲスヱは珈琲を豆から挽いて教会の青年たちに振舞うハイカラさんでもあった。モーセの時代に、エジプトの王、ファラオをも恐れない女傑とも言うべき二人の助産師がいた。その名をシフラとプアと言った。訳すると、『美しい』、『輝く』の意味である。美枝(ヨシエ)とテル子を紹介する紙面はないが、三人に象徴される女性信徒を人を怖れず神を畏れる者たちとして記念したい。降誕前第七主日となりました。
オスヱの墓前でハロウインパーティーだ!
讃美歌(1) 477 イエスきみにありて Asleep in Jesus! Blessed sleep.
(1) イエス君にありて 眠るこそよけれ ひとの世の憂さに またとはめざまじ
(2) イエス君にありて 眠るこそよけれ 死のはりはいずこ うたいつつ願わん
(3) イエス君にありて 眠るこそよけれ くもきりもやみも み顔をかくさじ
(4) イエス君にありて 眠るこそよけれ やすらかに臥して さむるとこを待つ
(5) イエス君にありて 眠るこそよけれ したわしきものと 相見てよろこばん
創世記18章1〜15節
主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」
ローマの信徒への手紙9章1〜4節
わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。
彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。
2022年10月30日 降誕前第8主日
説教題 『下請(したうけ)』
聖 書 創世記9章8〜20節 旧約聖書(新共同訳) 11 ページ
ルカによる福音書11章37〜40節 新約聖書(新共同訳) 129ページ
讃美歌(1) 344 とらたまえわがみを
「上手い事言われても、言いなりは、あきまへんで。契約は対等ちゅうこと忘れたらあきまへんのや」。社長の深い顔の皴(しわ)が下請(したうけ)の厳しさを物語る。最近、同業者が自らの命を絶つということがあった。「言われるままに、十年一日で同じもんばっかり作ってたらあかん言うてたんや」。社長は誰も信用しない。社長は、『書いたもん』に何一つ付け加えない。割り引かない。煙たい教会役員でもある。
神は、人間を作(創)ったことを後悔した。人間は、罪深い。神になろうとするからである。人間は、同じ人間を見下し、同じ人間を支配しないと気が済まない。神は、人を自らに似せて作ったことを後悔し始めた。神が後悔する。なんとも、聖書の神は、実に『人間的』なのである。『主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。(創世記6:5-6)』
坂本龍馬ではないが、神は、世界の『洗濯』を思いつく。荒唐無稽な話ではあるが、世界文明が大河の流域に発展したことに鑑(かんが)みれば納得である。大規模かつ定期的な大河の氾濫がありとあらゆるものを押し流し、肥沃な土壌を残す。大地が生み出す豊かな実りが富となり中央集権が発生する。人が神となる。人の心が汚れる。
神は、洗濯物を分別したが、汚れの落ちないものまで洗おうとはしなかった。その工程をノアが請け負った。ノアは契約に基づいた図面を引いた。炎天下の方舟建造は人々の嘲(あざけ)りとなったが納期の遅れとはならなかった。ノアが方舟に導いたペアの生き物たちは生き長らえ、契約は、更新された。『水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない』。それは、永遠の契約と銘打たれた。人間的な神が、人間との対等な契約関係を示したのである。「契約は対等やちゅうこと忘れたらあきまへん」。厳しい入札を潜り抜けてきた社長の言葉が真に迫る。
ノアの方舟の物語を知る人は少なくない。櫂(かい)も帆もスクリューもない。ただ水に浮くだけの箱である。自ら推進しない。そのような舟の建造を託された者がいる。人と他の生き物は、辛うじて、『この舟』によって生き残ったのである。青空に閃(ひらめ)く洗濯物の向こうに虹が架かった。
『愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか(ルカ37:40)』
ノアはその後、葡萄栽培者となるが、その結末は?
紙面が足りなくなりました。降誕前第8主日となりました。
専属イラストレーターの作品
讃美歌(1) 344 とらたまえわがみを
(1)とらえたまえ わが身を 主よ、みこころしめして
日々まことをおしえて はなちたまえ、罪より
(2)とらえたまえ わが身を われに宿りたまわば
とわの愛をつたえて 地にみくにを来たらせん
(3)とらえたまえ わが身を 主のみ手にぞおさめて
またき道をひらきて ゆかせたまえ、みもとに
(4)とらえたまえ わが身を みたしたまえみたまを
わがすべてをささげて こたえまつらん みむねに
創世記9章7〜20節
「あなたたちは産めよ、増えよ地に群がり、地に増えよ」。神はノアと彼の息子たちに言われた。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」箱舟から出たノアの息子は、セム、ハム、ヤフェトであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、全世界の人々は彼らから出て広がったのである。さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。
ルカによる福音書11章 37〜40節
イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。
2022年10月23日 降誕前第9主日
説教題 『積めるだけ積む』
聖 書 ルカによる福音書12章12〜15節 新約聖書(新共同訳) 131ページ
ヨブ記38章1〜18節 旧約聖書(新共同訳) 826 ページ
讃美歌(1) 244 ゆけどもゆけども
「軽トラって何キロまで積んでええの」。「よう分からんけど300キロぐらいやろか」。
「そやけど、ぎょうさん積んでるよ。前の車、お米の袋いっぱい積んで重そうやね」。「袋に京都米って書いてあるわ。10袋三列のメモも貼っとる。一袋30キロやから、ええかいな、900キロも積んどるわ」。「新米やね」。「そうやろ、多分。ざっと30万円ぐらいの玄米積ん でるんやないかな。パソコン2台分の値段や。効率悪いな。鉄工所なんかトン単位のものトラックで運んでも5万円の現金すぐには見れんちゅうで」。
台風の後の倒れた稲を鋸鎌(のこぎりがま)で刈り取った。教会員の田んぼだった。病弱の妻は田畑に出られない。コンバインが使えない隅っこや倒れた稲は手刈りとなる。落穂拾いの文化はない。最後の一粒までを収穫しなければならない。「センセ、うちなんか手伝うてもらわんでもよろしいのに」。「そういわんと。礼拝で居眠りしてもらっては困りますからね」。若い牧師夫婦に農村の景色は眩しく映った。台風一過の秋晴れのもと、農業者の真似事を楽しんだ。妻は、モンペファッションを楽しんだ。「あーれ、ま、牧師さんやないかいな。百姓よう似合うとるな。奥さんもえらい可愛らしい恰好や」。近隣の目がある耳がある。収穫した米は、少々大袈裟だが、その日のうちに玄米となる。玄米の袋は30キロである。倉庫に次々と積み上がる。見事なり。
イエスは、豊作に嬉々とし蔵いっぱいに地の実りを積み上げる自営農民にちょっとした嫌味を言う。一夜にしてそれを失うことを考えたことがあるか。あなたの身も心も米袋の中に詰め込んでしまうのか。仕舞う場所はそこで良いのかと。
旧約聖書に登場するヨブという人は、人が羨むほど物心共に恵まれた人であったが、神の過酷な試みによって人生の奈落の底に突き落とされてしまう。ところが、神の祝福を受ける者は神の災いをも受けるべきだとの臭いセリフを吐く。その欺瞞に反吐(へど)が出ると友人たちに責められる。ヨブの試練は神への信頼を最後まで貫くことで回復されたが、積載量を超える財の問題は、SDGs(持続可能な開発目標)の究極を示唆しているようにも思う。
讃美歌(1) 244 ゆけどもゆけども
1 行けども行けども ただ砂原 道なきところを ひとり辿る
ささやく如くに み声きこゆ 疲れしわが友、われにきたれ
2 やけたる砂原 いたむ裸足 渇きのきわみに 絶ゆる生命
しずかにやさしき み声きこゆ 生命のいずみに 来たりて飲め
3 帰る家もなく つかれはてて 望みもなき身は 死をぞねがう
さやかにちからの み声きこゆ 帰れや、父なる 神のもとに
ルカによる福音書 12章15〜21節
そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
ヨブ記38章1〜18節
主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い神の子らは皆、喜びの声をあげた。海は二つの扉を押し開いてほとばしり母の胎から溢れ出た。わたしは密雲をその着物とし濃霧をその産着としてまとわせた。しかし、わたしはそれに限界を定め二つの扉にかんぬきを付け「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。お前は一生に一度でも朝に命令し曙に役割を指示したことがあるか大地の縁をつかんで神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。大地は粘土に型を押していくように姿を変えすべては装われて現れる。しかし、悪者どもにはその光も拒まれ振り上げた腕は折られる。お前は海の湧き出るところまで行き着き深淵の底を行き巡ったことがあるか。死の門がお前に姿を見せ死の闇の門を見たことがあるか。お前はまた、大地の広がりを隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ。
2022年10月16日 聖霊降臨節第20主日
説教題 『ろくでなし(陸でなし)』
聖 書 マタイによる福音書5章1〜12節 新約聖書(新共同訳) 6ページ
イザヤ書25章1〜10節 旧約聖書(新共同訳) 1097 ページ
讃美歌(1) 90 ここもかみの
「お父ちゃん、それだけは、自分でせんと嫌やねんな」。長い廊下を妻に抱きかかえられるようにしてトイレに向かう。病院が消毒とアンモニの臭いに満ちていた時代である。自力で到底動ける状態ではない。末期患者であることは一目瞭然であった。見舞いに立ち寄った教会員と同室の人であった。それほどの症状なのに大部屋の患者であった。学校帰りの中学生の娘と小学生の息子が来ていた。娘の制服は、草臥(くたび)れた古着のようであった。息子は、十一月の末にもかかわらず半ズボンであった。妻の身なりは言うに及ばない。その人は、次の日、帰らぬ人となった。ベッドを囲む家族の慟哭(どうこく)に胸が締め付けられた。『貧』の一文字が大部屋を支配した。
『こころの貧しい人々は、さいわいである(マタイ5:3』。『貧しい人々は、幸いである(ルカ6:20
)』。このイエスの言葉は、説教者の『地雷』である。清貧の美学に陶酔する信仰者のイメージを作り上げてしまう誘惑がある。ついつい、一丁上がりの偽善に近づいて自爆してしまう。貧しくとも心は豊かであるなどと。もっと酷くは、生半可なギリシア語を持ち出し、『その霊性において貧しい』などと信徒はおろか自身にも分からない講釈を恥ずかしげもなく披露してしまう。擦り切れたセーラー服を身に纏(まと)わざるをえない幼気(いたいけ)ない少女は、説教壇の前にいない。
ルカによる福音書の『貧しい者』というイエスの語り掛けがオリジナルかも知れない。イエスの目は、大部屋で息を引き取った患者の家族に向けられている。貧困の袋小路から抜け出せない人々が、イエスの言葉に聞き耳を立てる状況が理解出来るかと問われている。貧しさが罪であるとされた時代であった。貧者は、ろくでなしと蔑(さげす)まれた。ろくでなしの『ろく』は、水準を意味する『陸』の字が充てられる。酷(ひど)い表現だが、『テード(程度)が低い』などと言い換えれば、その状態の凄(すさ)まじさが伝わるであろう。少女の小汚いセーラー服にその言葉が無神経に投げかけられたとするなら。
『ビンボー人は、救いようがある』との大胆な翻訳もある。英語やドイツ語を持ち出さなくても、貧しい(poor)という言葉には遜り(へりくだりhumble)のニュアンスがある。分量が少ないの意味もある。驕(おご)り高ぶりに肥え太った傲慢(ごうまん)などを持ちようにも持てない人たちに、命のパンが約束される。
ハロウインにはお菓子がもらえるそうだ。
讃美歌(1) 90 ここもかみの
(1)ここも神の 御国なれば 天地(あめつち)御歌を 歌い交わし
岩に樹々に 空に海に 妙なる御業ぞ 表れたる
(2)ここも神の 御国なれば 鳥の音 花の香(か) 主をばたたえ
朝日 夕日 栄えにはえて そよ吹く風さえ 神を語る
(3)ここも神の 御国なれば よこしま暫しは ときを得とも
主の御旨の ややに成りて 天地(あめつち)遂には 一つとならん
マタイによる福音書5章1〜12節
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
イザヤ書25章1〜10節
主よ、あなたはわたしの神、わたしはあなたをあがめ御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された遠い昔からの揺るぎない真実をもって。あなたは都を石塚とし城壁のある町を瓦礫の山とし異邦人の館を都から取り去られた。永久に都が建て直されることはないであろう。それゆえ、強い民もあなたを敬い暴虐な国々の都でも人々はあなたを恐れる。まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨、乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように異邦人の騒ぎを鎮め暴虐な者たちの歌声を低くされる。万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼし死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。主の御手はこの山の上にとどまる。
2022年10月9日 聖霊降臨節第19主日
説教題 『ホトケに会っては、ホトケを』
聖 書 創世記32章23〜33節 旧約聖書(新共同訳) 56ページ
コロサイの信徒への手紙 1章24〜27節 新約聖書(新共同訳)369 ページ
讃美歌(1) 75 ものみなこぞりて
「ハッピバースデー・ツーユー・ハッピバースデー・デイア・カツコさーん・ハッピバースデー・ツーユー」。「今月のお誕生者は、喜多カツ子さんです。おめでとうございます」。「センセ、そのカツコちゅうの止めてえな。その名前、好きやないんどす」。「なんでやの。お姉ちゃんにピッタリの名前やんか」。妹のヒデ子さんが口を挟む。「勝気でイノシシ年のお姉ちゃんにピッタリの名前やわ。な、センセ」。「わてはな、カツコに、てんてん打って、『カヅコ』、平和の和、和子にして欲しかったんや。あんたかてお父ちゃんが戦争に勝って国が栄えるようにちゅうてヒデ子やないの。ひでぇ子ちゅうて揶揄(からか)われたやんかいさ」。テーブルの向こうの山下満州男(ますお)さんがニヤニヤしながら紅茶を静かに啜(すす)る。
大昔のユダヤの物語である。族長時代と呼ばれるファンタスティックな時空があった。アブラハムの孫にヘブル人の十二部族の太祖となったヤコブという人がいる。ヤコブの名の意味は、勝男(カツオ)である。『他人を押しのけ、出し抜いて、勝利者となる者』である。ヤコブに双子の兄がいる。弟ヤコブは、兄エサウの踵(かかと)を掴(つか)んで生まれ落ちた。直情的で粗野な兄を騙(だま)し長子の特権をもぎ取った。父イサクは、カツ子さんとヒデ子さんの掛け合いを静かに眺める満州男さんのような大人しい人であった。父も兄もちょろい。ヤコブは、軽くいなしてしまう。
ヤコブは、遠方に住む同族の女を娶(めと)った。伯父の娘たちを妻とした。父イサクの願い通りヘブルの純血を守った。一枚上手の狡賢い伯父を忍耐と知恵で打ち負かした。勝者は敵を作る。伯父の不穏な動きを察知したヤコブは、妻たちを伴い築き上げた一財産を携え父の許へと帰参する。旅の途中、『石の枕』に微睡(まどろ)むヤコブに天と地を結ぶ梯子(はしご)が降りる。『お前を守り、祝福する』。確かな、天の声であった。
コケにされ続ける兄エサウは、弟を八つ裂きにしても飽き足らない。手下四百人を率いてヤコブを追う。いつ寝首を?かれるか。不安と恐怖にヤコブは慄(おのの)く。渡し場で妻たちを先に行かせ、自分一人が殺されれば良いと思ったその時、ひとりの人が現れ夜明けまで組んず解れつの格闘が続いた。ひとりの人とは、もう一人の自分のことであろうか。正真正銘、互角の相手である。その人は、ヤコブのスタミナに根負けした。「勘弁してくれ」。ヤコブは、その瞬間、神の祝福を確信した。冥府魔道の死闘であった。鬼に会えば鬼を斬り、ホトケに会えばホトケを斬る。祝福の代償は、腰へのダメージであった。ヤコブは、その人が去った後、引きずる片足を摩りがらながら手強い相手が何者かを知った。
せんとくんとは闘わない
讃美歌(1) 75 ものみなこぞりて
(1)ものみなこぞりて 御神をたたえよ ハレルヤ ハレルヤ
光の源(もと)なる 日を造りましし 御神をたたえよ
(2)月影(つきかげ)さやかに み空に輝くハレルヤ ハレルヤ
きらめく星をも 静かに導く 御神をたたえよ
(3)小川の流れは ほめごとささやく ハレルヤ ハレルヤ
実りも豊けき 大地(だいち)を与えし 御神をたたえよ
(4)世の悩みも死も いかで恐るべき ハレルヤ ハレルヤ
互いに助くる 心を賜いし 御神をたたえよ
ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ
創世記32章23〜33節
その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。
コロサイの信徒への手紙1章24〜27節
今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。
2022年10月2日 聖霊降臨節第18主日 世界聖餐日
説教題 『そこまで、言い切るのか』
聖 書 ヘブライ人への手紙9章23〜28節 新約聖書(新共同訳)412ページ
レビ記17章11〜12節 旧約聖書(新共同訳)189ページ
讃美歌(1) 271いさおなきわれを(second tune)
「じっとして。動いたらあかんよ」。
そんな力がどこから湧くのか。術後の後遺症が残る不自由な手が首筋に飛んだ。
「ほら」。掌(てのひら)に潰れたヤブ蚊の即死が告げられる。
蚊に刺されることを蚊に噛(か)まれるとも言うが、
よくも齧(かじっ)たものだ蚊の奴メ、俺様の命を。聖書は言う。血は命であると。
スポイドの一滴のような血でさえ、血を見ると、人の神経は、少しく高ぶる。
イエスの贖いの死を大袈裟な身振りで語る牧師の説教スタイルが懐かしい。
『主の尊い御血潮(おんちしお)』。重々しい文語調である。
「尊い御血潮を思う時、ワタクシは、ワタクシは、、、」。言葉に詰まり大粒の涙が牧師の頬を伝う。
あるいは、「尊い御血潮に平然とする皆さんへの憤りを残したまま、ワタクシは、ワタクシは、、、、
この講壇を降りる事は出来ません」。
泣き虫牧師と怒りん坊牧師が、一人二役だった。
ある高名な神学者は、ヘブライ人への手紙はヨハネ黙示録にならんで現代の読者にとって
最も異質で近づきがたい文書だと言っている。
ここで言われる現代とは、二十世紀を迎えたキリスト教圏の意識ある欧米人を指している。
へブル書は、パウロ的な神学体系を持ったグループの作品らしいが、
内容のドギツさとは裏腹に新約聖書中最もエレガントな文体で書かれている。
われわれに理解しやすい感覚で捉えれば、
相当えげつない内容を柔らかい京都弁で包んでいると言う事だろうか。
『大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように』。
この表現が修辞学的な節度を保ちながらも強い敵意を盛り込んでいる。
祭司階級のトップを『下らない奴』と一刀両断している。
『尊い主の御血潮』を涙と怒りをもって語っている。
当該聖書箇所のヘブル人とは、異邦社会においてユダヤ教伝統との日々の葛藤の中から、
新しい革袋に新しいぶどう酒を注ごうとしていたキリスト者を指している。
彼等には歪んだ伝統への決別が必要であったが、その英断に欠けていた。
祭壇に供えられる犠牲の動物たちの多量の血に、神の民の興奮は頂点に達する。
約束の地を得ても日常化する人の罪に真正面から直面したのが贖いの儀式であり、
それを仕切る祭司たちであった。
ソロモン神殿建立の儀式においては、祭司たち自らが琴、シンバル、トランペットを奏で
四大テノールを彷彿とさせる名物祭司たちが神への賛美を導く大イベントをプロモートした。
ヘブル人たちの時代、あるいは、二十世紀を希望と不安のうちに迎えた人間たちは、
その生き生きした『血潮』から遠ざけられていた。
デモシカ祭司たちの怠慢とモダニズムの害毒である。
一度きりの尊い御血潮は、主にのみ帰する。
讃美歌(1) 271いさおなきわれを(second tune)
ヘブライ人への手紙9章23〜28節
このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。
レビ記17章11〜12節
生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない。
2022年9月25日 聖霊降臨節第17主日
説教題 『財布の紐(ひも)』
聖 書 コリントの信徒への手紙二 9章6〜15節 新約聖書(新共同訳)335ページ
申命記15章6〜9節 旧約聖書(新共同訳)305ページ
讃美歌(1) 504 みのれるたのもは
「キシモト君、この曲は、なんという曲かね」。店に流れるBGMの曲名を先輩が聞く。
「ビートルズのイエスタデーです」。通りすがりの喫茶店だった。
窓際にピアノがあった。
小さな本棚には、ボーボワールとサルトル、少年マガジンがあった。
長身の女性店主がコーヒーを運んできた。
大きな花柄のワンピースから剥き出た真っ白な二の腕が眩しい。
腋(わき)は、自然のままであった。
成熟したフランス女性への妄想があるようだ。
「ピアノを触ってもいいですかね」。先輩が言った。
「キシモト君、イエスタデーはいい曲だね」。
先輩は、初めて聴いたビートルズを自分が作曲したかのように弾いた。
続けて怪しげな『バラ色の人生』を聴かせた。鼻濁音の誇張があった。
マダムは、そのような客を、『ゴドーを待ちながら(En attendant Godot)』の思いで待っていたのか。無邪気な恋人同士が『くすぐりっこ』をするような時が流れた。
「キシモト君、いい店だ。また来よう」。
ゴドーは戯曲に登場する人物の名であるが、
英語のゴッド、すなわち、神を暗喩するとの解釈があるらしい。
『ゴドーを待ちながら』は、不条理演劇と呼ばれるジャンルの戯曲である。
登場人物たちが荒唐無稽な遣り取りを繰り広げるまま幕となる。
ゴドーなる人物が来るのか来ないのかは、観客にその判断が委ねられる。
戯曲に登場する二人の無宿者にも、コーヒー代を求めなかったマダムにも、
ゴドーが現れようが現れまいが、何の切実もない。
観客は、それを楽しむのである。
手の込んだ余裕の世界が、そこに在る。
ゴドー、すなわち、神は、いてもいなくても、来ても来なくても良いのである。
しかし、エルサレムの教会は、いなくてはならない神、来なくてはならない神を待っていた。
余裕がないのである。
悲壮感が漂っていた。エルサレムの教会には、貧しい者たちが殺到した。
兄のイエスに代わって弟のヤコブが暖簾(のれん)を引き継いだ。
大番頭はペテロである。
大勢の使用人に囲まれた船場の御分家はんや御寮(ごりょん)はんの窮地がイメージされる。
頼りは、恥を忍んで、丁稚上がりの東京支店長、ポーロどん(パウロ)の他はない。
貧しい信徒を抱えるエルサレムの教会はパウロが集める献金を当てにしている。
ポーロどんは、自らが開拓した異邦人キリスト教会に援助を求めるが金持ちの財布の紐は堅い。
『気前の良い贈り物』、『祝福の献金』、
『言葉では言い尽くせない贈り物』。
言葉を尽くして呼びかけたが、その反応は、冷ややかなものであった。
「同情するなら、金をくれ」。がま口を首から下げた家無き子が叫んだ。
昔のテレビドラマのワンシーンが甦る。
献金を募る船の旅
讃美歌(1) 504 みのれるたのもは みわたすかぎり
(1)実れる田の面は 見わたす限り 穂波のたちつつ 日陰ににおう
(2)しののめと共に とく起出でて 暮果つるまでも 刈らしめ給え
(3)かりいれ豊かに、かりては乏し いそしむ僕を 主よ、増し給え
(4)かりいれ終えなば あまつ御倉に おさめて祝いの 筵(むしろ)にはべらん
(おりかえし)
垂穂は色づき 敏鎌(とがま)を待てり いざいざ刈らずや 時すぎねまに
コリントの信徒への手紙二9章6〜15節
つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。
申命記15章6〜9節
あなたに告げたとおり、あなたの神、主はあなたを祝福されるから、多くの国民に貸すようになるが、借りることはないであろう。多くの国民を支配するようになるが、支配されることはないであろう。あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。
2022年9月18日 聖霊降臨節第16主日
説教題 『がめつい。えげつない。』
聖 書 列王記上 21章17〜20節 旧約聖書(新共同訳)571ページ
ヨハネによる福音書15章1〜2節 新約聖書(新共同訳)198ページ
讃美歌(1) 503 はるのあした(かりいるるひはちかし)
「これは、キフ・ワインです。極上のワインですよ。先生」。
お招きがあった。
うずらのローストや鹿肉のタルタルステーキに始まりドイツ駐在員時代に習得した奥方特製のケーキなどに一一(いちいち)の説明が付けられる。
「キフって寄付のことですか」。新任牧師の頓珍漢が気に障ったらしい。
「先生、貴いに腐ると続けて『貴腐』、希少な葡萄から作ったワインの事です」。
相槌を打つことを控えた。
「そんなもの飲んだら口が腐るわ」。歪んだ思いが腹の底に湧いた。
貴腐ワインは、『ワインの帝王・帝王のワイン』などと呼ばれているらしい。
葡萄酒は葡萄から造られる。良い畑の葡萄が良い葡萄酒となる。
そして、良い環境に温存される。
だから、良い物は、そんじょそこらには無い。
車一台が買える代物(しろもの)があると聞く。
栄華を極めたソロモンの王国は分裂し衰退の一途をたどる。
不毛の砂漠で出会った存在の根源としての神の『在り難さ』を民も王も安酒の酔いに任せ忘却した。
『お前には十分なことをしてきたではないか』。
神の愛と忍耐は、まさに、貴く、腐った(熟成された)、貴腐であったにもかかわらず、
その味わいは記憶の彼方となった。
性根の腐った王がいた。その名をアハブと言う。
英語読みではエイハブであるから、
メルヴイルの小説『白鯨』に出て来る残忍な船長の名前が思い起こされる。
アハブ王は、他人(ひと)の物を異常に欲した。
ナボトと言う人の葡萄畑に執着した。
そのブランドが欲しかった。
ところが、ナボトと言う人はたとえ相手が王であろうと引き下がるような人ではなかった。
半分諦め掛っていた王に王妃イザベルが悪知恵を吹き込む。
ダビデがバテシバを側室に求めた時に似たような悪辣な謀(はかりごと)がなされた。
王と王妃の前に、神の人、預言者エリヤが遣わされる。
他人の物を掠(かす)めることは、神の物を掠めるに等しい。
エリヤは神無き時代を信仰に生きた偉大な預言者であった。
しかし、その偉大さにはエリヤの家系の皮肉がある。
乳と蜜の流れ地、カナン・テリトリーを目前に、民はヨルダン川をまさに渡らんとする。
しかし、エリヤの家系、ギルアデのティシュベの者たちは、
引き連れた家畜に未練が残りヨルダン川の東に留まる。
この先祖の不信仰がエリヤの心の傷となる。
『ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤ』。
この烙印は何としても払拭されなければならない。
命を懸けて王と王妃の前に現れたエリヤは、
『お前の敵を見つけたのか』と恫喝する王と王妃に、
『お前たちこそ、犬の餌になる』と言い放つ。
この者たちは、『すみっこぐらし』というのだそうだ。ここには、
他人の居場所をガメツク奪うような者はいない。
讃美歌(1) 503 はるのあした(かりいるるひはちかし)
(1)春の朝(あした)夏の真昼 秋の夕べ 冬の夜も 勤(いそ)しみ蒔(ま)く
道の種の 垂穂(たりほ)となる 時来たらん
(2)御空(みそら)霞(かす)む のどけき日も 木枯(こが)らし吹く 寒き夜も
勤しみ蒔く 道の種の 垂穂となる 時来たらん
(3)憂(う)さ辛(つら)さも 身に厭(いと)わで 道のために 種を蒔け
ついに実る その垂穂を 神は愛(め)でて 見そなわさん
(Ref.)
刈り入るる 日は近し 喜び待て その垂穂 刈り入るる 日は近し 喜び待て その垂穂
列王記上21章7〜20節
妻のイゼベルは王に言った。「今イスラエルを支配しているのはあなたです。起きて食事をし、元気を出してください。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう。」イゼベルはアハブの名で手紙を書き、アハブの印を押して封をし、その手紙をナボトのいる町に住む長老と貴族に送った。その手紙にはこう書かれていた。「断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせよ。ならず者を二人彼に向かって座らせ、ナボトが神と王とを呪った、と証言させよ。こうしてナボトを引き出し、石で打ち殺せ。」その町の人々、その町に住む長老と貴族たちはイゼベルが命じたとおり、すなわち彼女が手紙で彼らに書き送ったとおりに行った。彼らは断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせた。ならず者も二人来てナボトに向かって座った。ならず者たちは民の前でナボトに対して証言し、「ナボトは神と王とを呪った」と言った。人々は彼を町の外に引き出し、石で打ち殺した。彼らはイゼベルに使いを送って、ナボトが石で打ち殺されたと伝えた。イゼベルはナボトが石で打ち殺されたと聞くと、アハブに言った。「イズレエルの人ナボトが、銀と引き換えにあなたに譲るのを拒んだあのぶどう畑を、直ちに自分のものにしてください。ナボトはもう生きていません。死んだのです。」アハブはナボトが死んだと聞くと、直ちにイズレエルの人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って行った。そのとき、主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ。「直ちに下って行き、サマリアに住むイスラエルの王アハブに会え。彼はナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って来て、そこにいる。彼に告げよ。『主はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか。』また彼に告げよ。『主はこう言われる。犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる。』」アハブがエリヤに、「わたしの敵よ、わたしを見つけたのか」と言うと、エリヤは答えた。「そうだ。あなたは自分を売り渡して主の目に悪とされることに身をゆだねたからだ。
ヨハネによる福音書5章1〜2節
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
2022年9月11日 聖霊降臨節第15主日
説教題 『買い食い』
聖 書 ホセア書11章1〜11節 旧約聖書(新共同訳 1416ページ
マルコによる福音書12章33〜34 新約聖書(新共同訳) 87ページ
讃美歌(1) 176 いかりとなげきの
「あんがた買い食いしてるとこ見たちゅう人がおるで。ほんまか。」
「ボク、そんなことしてへん」。
「おかあちゃん、情けないわ。あんたがそんなことするやなんて」。
「ボク、ほんまに、そんなことしてへん」。
「嘘までつくやなんて。おかあちゃんは、ほんまに情けない」。
近所から親子喧嘩の声がする。
買い食いを叱られているようだ。鯨のカツが給食の一番人気おかずの時代である。
商店街を歩けばラードで揚げたトンカツやコロッケの甘く香ばしい匂いが立ち込める。
隣近所の喧騒が懐かしい。
欲しがらない時代を余儀なくされた人々は、『いじましい』ことを嫌った。
子どもの買い食いを叱った家庭に二つの典型があった。
ひとつは、訳の分からない元士族などという妄想にも似た家系のルーツを拠り所としている例。
今一つは、世間さまから侮られたくないとする由緒正しい貧乏人の例。
子どもにロクなものを食べさせてないから親の目を盗んで買い食いをするのだと言われたくない。
「あんたとこの息子さんな、コロッケ買い食いしてはったで」。密告がある。
「そんなことするんやったら、おかあちゃん、あんたを殺して、おかあちゃんも死ぬわ」。
「おかあちゃん、ごめん、ボク、二度とせえへん。堪忍して」。
臭い田舎芝居が飽くことなく繰り返された。
ラードで揚げた甘く香ばしいコロッケの匂いに、ふらふらと誘われる。
親にどやされることを覚悟にポケットの小銭をまさぐる。
ひと口齧(かじ)れば、至福の時、我を忘れる。
怒りの神が嫉妬するバアル神への供え物に涎(よだれ)が垂れる。
大脳皮質の薄皮が剥がれる瞬間である。
『わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き彼らの顎(あご)から軛(くびき)を取り去り身をかがめて食べさせた』。
神はホセアの口を借りて、『おかあちゃんの残念』を訴える。
『めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。(マタイ23:37)』。
『瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の陰に隠してください。(詩編17:8)』。
愛の人、ホセアは神の愛を説いた。
神は、本当に怒っていないのか。神は内気な人なのか。
何度も何度も、『おかあちゃん、ボクのこと、ほんまに、怒ってない?』と問いかけた。
『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか』とイエスに尋ねた律法学者は、真の家庭人であった。親子の情なるものをイエスに出会うまで長く忘れていた。
子どもの買い食いや万引きを厳しく叱った日を思い出した。
「お父ちゃんが何の仕事してるのか分かってんのか!」。
四面野郎は、今、完全に丸い者となった。
丸い卵から産まれたのだ。
讃美歌(1) 176 いかりとなげきの
(1)いかりとなげきの おわりの日はきぬ あめつちくずるる
(2)さばきの主はいま 御座にぞつきます ものみなふるえたり
(3)たか鳴る合図に 生けるも死ぬるも みまえにいでゆく
(4)かしこにふみあり 世人(よびと)のしわざを ことごとしるせり
(5)わが主のまえには かくれし罪すら のがるることなし
(6)ああわれいかでか とがめをまぬかれし けがれしこの身は
(7)きみなる主イエスよ この身をかえりみ みたすけたまえや
(8)わがため十字架に 死にたる主イエスよ すくわせたまえや
ホセア書11章1〜11節
まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに彼らはわたしから去って行きバアルに犠牲をささげ偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き彼らの顎から軛を取り去り身をかがめて食べさせた。彼らはエジプトの地に帰ることもできずアッシリアが彼らの王となる。彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ちたくらみのゆえに滅ぼす。わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも助け起こされることは決してない。ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨てツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなくエフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。獅子のようにほえる主に彼らは従う。主がその声をあげるとき、その子らは海のかなたから恐れつつやって来る。彼らは恐れつつ飛んで来る。小鳥のようにエジプトから鳩のようにアッシリアの地から。わたしは彼らをおのおのの家に住まわせると、主は言われる。
マルコによる福音書12章33〜34節
そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
2022年9月4日 聖霊降臨節第14主日
説教題 『な(成)らず者たち』
聖 書 マルコによる福音書12章1〜9節 新約聖書(新共同訳)85ページ
イザヤ書5章1〜7節 旧約聖書(新共同訳)1067ページ
讃美歌(1) 533 くしき主のひかり
「こりゃまた、えらい古いギターやな」。
「先生をお慕いしてやって参りました」。
新聞屋さんにもらった『田端義夫ショウ』の切符が分別を失わせた。
花束や祝儀を用意する金銭的余裕もファン常識も持ち合わせていなかったが、楽屋を訪ねたいと思った。
「ギターにサインを頂けませんでしょうか」。
「ここが一番よう分かるとこやな。ここに書いてあげようか。これギブソンか」。
一家離散の苦境から紙鍵盤ならぬ紙ギターで歌を独学で学んだ。
お馴染みのボロボロの電気ギターは、自ら半田鏝(はんだごて)を握り配線したものだ。
バタやんの、あの、お馴染みの、右肩上がりに爪弾くギターの実物を拝んだ。
楽屋までどのように辿り着いたか記憶にない。
ステージの気さくが楽屋では気難しの極みということもある。
アロハシャツが普通ではなかった。
帰ろうかと思ったが、苦労話しをしみじみと語るステージの人に、そのような非連続はなかった。
明治大正の極貧は筆舌に尽くしがたい。
「おっかさんが、言うたんや。ヨシオ、どんなことがあっても『行き過ぎもん』だけには、なるなよ」。
「おっかさんが、そう言うわんですワ。うん、うん」。
涙の客席に『帰り船』のイントロが斬り込む。
『行き過ぎもん』とは、パールバックの『何事にもある中間点』を知らない『ならず者』のことである。会津の八重が言った『成らないことは成りませぬ』の『成らない』である。
イエスは、ぶどう園の農夫たちを、祭司長、律法学者、長老に、
ぶどう園に遣わされた下僕たちを歴代の預言者たちに擬(なぞら)える。
『お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。(エレミヤ書7章25節)』。
ぶどう園の主人は、遂に、愛する息子をぶどう園に送った。
愛息をイエスと読み替える事は難しいことではない。
『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』。
こともあろうに、ならず者たちは、農園を略奪する好機と図り、跡取り息子をなぶり殺しにしてしまう。
愛息の惨死は、イエスの十字架を象徴していると説明するまでもないだろう。
ならず者たちに、ぶどう園の主人の情け容赦はない。
『神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう』。
世界宣教の夜明けが告げられ、召し出された者たちの群れ(エクレシア・教会)を蹂躙する盗人猛々しい勢力に対する極刑が言い渡された。
教会は、誰のためにあるのか。そこでは、何が生成されるのか。
『わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。(イザヤ5:1)』
教会はイエスさまに、な(成)らず者たちにではなく、な(成)る者たちに、帰属する。
バタやんのサイン入りGibson-L3 1917年製
讃美歌(1) 533 くしき主のひかり
(1) くしき主の光 こころに満つ み空わたる日の かげにまさる
(2)くしき物の音は こころにみつ 口に言い得ねど 主はききたもう
(3)春ののどけさは こころにみつ 鳥は声きよく 花はかおる
(4) かくてわが歌は ついに成りぬ ああ主よ わが主よ 輝く御姿を
(繰り返し)
ああ主よ わが主よ 輝く御姿を 胸にうつすとは わが主の恵み
マルコによる福音書12章1〜9節
イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。
イザヤ書5章1〜7節
わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ。わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう。わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせわたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑。主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに。見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに。見よ、叫喚(ツェアカ)。
2022年8月28日 聖霊降臨節第13主日
説教題 『眼(まなこ)』
聖 書 マルコによる福音書10章46節〜11章2節 新約聖書(新共同訳)83ページ
イザヤ書24章7節 旧約聖書(新共同訳)1096ページ
讃美歌21 451 くすしき恵み (Amazing Grace)
「結婚した当初、お父さんの目付きが怖おうてな」。
父母たちは晩婚であった。戦争のせいである。
小柄で色白の父には柔和な人の印象しかなかったので、晩年の母の言葉に戸惑いを覚えた。
「ふたりで買い出しに行った時にな、大阪駅で恐ろしい男たちに囲まれて因縁つけられたんやわ」。「それで、どうなんったん」。
「お父さんな、その男たちを睨んだんや。そしたらな、そいつら震えあがってしまいよってな」。
「あのお父さんが」。
「その目ぇの怖かったこと」。
六年の最前線がコマンダーの目を仕立てた。
「キシモト君、銃剣術は相手の目を見ることだ」。
父親と同い年の牧師が昔を語ってくれた。
この先生は、父よりもさらに小柄な人であった。
囁くような口調が銃剣術の話題に結びつかない。
新妻を残して牧師館から戦地へ赴いた。
軍隊は聞きしに勝る地獄であった。
武道の嗜みがある訳ではない。知的な人だ。
人の動きは目の動きで予測出来ると分析した。
先生は部隊一番の使い手となった。
銃剣をライフルの先に装着することなく終戦となった。
銃剣は血に染まらなかったが、
獲物を狙う獣のような目が牧師館の玄関に帰還を告げた。その目に妻が怯えた。
目と言えば、窪んだ目に一升瓶の先をあてがい、
栓を抜くとスッポ〜ンの効果音に客が喝采を送るドタバタ喜劇、
『奥目の八ちゃん』こと岡八郎が懐かしい。
八ちゃんは人気に乗じてコミックソング、『目は人間のマナコなり』のヒット曲を飛ばす。
晩年のアルコール中毒と認知症に悩まされた虚ろな目が痛々しい。
『目は人間の眼(まなこ)なり』は、吉田松陰の言葉である。
銃剣牧師が敵の動きを眼の動きの中に見たように、
松陰は、人の精神の動きは眼の中にあると言ったらしい。
信頼関係を相手の眼の動きの中に観察するのである。
イエスの一行はエリコの町を出たところで、物乞いの盲人に出会う。
盲人は、見えない目でイエスの眼を見る。『私を憐れんでください』。
イエスの眼は、他の誰でもない、自分に注がれるに違いない。
銃剣術の奥義のような直感があった。弟子たちの制止にもかかわらず、
盲人の声は、あたかも、
その声が発せられる前からイエスの耳に届いていたようにイエスの心に吸収された。
『ティマイの子で、バルティマイという盲人』。
道端に身を潜めるような隅っこに追い遣られた人生があった。
『ティマイの子』は、ドナルド家の子孫、マック・ドナルドの意味ではない。
ティマイは、『罪、けがれ』の意味であるから、
バル(子)・ティマイは、因果応報の人という意味になる。
イエスは、その呪縛を解き放つ。
『お前がお前を救った』。私が救ってやったとイエスは、決して言わない。
敵機をロックオンした零(ゼロ)の目。この人は、戦後、牧師になった。
讃美歌21 451 くすしき恵み (Amazing Grace)
1 くすしきみ恵み われを救い まよいしこの身も たちかえりぬ
2 おそれを信仰に 変えたまいし わが主のみ恵み とうときかな
3 思えば過ぎにし すべての日々、苦しみ悩みも またみ恵み
4 わが主の み誓い 永遠(とわ)にかたし 主こそはわが盾 つきぬ望み
5 この身はおとろえ 世を去るとき よろこびあふるる み国に生きん
マルコによる福音書10章46節〜11章2節
一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
イザヤ書24章7節
新しい酒は乾き、ぶどうのつるは枯れる。心の朗らかだった人々も皆、ため息をつく。太鼓の音は絶え、陽気な人々の騒ぎは終わり、竪琴の音も絶えた。酒を飲んで歌う人々もいなくなり、甘い酒も、飲んでみれば苦い。
2022年8月21日 聖霊降臨節第12主日
説教題 『Oh! Bon! だよ。(パートU)』
聖 書 使徒言行録10章9〜16節 新約聖書(新共同訳)232ページ
マラキ書3章13〜17節 旧約聖書(新共同訳)1501ページ
讃美歌(1) 320 主よ、みもとに近づかん
「大和郡山の金魚屋とちょっとした知り合いでな、
金魚をぎょーさん安うに仕入れて町内の地蔵盆で金魚すくいしてやったんや。
そしたら、子どもら、えらい喜びよってな」。
町内の世話役が、教授宅にも回って来た。
「どうせ引き受けるんやったら町内のもんが目ぇ?くようなことやったろ思うてな」。
教授の難解な組織神学の講義は拷問だった。
ところが、学生を苛め抜く教授は、町内ではお高くとまっている人ではなかった。
「教会やちゅうて、何か偉そうに地蔵盆にいちゃもん付けとうないんや。
クリスマス会もやってもらわなならんさかいな」。
「キシモトさん、あんたギター弾いたり、子ども相手のゲームとか得意なんやろ、夏祭りのステージやってくれんやろか」。
近くの寺の跡取りの紙芝居に続いて、真打登場。
「ちょっと邪魔するでぇ」とばかりに幼児から中学生まで百名を超える子どもたちを前に慣れたステージを務めた。
「おっちゃん、そのギターなんちゅうの」。中学生男子が割って入る。
「これはテレキャスちゅうんや」。「ふ〜ん。ええ音するな」。
地蔵盆がCSキャンプになった。
聖者の行進を文字って『Oh! Bon!だよ」。続いて漕げよマイケル。
『ハレル〜ヤ』の大合唱が夏の夜空に響き渡った。
「キシモトさん、初めまして。これがパウロの言う福音のために何でやるですな」。
町内の隠れキリシタンから声を掛けられた。
土地の文化と教会の関係は微妙である。
葬儀の場を信仰告白のチャンスとする勘違いがあったりする。
「クリスチャンですから、焼香はしません!」。
盃を伏せておけばよいだけのものを、素面(しらふ)で泥酔者に変わらない醜態を晒してしまう。
その無作法は、やんわりと大人の対応に飲み込まれる。
ペトロもパウロも、福音をユダヤ的伝統とに紐づける妬みの勢力に苦しんだ。
The river is deep and the river is wide, hallelujah.
イエスの教えは様々な文化との折り合いを求められながら世界に広がってゆく。
苦悩するペトロの前に、『あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥』が天から吊り降ろされた。
そこには、エビの天婦羅、トンカツ、海鼠(なまこ)の酢の物もあった。
その時、ペトロは真の『神を畏れる人』となった。
聖地巡礼?ヲスヱの墓前 福知山から巡礼者あり。
讃美歌(1) 320 主よ、みもとに近づかん
(1)主よ、みもとに近づかん のぼる道は十字架に ありともなど悲しむべき
主よ、みもとに近づかん
(2)さすらうまに日は暮れ 石のうえのかりねの 夢にもなお天を望み
主よ、みもとに近づかん
(3)主のつかいはみ空に かよう梯のうえより 招きぬればいざ登りて
主よ、みもとに近づかん
(4)目覚めてのちまくらの 石を立ててめぐみを いよよせつに称えつつぞ
主よ、みもとに近づかん
(5)うつし世をばはなれて 天がける日きたらば いよよちかくみもとにゆき
主のみかおをあおぎみん
使徒言行録10章9〜16節
翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。
マラキ書3章13〜17節
あなたたちは、わたしに、ひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言う、どんなことをあなたに言いましたか、と。あなたたちは言っている。「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても万軍の主の御前を喪に服している人のように歩いても何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ。」そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。わたしが備えているその日に彼らはわたしにとって宝となると、万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは彼らを憐れむ。
2022年8月14日 聖霊降臨節11主日
説教題 『コッテ牛』
聖 書 ヘブライ人への手紙12章1〜4節 新約聖書(新共同訳)416ページ
申命記10章 12節〜11章1節 旧約聖書(新共同訳)297ページ
讃美歌(1) 522 みちにゆきくれし
「お前を、土用の丑(うし)の日に産んだ」。何度も聞かされた。
夏休みの始まりが誕生日だった。
母が必ず、アルミの弁当箱を型にして流し寒天を作ってくれた。
見返りを求められた。
「暑い中、お前を見事に産んだ。土用の丑の丑年生れや言うて、コッテ牛になってはならんぞ」。
行儀作法の細かな軌道修正が日常だったが、母の軛(くびき)に抵抗しなかった。『わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである』。
「箸(はし)を短こう持ったら近くにいる女と結婚するぞ」。
慌てて箸を長く持った。
その程度の軛であったが、誕生日の流し寒天の食べ放題は、五月蝿い小言を補って余るものがあった。
中学生になった。
英語の授業と初対面した。
「ジェスは日本語が上手やのう」。ララミー牧場の吹き替えに感心する年寄りがいたらしい。
ハワイアンアイ、アンタッチャブル、じゃじゃ馬億万長者、逃亡者、サンセット77、などなど。
テレビが『英語』を運んできた。
吹き替えは日本語だが、オープニングタイトルは、強烈なアメリカ英語で恰好付けられる。
おどけ者が、「アーンタッチャボー!」と上手く真似ると、「もう一回やってくれ」。
漫才の片方が、「ボク、英語が少々できちゃってサ」。
相方が、「ほんまかいな、ちょっとやってみ」。
「○×▽%#$・・・」。進駐軍相手に日銭を稼いだ芸の垢が、出鱈目英語の即興となる。
英語の教師には、この即興は無理だった。
「アーンタッチャボー!」が出来なかった。
理屈で教えた。「ティー・エイチは、歯と歯の間に舌先を入れて、素早く舌を奥に引くんだ」。そんなことを言われも困惑するだけだ。生徒たちは、カタカナ英語で誤魔化したが、
頑固な同級生が、コッテ牛の本領を発揮した。
「エフの発音は、上の歯で下唇を噛んでフッとやる。ミヤザキ、やってみろ」。
コッテ牛は自分を誤魔化さなかった。
『エフ(F)』の読みを求められたのだが、上の歯で舌の唇を噛むことが頭を離れなかった。
何度も深呼吸をして空気を溜め、『フフ、フフ、フフ』を吐き出した。
「ミヤザキ、エフのフだけを噛むんだ。もう一度やってみろ」。
『フフ、フフ、フフ』。教師は、匙を投げた。
コッテ牛とは、頑固者の事である。
コッテ牛は限度一杯まで我慢するが、抵抗を感じると梃(てこ)でも動かない。
母は流し寒天を餌にコッテ牛を調教したのかもしれない。
ミヤザキ君の頑固は、砂漠の民の神の愛への頑な態度に似ている。
頑(かたく)なと訳されるヘブル語は『軛を嫌う』という意味があるようだ。
『項(うなじ)を強(こわ)くする。固くする』の訳もある。
『御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方』。
そのお方の福音を、流し寒天に似たりと言っても、それほど見当外れではないだろう。
山口県北西部にコッテ牛の語源ともなった『特牛(こっとい)』の名の駅があるらしい。
讃美歌(1) 522 みちにゆきくれし
(1)道に行き暮れし 旅人よ 仰ぎ 恵みのみ神の 御言葉を聴けや
(2)悲しむみ民よ おじまどう友よ 心をしずめて み力に頼れ
(3)重荷にたええで 悩める世人よ 望みの光を 仰ぎて待てかし
(4)父なるみ神に 涙をぬぐわれ 憩いて楽しむ あしたはまじかし
(繰り返し)
憂いの雨は 夜の間に晴れて 尽きせぬ喜び 朝日と輝かん
申命記10章 12節〜11章1節
イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐るべきことをあなたのために行われた方である。あなたの先祖は七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた。あなたは、あなたの神、主を愛し、その命令、掟、法および戒めを常に守りなさい。
ヘブライ人への手紙12章1〜4節
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。
2022年8月7日 聖霊降臨節10主日 平和聖日
説教題 『騒がしい、喧(やかま)しい』
聖 書 コリントの信徒への手紙一13章1〜13節 新約聖書(新共同訳)317ページ
マラキ書3章13〜17節 旧約聖書(新共同訳)1501ページ
讃美歌(1) 87(B) めぐみのひかりは(神は愛なり)
「身共(みども)と知っての狼藉(ろうぜき)か」。
「問答無用!」。虚無僧(こむそう)に化けた刺客の一団が退屈男に斬り掛る。
夏休みの映画館は超満員だ。
冷房はなかった。
便所の強烈なアンモニア臭に耐えた。ラムネの瓶が転がる。
ニュース映画も放映された。アウシュビッツの焼却炉だった。
人がゴミのように焼き捨てられる。火葬場の『それ』ではない。
特徴のあるヘルメットの軍団が歓呼の中を行進すると、「ナチスや!」と小学生男子が騒ぐ。
東海道をゆく旅の一座の先頭に、満面に笑みを湛えた歌右衛門が
看板女優に寄り添われながら扇子片手に高笑いする。
真っ赤な『終』の字がスクリーン一杯に広がる。映画は終わったが、
総天然色の時代劇と人間焼却炉の残像が交互する。
田舎の映画館に『戦争と平和』があった。
人権とは何か。平和とは何か。
アウシュビッツの映像を自力で消化する猶予が与えられなかった。
それは、映画館ではなく教室で教えられるマターとなった。
親と学校には逆らえない。
退屈男の哄笑(こうしょう)や便所の臭いのフィルターを通して理解されるべき事柄が、
パウロの言うところの銅鑼やシンバルに乗っ取られてしまった。
様子見のシタタカなユーゲントたちは模範解答を提出することで自分を誤魔化した。
カンニングをしたのである。狡(ズル)をした後ろめたさの棘(とげ)が抜けることはない。
黒板一杯に、『アガペー』のギリシア文字が書きなぐられ、
得意満面の教授が、もう一文字『エロース』と書き足し、高尚な愛と下卑た情を対比させる。
ボロ儲けの単位取得となった。
折しも、風来坊や任侠ものが再びユーゲントたちを映画館に集結させた。
寅さんも健さんも愛の人であった。
アガペーを感じた。
「もう騙されないぞ」。「もう誤魔化されないぞ」。
若者たちの心は踊ったが、教室で染み付いた垢は簡単には落ちなかった。
ユーゲントたちも、社会に出て間もなく、教室の人間に戻ってしまった。
教室の人間とは、『愛』がない人間のことである。
パウロが語る愛とは、理屈ではない。
人にはそれぞれ、神からの賜物がある。
自分の命を代償にしてまで多くの人を救う勇気や能力のある人がいる。
山を動かすに例えられる政治力を持つ者もいる。
しかし、『そこに愛はあるのか』との問いに答えられない者は
、愛なき者、『騒がしい銅鑼、喧しいシンバル』だと、一刀両断。
隣近所に聞こえただろうか。
愛なきは シンバル連打 止め処なく
平和嘯(うそぶ)く 喧(やかま)しきあり
平和聖日に寄せて
讃美歌(1) 87(B) めぐみのひかりは(神は愛なり)
(1)めぐみのひかりは わがゆきなやむ やみ路を照らせり 神は愛なり
(2)うき雲おおえど み顔の笑みは さやかに照りいず 神はあいなり
(3)うれいのときにも のぞみをあたえ なぐさめたまえり 神はあいなり
(4)ものみなうつれど めぐみのひかり とわにぞかがやく 神はあいなり
(繰り返し) われらも愛せん あいなる神を
コリントの信徒への手紙一13章1〜13節
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
マラキ書3章13〜17節
あなたたちは、わたしに、ひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言う、どんなことをあなたに言いましたか、と。あなたたちは言っている。「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても万軍の主の御前を喪に服している人のように歩いても何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ。」そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。わたしが備えているその日に彼らはわたしにとって宝となると、万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは彼らを憐れむ。
2022年7月31日 聖霊降臨節9主日
説教題 『今日は、これぐらいに』
聖 書 サムエル記上17章45〜54節 旧約聖書(新共同訳)457ページ
コリントの信徒への手紙二6章4〜10節 新約聖書(新共同訳)331ページ
讃美歌(1) 294みめぐみゆたけき
「だれに断って商売しとるんじゃい」。
ラーメン屋の屋台が叩き壊される。屋台の親父が胸倉をつかまれる。
「待たんかい」。「なんじゃい。小さいオッサン」。
「お前らのような弱いもんいじめを黙って見ておれんのや」。
小さいオッサンは、チンピラたちに寄ってたかって叩きのめされてしまう。
ふらふらと立ち上がり、「今日はこれぐらいにしといたる」。
ネクタイの長さに足りない身長を笑いに仕立てる。
小さな魚類の名を芸名にしている。
誰もが知っている喜劇役者のお約束である。
面白いのだが、何かしらの屈折もある。
弱い者は、強い者に負ける。それが世界史のメランコリー(憂鬱)となる。
この憂鬱(ゆううつ)の鬱憤(うっぷん)は晴らされねばならない。
浪花節の登場だ。
流浪の民は、神が約束したカナンの地に辿り着いたが、
その地は強い民が支配するテリトリーであった。
約束の民の『在りて在る唯一の神』は、取るに足りない貧弱な砂漠の神に過ぎなかった。
聖書の民は、小さいオッサンの物語を書き換える。
八人兄弟の末っ子ダビデが、巨人ゴリアテを小石の一撃で倒し国家存亡の危機を救った。
イスラエルとユダの軍はペリシテ軍と対峙するが、力の差は歴然としていた。
持ち駒は底をついた。降伏は目前であったが、破れかぶれの一騎打ちが提案された。
羊飼いの美少年が召し出され一騎打ちとなる。
少年は、散々ペリシテ軍の笑いものにされるが
、巨人ゴリアテを前にして、神の力を目にも見せてくれると放言する。
ゴリアテは片腹痛いと一笑に付す。
ダビデが手にした羊飼いの杖が完全武装したゴリアテの癇に障った。
原文では『杖』は複数形になっているので、ゴリアテは乱視であったと解釈されてきたが、
この複数形は、アンダーライン、あるいは太字を意味していると理解するのが自然である。
取るに足らない者からコケにされたことが強調されているのである。
ゴリアテは、ダビデを捻りつぶそうと剣を抜くこともなく迫ってきた。
そのタイミングで石紐から小石が発射された。
ダビデは、倒れたゴリアテの首を切り落とした。
剣はその時まで抜かれていなかった。
『人を欺いているようでいて、誠実であり』。
パウロの言葉も小さいオッサンの負け惜しみを彷彿とさせるが、
物語の浪花節的書き換えが信仰者に求められる。
羊飼いの杖はイエスの福音である。
それが、アンダーライン、太字に見られるとしたら愉快ではないか。
余談だが、ナチス軍は、遠隔操作で走行する小型爆弾車の名をゴリアテと名付けた。
兵器の秘匿性を高めるために真逆な意味を込めてダビデ(小さいオッサン)ではなく、
ゴリアテの名を冠したらしい。
「今日は、これぐらいに」と、この少年が言う。
讃美歌(1) 294みめぐみゆたけき
(1)みめぐみゆたけき 主の手にひかれて この世の旅路を あゆむぞうれしき
(2)さびしき野べにも にぎわう里にも 主ともにいまして われをぞみちびく
(3)けわしき山路も おぐらき谷間も 主の手にすがりて やすけくすぎまし
(4)世の旅はてなば 死のかわなみをも 恐れずこえゆかん みたすけたのみて
(ref.) たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ みあとをゆくこそ こよなきさちなれ
サムエル記上17章 45〜54節
だが、ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうため戦いの場に走った。ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった。ダビデは走り寄って、そのペリシテ人の上にまたがると、ペリシテ人の剣を取り、さやから引き抜いてとどめを刺し、首を切り落とした。ペリシテ軍は、自分たちの勇士が殺されたのを見て、逃げ出した。イスラエルとユダの兵は立って、鬨の声をあげ、ペリシテ軍を追撃して、ガイの境エクロンの門に至った。ペリシテ人は刺し殺され、ガトとエクロンに至るシャアライムの道に倒れていた。イスラエルの兵士はペリシテ軍追撃から帰ると、彼らの陣営を略奪した。ダビデはあのペリシテ人の首を取ってエルサレムに持ち帰り、その武具は自分の天幕に置いた。
コリントの信徒への手紙二6章4〜10節
あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
2022年7月24日 聖霊降臨節8主日
説教題 『グニの半・ピンゾロの丁』
聖 書 列王記上10章1〜13節 旧約聖書(新共同訳)546ページ
テモテの手紙一 3章14〜15節 新約聖書(新共同訳)386ページ
讃美歌(1) 242 なやむものよ
「持ってる者(もん)が、持ってるちゅうたら、あかんのや」。
社長は、書画骨董のありったけを毎週、惜しみなく見せてくれた。
「このペルシャ絨毯(じゅうたん)、安かったで。たったの七百万円や」。
「この絨毯は、千年でも、もつんや。そやから、一日あたり、なんぼになるか分かるか。センセ」。
「持ってると言っちゃいけないと仰ったじゃないですか」。
「持ってない者(もん)に、持ってるちゅうたらあかんちゅうことや。
センセは、持ってる人やから見せるんや」。
随分な買い被(かぶ)りだ。
「ボクは、一桁の月給の牧師ですよ。
車が壊れたので先週から必死で中古車探している貧乏人ですよ」。
ライトバンの出物が店頭に並んでいた。
「センセ、それ買(こ)うたげるわ」。
「ボクは、物乞いに来たんじゃありませんよ」。
「そんなら、サイコロで決めよか」。
「グニの半!」。
「センセ、それ、五と二を足して、奇数の目ちゅうこと分かってますか」。
一が二つ出た。
「センセ、これをピンゾロの丁ちゅうんでっせ」。
「センセの体を貰います。うちの息子の一生の家庭教師になってや。
車はオマケで付けときまっさかいな。こりゃ、安い買い物(もん)や」。
ソロモン王は、その晩年に、
『一切は空しい。空の空』と栄華に溺れた壮年の日々の至らなさを
忸怩(じくじ)たる思いを込めて吐露したが、
それが言えるほど桁外れの成功者であった。
父ダビデは、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った』と
岳父(がくふ)サウル王が嫉妬に狂うほどの業績を残した。
ソロモン自身は、神殿と宮殿の建設によって父ダビデの十倍の仕事を為したと評された。
ソロモンの王国は、シェバの女王を圧倒したと末代に語り継がれる。
偉大な王は、金満家であっただけでは無く
全世界が求めるあらゆる難問珍問に即答する智慧も備えていたと。
ソロモンの富と智慧に圧倒されたシェバの女王の存在は、架空性が強い。
普遍的なメッセージを感じ取るように仕組まれている。
王と女王の遣り取りには、危険が孕(はら)まれている。
『持っている者が、持っていると言ってはいけない』。
鬼籍に移された社長の声が聞こえる。
ソロモンには、千人の側室を抱えるハーレム(大奥)が必須だった。
側室たちの文化に浸った。
宮殿も神殿も偶像の展示会場となった。
神は、預言者の口を通して王国の私物化を激しく非難した。
預言者の時代が始まり、王国が分裂する。
王は、富と智慧の所有者を勘違いした。
テモテは言う。
神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会の事であると。
女王が拙宅に来ることはない。
讃美歌(1) 242 なやむものよ
(1)なやむものよ われに来よと めぐみの主は まねきたもう
重荷を負いて あえぐ友よ 主のみもとに きたりいこえ
(2)なやむものよ われに来よと ひかりの主は まねきたもう
くらきみにに まよう友よ 主のみもとに いそぎかえれ
(3)なやむものよ われに来よと すくいのの主は まねきたもう
つみを悔いて なげく友よ 主のゆるしの みこえきけや
列王記上10章 1〜13節
シェバの女王は主の御名によるソロモンの名声を聞き、難問をもって彼を試そうとしてやって来た。彼女は極めて大勢の随員を伴い、香料、非常に多くの金、宝石をらくだに積んでエルサレムに来た。ソロモンのところに来ると、彼女はあらかじめ考えておいたすべての質問を浴びせたが、ソロモンはそのすべてに解答を与えた。王に分からない事、答えられない事は何一つなかった。シェバの女王は、ソロモンの知恵と彼の建てた宮殿を目の当たりにし、また食卓の料理、居並ぶ彼の家臣、丁重にもてなす給仕たちとその装い、献酌官、それに王が主の神殿でささげる焼き尽くす献げ物を見て、息も止まるような思いであった。女王は王に言った。「わたしが国で、あなたの御事績とあなたのお知恵について聞いていたことは、本当のことでした。わたしは、ここに来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じてはいませんでした。しかし、わたしに知らされていたことはその半分にも及ばず、お知恵と富はうわさに聞いていたことをはるかに超えています。あなたの臣民はなんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立ってあなたのお知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう。あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるからです。」彼女は金百二十キカル、非常に多くの香料、宝石を王に贈ったが、このシェバの女王がソロモン王に贈ったほど多くの香料は二度と入って来なかった。また、オフィルから金を積んで来たヒラムの船団は、オフィルから極めて大量の白檀や宝石も運んで来た。王はその白檀で主の神殿と王宮の欄干や、詠唱者のための竪琴や琴を作った。このように白檀がもたらされたことはなく、今日までだれもそのようなことを見た者はなかったソロモン王は、シェバの女王に対し、豊かに富んだ王にふさわしい贈り物をしたほかに、女王が願うものは何でも望みのままに与えた。こうして女王とその一行は故国に向かって帰って行った。
テモテへの手紙一3章 14〜15節
わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。
2022年7月17日 聖霊降臨節第7主日
説教題 『縮尻(しくじり)のスパイラル』
聖 書 ガラテヤ書 3章1〜6節 新約聖書(新共同訳)345ページ
エレミヤ書23章33〜36節 旧約聖書(新共同訳)1221ページ
讃美歌21 515 きみのたまものと(1,3)
「玉ねぎ、そんなぎょうさん使うの、センセ」。
「そうや、よおけ使うんや」。
人参、ジャガイモを砂糖と醤油、シチューやカレーの素で味付けるだけである。
すき焼きは、肉じゃがと言えば良かったのだが不評を極めた。
名誉挽回は、最終日のカレーである。グループごとにカレーを作る。
炎天下に薪を使った調理である。玉ねぎを多量にスライスし、熾火(おきび)でキツネ色に炒める。
多量の玉ねぎが凝縮されたペーストになる。
そのような調理法に歓声が上がった。
レストランや百貨店の食堂の調理場で大量の玉ねぎを飴色のキツネ色のペーストに仕上げるのは見習い仕事である。
この作業には根気が求められるが、それ以上に求められるのは誠実さである。
玉ねぎをうっかり焦がしてしまった場合、それが、どれほど僅かであっても、
その縮尻(しくじり)を報告せずに黙っていることは許されない。
米粒ほどの『焦げ』がカレー全体の味を損なうからである。
『ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち』。パウロは、手塩にかけたガリラヤの教会に呆れ果てている。
ガラテヤの人たちとは、パウロが第一次伝道旅行で訪れたユダヤ人たちが多く住んでいた南ガラテヤ地方の人たちのことを指す。
この人たちは、ユダヤ主義的アプローチに弱かった。
『異なる福音』、騙(かた)りグループからの惑わしに免疫がなかった。
パウロたちが、忍耐強く丁寧にじっくり炒めたまろやかなペーストのような信徒たちに余計な熱が加わった。
鍋底が焦げていた。鍋の中身を全て廃棄しなければならないほどの危機があった。
焦げ付きの報告が蔑(ないがし)ろにされていた。
道徳的退廃の極みにあったローマ帝国内にユダヤ教への憧(あこがれ)があった。
ヘンコツな集団の持つ清らかさへの敬意である。
聖書はそれを『神を畏(おそ)れる人たち』と記している。
この人たちは、パウロの説く福音によって異邦人クリスチャンへと導かれる。
アブラハムの信仰が割礼儀式を必須としない『新しい創造』を生み出した。
その流れに逆行する『異なる福音』とは、
『万軍の主の言葉を曲げた』、
『“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとする』のことである。
擦(こす)っても擦っても鍋を傷つけるだけの黒焦げは、
鍋を使う度に、縮尻(しくじり)の連鎖(スパイラル)を思い起こさせる。
不定冠詞付きの教会や信徒像への連想を禁じ得ない。
わたしもあなたも、それに該当する。
皮を捨てず茶にした。
讃美歌21 515 きみのたまものと(1,3)
(3)どんなよいわざも キリスト・イェスの 十字架の愛には くらべられない
きみの罪とがを すべてゆるして あがないのわざを 主はなしとげた
ガラテヤの信徒への手紙3章1〜12節
ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。
律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。
エレミヤ書23章33〜36節
もし、この民が――預言者であれ祭司であれ――あなたに、「主の託宣(マッサ)とは何か」と問うならば、彼らに、「お前たちこそ重荷(マッサ)だ。わたしはお前たちを投げ捨てる、と主は言われる」と答えるがよい。預言者にせよ、祭司にせよ、民にせよ、「主の託宣だ」と言う者があれば、わたしはその人とその家を罰する。お前たちは、ただ隣人や兄弟の間で互いに、「主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか」とだけ言うがよい。「主の託宣だ」という言い方を二度としてはならない。なぜなら、お前たちは勝手に自分の言葉を託宣とし、生ける神である我らの神、万軍の主の言葉を曲げたからだ。
2022年7月10日 聖霊降臨節第6主日
説教題 『余所者(よそもの)』
聖 書 エステル記7章1〜10節 旧約聖書(新共同訳)770ページ
ヨハネ黙示録 14章17〜19節 新約聖書(新共同訳)469ページ
讃美歌(1) 286 神はわが力
「もう梅雨が明けたらしいよ」。
「そうらしいね」。
「いつまで、そのテープ流してるの」。
「テープ? 古いな。あんたも。これはSDカードに入れたCDの音源や」。
車のオーディオからシューベルトの『冬の旅』が流れる。
季節外れも甚だしい。
『余所者(よそもの)としてやって来て、余所者として去って行く』。
歌曲集は、この歌い出しから始まる。
「このヨソモンちゅうとこが好きなんや」。
「あんたは、ふらふらして来たからね」。
余所者、流れ者、アウエーの人こそ、聖書の民の自虐であり矜持(きょうじ)である。
他者の存在は害である。出自不明の馬の骨は受容しない。
そのような目や口が棘となって胸に突き刺さる。
「今日はこれぐらいにしておいてやる」。
完膚無きまでに打ちのめされてなお、その捨て台詞を忘れない。
滑稽なほど、自意識が過剰である。
それゆえに、正典のなかに、ロマンあふれる妄想寸劇が織り込まれる。
エステルという名の美女が、大国ペルシャの王に見初められて后(きさき)となり、
王の威光を傘にユダヤの民を根絶やしにせんと謀(はか)る宰相を無慈悲に葬り去った痛快な記憶を連綿と受け継ぐ。
ペルシャの王は常時酩酊者であった。
それは独裁者の常として稀有なことではない。
一人酒、手酌を嫌う。
寂しがり屋の宴会が絶える日は無かった。后は同席しなかった。
だらしない酒飲みの夫を嫌う妻の常である。
おそらく、后は、王よりも格上の家柄から輿入(こしい)れして来たのかもしれない。
光源氏も正妻の家格が鬱陶しかった。鬱憤(うっぷん)があった。
それでも、王は洗練された后を招待者に見せびらかしたい思いに駆られた。
后は拒んだ。王のプライドは傷ついた。
怒り心頭の王にセラピストよろしく宰相ハマンが取り入った。
后の離縁と新たな后を公募するという『名案』を提示した。
王は、ユダヤの民の出自を隠したエステルを見初める。
エステルの宮廷デビューを伯父のモルデカイが支える。
宰相ハマンは、余所者を執拗に警戒する。
ある事ないことを王に吹き込み、妻にそそのかされ特性の絞首台まで用意してユダヤの民の殲滅を計画する。
エステル王妃の気転によって、王はハマンの誘導から目が覚める。
ハマンは自らが用意した五階ビルの高さの柱に吊るされる。
策士策に溺れたのである。
この故事は、ハマンが、ユダヤの民の殺戮日を籤(くじ・ヘブル語でプリム)によって決めたことからプリムの祭りとして祝われている。
この祭りでは、酩酊が許容されることもあるらしい。
1930年代のアメリカ大恐慌下にあったオクラホマの貧しい農民の悲哀がスタインベックの小説、『怒りの葡萄』となる。
余所者の悲劇が余すところなく描かれている。
小説に登場するシャロンのバラの名を持つ娘とエステル王妃のイメージが重なる。
遠い国から来た余所者ですけど。
讃美歌(1) 286 神はわが力
(1)神はわがちから わがたかきやぐら 苦しめるときの 近き助けなり
(2)たとい地はかわり 山はうなばらの 中にうつるとも われいかで恐れん
(3)神のみやこには 静かにながるる きよき河ありて み民をうるおす
(4)御言葉の水は 疲れをいやして 新たなる命 あたえてつきせじ
(5)神のみもとべは 常にやすらけく 苦しみ悩みも 消えてあとぞなき
エステル記7章1〜10節
王とハマンは、王妃エステルとの酒宴にやって来た。この二日目にも王はぶどう酒を飲みながらエステルに言った。「王妃エステルよ、あなたが望むことは何でもかなえよう。あなたが願うのであれば、国の半分なりとも与えよう。」王妃エステルは答えた。「王様、もし私が王様のご好意を得、そしてもし王様が良しとされるならば、私の望みをかなえて私の命を、私の願いを聞き入れて私の民をお救いください。私と私の民は売られて、根絶やしにされ、殺され、滅ぼされようとしています。もし私たちが、男も女も奴隷として売られただけなら、その苦難は王様を煩わすほどのことではないので、私は黙っていたでしょう。」クセルクセス王は王妃エステルに言った。「そんなことをしようと心にたくらんでいるのは、一体誰か。その者はどこにいるのか。」エステルは言った。「その苦しめる者、その敵は、この邪悪なハマンです。」ハマンは王と王妃の前に恐れおののいた。王は憤ってぶどう酒の宴の席を立ち、宮殿の庭へ向かった。ハマンは王妃エステルに命乞いをしようとしてとどまった。王が自分に害を加えることが決定的になったのを見たからである。王が宮殿の庭からぶどう酒の宴の建物に戻って来ると、ハマンがエステルのいた長椅子の上に身を伏していた。王は言った。「私のいる宮殿で王妃にも乱暴しようとするのか。」この言葉が王の口から出ると、人々はハマンの顔を覆った。王に仕える宦官の一人、ハルボナが言った。「ちょうど柱があります。王様のためによい知らせを告げたモルデカイをつるそうと、ハマンが立てたもので、ハマンの家に立っています。五十アンマもの高さです。」王は言った。「ハマンをその上につるせ。」こうしてハマンは、自分がモルデカイをつるそうと用意した柱につるされ、王の燃えるような怒りは収まった。
ヨハネの黙示録 14章17〜19節
また、もう一人の天使が天の神殿から出て来たが、この天使も鋭い鎌を手にしていた。すると、火をつかさどる権威を持つもう一人の天使が、祭壇から出て来て、鋭い鎌を持つ天使に大声でこう言った。「あなたの鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れよ。ぶどうの実は熟している。」そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ込んだ。
2022年7月3日 聖霊降臨節第5主日
説教題 『農夫の呟(つぶや)き』
聖 書 アモス書7章10〜17節 旧約聖書(新共同訳)1438ページ
使徒言行録 20章29〜38節 新約聖書(新共同訳)255ページ
讃美歌(1) 328 いさみ進まん憂き日にも
「ワシは百姓やからな」。
この言葉に騙されてはいけない。
何も分からないフリをしながら勉強不足をやんわり指摘される。
「ほっほう」の相槌が憎たらしい。
田植えを手伝い、牛舎を掃除した。搾りたての牛乳を飲んだ。
「まあまあ聞けるようになったな。この頃のセンセの説教」。
「ボクは、筋が良いですからね」。
「お世辞が分からんようでは、まだまだですな。センセ」。
憎々しい。嬉しい。
旧約聖書に、百姓の預言者が登場する。
アモスと言う名の預言者である。正確には預言者ではない。
言動が預言者であった。
羊飼いであり、イチジク桑の栽培者であった。
エルサレムの南16キロほどにある村の畜産家であった。
都から四里ほど、京都と奈良から五里、『ごりごりの里』、
城陽市のJR線沿いの農村部に似たりというと分かる人にはわかり易い。
この辺りはイチジクの名産地でもある。(注:イチジクとイチジク桑は全くの別物)
もっとコアな土地勘でいえば、少し西にずれて、
一休禅師が晩年をすごした酬恩庵一休寺も都から四里ほどの所にある。
この寺の住職は代々、『一休寺納豆』を手ずから作る。
ソロモンの王国は北と南に分裂して久しかった。
北王国は十部族を束ねる。アモスの南王国は二部族に過ぎない。
圧倒的な羽振りの良さが北王国にあった。
分裂後の初代王と同じ名で、それ以上の政治手腕を発揮した十三代王、ヤロブアム二世は傲慢の限りを尽くしていた。
茶坊主の頭、大祭司アマツヤが王の無軌道に拍車を掛けた。
『ごりごりの里』の百姓が口を開いた。
『わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ』。
この百姓言葉、物の言い様が、狸だ。
ズル軍鶏だ。食わせ者だ。
誰がこれを額面通りに聞くだろうか。
小が大を言い聞かす。
出エジプトの出来事しかり。
ゴリアテを一発の石飛礫(つぶて)で倒したダビデしかり。
羊飼いは底辺の人。イチジク桑の実のひとつひとつに針で穴を開けオリーブ油を垂らすチマチマした加工を副業とする人。
パウロが自称した『取るに足りない人』が、王と大祭司に国の滅びを預言する。
王の息子と娘は剣で膾(なます)に切り刻まれ、
大祭司の妻も落ちるところまで落ちて春を鬻(ひさ)ぐ者となる。
領土は奪われ、王は、遂に、野垂れ死にする。
作務衣に着替えた禅寺の住職が炎天下に寺納豆を干す夏の風物詩に、
アモスがイチジク桑の実を手に取る姿が重なる。
作務無き所に説法あらず
讃美歌(1) 328 いさみ進まん憂き日にも
(1)いさみ進まん うき日にも つよきこころ うしなわず
主のみあしの あとにつづき いざや進まん その旅路
(3)主のみまもり われにあり とわのいのち われを待つ
おそれを去り みわざ励み いざや進まん その旅路
アモス書7章10〜17節
ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。「イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で殺される。イスラエルは、必ず捕らえられて、その土地から連れ去られる。』」アマツヤはアモスに言った。「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。今、主の言葉を聞け。あなたは、『イスラエルに向かって預言するな、イサクの家に向かってたわごとを言うな』と言う。それゆえ、主はこう言われる。お前の妻は町の中で遊女となり、息子、娘らは剣に倒れ、土地は測り縄で分けられ、お前は汚れた土地で死ぬ。イスラエルは、必ず捕らえられて、その土地から連れ去られる。」
使徒言行録20章29〜38節
わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。
2022年6月26日 聖霊降臨節第4主日
説教題 『落とし穴』
聖 書 使徒言行録 16章16〜24節 新約聖書(新共同訳)245ページ
サムエル記上16章14〜20節 旧約聖書(新共同訳)454ページ
讃美歌(1) 385 うたがいまよいのやみよをついて
「あんたの心はサタンに支配されている」。「オ
ヤジは、役員に言うんだよ。自分に反対する意見はサタンだってね」。
繁華街の路傍伝道から大教会を作り上げたらしい。
オヤジは、諫言(かんげん)が大の苦手。
説教批判など論外。
『霊の力』に溢れた祈りの人だった。
「ところがサ、うちはお化けみたいな霊がそこらじゅうにあるからサ、
夜中トイレに行くのに礼拝堂を通らなくちゃならないからサ、
子どもの頃は、怖くて怖くて仕方なかったんだよ」。
次男坊の友人にはオヤジの霊力が及ばなかった。
神学校を中退して居酒屋のオヤジになった。
長男は、アメリカの神学校を卒業してオヤジの側近となった。
オヤジは、子飼いの役員と副牧師の長男に守られてカリスマ牧師の頂点を極めた。
教会の一角を駐車場にする会計役員の提案があった。
小さな議題であったが、オヤジは聖地が汚される思いに駆られた。
会計役員をサタンと罵った直後、帰らぬ人となった。
脳が爆発したのである。
「その後はサ、兄貴の力不足で教会は分裂、
お袋はサ、店の二階でボクとヨメと三人で楽しく暮らしているよ」。
パウロは、盟友バルナバと二度目の問安旅行を試みようとした。
しかし、同行者の選別をめぐり、説教者の曲解による妄想ではあるが、
互いをサタンと罵り合うほど対立し、挙句の果の別行動となった。
バルナバはパウロが嫌ったマルコを連れてキプロス島へと船出した。
一方、パウロは、シラスを伴い幻の中に現れた一人のマケドニア人の懇願を受け、
特急に乗ってマケドニア州のフィリピに赴く。
イエスの霊によって各停や準急に乗ることを禁じられたのである。
「あなたとあなたの家族も救われる」。
ローマの植民都市フィリピに衝撃が走る。
個人だけではなく家族にも福音が約束された。
とある岸辺に祈りの場があった。
野外礼拝、キャンプ・ミーティングの言葉が懐かしい。
霊的覚醒、リバイバルの時代を彷彿とさせる。
祈りの場への道はフランスデモの賑わいだ。
立ち寄るべき教会を素通りしてまで辿り着いた町に神の労いがあった。
良い心地にならない訳がない。
ところが、突然、一行の前に、
落語に登場する米相場のおこぼれに与かろうとする太鼓持ちのような女占い師が現れる。
パウロたちを歯の浮くような言葉で褒めちぎった。
パウロ一行は、福音宣教の落とし穴を直感した。
占い師の身に潜む悪霊に出て行けと命じる。
「このサタン女メ!」と怒鳴った。
この事件は、パウロとシラスを牢獄に繋ぐ。
パウロの激昂(げきこう)は、シラスとの讃美歌デュエットでようやく収まった。
真夜中の監獄ライブだった。
悪霊に憑りつかれたサウル王もダビデの竪琴に慰めを得た。
思い上がりにサタンはアカンベー
讃美歌(1) 385 うたがいまよいのやみよをついて
(1)うたがいまよいの やみよをついて おそれずたゆまず われらはすすむ
ゆくてにかがやく みひかりあれば ともにてをとりて よろこびすすむ
(2)われらをむすべる みたまはひとつ われらにかよえる いのちもひとつ
ひとつのみかてに はぐくまれつつ ひとつのめあてに むかいてすすむ
(3)ほまれもさかえも たがいにわかち うれいもなやみも かたみにうけて
ひとつのみいくさ ともにたたかい ひとつのかちうた ひとしくうたう
(4)いざいざはらから じゅうじかをおいて みくにのみちをば おおしくすすまん
よのたびおわりて さかえの主より いのちのかむりを たまわるひまで
使徒言行録 16章 16〜24節
わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。
サムエル記上16章14〜20節
主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。サウルの家臣はサウルに勧めた。「あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。王様、御前に仕えるこの僕どもにお命じになり、竪琴を上手に奏でる者を探させてください。神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の御気分を良くするでしょう。」サウルは家臣に命じた。「わたしのために竪琴の名手を見つけ出して、連れて来なさい。」従者の一人が答えた。「わたしが会ったベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です。」サウルは、エッサイに使者を立てて言った。「あなたの息子で、羊の番をするダビデを、わたしのもとによこしなさい。」エッサイは、パンを積んだろばとぶどう酒の入った革袋と子山羊一匹を用意し、息子ダビデに持たせてサウルに送った。
2022年6月19日 聖霊降臨節第3主日
説教題 『駅の空耳(そらみみ)』
https://youtu.be/AQfI4Cc6xpc (動画あり)
聖 書 使徒言行録 4章19〜22節 新約聖書(新共同訳) 219ページ
使徒言行録3章6〜10節 〃
217ページ
歴代誌下15章3〜7節 旧約聖書(新共同訳)689ページ
讃 美 歌(1) 270 信仰こそ旅路を
「漕げ、漕げ、漕げよ、ボート漕げよ」。
空耳と言われているものだ。
初めて行く教会だった。
駅の待合室で時間調整をする。
不安な時、どこからともなく聞こえて来るマイメロディーだ。
聞いたと言うより声を出さずに頭で歌ったというのが適切だろう。
後の歌詞が続かない。
無いのかもしれない。
「漕げ、漕げ、漕げよ、ボート漕げよ」。
長くこの歌はマザーグースの一節だと思っていたが、大道芸に端を発する民間伝承歌だと知った。
英語の元歌は、『川の流れに逆らわず愉快にボートを漕げ。人生は夢にすぎないのだ』とある。
人生は、鯉の滝登りではない。
愉快にやれ。
流れに身を任せろ。
付き合い程度にオールを漕げば良い。
人の人生に大差はない。
夢に過ぎないのだ。
今日こそ、脳裏に粘着したマイメロディーに休止符を打つ機会だと思い後に続く歌詞を作った。
漕げ、漕げ、舟を ゆるゆると お前の舟だ お前の舟だ 慌てるな
漕げ、漕げ、舟よ お前と一緒だ いつも一緒に いつも一緒に 仲良しだ
漕げ、漕げ、舟に 夢のせて 辛いことは 辛いことは 忘れたよ
漕げ、漕げ、舟は くだっていくよ 青い海が 青い海が 待っている
金銀、カネの力ではなくイエスの名によって自らの足で歩き始めた物乞い男も空耳に悩んでいた。
『漕げ、漕げ』に続く歌詞が思い浮かばない日々を繰り返していた。
『美しの門』は物乞いの一等地だ。
ショバの確保に心休まる日はなかっただろう。
萎えた足が癒され、自分の足で歩くことを拒絶する自分を知った。
そのような心の深層があることをペトロたちとの出会いで初めて知った。
だから、男は、癒された後もペトロとヨハネに『付きまとった』のである。
今、四十歳にして男の人生が始まった。
人生は夢に過ぎないキャンペーンから解放された。
青い大海原が待っている。
もう少しヒントを得たい。
ペトロ師匠の付き人、カバン持ちのヨハネの苛立ちを物ともせず、
男は、使徒たちのフィールドワークの場にしつこく、付きまとった。
讃 美 歌(1) 270 信仰こそ旅路を
(1)信仰こそ旅路を 導く杖 弱きを強むる 力なれや
心勇ましく 旅を続け行ゆかん この世の危あやうき 恐るべしや
(2)わが主を頭かしらと 仰ぎ見れば 力の泉は 湧きて尽きず
恵み深き主の 御傷みきず 見まつれば わずかに残る火 再び燃もゆ
(3)主イエスの御跡みあとを たどり行けば 険しき山路やまじも 安けき道
いかで迷うべき などて疲つかるべき 真直ますぐに御神へ 近づき行かん
(4)信仰をぞわが身の 杖と頼まん 鋭するどき剣つるぎも 比くらぶべしや
代々よよの聖徒らを 強く生かしたる 御霊をわれにも 与えたまえ
使徒言行録4章19〜22節
しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。
このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。
使徒言行録3章6〜10節
ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。
歴代誌下15章3〜7節
長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった。しかし彼らは、苦悩の中でイスラエルの神、主に立ち帰り、主を求めたので、主は彼らに御自分を示してくださった。そのころこの地のすべての住民は甚だしい騒乱に巻き込まれ、安心して行き来することができなかった。神があらゆる苦悩をもって混乱させられたので、国と国、町と町が互いに破壊し合ったのだ。しかし、あなたたちは勇気を出しなさい。落胆してはならない。あなたたちの行いには、必ず報いがある。」
2022年6月12日 聖霊降臨節第2主日
三位一体主日
こどもの日(花の日)
説教題 『肌身離さず』
聖 書 申命記 6章4〜?節 旧約聖書(新共同訳)291ページ
ローマの信徒への手紙 8章12〜17節 新約聖書(新共同訳) 284ページ
讃 美 歌(旧こども) 48 こどもをまねく
「日本海の夕陽に両手広げて、バンザーイって叫ぶねん。
女の露天風呂はがらがらやから、爽快やで」。
「スマホも関係ないしね」。
「それ言わんといて」。
「車内ではマスクを着用いただき、会話をお控えいただきますように」。
阪急桂駅から準急河原町行に乗り込んで来た女三人組に脱力系男子車掌の車内アナウンスが空しい。
女たちは、姐御と子分ふたりの仲良し派遣社員と見受けた。
嵐山見物の帰りであろうか。
姐御は、道ならぬ恋のお相手とのツーショット画像を両脇の子分に見せびらかす。
肌身離さない『そのスマホ』を忘れるほど夕陽の日本海が素晴らしいと言う。
来週は、レンタカーを借りて天の橋立方面に繰り出そうと大声で喚(わめ)き散らしている。
車掌のアナウンスが風呂場の放屁よろしく緩やかに、心地良く雲消霧散する。
本日、六月第二週の聖日は、『こどもの日(花の日』である。
マサチューセッツ州チュルシイ市にあるメソジスト教会のレオナルド牧師が提案したことが起源となっているらしい。教会に持ち寄った花を携えたこどもたちが消防署や病院などを訪問するのである。
しかし、この光景も諸般の事情により風呂場の何やらのごとく記憶の彼方となった。
こどもたちが教会に大挙押し寄せる日々は過ぎた。
突然のこどもたちの慰問に即対応の消防署(1980年)
『聞け!イスラエル!』で始まる申命記は、神の言葉をスマホのごとく肌身離すなと訴える。
経文の入った小箱を革紐で腕や額に巻き付けよと命じる。
その小芝居は子々孫々と伝えられた。
しかし、その結末は偽善、欺瞞として激しくイエスに断罪された。
人通りのある場所での大仰な祈り、意匠を凝らした経文の見せびらかし。
『白塗りの墓』とイエスは独善的、排他的な信仰を漫画化した。
神の言葉を身に着けるということは、神への感謝を日常とすることを意味する。
『自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑』の享受は、自然、神への感謝を我が肌身に粘着させる。
『この霊こそは、わたしたちが神のこどもであること』。
それは、まさにペンテコステの出来事、聖霊による慈愛の神との親子関係の麗しさを描き出している。
讃 美 歌(旧こども) 48 こどもをまねく
申命記6章4〜15節
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。
ローマの信徒への手紙8章1〜17節
それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
2022年6月5日 聖霊降臨節第1主日 ペンテコステ礼拝
説教題 『声を張り上げ、』
聖 書 使徒言行録2章1−16節 新約聖書(新共同訳)214ページ
ヨエル書 3章1〜5節 旧約聖書(新共同訳)1425ページ
讃 美 歌(1) 181 みたまよくだりて
「この人、また不採用になったんですよ。あんたな、今、牧師先生と話しとるんよ。へらへらしとるんやないで」。
口笛さんは、他人事のように惚(とぼ)けている。
世話人と三人で面談している時もピューピューとモーツアルトを吹き続ける。
聞き覚えのある軽快なメロディーを指揮しながら吹くのである。
口笛さんは、いつも何かの曲を吹いているが、人と話をする時は、自作のメロディーに言葉を乗せる。
ふざけていると殴り飛ばされたことがある。
紹介された仕事先の面接があった。
簡単な履歴を聞かれたが、ミュージカル仕立ての自己紹介を始めた。
「うちで働いてもらわなくて結構です」。
ペンテコステの出来事に、口笛さんが重なる。
過越しの祭りから七週の祭りまでの五十日ほどを
世界の各地に散らされた信心深い人々がエルサレムに宿泊する。
神殿詣の喜びが日に日に高まり、相互の有益な情報も取り交わされる。
過越しの大麦の不味いパンは、小麦のふっくらした美味しいパンになる。
五旬祭の時分は小麦の収穫期に重なる。そのふっくらしたパンのパン種は罪を象徴しているとはいえ、
罪を自覚する喜びがパンの味わいに込められる。
この巡礼が、厳しいエトランジェの現実へ戻る人々に持続性のある力を与える。
今年も、そのルーティンのはずであった。ところが、人々の前に口笛さんが現れた。
『聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした』。
予期せぬ者たちが、帰り支度をしている人々の前に現れたのである。
ペテロを筆頭とする弟子たちの語る田舎の言葉が、世界各地の洗練された言語に同時通訳されたのである。
『彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは』。
余りの理解しがたい光景を訝(いぶか)しんだ人たちからは酒に酔っていると嘲笑される始末であった。
ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始める。
我々の口笛を聞け。
我々のミュージカルを見よ。
人々の目と耳が釘付けとなる。
故郷への土産は去年と同じものではなくなった。
ペテロは大祭司の官邸では、イエスを知らないと声の調子を落とした。
恐れの緊張から、いつもの口笛が吹けなかった。
今、ペテロたちは、『うちで働いてもらわなくて結構です』を言わさない力に満ちた者へと変えられた。
浸礼による洗礼式。(後列左から3人目。
高校2年生)牧師がネクタイ姿のまま川の流れへと導く。
1966年5月8日ペンテコステ野外礼拝。これこそ、正真正銘のミュージカルである。
讃 美 歌(1) 181 みたまよくだりて
(1) みたまよくだりて あいのほのお 冷えたるこころに もやしたまえ
(2) はかなきかげのみ 追いさまよい みかみをもとめて 日をかさねぬ
(3) ささぐるうたには ちからもなく たたえのこえだに くちにいでず
(4) 血をもてすくえる 主をおもわず 死にたるさまにて いつまであらん
(5) みたまよ主イエスの あいの火もて われらのこころに くだりたまえ
使徒言行録2章1〜16節
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
ヨエル書3章1〜5節
その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように、シオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる。
2022年5月29日 復活節第7主日
説教題 『阿婆擦れ(アバズレ)』
聖 書 ヨハネの黙示録 2章1〜5節 新約聖書(新共同訳) 453ページ
エフェソの信徒への手紙1章15〜23 節 新約聖書(新共同訳) 352ページ
イザヤ書 45章6節 旧約聖書(新共同訳)1135ページ
讃 美 歌(1) 270 信仰こそ旅路を導く杖
「宇和島のボーイフレンドが送ってくれた蜜柑よ」。
「この前の人と違う人みたやね」。「何人もおるけんね」。
通学に利用する渡し舟に乗り損ねて自転車ごと海に落ちた。
男子が先を争って海に飛び込んだ。
自転車を引きあげた者、カバンを引きあげた者。
果報者は、小柄なマドンナを抱えて海面に顔を出した者であった。
「昔の話やけんね」。七十年の時を経ても男子たちはマドンナを慕っている。
「この人は、思わせぶりでオトコを操っとるのよ」。
「阿婆擦れ(アバズレ)なのよ」。
「おほほ、、、。」
夫と死別して久しい一人暮しの貴婦人たちのお茶会を盗み見た。
彼女たちを擦れさせた長い年月がいじらしい。
キリスト教発祥の地から西の方向にギリシアやローマの世界がある。
その果ては、使徒ヤコブの墓が発見され聖地となったサンチャゴ・デ・コンポステラでお馴染みのスペインである。
反対の東方向は、アジアである。
新約聖書の時代、現在のトルコの西の部分をアジアと称した。
後に、アジアの全体像が知られるようになり大きなアジアに対して小アジアと呼ばれるようになる。
あるいは、日の出る土地を意味するアナトリアとも呼ばれるようになる。
このアジアに繁栄した大都市エフェソがあった。
このエフェソにパウロが手塩にかけた教会があった。
三回目の伝道旅行では二年以上も滞在したとされアジア全体に大きな影響をもつ福音宣教の拠点へと成長した。ヨハネの黙示録には、エフェソを筆頭に七つ教会が列挙されている。
その一つの教会に、フィラデルフィアの教会がある。
高校生時代、この名がアメリカの都市にもあることに不思議を覚え牧師に尋ねると、
それは、『兄弟愛』を意味すると教えられた。
理念が都市の名に込められているのだ。
黙示録によると、フィラデルフィアの教会はその名に恥じない信徒の共同体であったようだ。
しかし、他の教会への評価は厳しい。ラオディキアの教会は、熱くも冷たくもない生温い信仰が指弾された。
サルディスの教会に至っては、『生きているが死んでいる』と一刀両断である。
ティアティラの教会は邪悪で禍な偽女性預言者イゼベルが名指しで糾弾されている。
そのような教会群の筆頭であるエフェソの教会には、評価と感謝を前置きしてから、
パウロは、『あなたは初めの愛から離れてしまった』と涙をもって教会の阿婆擦れを警告した。
教会組織の拡張と擦れっからしは両輪である。
阿婆擦れは、域に達した状態でもあるが、お茶目を超えると元の木阿弥となる。
伝道所ほど教会らしい教会はない
讃美歌(1) 270 信仰こそ旅路を導く杖
(1)信仰こそ旅路を 導く杖 弱きを強むる 力なれや
心勇ましく 旅を続けゆかん この世のあやうき 恐るべしや
(2)わが主を頭と 仰ぎ見れば 力の泉は 湧きて尽きず
恵み深き主の 御傷(みきず) 見まつれば わずかに残る火 再び燃ゆ
(3)主イエスのみあとを たどり行けば 険しき山路も 安けき道
いかで迷うべき などて疲るべき ますぐに御神へ 近づき行かん
ヨハネの黙示録 2章1〜4節
エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちを我慢することができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
エフェソの信徒への手紙1章15〜23節
こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
イザヤ書45章6節
日の昇るところから日の沈むところまで人々は知るようになる。わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。
2022年5月22日 復活節第6主日
説教題 『ためになる話』
聖 書 創世記 18章23〜33節 旧約聖書(新共同訳)24ページ
ローマの信徒への手紙8章24〜25節 新約聖書(新共同訳) 285ページ
讃 美 歌(1) 527 わがよろこびわがのぞみ
「今日は、付文(つけぶみ)の話でもするかのう」。
「付文ってなんですか。センセ」。
「君らにはラブレターちゅうと分かりやすいかも知れんな」。
先生は、今日も思春期の男子生徒を相手に数学の授業そっちのけで一席伺っていた。
誇張の過ぎた法螺話は、同じ話でも何度聞いても飽きない。
付文のお相手との戦地に赴く前夜の睦みごとの詳細に至るいい所で、ひとりの生徒が爆発した。
「先生、数学の授業をしてください! ボクは、京大へ行きたいんです」。
「君、これを解いてみなさい」。
先生は黒板に数式を書いた。
「難しくて分かりません」。
「そうか、難しいか。残念やのう。君はボクの『ためになる話』に集中しなさい」。
先生は、黒板に書いた数式を半分ほど消しながら授業に戻ろうとした。
「先生、ボク解けます」。
別なひとりが黒板に向かい解答例を二つも書いた。
「ひとり出来るもん(者)がおったらええのや」。
先生は、チョークを置いて『ためになる話』を続けた。
別なひとりは、『ためになる話』の中断に耐えられなかったのである。
『ためになる話』が遠い記憶となったアブラム(アブラハム)とサライ(サラ)夫婦のテントに、
天の使いが旅人として現れた。
旅人を存分にもてなすのが砂漠の民の習いである。
夫婦は百歳を目前にしていた。多くの財産を所有していたが、それを託す直系親族がいなかった。
旅人たちは、来年の今頃、子宝が授かると神の祝福を告げた。
月のものが絶えて久しい妻サライは、冷ややかに笑った。
与えられた息子の名は、笑うの語呂合わせでイサクと名付けられた。
旅人たちは別れの時、もてなしの返礼とでも言うべき情報を告げた。
「言わんでもええことなんですけど」。
現場処理的付け足しである。
甥のロトが住む肥沃なソドムとゴモラの町が、その放埓(ほうらつ)三昧の故に滅ぼされると告げた。
驕り高ぶった町を破壊する神の計画に変更はないとも告げた。
アブラムは、背徳の町であっても、まともな人間もいるはずだと神と対等の遣り取りを始める。
まともな人間が五十人、四十五人、四十人、三十人、二十人、ついには十人いれば、
なんとか数学の授業なしで『ためになる話』を続けてもらえますかと詰め寄った。
十人の中に甥のロト一族が含まれているとの護教的解釈もあるらしいが、そのような解釈は無理だろう。
新約の時代、パウロは信徒に忍耐を求めた。
約束の確実性を信じるが故にソドムとゴモラの町への逆戻りを戒めた。
旧約の時代は、皮肉なことに、神が忍耐する。
あなたは、『ためになる話』を聞き続けたいのか。否か。
源 義家 八幡太郎なり
讃 美 歌(1) 527 わがよろこびわがのぞみ
(1)わがよろび わがのぞみ わがいのちの主よ
昼たたえ 夜うたいて なお足らぬをおもう
(2)慕いまつるかいぬしよ いずこの牧場に
その群れを主は導き やしないたまえる
(5)ならびもなき 愛の主の みこえぞうれしき
わがのぞみ わがいのちは 永久に主にあれや
創世記18章23〜33節
アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。
ローマの信徒への手紙8章 24〜25節
わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
2022年5月15日 復活節第5主日
説教題 『繋がって、いない』
聖 書 ヨハネによる福音書 15章1〜5節 新約聖書(新共同訳) 198ページ
イザヤ書5章1〜6節 旧約聖書(新共同訳)1067ページ
讃 美 歌 こどもさんびか 60 しゅイエスはまことのぶどうのき
「慈善事業に、少ないけど寄付したんや」。
「そんな金あるんなら、養育費はらえよ。娘が泣いとるぞ」。
客席がどっと沸く。
夫の浮気が原因で離婚した夫婦漫才の際どいネタである。
ミヤコ蝶々に南都雄二、京唄子に鳳啓助のコンビも夫の浮気が原因で別れている。
それでも、夫婦を演じた。
客の好奇心を煽った。
「なんか、よう分からんのやけど」。
「ぽてちん」。
南都雄二も鳳啓助も元妻の鋭い追及にとぼけた。
客は元夫の狼狽(うろた)えやしどろもどろに喝采を送った。
結婚とはそのようなものだろうか。
胸の痞(つか)えとなった。
「あんたやったら、わたしと別れても、せいぜい、わたしに似た安モンのわたしを見つけて来るのが関の山やろね」。「なに言ってんだい。その時になって吠え面かいたって、ボクは知らねぇぞ」。
腐れ縁の夫婦は、湿った煎餅を齧(かじ)りながらブラウン管の前で即興漫才を楽しむ。
漫才の夫婦は舞台が終わるとそれぞれの家に帰る。
片や一人暮らしのマンションへ。
片や面白くも何ともない普通の家族のもとへ。
演芸館や放送局だけがふたりを繋いでいる。
そのような関係に耐えられるだろうか。
元他人が元他人に戻っただけだろうか。
人前では番(つがい)であっても互いが存在しないのである。
ぶどうの木とそれに繋がるぶどうの実が神と人間の豊かな関係を示すとイエスは言う。
西洋には、神の加護を得て家が子々孫々に栄えるようにとの願いを込めた『ぶどうの房』という名字があるらしい。神に繋がっていなければ祝福は無い。
繋がっていなければ枯れる。
棄てられる。
そのメカニズムを知っているはずの聖書の民が異なる神と同棲を始めてしまった。
繋がりは絶たれ、捕囚の憂き目が世代が変わるほどの期間の罰となった。
イザヤは言う。「何か、しなかったことがまだあるというのか!」。
民は答えを失った。
「なんか、よう分からんのやけど」。
「ぽてちん」。
九尺二間の夫婦茶碗の繋がりが、底の見える飯櫃(めしびつ)から陽の当たる人生の晴れ舞台を約束する。
神と契約を結んだ民もイエスに心を裸にされた人々も、ぶどうの木に繋がって豊かな実を結ぶことを求められた。
祝福が約束される。
しかし、そのぶどうの木は、可視的なものではない。
『繋がっていない』のではなく、『繋がって、いない』のである。
あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、
あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。(マタイ18:18)
つるばらが咲きました。
こどもさんびか 60 しゅイエスはまことのぶどうのき
ヨハネによる福音書15章1〜5節
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
イザヤ書5章1〜6節
わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に、ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ、わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう。わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。
2022年5月8日 復活節第4主日
母の日
説教題 『母であっても母ではない』
聖 書 ヨハネによる福音書 2章1〜12節 新約聖書(新共同訳) 165ページ
レビ記 19章1〜節 旧約聖書(新共同訳)191ページ
讃 美 歌(1) 510 まぼろしの影をおいて
「お襁褓(むつ)を替えてくれてありがとう。おかあさん」。
母親の遺影に禿頭が語り掛ける。
百の天寿を全うした母親への別れの言葉だった。
「ボクは十歳の時に母親と死別してるからね」。
白髪の紳士がグラスを片手に紫煙を燻らす。
「わたしは、母親の顔を知りません」。
辛い幼年期があるようだ。
屈強な男に混じってヨイトマケを引いた母親への少年期の屈折を詫びる美輪明宏のビブラート過剰の
シャンソンがむず痒い。落語家笑福亭仁鶴は、一人息子を立派に育てたビルのお掃除おばちゃんの夕日に輝く横顔を称える。
♪夕焼け空に、おばちゃんの顔、綺麗やな〜♪
母親は、息子を支配する。
『老いては子に従え』。
三従の教えの止め、トドメであるが、老いても息子の言う事を聞く母親にお目に掛ることはない。
それ故の、蟷螂(カマキリ)の斧の教えと承知したい。
聖なる家族に君臨する母親がいた。
天使のお告げにしおらしく従った乙女が妻となり母となった。
言いなりの夫に従順な子どもたちが彼女の家であった。
彼女は自分の家を手始めに、町内、隣村へとその勢力を拡大していった。
彼女は、支配者に相応しい並外れた問題解決能力を備えていたようだ。
その力は、ナサニエル・ホーソンの小説『緋文字』の主人公のように
世間からの後指への反発によって培われた。
彼女の自慢の息子がイエスであった。
彼女は、召使が傅(かしず)く大家の婚礼の席を厚かましく取り仕切っていた。
他家の台所を踏みにじる行儀の悪さに陰口があったにもかかわらず。
手を替え品を替え、彼女の手際の良さが宴を盛り上げた。
その調子では十分に用意した葡萄酒もあっという間に切れる。
客の酔いが醒めてくる。最悪の事態だ。
三十男の息子に向かって言った。
「イーちゃん。葡萄酒がなくなったみたいよ」。
母の顔が立つようになんとかせよ。
この瞬間、彼女は支配者の座を引きずり降ろされる。
「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのか」。
その家には、六つの水瓶があった。
イエスはその水瓶を上等の葡萄酒で満たした。
その葡萄酒は尽きることがなかった。
美味な葡萄酒の宴会は天の国を投影している。
福音的聖書解釈は、七を完全数とする暗示から六つの瓶は人間的限界を意味しているとする。
レビ記において、動物との性的交渉を男女に禁じた文脈の連続に、
『父母を敬え』が二番目の戒めとしてイスラエルの民に告げられる。
この猟奇的唐突姓は、正しい関係性が神にのみ帰するとの強意に他ならない。
マリアのイエスへの関係性のごり押しは、哂えない。
産んでくれてありがとう。
讃 美 歌(1) 510 まぼろしの影をおいて
(1)まぼろしの影を追いて うき世にさまよい
うつろう花にさそわれゆく 汝が身のはかなさ
(2)おさなくて罪を知らず むねにまくらして
むずがりては手にゆられし むかしわすれしか
(3)汝が母のたのむかみの みもとにはこずや
小鳥の巣に帰るごとく こころやすらかに
(4)汝がためにいのる母の いつまで世にあらん
とわに悔ゆる日のこぬまに とく神に帰れ
(繰り返し) 春は軒の雨、秋は庭の露 母はなみだ 乾くまなく 祈ると知らずや
ヨハネによる福音書2章1〜12節
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。
レビ記19章1〜3節
主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。父と母とを敬いなさい。わたしの安息日を守りなさい。わたしはあなたたちの神、主である。
2022年5月1日 復活節第3主日
説教題 『生き血を吸う』
聖 書 エゼキエル書 34章1〜8節 旧約聖書(新共同訳)1352ページ
ヨハネによる福音書 10章7〜節 新約聖書(新共同訳) 186ページ
讃 美 歌(21) 329(1,5) 目覚めよ、歌えよ
「あれは飲めんかったな」。
クジラの竜田揚げと脱脂粉乳のミルクは強烈な記憶だ。
鯨を食べた。
乳製品の残り滓(かす)のミルクを飲んだ。
竜田揚げは人気であったが、ミルクは不評であった。
アルミの椀に注がれた生温かいホットミルクには湯葉のような膜が貼っていた。
その膜が鼻や口の周りにへばりつく。
それを互いに笑い合う。
昭和の学校給食の光景が同窓会の話題になる。
「あの先生は違うかったな」。
脱脂粉乳のミルクをクラス全員に美味しく飲ませた担任がいた。
小学校の教員を『訓導』と称した時代があった。
その時代から抜け出た来たような先生であった。
同じ町内の長屋に住んでいた。
発動機を付けた自転車に乗っていた。
濃い髪の毛をオールバックにしていた。
腰に刀を差しているのかと思われるような風貌だった。
町内のひとたちは、『お武家様』と呼んだ。
教師の生徒への体罰、依怙贔屓(えこひいき)、有力保護者へのへつらい。
学校は過酷な社会勉強の場であった。
その早熟にお武家様が心を砕いた。
どこで覚えたのか下卑た歌に動作まで付けてふざけている男子生徒がいた。
己の助平心を隠蔽するかのような男子教員のビンタに容赦がなかった。
歪んだ性道徳を大人の男にぶつけるような倒錯した女性教員のヒステリーやマゾヒズムもあった。
お武家様は、「お前、無理するなよ」との無言の眼差しを投げかけ、
その生徒を子供の世界へ連れ戻した。
保護者への言い付けなど有様もなかった。
お武家様先生は、給食係に空のミルクの椀だけを配膳させた。
先生は、バケツから熱々のミルクをひとりひとりの椀に注いで回った。
ミルクを注ぎながらひとりひとりに声を掛けた。
先生はまるで貴族の館の執事のようであった。
生徒たちは深窓の子女に相応しい品性を学んだ。
不味いミルクで盛り上がる下品が戒められた。
同窓会の席で給食のミルクが美味であっ記憶は、小学四年生時代のある一クラスだけのものとなった。
信徒とイエスの関係は、羊と羊飼いに擬(なぞら)えられる。
それは、教会だけのトピックスではなく世間一般周知のイメージでもある。
羊飼いは、聖書の民にとっては預言者、教会にとっては牧師や役員、
あるいは『教会のママ』をイメージさせる。
「ひとつ、人の世の生き血をすすり、ふたつ、不埒な悪行三昧、みっつ、醜い浮世の鬼を退治てくれよう桃太郎」。
バビロニア捕囚を予告したエレミヤも捕囚の真っ只中にあったエゼキエルも、
民の生き血を啜る鬼のような偽預言者を断罪した。
チーズやバターの残り滓から作った脱脂粉乳を僕(しもべ)のごとく、
ひとりひとりの生徒に注いだお武家様先生に真の牧会者の姿を垣間見るのである。
鬼に食い荒らされる教会があるようだ。
讃 美 歌(21) 329(1,5) 目覚めよ、歌えよ
エゼキエル書34章1〜8節
主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。
ヨハネによる福音書10章7〜11節
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
2022年4月24日 復活節第2主日
説教題 『鰰―ハタハタの復活』
聖 書 民数記 13章1〜20節 旧約聖書(新共同訳)234ページ
ヨハネによる福音書 20章19〜20節 新約聖書(新共同訳) 210ページ
讃 美 歌(1) 467 思えば昔イエス君
「パック198円の半額やて。そやけど、ハタハタなんて魚、どうやって料理するの」。
「任せなさい。ボクに」。
198円の半額は消費税を入れても110円だ。
シケタ牧師館の晩餐会の始まりだ。
濁った目、滑りのあるぶよぶよした体躯、少し臭う。
どろっとした内臓を?き出す。
氷水で何度も洗う。
ハタハタが泳ぎだした。
しょっつるの漬け樽に直行できる状態になった。
これでもかこれでもかとキッチンペーパーで水気を拭き取る。
片栗粉の出番ではない。
味のついたお好み焼きの粉を刷毛で丁寧に塗(まぶ)して
ごま油を大匙一杯加えたサラダ油でカラッと揚げれば、岸本政之丞も唸る割烹の神髄の一丁上がりだ。
客人たちが、親鳥が餌を運ぶ雛鳥のように大口を開いている。
このハタハタの目を見よ
約束の地を前にしてモーセは、イスラエルの人びとに厳命を下す。
荒野の旅の惰性を糾す。
「やれやれ、やっと着いたか」。
「なにを言うか。これからだ」。
約束の地は濡れ手に粟を意味しない。
荒野の旅は、ひとびとの内面を深く抉(えぐ)った。
ひとびとの心は裸にされた。
二心なく神に使えよ。
『聞け!』との声が鋭い刃物のように突き刺さる。
しかし、ひとびとは何度もその心を翻(ひるがえ)した。
荒野には、目に見える一切の褒美が無かったからである。
あるのは、言葉だけである。
乳と蜜の流れる約束の地は、今、目前にある。
モーセは、約束の地、カナンの地へ斥候(せっこう)を遣わす。
全部族の中から代表者を選びだした。
点呼を行った。
『その名は次のとおりである』。
カタカナの名前の列挙が睡魔を誘うようでは聖書を読む力は蓄えられない。
鬼軍曹は斥候隊を前にして喝を入れる。
民数記とは戦闘員の点呼という意味である。
実におどろおどろしい。
ハタハタのはらわたを?き出し、氷水で洗い、泳げる状態にするほどの無茶がある。
その無茶が惰性との緊張を生む。
先週、教会はイースターを祝った。
イエスの復活は、われわれの朽ち行く世界への回路を遮断する。
復活のイエスは、弟子たちの前に鬼軍曹のビンタではなく、慈母の眼差しをもって現れる。
『平安があるように』と弟子たちに声を掛けた。
この挨拶は、気取った『ご機嫌やう』でもない。
シャロームあるいはサラーム、あるいは、アロハ、
あるいは、懐メロファンの記憶にはまだまだ賞味期限内の『オースッ』。
バタやん、田端義夫のステージ挨拶であったかも知れない。
(注:岸本政之丞は明治期の知る人ぞ知る料理人)
讃 美 歌(1) 467 思えば昔イエス君
(1)おもえばむかしイエスきみ おさなごをあつめ
ともにあそばせたまいし その日なつかしや
「われにこよ。おさなき子」と よびまししきみの
あいの御手にいだかれて みーかおあおがばや
(2)きみは今もみ空にて 子らを召したもう
いざやともにゆかまほし こいしきみもとに
すくわれし子らの家は みくににそなわり
おおくのおさなごつどいて きみをほめたたう
この曲は、「春の日の花と輝く」という題でも知られています。
民数記13章1〜20節
主はモーセに言われた。「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい。父祖以来の部族ごとに一人ずつ、それぞれ、指導者を遣わさねばならない。」モーセは主の命令に従い、パランの荒れ野から彼らを遣わした。彼らは皆、イスラエルの人々の長である人々であった。その名は次のとおりである。ルベン族では、ザクルの子シャムア、シメオン族では、ホリの子シャファト、ユダ族では、エフネの子カレブ、イサカル族では、ヨセフの子イグアル、エフライム族では、ヌンの子ホシェア、ベニヤミン族では、ラフの子パルティ、ゼブルン族では、ソディの子ガディエル、ヨセフ族すなわちマナセ族では、スシの子ガディ、ダン族では、ゲマリの子アミエル、アシェル族では、ミカエルの子セトル、ナフタリ族では、ボフシの子ナフビ、
ガド族では、マキの子ゲウエル。以上は、モーセがその土地の偵察に遣わした人々の名である。モーセは、ヌンの子ホシェアをヨシュアと呼んだ。モーセは、彼らをカナンの土地の偵察に遣わすにあたってこう命じた。「ネゲブに上り、更に山を登って行き、その土地がどんな所か調べて来なさい。そこの住民が強いか弱いか、人数が多いか少ないか、彼らの住む土地が良いか悪いか、彼らの住む町がどんな様子か、天幕を張っているのか城壁があるのか、土地はどうか、肥えているかやせているか、木が茂っているか否かを。あなたたちは雄々しく行き、その土地の果物を取って来なさい。」それはちょうど、ぶどうの熟す時期であった。
ヨハネによる福音書 20章19〜20節
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
弟子たちは、主を見て喜んだ。
2022年4月17日 イースタ・復活節第1主日
説教題 『お弁当』
聖 書 ヨハネによる福音書 20章1〜18節 新約聖書(新共同訳) 209ページ
詩編 118編17節 旧約聖書(新共同訳)658ページ
讃 美 歌(21) 329(1,5) 目覚めよ、歌えよ
「しあわせだなぁ、ボクは。ボクは君といる時が、一番しあわせなんだ」。
「よう言うわ」。
真っ赤なアメ車にサングラス、ギンガムチェックのシャツにジャンパーも赤。
ラジオ関西の電話リクエストからプラターズが流れる。
「オッ・オッ・オンリイ・ユーーー」。伸びのある裏声に鶏の首を絞めるような物真似を被せる。
車は須磨海岸あたりを走っているかも。
せわしくダイアルを回す。
ラジオ大阪から『長崎は今日も雨だった』が流れる。『あめぇだぁった』の部分が決めの裏声だ。
「あなたひとりぃにぃ、かけぇたぁこぉ〜いぃ」。
「ヘタな歌、やめてよ」。
「やかましいわ。君は、言いたいこと言いぃのゆうこ、ゆう子か」。
「ゆう子ってだれやの」。
リッター3キロと走らない中古のアメ車を気前よく友人が貸してくれる。
何時止まるか分からない大雑把な鉄の箱がふたりの喫茶店だ。
あなた一人だけ。誰でもわかる進駐軍英語で言えばオンリーユーだ。
オンリーさんと言うと意味が少々異なるのだが。
あなた一人だけよ。
これを言われても分からない。言っても通じない。
それが痘痕(あばた)も靨(えくぼ)の青春、回転禁止の青春だ。
イエスは復活した。
復活は受難とセットになっていたことが理解されなかった。
残酷な見せしめの刑が終わった。残ったのは失望と悲しみだけであった。
それでも、せめてもの人並みの葬りへの思いがあった。
その思いは、マグダラのマリアに強く表れた。
マリアは、墓へ向かった。
復活のイエスに最初に出会った女性として描かれている。
七つの霊を追い出してもらった時から、一途な思いを持ち続けていた。
性根の腐った女が、ありのままの自分を受け入れてくれたイエスを一人の男として慕っていた。
1970年代の聖書注解の中には、イエスの足元に高価な香油の入ったアラバスターを砕いた行為を拡大解釈して、『性的なサービスを為した』とするものがあった。
役者が巡業先へ連れて行く愛人を『お弁当』と言うそうだが、二人の関係をそのような品性で語る説教もあった。
『携香女』の称号が持つ伝統的なイメージに対する抵抗があったかも知れない。
墓石が転がされていることをペトロやヨハネに知らせに行った。
ペトロたちはイエスの頭を覆っていた布切れが丸めて放置されてあるのを見て、
復活を直感し、信じたが、マグダラのマリアは、イエスの遺骸を求めた。
腐乱臭が漂うイエスの死体を探した。
その屈折した期待は裏切られたが、
「先生!」と声を発した時には、イエスはマリアだけの男ではなくなった。
「腰の軍刀に縋(すがり)り付き、連れて行きゃんせどこまでも」。
主の復活に生きるそれぞれの人生が始まったのである。
写真と本文は関係ありません。
讃 美 歌(21) 329(1,5) 目覚めよ、歌えよ
ヨハネによる福音書20章1〜18節
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
詩編118編17節
死ぬことなく、生き長らえて、主の御業を語り伝えよう。
2022年4月10日 棕櫚の主日・受難節第6主日
説教題 『泣くな、金五郎』
聖 書 マルコによる福音書14章26〜38節 新約聖書(新共同訳) 92ページ
詩編 118編22〜25節 旧約聖書(新共同訳)958ページ
讃美歌(1) ちしおしたたる
「泣くな、金五郎」。銅鑼が鳴る。
二度と戻るまい。
瀬戸の春風がテープの絡まるデッキを吹き抜ける。
松山金五郎と卒業したばかりの女学生の一団に嗚咽がこみ上がる。
先生は戦地で失ったはずの左足をさすりながら、金五郎の肩に手を置く。
ふたりはニューギニアで少尉と二等兵の間柄であった。
先生は、理科の授業をせず聖書の話をした。
「先生は、なぜ片足がないのですか?」。
「この足が、間違った人生を歩もうとするので切り落としたのだ」。
偽善と欺瞞に満ちたキリスト教主義学校の生徒たちの心に火が点いた。
校長は激怒した。
先生は学園を追われたが、金五郎が先生の『片足』となって地の果てまでついて行くと言う。
続いて優秀な生徒たちも。
いや優秀だからこそ、故郷を捨てた。
「あの家の娘はカシコ過ぎてあないなアホするんぞなもし」。
脱藩した先生を忠義の中元と腰元たちが取り巻く。
落ち着き先は電気も水道もない竹藪の土地であった。
共同生活が始まった。
先生たちは聖書の民となった。
先生を招く学校があった。
キリスト教主義の男子校であった。
そこでも生徒から同じ質問があった。
「先生は、なぜ片足がないのですか?」。
カシコイ生徒から順に先生の信者になった。
校長が激怒した。
先生はまたしても学園を去ったが、その時、既に、
竹藪の土地は開墾され、腰元たちは必要な資格を取得し、
先生を園長とする大規模な総合福祉センターが完成していた。
金五郎は車両部担当となり大型バスを運転した。
先生は、ロンドン下町の大衆伝道家の原書を自ら翻訳し、二時間かけて読み上げた。
施設の集会室には椅子がなかった。
「椅子に座りたかったら喫茶店でも映画館へでも行きなさい」。
金五郎がある日、後継者妄想に憑りつかれた。
「泣くな。金五郎」。
あの日からずっと持ち続けていた感情が暴発した。
勝手に作った副施設長の名刺をばら撒いた。
腰元たちの総スカン。
「おお友よ、その調べにあらず」。
金五郎の目が血走る日々が続いた。
先生は、ある日、男子校時代の教え子と話をしていた。
教え子は、神学部への推薦状を書いてもらうために立ち寄っただけであった。
ソファーの上に胡坐をかいて頼みごとをする行儀の悪い横着者であった。
金五郎や住み込みの書生がドアの外で聞き耳を立てた。
「君に分園を経営してもらおうと思う」。
「センセ、それはお断りですわ」。
過越しの讃美歌をバンカラに歌いながらイエスの一行はオリーブ山へ向かう。
死ぬまで従うと忠義の言葉が金五郎から発せられるが、先生は拒絶する。
「おお友よ、その調べにあらず」。
「お前は止めておけ」。
その言葉は、棕櫚の主日に酔う我々にも向けられる。
片足を切り落としてからものを言えと。
鶏が非情にも鳴くのだ
讃美歌(1) 136 ちしおしたたる
(1)血しおしたたる 主のみかしら とげにさされし 主のみかしら
なやみとはじに やつれし主を われはかしこみ きみとあおぐ
(2)主のくるしみは わがためなり われが死ぬべき つみびとなり
かかるわが身に かわりましし 主のみこころは いとかしこし
(3)なつかしき主よ はかり知れぬ 十字架の愛に いかに応えん
み顔をあおぎ み手によらば いまわのいきも 安けくあらん
マルコによる福音書14章26〜38節
一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
詩編118編22〜25節(オリーブ山へ向かう一行が歌った過越を祝う歌)
家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。
これは主の御業
わたしたちの目には驚くべきこと。
今日こそ主の御業の日。
今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
どうか主よ、わたしたちに救いを。
どうか主よ、わたしたちに栄えを。
2022年4月3日 受難節第5主日
説教題 『あなたがたは、分かっていない』
聖 書 マルコによる福音書 10章32〜41節 新約聖書(新共同訳) 77ページ
ヨブ記8章2〜5節 旧約聖書(新共同訳)784ページ
讃美歌(1) 140 いのちのいのちに
『ジョン・レノンや!』。
『ほんまや。ほんまや』。
後ろを振り向いた。
二辺の恐ろしく長い三角形の頂点にいた。
知らぬ間に集団の先頭を走っていたのである。
好きな時に好きな所へ行ってみたい。
その気儘(きまま)が逆輸入の真っ赤なスクランブラータイプなるHONDAのバイクとなった。
ラジオ大阪の深夜番組から『東洋一の水族館、鳥羽にオープン』のスポットが流れた。
翌朝には長い海岸線を走っていた。
長髪に銀縁の丸眼鏡。
『R』を連続発音するような、このバイクにしかない排気音に酔った。
排気音が複数になった。
振り向くと何十台もバイクが道路一杯に連なっている。
親指を立て、あるいは敬礼し、ジョン・レノンを追い越しては戻るを繰り返す。
ジョン・レノンは南紀の春風を独り占めした。
貧しい人々を祝福した。
病人を癒した。
大酒飲み、罪人の仲間と呼ばれたガリラヤの時代が終わった。
時が満ちた。
コンビニに屯(たむろ)していた暴走族のリーダーが急に何を思ったのかキックペダルを勢いよく踏み下ろす。
缶コーヒー片手に地べたに座る仲間が置き去りにされる。
リーダーは抗争相手に殴り込みをかけるタイミングを計っていたのかも知れない。
次々にキックペダルが踏み下ろされ、爆音だけが残る。
リーダーは、既に視界の彼方だ。
B級映画の見過ぎと言われると辛いが、
イエスは、弟子たちの驚きと従う者たちの恐れを残し『先頭に立って』エルサレムに向かう。
イエスは自らの十字架と復活を淡々と語る。
そのクールが辛うじて追いついて来た弟子たちのエンジンや排気管の熱を下げた。
弟子たちの関心は復活の栄光に集中した。
ゼベダイの子、ヤコブとヨハネの兄弟が栄光の一番手に与りたいと申し出る。
イエスの落胆は頂点に達する。
『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない』。
『人間をとる漁師してあげよう』。
繁華街のキャッチマンの甘い言葉に地方から出て来たばかりのモデル志望が誘われるようにイエス塾の一期生となった。ペテロとアンデレの兄弟にヤコブとヨハネの兄弟である。
この兄弟たちには二系統の力関係があった。
ゼベダイ親方の息子たちへの遠慮と、男子寮のような漁師宿を仕切るペテロ兄貴の世界である。
「ゼベダイの兄弟は、どこか油断ならんところがあってのう」。
ペテロの通訳であったとされるマルコ福音書記者の聞き取りを誇張してみたい。
イエスは言う。偉い者になりたかったら仕える者になれと。
この言葉を金科玉条にする愚(ぐ)がある。
いわゆる『聖句信者』である。
お前たちの程度に合わせて言えばそういういうことだとイエスは意地悪く言ったのである。
『いつまで、そんなことを言っているのか』 ヨブ記8章2節
賢弟愚兄・キシモト兄弟
讃美歌(1) 140 いのちのいのちに
(1)命の命に ましますイエスよ 主イエスはわがため その身をすてて
ほろびの淵より 導きいだし 朽ちぬ命を あたえたまえり
(2)ああ主よ、主イエスは 恥をもしのび わがため呪いを 身に負いたまい
悪魔のわなより 救いいだして 永遠のやすきを さずけたまえり
(3)ああ主はわがため 十字架をとりて たかぶり傲りを あがないいだし
死ぬべき罪より あがないいだし あまつ栄を 得させたまえり
(4)わが身にかわりて 死にたるイエスよ 十字架をあおげば なぐさめつきず
悩みもおそれも すべて消えゆく 主のみめぐみは ありがたきかな
マルコによる福音書10章32〜41節
一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
ヨブ記8章2〜5節
いつまで、そんなことを言っているのか。あなたの口の言葉は激しい風のようだ。神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか。あなたの子らが神に対して過ちを犯したからこそ彼らをその罪の手にゆだねられたのだ。あなたが神を捜し求め全能者に憐れみを乞うならまた、あなたが潔白な正しい人であるなら神は必ずあなたを顧みあなたの権利を認めてあなたの家を元どおりにしてくださる。
2022年3月27日 受難節第4主日
説教題 『死んでいない―死んで、いない』
聖 書 マルコによる福音書 9章2〜13節 新約聖書(新共同訳) 77ページ
詩 編 125編1〜2節 旧約聖書(新共同訳)970ページ
讃美歌(1) 140 いのちのいのちに
「えらい別嬪さんじゃのう」。旧約聖書学の権威である。
教授はその時、普通の爺様になった。
礼拝堂は満員電車であった。
立錐の余地も無いとはことのことだ。
閑古鳥が鳴くチャペルアワーに学生が溢れた。
白いパンツスーツに成熟と洗練が包み込まれていた。
ズボンではなくパンツを穿いていた。
まだまだパンツという言葉が憚られた時代であったが、
その言葉を許される大人の女性を始めて目の当たりにした。
眩い。
上ずった声の司会者の紹介に続いて、講壇に『白いパンツ』が現れた。
老教授が思わず溜息を洩らした。
「キシモト君、えらい別嬪じゃのう」。
娼館の悲哀が語られた。
パンツに続いて、常時酩酊が日を置かずチャペルアワーに招かれた。
作家である。
テレビの人でもあった。
言いたい放題を看板にしていた。おどおどした喋り方が人を引き付けた。
超満員が予測され会場が急遽学生会館に変更された。
サングラスにラフなジャケット姿が開口一番、「ビールはないのか」。
缶ビール片手に講演しないと恰好が付かないらしい。
「先生、おビールでございます」。
学生のひとりが缶ビールを恭しく差し出した。
熱気に溢れた会場がドッと湧いた。
期待が裏切られなかったのである。
至聖所のカーテンが切り裂かれたかのように、会場と壇上の境目がなくなった。
壇上にも学生が溢れた。大量の生産物を吐き出す工場のような大教室授業への反動があった。
呂律(ろれつ)の回らない吃音気味の語りに学生たちのやり場のない鬱憤が燃焼した。
パンツも常時酩酊も学生たちの目に眩かった。
聖書の民の前にエリヤとモーセが揃って現れたようなものだ。
パンツは、栄光に包まれ戦車を駆って天に昇ってゆく預言者を、
常時酩酊は、約束の地へ愚かな民を導くモーセを彷彿とさせた。
学園は生煮え状態にあった。
自己犠牲の手本となるような強い衝動が求められていた。
イエスの弟子たちも同様に『それ』を求めていた。
『それ』は、イエスによって明確に示された。
大教室の授業ではなく受講生限定の集中ゼミが開催された。
テーマは、十字架と復活である。
イエスは、『それ』を何度も繰り返し教え、弟子たちと共にフィールドワークを重ねた。
6日目、最終日のゼミは教室から『高い山』に移った。
イエスの姿が変容した。眩いばかりに輝いたのである。
インパクトのあるプレゼンテーションだった。
大スクリーンには、預言者エリヤと律法の象徴モーセも登場した。
ペテロが混乱した。理解を超えた。
預言と律法の時は終わった。
「君のお母さん元気にしとるかいな」。
「うん、死んでいないよ」。
「なに、死んで、いない。知らんかったわ」。
「いやそうやない、死んでいない。死んでないで。元気や」。
そんな漫才があった。
天に昇ったエリヤ、墓がないモーセ、
聖書の民は、『死んでいない』と思い続けたが、
天の声は、『死んで、いない』であった。
『これに聞け』。『これ』が『それ』である。
これはわたしの愛する子。これに聞け
讃美歌(1) 140 いのちのいのちに
(1)命の命に ましますイエスよ 主イエスはわがため その身をすてて
ほろびの淵より 導きいだし 朽ちぬ命を あたえたまえり
(2)ああ主よ、主イエスは 恥をもしのび わがため呪いを 身に負いたまい
悪魔のわなより 救いいだして 永遠のやすきを さずけたまえり
(3)ああ主はわがため 十字架をとりて たかぶり傲りを あがないいだし
死ぬべき罪より あがないいだし あまつ栄を 得させたまえり
(4)わが身にかわりて 死にたるイエスよ 十字架をあおげば なぐさめつきず
悩みもおそれも すべて消えゆく 主のみめぐみは ありがたきかな
マルコによる福音書 9章2〜13節
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」
詩編125編1・2節
都に上る歌。
主に信頼する人はシオンの山のように
揺らぐことなく、とこしえにとどまる。
エルサレムを山々が囲み
主はその民を囲んでおられる。
今より、とこしえに。
2022年3月20日 受難節第3主日
説教題 『フランシーヌ 3・30』
聖 書 マルコよる福音書8章31〜38節 ・9章1節 新約聖書(新共同訳) 77ページ
イザヤ書53章1〜6節 旧約聖書(新共同訳)1149ページ
讃美歌(21) 298 ああ主よ誰がため
「図書館は、ここをまっすぐですか。分からんのよ」。
『まっすぐ』と『分からんのよ』に独特な抑揚がある。
母の郷里の言葉である。
松山から出て来たと言う。
烏丸車庫近くの下宿に来いという。
一昔前の芸能雑誌を切り抜いたようなレースのカーテンやぬいぐるみのある部屋だった。
『ノルウエーの森』の茶番を感じた。
ギターがあった。フォークソングが好きだと言う。
彼女のリクエストに応じて何曲も歌った。
指使いの難しいB♭の特訓もした。
コーヒーが出て来た。
ミルク饅頭の母恵夢(ポエム)も出て来た。
一人暮らしの女子大生の部屋に男子学生が遊びに来る。
深夜ラジオで聴いていた都会暮らしの自由が手中にある。
妄想以外のなにものでもない。
余りに楽しそうにするので、気軽に一人暮らしの部屋に人を招いてはいけないと“説教して”最終の市電に乗った。
彼女は反戦集会でフォークソングと出会ったらしい。
ギターと平和運動はセットであった。
教育県で育った彼女にはリベラルな目で世界を見ることが新鮮だった。
同時に、そこに集う学生たちのファッションに気後れも感じていた。
『分からんのよ』を切っ掛けに図書館で出会ったヒッピー風の男子は彼女の妄想を頂点へと導いた。
ところが、皮肉にもその男子は、学園の喧騒を嫌って伊予の祭りや習俗の探訪に熱を上げていたのだが。
「フランシーヌさんは、なんで死んだんじゃろね。キシモト君」。
ポエムが柚子餡の一六タルトになっていたが、インスタントコーヒーの不味さに変わりはなかった。
1969年三月、彼女の理解を超える出来事があった。
フランシーヌ・ルコントという女子大生がビアフラの飢饉に抗議してパリの路上で自らの身を炎に包んだのだ。
事件は、『フランシーヌの場合』というヒット曲にもなった。
♪3月30日の日曜日、パリの朝に燃えた命ひとつ、フランシーヌ♪
散文にメロディーが付いていた。焼身自殺とメディアは報じた。
ベトナムのお坊さんがガソリンを被って戦争に抗議したことが頭にあったからじゃろね」。
「ふーん、そうかねえ」。
「分かるように言うちゃるけん。
信心深いウサギさんが、お腹を空かした旅のお坊さんに自分を食べてもらおうと
焚火の中に飛び込んだようなことじゃなかろうか」。
ベトナムの僧侶も焼身自殺と報じられたが、文化人類学を齧る者としては強い違和感を感じていた。
一番の執着である自らの命を焼き尽くすことはホトケの教えではないか。
新聞は、炎に包まれた僧侶の法悦を画像付きで報じたではないか。
『また福音のために命を失う者は、それを救うのである』。
ベトナムの僧侶も十字架のイエスも、怖いもの見たさに取り憑かれた衆愚の戯れに慈悲と愛をもって耐えた。
イザヤが叫ぶ。『そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた』。
彼とはだれか。
フランシーヌの死を悼んだ20歳の頃(1970年)
讃美歌(21) 298 ああ主よ誰がため
(1)ああ主しゅは誰たがため 世よにくだりて かくまでなやみを うけたまえる
(2)わがため 十字架じゅうじかに なやみたもう こよなきみ恵めぐみ はかりがたし
(5)なみだも恵めぐみに むくいがたし この身みをささぐる ほかはあらじ
マルコよる福音書8章31?38節〜9章1節
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
イザヤ書53章1〜6節
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のようにこの人は主の前に育った。見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだと思っていた。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れのように道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。
2022年3月13日 受難節第2主日
説教題 『М先生の純情−その水を』
聖 書 エレミヤ書2章1〜14節 旧約聖書 (新共同訳)ページ
ヨハネによる福音書4章 13節 新約聖書 (新共同訳)ページ
讃美歌(1) 226 ちにすめるかみのこら
「先生は聖書のどの言葉がお好きですか」。
「純情という言葉ですね」。
М先生が即答した。
修養会のお茶の時間である。
М先生はテーブルの湯呑茶碗にヤカンから茶を注ぎながら答えた。
くたびれた背広に小柄な体を包み独楽鼠(コマネズミ)のように信徒の席を巡り機嫌を伺う。
尊大な牧師に慣れた信徒には風采の上がらないМ先生への敬意を欠く場面もあった。
隠退をして久しいが馴染みの信徒をよく訪問していた。
消息が気になる牧師だった。
「先生は、今、何をなさっておられますか」。
「今、お茶汲みをしております」。自虐のユーモアが得意だった。
М先生の好きな聖書の言葉『純情』は、預言者エレミヤに神が語りかけた言葉である。
「エレミヤよ、お前の心はいつまでも新婚ほやほやの夫婦のようであるな」と。
М先生に恋女房がいた。
妻も牧師であった。
М先生夫妻は親元を離れた苦学生の兄妹の下宿生活を思わせるような清楚があった。
中世ヨーロッパの教会は夫婦の寝室にまで干渉したらしいが、そのような下品が入り込む隙は一寸も無かった。
М先生夫妻には子がなかった。
夫妻は親族から養女を迎えた。
養女は牧師の妻となるべく厳しく躾られた。
М先生はビクトリア朝時代の家長であった。
養女はハンサムな青年神学生と出会った。
М先生は娘夫婦との同居を望み、引退のタイミングとした。
手塩にかけた保育園と敷地内礼拝堂は娘夫婦に引き継がれた。
婿は牧師試験に合格した。
これで念願の地域伝道の礎は盤石のものとなった。そのはずであったが、婿は俗人であった。
日曜の礼拝を感話とお茶の時間にしてしまった。
敵を作らない性格で保育業界の寵児となったが教区牧師会に顔を出す人にはならなかった。
理事会を掌握した。
三人の娘がいた。
そのうちの一人が父親によく似た男を見つけてきた。
普通の会社員であった。
主事の仕事が与えられ同居した。
М先生夫妻は天籍の人となっていた。
この家には、もはや、早朝に叩き起こされる祈り会もなければ、
応接間の団欒を中断するテレビのスイッチの突然の遮断も無い。
М先生夫妻の婿が死んだ。
孫娘の夫が園長になり日曜礼拝は廃止された。
牧師でもない人が園長かとの声があったが馬耳東風。子々孫々、旨いメシにありつかねばならない。
これこそ、エレミヤが断罪した壊れた貯め池である。
イスラエルの王たちの轍である。
М先生夫妻は草葉の陰で泣いておるぞ。
井戸端会議のオバハンたちのいない時間帯に井戸の水を汲みに来たワケあり女がイエスに言う。
『主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください』。
М先生が注ぐヤカンのお茶こそ、『その水』なのである。
純情一筋の頃
讃美歌(1)226 ちにすめるかみのこら
(1)地に住める神の子ら かえりこよ 主のみちに
ためらえるおもいすて みまえにしたがいて いさぎよく主にかえれ
(3)ひとみな主にありて むすばるるその日まで
みむね地にならざれば 罪を悔い あがなわれ 地をあげて主にかえれ
エレミヤ書2章1〜14節 (口語訳)
主の言葉がわたしに臨んで言う、「行って、エルサレムに住む者の耳に告げよ、主はこう言われる、わたしはあなたの若い時の純情、花嫁の時の愛、荒野なる、種まかぬ地でわたしに従ったことを覚えている。イスラエルは主のために聖別されたもの、その刈入れの初穂である。すべてこれを食べる者は罪せられ災にあう」と主は言われる。ヤコブの家とイスラエルの家のすべてのやからよ、主の言葉を聞け。主はこう言われる、「あなたがたの先祖は、わたしになんの悪い事があるのを見て、わたしから遠ざかり、むなしいものに従って、むなしくなったのか。彼らは言わなかった、『われわれをエジプトの地より導き出し、荒野なる、穴の多い荒れた地、かわいた濃い暗黒の地、人の通らない、人の住まない地を通らせた主はどこにおられるか』と。わたしはあなたがたを導いて豊かな地に入れ、その実と良い物を食べさせた。しかしあなたがたはここにはいって、わたしの地を汚し、わたしの嗣業を憎むべきものとした。祭司たちは、『主はどこにおられるか』と言わなかった。律法を扱う者たちはわたしを知らず、つかさたちはわたしにそむき、預言者たちはバアルによって預言し益なき者に従って行った。それゆえ、わたしはなお、あなたがたと争う、またあなたがたの子孫と争う」と主は言われる。「あなたがたはクプロの島々に渡ってみよ、また人をケダルにつかわして、このようなことがかつてあったかをつまびらかに、しらべてみよ。その神を神ではない者に取り替えた国があろうか。ところが、わたしの民はその栄光を益なきものと取り替えた。天よ、この事を知って驚け、おののけ、いたく恐れよ」と主は言われる。「それは、わたしの民が二つの悪しき事を行ったからである。すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。それは、こわれた水ためで、水を入れておくことのできないものだ。イスラエルは奴隷であるか、家に生れたしもべであるか。それならなぜ捕われの身となったのか。
ヨハネによる福音書4章13〜15節
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
2022年3月6日 受難節第1主日
https://youtu.be/1eP7JAX1mqQ (動画があります)
説教題 『ジェジュ・クリの受難 ― 出番は終わった』
聖 書 ヘブライ人への手紙 2章10〜18節 新約聖書 (新共同訳)403ページ
エレミヤ書 31章27〜32節 旧約聖書 (新共同訳)1236ページ
讃美歌(1) 134 いざいざきたりて
「キシモト君、どんなことでも完成のちょっと手前で身を引くのものだよ。
そういう美学を持たなくちゃいけない。皿まで喰らうのは野暮だよ」。
卒業式の後、老教授が自宅の応接間でパイプを燻らせながら餞(はなむけ)の言葉をくれた。
卒論をいい加減に書いたので口頭試問の席では厳しい質問はしないで欲しいと
“言い聞かせて”いたにもかかわらず見事に“裏切”られた。
「ボクは研究者になったりして教授先生方の脅威にはなりませんから」と念を押したのに
容赦なく手抜き部分を指摘された。
老教授は定年退職後、天下って某学院の学長となった。
元海軍将校の悪い癖が出た。緊張に欠ける学院経営に精神を注入し改革の大鉈を振るった。
学長を二期務めた頃、終身学長職の欲に憑りつかれた。
恩師に恥をかかせてはいけない。
訪問を申し出た。
かの応接間に通された。
「先生、ええ加減にせんといけませんよ。
ボクに言ったじゃありませんか。何事も手前で止めておけって。
先生は賢い人だと思ってましたけど、相当なバカですね」。
「分かった」と教授は言った。
好きな絵画がある。
フランス北東部アルザス地方のコルマールという町の美術館にある
イーゼンハイムの祭壇画と呼ばれている絵画である。
観音開きになった聖画である。紙芝居のような仕立てになっている。
聖画であるからクライマックスシーンはイエスの十字架である。
十字架の左側に気を失った母マリアをイエスの愛弟子ヨハネが抱きかかえている。
右側には洗礼者ヨハネがイエスを指さして『わたしは滅びなければなりません』と言っている。
イエスの靴の紐を解く値打ちもないと洗礼者ヨハネは言った。
今こそ、自分の存在を完全に消滅させ、イエスの十字架にハイライトを当てる時だ。
悔い改めのバプテスマは、十字架の赦しのモタレであったのだ。
トリは、イエスのパッション(Passion)、すなわち、受難である。老教授の暴走を止めた道理がここにあった。
(注)モタレ:寄席用語 最後(トリ)の直前の出番
フランスは中南部の山岳地帯、オーヴェルニュの村々を門付の老女が、
『キリストさまのご受難、イエスさまのお苦しみ』としゃがれ声で念仏を唱えるように巡り歩く。
イースターを祝う卵集めの伝承歌らしい。
『ラ・パシオーン・ダ・ジェジュ・クリ(La Passion de Jesus Christ)』を繰り返す。
『ジェジュ・クリ』とはフランス語でイエス・キリストのことである。
それを、『南無ジェジュ・南無ジェジュ』と聞くのは第二外国語単位取得に苦しんだトラウマであろうか。
もうすぐ春が来るからね。
讃美歌(1) 134 いざいざきたりて
(2)ひとびとあざけり ののしるこのとき
なみだを惜しむや 十字架のイエスに
(3)手足はくぎづけ のんどはかわきて
目は血におおわる 十字架のイエスは
ヘブライ人への手紙 2章10〜18
というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と言い、また、「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
エレミヤ書 31章27〜32節
見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来る、と主は言われる。かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる。その日には、人々はもはや言わない。「先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」と。人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
2022年2月27日 降誕節第10主日
説教題 『そのままの言葉』
聖 書 マルコによる福音書4章35〜41節 新約聖書 (新共同訳)68ページ
ヨナ書1章6〜15節 旧約聖書 (新共同訳)1445ページ
讃美歌(1) 519 わが君イエスよ、うきよのふなじ
「だいぶ漕いだけん、もうすぐ着くじゃろね」。
「ヒョー兄(にい)、なに言うとんぞ。流されとるぞね。ガイな勢いじゃ」。
「なんやてえー」。
オールを漕ぐ手を休ませた瞬間、ボートはガイな勢いで沖へ持って行かれた。
水軍の末裔と自慢する神学生を連れて瀬戸内の小島に夏期キャンプを計画した。
飲み水が島の反対側にしかないのでボートでドラム缶一杯の水を汲みに行った。
海軍のカッターのような大きなボートを島に沿って二人で漕いだ。
その帰りである。キャンプ二日目であった。
ボートを大型トラックに例えると二人の力は軽トラックのエンジンだ。
突然、保津川下りのような潮流に巻き込まれてボートはバランスを失い転覆した。
ドラム缶が海底に沈んで行く。
ボートは借り物だ。これを沈める訳にはいかない。
なんとか海岸に辿り着いたがオールは無い。
ボートを担いで山道を登り降りしながらキャンプ地に戻った。(注:ガイ=激しいの方言)
ガリラヤの浜に人々が押し寄せた。イエスの教えに吸い寄せられたのである。
夥しい人の数であった。
イエスは舟から人々に語り掛けた。
イエスは座っていた。
これは、まるで、尊師と崇拝者たちのスクリーンショットではないか。
お気に入りの演者に、「たっぷり!」の掛け声があるような緩やかな時が流れていた。
気が付けば夕方になっていた。
「向こう岸に渡ろう」とイエスが弟子たちに言った。
ついつい過剰に反応をしてしまいそうな『彼岸』という言葉がイエスの口から出た。
向こう岸は悪霊に憑りつかれた人と出会うゲラサの地であるから『彼岸』ではなかろう。
尊師を無条件に受け入れる善男全女の場からオドロオドロしたところへ弟子たちを連れて行こうと言うのだ。
その舟の中で、突然の嵐にもかかわらずイエスは眠りこけていた。
『たっぷり!』の掛け声にお疲れだったのであろうか。
人気者は辛い。
ヨナは、神の命に逆らってニネベの町の反対方向の船中でふて寝をしていた。
気分が良くてもむくれていても舟の揺れが心地よい眠りを誘うのかも知れない。
イエスもヨナも慌てふためく弟子や船員たちに叩き起こされる。
よくもこんな時に寝ていられるものだと。
伝説によるとマルコはペテロの通訳であったらしい。
スレッドを整然と立てることなど出来る訳がないペテロの思いに任せた浪花節的イエスの福音を忠実に書き伝えたらしい。
『黙れ、静まれ』とイエスが湖に向かって命じた言葉は、
証言を聞き取った者にのみに許される
生の『そのままの言葉』の記録ではなかっただろうか。
波に弄ばれるチャーター船。
夏期キャンプを侮っちゃいけない。
讃美歌(1) 519 わが君イエスよ、うきよのふなじ
(1)わが君イエスよ 浮き世の船路 夜も日も安く 導き給え
(2)波ほえたけり 雲きりたてど 行く手をさやに しめさせたまえ
(3)みひかりみつる とこ世の国へ わが君イエスよ ともないたまえ
(繰り返し)
主よ、主よ、嵐に悩む、この身を常に、導き給え
マルコによる福音書4章35〜41節
その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
ヨナ書1章6〜15節
船長はヨナのところに来て言った。「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。」さて、人々は互いに言った。「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。」そこで、くじを引くとヨナに当たった。人々は彼に詰め寄って、「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか」と言った。ヨナは彼らに言った。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」人々は非常に恐れ、ヨナに言った。「なんという事をしたのだ。」人々はヨナが、主の前から逃げて来たことを知った。彼が白状したからである。彼らはヨナに言った。「あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか。」海は荒れる一方だった。ヨナは彼らに言った。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」乗組員は船を漕いで陸に戻そうとしたが、できなかった。海がますます荒れて、襲いかかってきたからである。ついに、彼らは主に向かって叫んだ。「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」彼らがヨナの手足を捕らえて海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まった。人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。
2022年2月20日 降誕節第9主日
説教題 『カファルナウム霊験記(れいげんき)』
聖 書 マルコによる福音書2章1〜12節 新約聖書 (新共同訳)63ページ
列王記下18章14〜20節 旧約聖書 (新共同訳)609ページ
讃美歌(21) 505 歩ませてください
「今日で三日目やな、関東炊き」。
「なんか文句あんの」。
「いや、非常に経済的やなちゅうてるだけや」。
ある老夫婦の夕餉の会話のようだ。
一週間続くかす汁もあるだろう。
「ムカシ、おでんにコロちゅうの入っとったな。
壺坂霊験記のあれ、あれや」。
「またヘンなこと言おうとしてるわ」。
「妻は夫をいたわりつつ、夫は妻に慕いつつぅ。頃は、六月、なかぁのぉコロッ。夏とはいえど片田舎」。
「橿原神宮前から吉野線ですぐやから、コロナ明けたら桜でも一緒に見に行ってやってもええよ」。
純愛を貫いた沢市、お里が聞いたら呆れるような夫婦の会話だ。
ルルドの泉であれ、壷坂寺であれ、霊験スポットには理屈がない。
名所となってしまえば七五三(シメタ)たものである。
十一面観音の霊力が座頭沢市の目を開いた。
壺坂霊験記は浄瑠璃や浪曲として演じられ一世を風靡した。
1875年の作である。作り話である。
盲目の沢市が、お里の密かな外出を浮気と邪推するところから物語が始まる。
お里は沢市の目が見えるようにと観音に手を合わせていたのである。
それを知った沢市はお里に心から詫びてお参りに同行する。
しかし、お里が目を離した隙に、己が妻を不幸にしていると思い込み谷底に身を投げてしまう。
沢市のお里への愛であった。
本気で自分の視力が回復することを信じていなかった。
谷底に死に絶えた沢市を見たお里は、念仏を唱えながら死のダイブを試みる。
その時、観音の霊験によって、沢市はラザロの復活さながら生き返り、目も開かれる。
観客は完全燃焼する。同じ浄瑠璃でも曽根崎心中とはえらい違いだ。
イエスは、中風の人に、「あなたの罪は赦される」と言った。
罪の赦しは、中風の快癒とセットであった。
中風の人は、その言葉を沢市同様に信じなかったであろう。
沢市は、自らの死を選んだ。
中風の人も身動きの出来ない体を捩(ね)じり捩(よじ)ったかも知れない。
そこまでやらないで欲しい。
衆人環視の中で恥をかきたくない。
そういう思いを抱いたも知れない。
しかし、お里や中風の男を運んできた四人の男たちは、心から霊験を信じていた。
壺坂霊験記は、明治維新から十年を経ずして創作された。
政府が強権を発した廃仏毀釈に軽率な支持者が寺院や仏像の破壊者として加担した。
文化財が薪にされた。その時、カファルナウムの霊験が壺坂の片田舎にも現れた。
無垢な人々の苦々しい思いが大衆芸の形を借りて癒されたのであった。
奇跡や霊験が有ると言うな。無いとも言うな。
それしか求ざるを得ない程に切羽詰まった隣人の存在を身近に感じているか。
それを、自らに問うてみよとイエスは迫る。
夏期キャンプの徒然に三味線と笛を製作1980年コロ
讃美歌(21) 505 歩ませてください
マルコによる福音書2章1〜12節
数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒?している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
列王記下18章1〜8節
イスラエルの王〜、エラの子ホシェアの治世第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。彼は二十五歳で王となり、二十九年間エルサレムで王位にあった。その母は名をアビといい、ゼカルヤの娘であった。彼は、父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行い、
聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、このころまでこれをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである。彼はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった。彼は主を固く信頼し、主に背いて離れ去ることなく、主がモーセに授けられた戒めを守った。主は彼と共におられ、彼が何を企てても成功した。彼はアッシリアの王に刃向かい、彼に服従しなかった。彼はペリシテ人を、ガザとその領域まで、見張りの塔から砦の町まで攻撃した。
2022年2月13日 降誕節第8主日 動画付
https://youtu.be/QSUnrDp38TA
説教題 『パピプペポ』
聖 書 コリントの信徒への手紙一 2章6〜16節 新約聖書(新共同訳)301ページ
箴言2章16〜19節 旧約聖書(新共同訳)993ページ
讃美歌(1) 384 我こそ十字架の
「ちょとだけよ」。
「あんたも好きねぇ」。
ミュートを巧みに操るトランペットが黴菌(バイキン)をまき散らすような音を響かせる。
教育上好ましくないと散々叩かれたゴールデンタイムのテレビ番組だった。
小学生男子が敏感に反応し、禿げ頭にちょび髭、ステテコに腹巻姿の人気コメディアンの真似をした。
それは、芸人たちが修業時代を過ごした歓楽街の劇場での捨て身芸だった。
その種の劇場には、街の名に『ミュージック』が付けられていた。
修学旅行費を某ミュージックで使い込んでしまった高校時代の同級生たちがいた。
仲良し三人組みだった。
学校からも親からも凄惨な制裁を受けたことの詳細を語ることは憚られる。
三人組みは、不良ではなかった。真面目でもなかったが、教会には通っていた。
学校が日曜日は近隣の教会に行くように案内していたからだ。
教会の近くに某ミュージックがあった。
道路にはみ出た刺激的な看板がいけなかったのだろう。
現在、その内のひとりは人材派遣会社の代表を務めている。
垢抜けした設計を手掛ける店舗デザイナーもいる。
使い込み首謀者の消息は掴めていないが、親の跡を継いで宗教家になっているだろう。
コリントの教会も、ミュージック劇場の近くにあった。いや、取り
囲まれていた。
『地峡』と地理学的に表現される海路と海路を結ぶ都市であった。
カネとモノと人が激しく往来し繁栄を極めた町であった。
ビートルズを生み出したリバプールや
ハンザ同盟の名を馳せたハンブルクのようなロマン溢れる港町だったのである。
人々には、精神のバランスを保つための精進落としが必要であった。
神殿に使える巫女たちの妖艶が、平家物語の白拍子を彷彿とさせる。
商品としての性が看板となり街路に林立する。
修学旅行費を束の間の享楽に充てたとしても責め立てる者はいない。
しかし、そのような土地柄にある教会をパウロは一方的に断罪しなかった。
教会を愛していたからである。
初期キリスト教の問題点は明瞭である。
ユダヤ的伝統と福音信仰が連続しているか、非連続であるかだけのことである。
親しい信徒たちから教会の様子を聞かされていたパウロは、
衰弱と憑かれたような恐怖が入り混じる感情を隠し切れなかった。
ユダヤ的レジェンドをブランドとするグループにもグレコ・ローマン世界のルネサンスを謳歌するグループにも、
自らを罪びとの頭と称した福音のパラドクスを語らねばならない。
パウロの不安は、『パピプペポ』となり、
『霊的なものによって霊的なことを説明する』に極まった。
信徒が溢れたこの会堂は、倉庫となり、個人の住宅となったようだ。
讃美歌(1) 384 我こそ十字架の
(1) 我こそ十字架の つわものなれ いかでか恥ずべき イエスの御名を
(3)いかでか我のみ 花の床に うまし夢路を 辿るべきか
(5)栄にさかゆる わが主イエスと 世を統べ治る かちはちかし
コリントの信徒への手紙一2章6〜16節
しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
箴言2章16〜20節
また、よその女、滑らかに話す異邦の女をもあなたは免れることができる。若き日の伴侶を捨て自分の神との契約を忘れた女を。彼女の家は死へ落ち込んで行き、その道は死霊の国へ向かっている。彼女のもとに行く者はだれも戻って来ない。命の道に帰りつくことはできない。人の道を行き、神に従う人の道を守ることができよう。
2022年2月6日 降誕節第7主日 動画付き
https://youtu.be/584xt8leYuc
説教題 『見え透いた嘘』
聖 書 マルコによる福音書4章20〜26節 新約聖書 (新共同訳)67ページ
サムエル記下12章4〜10節 旧約聖書 (新共同訳)497ページ
讃美歌(21) 533 どんなときでも
「あのー、ボクの個人的な意見ですが」。「また始まったな」。
い言い方をすれば、電信柱への犬のマーキングである。
自分はエライ人間だから尊敬されねばならい。ここにいるぞと吠える。
個人的意見は、独創的な提案に敏感である。存在が否定されたと感じる。
返り討ちにしなくてはならない。対案はない。
「何かあっても知りません」。「みんなそう言ってます」。
根拠のない多数を作り出す。「見え見えやな」。
「見え透いた嘘に決まっとる」。
無言の喧騒とはこのことだ。
これはまるで、『サウンド・オブ・サイレンス』。サイモンとガーファンクルじゃないか。
灯を枡の下に置く愚かをイエスは哂う。灯は燭台の上に置くと決まっとるじゃないか。
迫害下の無垢な信徒の信仰が小さな灯だとすれば、
その灯は、江戸の長屋の行灯の火にも似て蚊取り線香ぐらいのルクスであろう。
暗闇の地下墓地で、それは『点』である。
しかし、その点は線となる。灯は流れとなり、
一定のボリュームを満たし誰其れの判別が可能となる。
灯の動きが停止する。点が線に収まらず空間となる。
奴隷の司祭が地上の主人筋を祝福するアンビリーバボーな世界が墓場の壁にゆらゆらと投影される。
カタコムベへと導く小さな灯は、なるべくなら、枡や寝台の下に置いておきたい灯である。
目立っては危ない。身内の中にも密告者がいるかも知れない。
地下礼拝所への小さな灯は、出席者名簿そのものだ。
小さな線香の先のような明るさであっても暗闇の中では署名捺印そのものだ。
イエスの福音は、そっとポケットの奥にしまっておきたい。
小さな灯の話は、百倍の実を結ぶ種蒔きの譬えと小さなカラシ種が大樹のように成長する譬えに挟まれている。
脈絡なく、経済学で言うところの費用対効果に関連付けられている。
コストは信仰で、収益は百倍の御利益と謳(うた)う。
この一連の譬えは聖書原典では、節番号も句読点もなしに連続している。
『聖句信徒』の出番はない。
尊大な自意識過剰の灯を公の会議の席という燭台に載せるオロカを知るなら、
信仰者は、命がけの小さな灯こそが、燭台の上に、
すなわち、地下礼拝所の講壇の上にあるべきと知ったのである。
ダビデは、公人の頂点にあることを忘れ情欲の虜になったことを
預言者ナタンに叱責された。
個人としての行動だったと何度も嘘の言い訳を重ねて挙句の果て、
ナタンの誘導に屈服した。
賢君でさえ嘯(うそぶ)く。
『隠れているもので、あらわにならないものはなく・・・』
後方カタコムベ 前方アラジンのランプ
讃美歌(21)533 どんなときでも 作詞:高橋順子
(1)どんなときでも どんなときでも 苦しみにまけず くじけてはならない
イェスさまの イェスさまの 愛をしんじて
(2)どんなときでも どんなときでも しあわせをのぞみ くじけてはならない
イェスさまの イェスさまの 愛があるから
作詞者は骨肉腫と戦い、僅か七歳の生涯を終えた。
かわいいかくれんぼ サトウハチロー作詞・中田喜直作曲
(1)ひよこがね お庭でぴょこぴょこ かくれんぼ どんなにじょうずに かくれても
黄色いあんよが 見えてるよ だんだん だれが めっかった
(2)すずめがね お屋根でちょんちょん かくれんぼ どんなにじょうずに かくれても
茶色の帽子が 見えてるよ だんだん だれが めっかった
(3)こいぬがね 野原でよちよち かくれんぼ どんなにじょうずに かくれても
かわいいしっぽが 見えてるよ だんだん だれが めっかった
マルコによる福音書4章 20〜26節
良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、、、、、
サムエル記下12章4〜10節
ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに自分の羊や牛を惜しみ貧しい男の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った。」ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』
2022年1月30日 降誕節第6主日
説教題 『そのようなところ』
聖 書 コリントの信徒への手紙一6章12〜20節 新約聖書(新共同訳)305ページ
歴代誌下29章1〜7節 旧約聖書 (新共同訳)708ページ
讃美歌(1) 337 わが生けるは
「ワシはな、そういうとこ行く時にな、のし袋に結納金と書いて渡したもんや」。
マーちゃんは、蓄膿の鼻を人差し指で啜りながら籠った声で昔話を始めた。
『オレが辞めさせてやった』と得意そうに語る牧師の後任者が着任する度に新任牧師を豪勢な客間に招き、
飛鳥鍋を振る舞った。
牧師を教育するのである。
クリームシチュー仕立てのような鍋に松坂牛が所せましと泳ぐ。
五代目クリスチャンの分家である。
初代は明治期に酪農を宣教師から学び洗礼を受けた。
日本海側の山村から一族は京都近郊へと大移動を果たした。
「先生、あの分家のモズさんの言うことは耳を貸さんでください」。
マーちゃんは、分家コンプレックスの塊のような信徒だった。
本家の伝統的な信仰を激しく攻撃した。
物静かな父母にも時折、癇癪を起した。
本家からは『モズ』と綽名されていた。
その日の新任牧師が誰であったかは記憶に遠い。
牧師夫妻とマーちゃん夫妻と隣町の教会役員ノブさんが卓を囲んだ。
ノブさんは三代目の信徒である。
中学の音楽教師である。
風貌は、くまのプーさんである。
教会のオルガニストである。
マーちゃんのような人の誘いを受ける人ではないのに何故か、その日、鍋の向かいにノブさんがいた。
「ウチで飯でも食わへんか」。
ノブさんには、人に言えない胸の閊(つか)えがあった。
新任の牧師夫人の口の固さは折り紙付きだ。
マーちゃんの妻も余計なことを喋る人ではない。
マーちゃんは舎弟のような牧師が着任したことに上機嫌だった。
ノブさんは、黙々と箸を運び、勧められるままに地酒を楽しんだ。
条件は整った。
「何か言う事あるんやろ」。
マーちゃんは新任牧師にカウンセリングの手本を示す機会を狙っていた。
「実は、ボク、オンナ買うたんです」。
重い口だった。年上の良く出来た妻の顔を毎朝見るのが辛い。
同居の父母が何かを感じているようだ。
思春期の二人の息子の侮るような目に耐えられない。
「あんたは、ご立派なクリスチャンの家の御曹司やもんな」。
新旧約聖書通読1000回業のマーちゃんは、パウロの歪んだ道徳観、
『娼婦と交わる者はその女と一つの体となる』を持ち出し、
ノブさんを散々脅し揶揄(からか)い、
気の済んだところで結納金を持って足繁く通った『そのようなところ』の自慢話を始めた。
牧師は必死に話題を変えようとした。
マーちゃんは牧師夫人の顔色が変わることを期待したが、女狐若妻の天真爛漫が放談の火に油を注いだ。
パウロは、教会員のお粗末な揉め事に業を煮やし、
心ある信徒に、阿呆いう奴には言わしておけ、阿呆になっておけと言い放ち、
日常の生活が歩く神殿、ひとりひとりが『神の宮』であることを求めた。
その諫めと慰めは、時空を超えて名君の誉れ高いヒゼキア王やウジア王の耳にまで届いた。
怖いものなしの夫婦善哉時代
讃美歌(1) 337 わが生けるは
(1)わか生けるは 主にこそよれ 死ぬるもわが益 また幸なり
(2)冨も知恵も みな主のため 力もくらいも また主のため
(3)(せ)めも飢えも みな主のため うれいも悩みも また主のため
(4)主のためには 十字架をとり よりこび勇みて 我はすすまん
コリントの信徒への手紙一6章12〜20節
「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
歴代誌下29章1〜7節
ヒゼキヤは二十五歳で王となり、二十九年間エルサレムで王位にあった。その母は名をアビヤといい、ゼカルヤの娘であった。彼は、父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。その治世の第一年の第一の月に、ヒゼキヤは主の神殿の扉を開いて修理し、祭司とレビ人を連れて来て、東の広場に集め、言った。「レビ人よ、聞け。今、自分を聖別し、先祖の神、主の神殿を聖別せよ。聖所から汚れを取り去れ。わたしたちの先祖は不忠実で、わたしたちの神、主の目に悪とされることを行った。彼らは主を捨て、主の幕屋から顔を背け、これに背を向けた。また彼らは前廊の扉を閉じ、ともし火を消し、聖所でイスラエルの神に香をたくことも、焼き尽くす献げ物をささげることもしなかった。
2022年1月23日 降誕節第5主日
説教題 『けんか腰で』
聖 書 申命記30章8〜20節 旧約聖書 (新共同訳)329ページ
ペトロの手紙一1章7節 新約聖書 (新共同訳)428ページ
讃美歌(1) 352 あめなるよろこび
「ナンジハ、シタタカナルトキモ、コレヲ、アイスルカ」。
会場に苦笑が漏れる。
牧師が、『健(すこ)やか』を『シタタカ』と言い間違えたのである。
シタタカというような言葉使いが逆説的な肯定性をもって進歩的、
先進的なイメージを醸し出していた時代があった。
何らかの誘導があったのであろうか。
この牧師は、ホテルに雇われて間がなかった。
実は、牧師ではなく英会話教室のアルバイト講師であった。
日本文化を勉強している大学院生であった。
カリフォルニアから来たらしい。
サーフィンの選手でもあったらしい。
肩まで垂らたし金髪に青い目、
180センチを優に超える身長は、ホテルのマネージャーの目に『イエスさま』と映った。
ホテルが用意した宴会グッズのようなガウンをティーシャツの上に羽織った。
足元のスニーカーが気付かれることもなかった。
先輩牧師がシタタカ牧師の前任であった。
先輩は、マネージャーの再三の要請にもかかわらず、
『そのガウンは着用しません』を通した。
「ガウンや祭服などではなく、司式するカップルに聖書の言葉を伝えたいのです」。
ホテル側にそのように説明し、案山子が着ているような小汚い背広で通した。
先輩の説教は、「お二人に『おめでとう』とは言いません」で始まる。
内容が深いのである。祝福の祈りもぼそぼそと終わる。
ホテルの結婚式の添え物としての書き割りチャペルに田舎の伝道所が再現される。
マネージャーは遂に癇癪を起した。
「センセ、もう来んでもええです」。
小さな伝道所の牧師には生活費の全てに近いアルバイト料であったが、
その機会が二度巡ることはなかった。
申命記は漢訳聖書のタイトルをそのまま使用している。
申命とは繰り返し繰り返し命じると言う意味らしい。
口が酸っぱくなるほど同じことをモーセが民に命じたことに由来する。
惑わされて他の神々にひれ伏すな。
ドブねずみ背広の牧師こそが本物の牧師であると。
預言者イザヤが叫ぶ。
『見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない』。(イザヤ53:2)
神は、燃え尽きない柴をモーセに見せる。
モーセは、瞬時に燃え尽きるはずの柴に己の姿を重ねる。
『在りて在るもの』(I am that I am)の宣言があった。
この神の言(ことば)に全身全霊をもって仕えなければ『必ず滅ぶ』と
遥か後の世のバビロン捕囚をも先取りした民への警告を発する。
神の言に生きる道は、『おめでとう』で始まらない
苦渋に満ちた日々の歩みの中に、人を燃え尽きさせない力が示される。
かつて神はアブラハムに、忠誠の証として愛息イサクの喉を掻き切り供え物とせよと命じたが、
直前にストップを掛けた。
他の神々の世界では、自分の最も大切にするものを祈願の印とすることが常であった。
生贄(いけにえ)と偶像礼拝はセットである。
モーセの神はそれを許さなかった。
生贄を求めない神は、ロールプレイを通してアブラハムとイスラエルの民に
憐れみと慈しみを示したのである。
モーセは感極まり、喧嘩腰になってまで民を何度も何度も(申命)も戒める。
モーセはピエロを厭わない。
讃美歌(1) 352 あめなるよろこび
(1)あめなるよろこび こよなき愛を たずさえくだれる わが君イエスよ
すくいのめぐみを あらわにしめし いやしきこの身に やどらせたまえ
(2)いのちをあたうる 主よ とどまりて われらのこころを とこ宮となし
あしたにゆうべに いのりをささげ たたえのうたをば うたわせたまえ
(3)われらをあらたに つくりきよめて さかえにさかえを いや増しくわえ
みくににのぼりて みまえに伏す日 みかおのひかりを 映させたまえ
申命記30章8〜20節
あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い、わたしが今日命じる戒めをすべて行うようになる。あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与え、あなたの身から生まれる子、家畜の産むもの、土地の実りを増し加えてくださる。主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。
ペトロの手紙一1章7節
あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
2022年1月16日 降誕節第4主日
説教題 『兄弟舟とおやじの湖(うみ)』
聖 書 マルコによる福音書 1章14〜20節 新約聖書 (新共同訳)61ページ
エレミヤ書 1章4〜12節 旧約聖書 (新共同訳)1173ページ
讃美歌(21) 510「主よ、終わりまで」
「これ、どんなふうに食べたらええんでしょうか?」。
三つ揃えのスーツを買った。
立派な身なりが癖になった。
怖い者知らずとなった。
ブルーグレーという色だった。
今にして思えばドブ鼠色だったのだが、細身の体系にぴったりしていた。
ネクタイも王室の紋章が鏤(ちりばめ)められていた。
これなら何処へでも出て行ける。
経済学部新卒者歓迎会の案内状が来た。
豪華なホテルが会場だった。
乾杯前に牧師の祈りがあったが、会場のノイズにかき消された。
騒がしさの中に新卒者を探してみたが一人も見当たらない。
成功した経済人ばかりだ。居心地が悪くなってきた。
フォークやスプーンがズラリと揃えられたテーブルに怖気づいた。
「これ、どんなふうに食べたらええんでしょうか?」。
隣席の爺様に尋ねた。
「好きなように、食べたらええのや」。
何んとも力の抜けた柔らかい声だった。
「退屈やのう」。
お歴々のスピーチの間、爺様ととりとめない会話を楽しんだ。
会場内の偉そうな人たちとは違った関西弁丸出しの好々爺が誰であるのか知る由もなかった。
「汝の敵を愛せよ。本日お招きした講師先生は、
真珠湾攻撃、空襲部隊総指揮官、淵田美津雄大佐であります!」。
ブラウン管テレビ口調を真似た司会者のアナウンスがあった。
隣の爺様が席を立った。ありゃま。これは一体どうしたことか。
ペテロも迫害下にあってパウロの薫陶を受けた若きエリート伝道者たちと食事を楽しむ場面があったと思われる。およそインテリジェンスなるものから程遠い風貌やレスラーのような体形がペテロ教皇様であることに気付かず
、己の不明を恥じた若造もいたことであろう。
ペテロと兄弟アンデレ、連れの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは、
ガリラヤ湖で網を打っていた。
長半纏の粋なお兄さんたちであった。
雇人までもいた。
ガリラヤは都から離れた田舎であった。
蔑視もされていた。
しかし、それに頓着するガリラヤ人はいない。
赤毛のアンの舞台になったプリンスエドワーズ島を彷彿とさせる豊かな自然があった。
豊かな自然は、啓示宗教のアンチかも知れないが、それが何だと言うのだ!
ペテロたちは、イエスに目を付けられた。睨まれた。
『ご覧になった』とある。
おやじの湖(うみ)に浮かぶ兄弟舟を捨てろと命じられる。
人間を獲る漁師になれと迫られた。漁師は魚の味を知っている。
塩辛の味も知っている。
年代ものの鮒寿司もあった。
ガリラヤは、人の辛苦を身に染みて知る土地柄である。
言葉の訛りが人の警戒心を解く。
『好きなように食べたらええのや』。
ペテロたちは、復活の主に、再び、ガリラヤで出会う。
イエスも鯛もペテロを睨んでいる
讃美歌(21) 510(1,3)「主よ、終わりまで」
(1)主よ、終わりまで しもべとして あなたに仕え したがいます
世のたたかいは はげしくても 主が味方なら 恐れはない
(2)この世のさかえ 目を惑わし 誘惑の声 耳に満ちて
敵は外にも 内にもある お守りください 主よ 私を
(3)静かにきよい み声により お語りください 主よ みことば
心のあらし 吹きあれても、聞かせてください、 主よ、み声を。
(4)主は約束を かたく守り 終わりの日まで みちびかれる
私はここに 誓いを立て 主よ 終わりまで したがいます
マルコによる福音書1章14〜20節
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
エレミヤ書1章4〜12節
主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と主は言われた。主は手を伸ばして、わたしの口に触れ、主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)。」
(注)アーモンドの木は傾いて成長する。傾く、歌舞伎の語源『かぶく』にも似たイメージが寄せられている。神の声の方向にエレミヤが常軌を逸してまで傾くというニュアンスを駄洒落が加速する。
2022年1月9日 降誕節第3主日
説教題 『昔が良かったと言うのか』
聖 書 出エジプト記 14章8〜20節 旧約聖書 (新共同訳)116ページ
マルコによる福音書 1章1〜5節 新約聖書 (新共同訳)61ページ
讃美歌(21) 457(1,4) 神はわが力
「センセ、難しいことは、せんといてくださいよ。いつもので十分ですから」。
「何を進歩のないことを言ってるですか。
貴女たちは」。
「去年と同じで良いんですよ。念を押しましたよ」。
地域のクリスマス会を今年も、『若手』が主催するという。
『若手』とは、ウクレレ教室の生徒さんたちのことである。
この『若手』の女性軍は一個師団にも相当する何でも出来る、『何でもやりたがり隊』のツワモノ、精鋭であるが、
彼女たちの苦手とするシフォンケーキを担当するのがセンセの役割となっているである。
ウクレレ教室の雑談で要らぬことを喋ってしまったことがある。
誰かが干支の話題を持ち出したのである。
「センセはウシ年ですか。わたしたちは、ネズミとトラが一人づつで、あとは全員、イノシシです」。
「イノシシねぇ。なるほど、なるほど」。
「なるほどって、何ですの!」。
「それが、なるほど、ということですよ」。
「ボクがESSの部活で中一の時に最初に出会った先輩たち、中三の女子がイノシシと言うことでして、これがまた」。「またって、何ですの!」。
永遠の中三女子がそこにいた。
彼女たちは、シフォンケーキ作りの敗残兵であった。
自治会館に専門家を呼んで勉強したらしいが、難問のバナナシフォンには講師の先生でも二度失敗したらしい。
バナナシフォンケーキは幻のシフォンケーキとなってしまった。
彼女たちは『センセの紅茶シフォン』で十分満足していた。
クリスマス会に招待した人たちの土産に持たせて鼻が高かった。
それで、元の木阿弥になるような『センセの大冒険』を何が何でも阻止したかったのである。
究極の、極限のバナナシフォンケーキとやらを作らせまいとした。
モーセは、400年もの長い間、エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を約束の地へと導いた。
解放への希望は民の心を躍らせたが、その喜びは数日で不平不満のつぶやきとなった。
昼は雲の柱、夜は火の柱が目印となり民の行く手を導いたのであるが、紅海を前にしてファラオの軍勢が迫る袋小路に押し込まれたのである。
海で溺れ死ぬか、剣に倒れるか、絶体絶命となる。
民は異口同音にモーセに言った。
「お前が要らんことを言うからこのような目に会うたのだ。元に戻してくれ」。
「そうだ、そうだ、ムカシが良かったのだ」。
主なる神は、モーセに杖(イエスの十字架?)を海に向かって高く上げるように命じた。
海は、ルパン三世に登場する五ェ門の斬鉄剣が振り下ろされるが如く、
ハリウッド映画のあの名場面のように、真っ二つにされた。民の活路は、開かれた。
バナナシフォンケーキは、見事に、去年の紅茶シフォンとはまるで違った別物に仕上がった。
中三の女子たちは、
『こうなると思ってました。センセ』。
イノシシ年の名に恥じないリアクションとなった。
2022年1月2日 雪の福知山教会
讃美歌(21) 457(1,4) 神はわが力
出エジプト記14章8〜20節
主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。
マルコによる福音書1章1〜5節
神の子イエス・キリストの福音の初め。
預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
2022年1月2日 降誕節第2主日
説教題 『貴公子と顕微鏡』
聖 書 ダニエル書 1章1〜17節 旧約聖書 (新共同訳)1379ページ
ルカによる福音書 2章39〜40節 新約聖書 (新共同訳)103ページ
讃美歌(1) 338 主よおわりまで
「ヒョーイチ君、これを観てごらんなさい」。
顕微鏡を覗き込んだ。
プレパラートに牛乳が一滴垂らされていた。
牛乳は、高倍率に拡大されていた。
その顕微鏡は、『バケガクの研究所』
と近隣の人たちが理(ことわり)を付けて呼んでいた大学の研究所の一室にあった。
ころころした小さな粒のようなものがびっしりと蠢(うごめ)いているようでもあり、
静止しているかのようでもある『モノ』が見開いた五歳の子どもの目に飛び込んできた。
「これを、コロイドと言うのですよ」。研究生の標準語と高性能の顕微鏡に酔った。
コロイドとは、牛乳のように、油分と水分が溶け合っているように見えるが
実際はそうではないような状態を指すのだと教えてもらった。
定かな記憶ではないが。
母は研究所の食事を任されていた。
大学院生を相手に自慢の腕を振るった。
セロファンに色とりどりの野菜を包んで蒸した卵料理に苦学生が度肝を抜かした。
母を『おばちゃん』などと呼ぶ者は教授を含め研究所には一人もいなかった。
フラウ・キシモトとしての敬意が払われた。
母にはビクトリア朝時代の小説に出てくるプライドの高い未亡人のような近寄り難さがあった。
研究所は駅から数分のところにあったにもかかわらず小さな御苑の様相を呈していた。
ヒョーイチ君は、ファーブルの世界を満喫した。
顕微鏡のある研究室に入り浸った。
海外から招いた研究者の講演には最前列の席を独占した。
流石の母も教授に詫びた。
「ヒョーイチ君は熱心な研究者の一人です」。所長が母に言った。
アカデミックな研究所は極貧のカモフラージ(camouflage)であった。
同年代の子どもとの付き合いもなく、幼稚園や保育園にも行かなかった。
貴族の子女は屋敷に家庭教師を招き教育を受けたと後に知ったが、
図らずも貴公子のような幼年期を過ごしたのである。
妄想癖は、この時に形成されたと思われる。
貴公子ダニエルは、バビロン捕囚の直後、ネブカドネツァル王の小姓となった。
自国の王の体たらくの割りを食ったのである。
天正の少年使節のような待遇を受けたが、所詮は、人質であった。
家が貧乏になった程度の落ちぶれのレベルではない。
国が亡くなったのだ。
蹂躙されたのだ。
『在りて在る神』への信仰の危機があった。
ダニエルはコロイド状態を保った。
主なる神への信仰を異教の大国の中に分離することなく混ぜ込んだ。
夢解きの力を持って、王に『盛者必衰の理』を説いた。
重用された。嫉妬を買った。
燃える炉の中やライオンの穴に投げ込まれた。無事、帰還した。
アウエーの地で成功者となり信仰を保つことは、信仰者の理想だ。
ダニエルは苦難の歴史に神の救いの計画が組み込まれることを預言した。
イエスの到来をも予告した。
バケガク研究所の敷地内にてライカのカメラに収まる。
讃美歌(1) 338 主よおわりまで
(1)主よ おわりまで 仕えまつらん みそばはなれず おらせたまえ
世のたたかいは はげしくとも 御旗のもとに おらせたまえ
(2)うき世のさかえ 目をまどわし いざないのこえ 耳にみちて
こころむるもの 内外にあり 主よ、わが盾と ならせたまえ
(3)しずかにきよき みこえをもて 名利のあらし しずめたまえ
こころにさわぐ 波はなぎて わが主のみむね さやに写さん
(4)主よ 今ここに ちかいを立て しもべとなりて つかえまつる
世にあるかぎり このこころを つねにかわらず もたせたまえ
ダニエル書1章1〜17節
ユダの王ヨヤキムが即位して三年目のことであった。バビロンの王ネブカドネツァルが攻めて来て、エルサレムを包囲した。主は、ユダの王ヨヤキムと、エルサレム神殿の祭具の一部を彼の手中に落とされた。ネブカドネツァルはそれらをシンアルに引いて行き、祭具類は自分の神々の宝物倉に納めた。さて、ネブカドネツァル王は侍従長アシュペナズに命じて、イスラエル人の王族と貴族の中から、体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある少年を何人か連れて来させ、カルデア人の言葉と文書を学ばせた。王は、宮廷の肉類と酒を毎日彼らに与えるように定め、三年間養成してから自分に仕えさせることにした。この少年たちの中に、ユダ族出身のダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの四人がいた。侍従長は彼らの名前を変えて、ダニエルをベルテシャツァル、ハナンヤをシャドラク、ミシャエルをメシャク、アザルヤをアベド・ネゴと呼んだ。ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し、自分を汚すようなことはさせないでほしいと侍従長に願い出た。神の御計らいによって、侍従長はダニエルに好意を示し、親切にした。侍従長はダニエルに言った。「わたしは王様が恐ろしい。王様御自身がお前たちの食べ物と飲み物をお定めになったのだから。同じ年ごろの少年に比べてお前たちの顔色が悪くなったら、お前たちのためにわたしの首が危うくなるではないか。」ダニエルは、侍従長が自分たち四人の世話係に定めた人に言った。「どうかわたしたちを十日間試してください。その間、食べる物は野菜だけ、飲む物は水だけにさせてください。その後、わたしたちの顔色と、宮廷の肉類をいただいた少年の顔色をよくお比べになり、その上でお考えどおりにしてください。」世話係はこの願いを聞き入れ、十日間彼らを試した。十日たってみると、彼らの顔色と健康は宮廷の食べ物を受けているどの少年よりも良かった。それ以来、世話係は彼らに支給される肉類と酒を除いて、野菜だけ与えることにした。この四人の少年は、知識と才能を神から恵まれ、文書や知恵についてもすべて優れていて、特にダニエルはどのような幻も夢も解くことができた。
ルカによる福音書2章39〜40節
親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
2021年12月26日 降誕節第1主日
説教題 『羊飼いにしかなれないのか』
聖 書 ルカによる福音書 2章8〜20節 新約聖書 (新共同訳)103ページ
創世記 27章21〜29節 旧約聖書 (新共同訳) 43ページ
讃美歌(1) 106 あらののはてに
「こら、マー坊、勉強せい。勉強せんか。勉強せなあかん。勉強せんとロクな仕事に就けんど」。
ロクでもない仕事とやらが露骨な表現で列挙された。
「あの先生が、そんな言葉を息子さんに言うわけないで」。
「いや、ワシはこの耳で聞いた。息子さんにそう言うてはるところをな」。
勉強嫌いの息子を父親は叱咤激励した。
母親も息子を庇(かば)わなかった。
「あんたはな、お父ちゃんみたいな立派な牧師さんになるんや」。
戦争体験と言っても内務班で一年ほど軍隊のメシを喰っただけなのだが、
ボーイスカウトの生活がよほど性に合わなかったのか社会に復帰することなく教会の門を叩いた。
小坊主のような修行が性に合った。
牧師になる道を選んだが、神学を机の上で学ぶ学生にはならなかった。
いや、なれなかった。
生来の愉快な性格、人付き合いの上手が功を奏して人が集まり教会が出来上がった。
戦後のキリスト教ブームが追い風になったのだ。
宗教レジャーランドのような教会は、地の利の良さも手伝って大いに繁盛した。
牧師になってから神学校を卒業する逆転が、取り巻き信徒を喜ばせた。
失敗談の中に滲む人間臭さが魅力となった。
ダイナミックな教会活動と神の声を静かに聞く空間の輪郭を際立たせた。
「あの先生には、祈りの力がある」。
牧師は神に奉仕することを最優先とした。
息子を同じ道に歩ませたかった。
しかし、怠け者の自然児は、父の期待に応えることはなかった。
狭い地域社会が口さがないの無いことを言う。
「教会のぼんは勉強出来へんそうやな」。
「いや、あの子は、あれでええんや」。
「無理せんでええのや」。
教会の長老たちは世襲など考えもしなかった。
その雰囲気に母親が耐えられなかった。夫のケツを叩いた。
中央の羊役は、能狂言を事前学習したかもしれない。
ロクでもない仕事とは、羊飼いの仕事のことであろうか。
牧師が息子に言った実際の言葉は、その時代の社会でも許されはしなかった。
牧師ならイエスの降誕の場に一番乗りを許されたのが誰であったかを知っているはずなのに。
息子は牧師になった。
三本線の真っ赤な博士ガウンの下はハイカラーのシャツ、
聖人の顔やラテン語が刺繍された金糸銀糸のストール姿で、
父親の死後、同じ講壇に立っている。
そのインチキが哀れである。
本人も母親も跡が継げたと信じて疑わない。
讃美歌(1) 106 あらののはてに
(1)荒野(あらの)の果てに 夕日は落ちて 妙(たえ)なる調べ 天(あめ)より響く
(2)羊を守る 野辺の牧人 天なる歌を 喜び聞きぬ
(3)御歌(みうた)を聞きて 羊飼いらは 馬槽(まぶね)に伏せる 御子を拝みぬ
(4)今日しも御子は 生まれ給いぬ よろずの民よ 勇みて歌え
グローーリア、イン エクセルシス デオ グローーリア、イン エクセルシス デオ
ルカによる福音書2章8〜20節
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
創世記27章21〜29節
イサクはヤコブに言った。「近寄りなさい。わたしの子に触って、本当にお前が息子のエサウかどうか、確かめたい。」ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼に触りながら言った。「声はヤコブの声だが、腕はエサウの腕だ。」イサクは、ヤコブの腕が兄エサウの腕のように毛深くなっていたので、見破ることができなかった。そこで、彼は祝福しようとして、言った。「お前は本当にわたしの子エサウなのだな。」ヤコブは、「もちろんです」と答えたイサクは言った。「では、お前の獲物をここへ持って来なさい。それを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えよう。」ヤコブが料理を差し出すと、イサクは食べ、ぶどう酒をつぐと、それを飲んだ。それから、父イサクは彼に言った。「わたしの子よ、近寄ってわたしに口づけをしなさい。」ヤコブが近寄って口づけをすると、イサクは、ヤコブの着物の匂いをかいで、祝福して言った。「ああ、わたしの子の香りは、主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が、天の露と地の産み出す豊かなもの、穀物とぶどう酒をお前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え、多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり、母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ、お前を祝福する者は、祝福されるように。」
2021年12月19日 待降節第四主日
説教題 『編機と乙女の祈り』
聖 書 ルカによる福音書 2章1〜7節 新約聖書 (新共同訳)102ページ
ミカ書 5章1〜4節 旧約聖書 (新共同訳)1454ページ
讃美歌(1) 404 やまじこえて
「これこ〜れ、石の地蔵さん、西へ行くのはゴリラかえ〜。ダイコ(大根)安いで」。
買い物客で賑わう駅前商店街は、もはや戦後ではなかった。
八百屋のおっさんは、美空ひばりの花笠道中を訳の分からない替え歌にして客を呼ぶ。
天井から吊るした笊は銭で溢れている。
『市場』と呼慣らされた商店街は豊かな新年を迎えようとする買い物客でごった返していたが、
雑踏の中で少年の心と体は冷え切っていた。
正月の食材とはいえ気後れのする買い物を言い付けられていたのである。
貧しい買い物籠に溜息が出た。
少年の両親は漂流者であった。
互いの似た境遇が景気の良さそうな町で所帯を持つ夢となった。
ふたりは故郷を離れた。
正真正銘のハイマートロス(Heimatlos)となった。
手に付けた職が全てであった。
母親は平賀源内の孫から厳しい行儀作法を叩き込まれ、裁縫を習得した。
洋裁や料理も得意であった。
父親は大陸で理髪師の技術を磨き社交界の専属となった。
共に尋常高等小学校を級長で通したが複雑な家庭環境がそれ以上の教育環境を許さなかった。
戦後の混乱の中でふたりは出会った。晩婚であった。
ふたりは『市場』で商売を始めようと財を蓄えた。
身に付けたプロの技術がそれを可能とした。
ソフト帽にロイド眼鏡。ツイードのコート姿の父親。
母親と揃いのギンガムチェックのシャツ姿が聖母子を思わせるような一歳の誕生日。
ふたりの漂流は終わろうとしていた。
小さな借家は、キリシタン大名高山右近の城跡近くにあった。
身重のマリアをロバの背にヨセフは、ナザレ村から140キロの山道をベツレヘムへと向かう。
ナザレ村は標高400メートルにある。
ローカル的な表現をすれば、一休寺を見下ろす甘南備山の倍の高さである。
ベツレヘムの町は、甘南備山の三倍を優に超える。
聞き齧った知識ではあるが、江戸時代の東海道は新京極や心斎橋の賑わいに同様の混雑であったらしい。
皇帝の命による本籍地への命がけの旅は、人の切れ目がない歩く満員電車状態であったであろう。
ベツレヘム到着も安堵の時ではなかった。
宿無しの悲哀が聖家族の振り出しであった。
『余所者としてやって来て、余所者として去って行く』。
少年の父親は『市場』へ参入を目前にして軍隊時代の古傷が悪化し長い入院生活を余儀なくされた。
母親は蓄えた開店資金を夫の命に代えたが、
賑わう歳末の商店街への遣る瀬無さに少年の心を苛んだとしても
漂流者の矜持は何ひとつ損なわれることは無かった。
父親不在の母子家庭に世間は決して優しくはなかったが、
夜なべの編み機の往復運動の音が降誕の場に馳せ参じた羊飼いたちのざわめきに、
真空管ラジオから流れる『乙女の祈り』が夥しい天使の群れの讃美に、
あるはずの無い記憶として少年の心に重なる。
讃美歌(1) 404 やまじこえて
(2)松のあらし 谷のながれ みつかいの歌も かくやありなん
(3)峰の雪と こころきよく 雲なきみ空と むねは澄みぬ
(4)みちけわしく ゆくてとおし こころざすかたに いつか着くらん
ルカによる福音書 2章1〜7節
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
ミカ書5章1〜4節
エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者
お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる
まことに、主は彼らを捨ておかれる
産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は
イスラエルの子らのもとに帰って来る
彼は立って、群れを養う
主の力、神である主の御名の威厳をもって
彼らは安らかに住まう
今や、彼は大いなる者となり
その力が地の果てに及ぶからだ
彼こそ、まさしく平和である
2021年12月12日 待降節第3主日
説教題 『電信柱男と大男』
聖 書 ルカによる福音書14章1〜24節 新約聖書 (新共同訳)137ページ
イザヤ書40章1〜8節 旧約聖書 (新共同訳)1123ページ
讃美歌(21) 232 神のみ子は世に来られた
「ワシはな、電信柱の上からヨメに電話しとったんやで」。
「どう言うことですか?」。電電公社時代の技術者である。
「電磁弁のガチャガチャちゅう音で、どことどこが繋がるか分かるんや。
そんでな、付き合うてたヨメ、つまり交換手しとったコイツに電信柱の上からアタックちゅうわけや」。
「そんなこと出来るんですか」。
「この人にはえらい迷惑したんよ。周りに分からんように営業言葉でしゃべったのよ」。
デジタル時代を迎え、電信柱男は会社を辞めた。
マンドリンを作ると言って町の生活を畳んで山奥の生家へ移住した。
独学で器用にマンドリンを作った。
ドイツから輸入した楓や杉を使った。
客の選り好みをした。
製作期間が長かった。
客は製品の完成を期待せず、酒やビールをひたすら差し入れた。
「いつ出来ますやろか?」。恐る恐る聞く客がいた。
「それはマンドリンに聞いてんか」。
その飄々が堪らない。
「なんせうちの工房の商標がフューチャーやさかいな」。
貝の螺鈿が埋め込まれた『FUTURE』の文字がマンドリンの糸巻きに煌めく。
月に一度、山を下りて馴染みの居酒屋に通う。
店の名は、『イスカ』という。嘴(くちばし)が交差した鳥の名である。マンドリン同好会の溜まり場である。酔いに任せた即興演奏と噛み合わない酔っ払いの会話がイスカの嘴さながらであった。
レパートリーが出尽くしたところで真打が登場する。
技巧の限りを尽くした演奏者に電信柱男は、「へたくそ!」の罵声を浴びせる。
最高の賛辞だ。
場がどっと沸く。
しかし、電信柱男は、習い始めたばかりの初心者には至れり尽くせりの手ほどきと褒め言葉を忘れなかった。
電信柱男は、暮れのある夜、店に行き、いつものように泥酔した。
気が付くと見知らぬ一人の大男が目の前にいた。
山の家に連れて帰ったらしい。電信柱男は何も覚えていない。
大男は人生を漂流していた。
イスカの赤提灯に誘われた。
マンドリンを習いたい初心者と勘違いした電信柱男が噛み合わない受け答えの挙句、連れ帰ったのだ。
電信柱男は素面(しらふ)では何も話せない。
「きっしゃん、電話かわるで」。
『きっしゃん』とは、キシモトのことである。
外はまだ暗い五時であった。
大男は、貧しい生い立ちの身であった。
食い扶持を減らすために国技の世界へ投げ込まれた。
芽の出ない前に怪我をして放浪の身となったが
鉄拳で教え込まれた行儀作法、言葉遣いに隙がなかった。
大男は、電信柱男の家に一カ月滞在し世を去った。
教会の赤提灯には誘われなかったのである。
電信柱男の前に現れた漂流者をアドベントの出来事と感じるセンスを失ってはならない。
イザヤの慰めの言葉に我を回復する者でありたい。
電信柱男の絵手紙
讃美歌(21) 232 神のみ子は世に来られた
イザヤ書40章1〜8節
慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
ルカによる福音書14章1〜24節
そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」
2021年12月5 日 待降節第2主日
説教題 『好き勝手にはさせないぞ』
聖 書 テモテへの手紙二 4章1〜11節 新約聖書 (新共同訳)394ページ
詩 編 35編1〜8節 旧約聖書 (新共同訳) 866ページ
讃美歌(21) 231 久しく待ちにし
「本日から教員は午後六時には学校を退出していただきます」。
「コウチョウセンセイ、ソレハ、ナーゼデースカ?」。
「あんたが、学校と関係ない塾のプリントなんかを印刷室に残って遅うまで刷ったりしとるからや」。
「ナニオッシャテルカ、ワァカリマセーン」。
今日から校長になったという人と日本に長く住むアメリカ人教師が言い争う。
茶番の会議だ。
「それと、明日から、体育系の部活は全て禁止します」。
「何でや!」。
「権限乱用するな!」。
怒号の会議となる。
「あんたには、辞めてもらうわ」。
翌朝には粛清が始まった。
ワンマン校長の暴走を誇張した伝聞ではあったが、
バブル時代の混沌を背景とすればこのような無茶話のひとつやふたつは不思議でもなんでもなかった。
皇帝の気まぐれと大衆の退屈凌ぎが初期キリスト教の迫害に繋がった。
荒唐無稽な難癖が教会を悩ました。
信徒の命が危険に晒される。
外的な圧迫に加えて教会は獅子身中の虫にも苦闘していた。
イエスの死後、30年が過ぎようとしている。
パウロはこの時、五十歳半ばであった。
心血を注いだ教会に人間的支配の闇が迫る。
耳ざわりの良い言葉を求める声が誘導される。
獄中のパウロのストレスは頂点に達する。処刑の日は近い。
『そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、
好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行く』
パウロは最後の獄中生活を官営ではなく、監視付きの自前の住居で過ごしている。
情報の制限は無かったと思われるが、聞こえてくるのは苛立ちを増幅させるものばかりであった。
その苛立ちは、適切な例ではないが負け戦の続報に我を失う地下壕の独裁者のそれにも似ていた。
あるいは、サウル王の刺客から逃げ惑うダビデの窮鼠猫を噛むごとくの錯乱もあった。
アジアの信徒たちがパウロから離れて行き、信頼できる弟子デマスさえもただの俗人となってしまったからだ。
パウロは、最後の信仰の証を立てようとしている。
旧友ルカだけは残っていたが癒しがたい孤独に苛まれている。
その場には、シャーロックホームズとワトソン博士の友情だけでは足りない絶対的不足があったのだ。
母と祖母の信仰を受け継ぐ青年テモテの優しい顔が浮かんだ。
偽教師が教会を支配する好き勝手を許さない神は、満身創痍の老伝道師にも同じ思いを許さないのだが、
貴公子の慰めを得たいとのパウロの願いは聞いた。
テモテこそアドベントを待ち望む異邦人の救い主(Haiden Heiland)の影ではないだろうか。
飾りつけは『好き勝手』だそうだ。
讃美歌(21) 231 久しく待ちにし
テモテへの手紙二 4章1〜11節
神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。ぜひ、急いでわたしのところへ来てください。デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行っているからです。ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。
詩編 35編1〜8節 【ダビデの詩】
主よ、わたしと争う者と争い、わたしと戦う者と戦ってください。大盾と盾を取り、立ち上がってわたしを助けてください。わたしに追い迫る者の前に槍を構えて立ちふさがってください。どうか、わたしの魂に言ってください。「お前を救おう」と。わたしの命を奪おうとする者は恥に落とされ、嘲りを受けますように。わたしに災いを謀る者は辱めを受けて退きますように。風に飛ぶもみ殻となった彼らが主の使いに追い払われますように道を暗闇に閉ざされ、足を滑らせる彼らに主の使いが追い迫りますように。彼らは無実なわたしを滅ぼそうと網を張り、わたしの魂を滅ぼそうと落とし穴を掘りました。どうか、思わぬ時に破滅が臨み、彼らが自ら張った網に掛かり、破滅に落ちますように。
2021年11月28日 待降節第1主日 アドベント
説教題 『ふたりの長老』
聖 書 イザヤ書 51章6〜12節 旧約聖書 (新共同訳) 1146ページ
テサロニケの信徒への手紙一 5章1〜節 新約聖書 (新共同訳)378ページ
讃美歌(21) 242 主を待ち望むアドベント
「ゴミ箱を漁ってタバコの吸い殻を探したことおますねん」。
クリスマスを前に大長老の葬儀を執り行った。
町の名士でもある大長老の葬儀を駆け出しの牧師に仕切れるはずはないのだが『待った』がなかった。
短い出会いではあったが、長老とは愉快な時を過ごした。若さは得である。
尋ねると何でも答えてくれた。
「お酒やタバコを飲まはりますか」。
大胆な質問だった。
タバコの禁断症状に苦しみゴミ箱を漁ったことがあると答えてくれた。
明治の人である。大商家の長男である。中学生時代をキリスト教主義学校の寄宿舎で過ごし自由を謳歌した。
三日と待たずもう一人の長老も天寿を全うした。
この長老も町の名士であった。
「学校出てから『訓導』になったんや」。
小学校教員を『訓導』と呼んだ時代の人である。
懐メロが好きだった。
妻は女学生時代からの宝塚ファンであった。
母屋の別棟が二人の愛の巣であった。
『すみれの花咲く頃』や『帰り船』を演奏するとご両人の機嫌が良かった。
『主の御降誕を告げる東方の博士たちを導いた星のように。クリスマスを指し示すかのように。私たちに、主にある希望を置き土産とし、長老は天に召されました』。
駆け出し牧師にしては上出来の告別説教の締め括りであった。
「センセ、若いのにようやった。天国で喜んだはるやろ」。
アドベントとは、『到来』という意味である。
とんでもないことが日常に飛び込んでくるという意味である。
アドベンチャー(冒険)は同じルーツを持つ語である。
神学生時代に学んだ中途半端な記憶を辿ると、人の歴史に、神の救いの歴史が突入すると学んだような気がする。
神の救いの歴史を、覚束無い(おぼつかない)ドイツ語の記憶だが、『ハイルスゲシヒテ』と繰り返えし繰り返し教授が口を尖らしていたものだ。
ふたりの長老は、大長老の風格を漂わせていたが威張った人たちではなかった。
若い牧師に友だちのように接してくれた。
柩の羽織袴姿は驚くほど小さかった。
不謹慎な言いようだが可愛らしかった。
ふたりとも豊かな顎髭を胸まで蓄えていたが、一人はそのまま。
一人は息子が奇麗に剃り上げた。
家人に髭をどうするかと尋ねられて即断したのである。
ふたりは、柩の中で静かに主の到来を待っているかのようであった。
あの小さは、オタクの人たちが愛でてやまないフィギュアのようであった。
謙虚、謙遜の具象化そのものだった。
偉そうにしている者には、虫けらのような死と滅びが待っていると。
イザヤは、主の民が捕囚によってが根こそぎダメージを受ける突然を警告する。
この虫も何かの、突然の到来をまっているかも知れない。
讃美歌(21) 242 主を待ち望むアドベント
イザヤ書51章6〜12節
天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない。わたしに聞け。正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな。彼らはしみに食われる衣、虫に食い尽くされる羊毛にすぎない。わたしの恵みの業はとこしえに続き、わたしの救いは代々に永らえる。奮い立て、奮い立て、力をまとえ、主の御腕よ。奮い立て、代々とこしえに遠い昔の日々のように。ラハブ(海の怪物)を切り裂き、竜を貫いたのは、あなたではなかったか。海を、大いなる淵の水を、干上がらせ深い海の底に道を開いて贖われた人々を通らせたのは、あなたではなかったか。主に贖われた人々は帰って来て喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき、喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る。わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの。なぜ、あなたは恐れるのか・死ぬべき人、草にも等しい人の子を。
テサロニケの信徒への手紙一5章1〜4節
兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。
しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。
2021年11月21日 降誕前第5主日
説教題 『亀は愛である』
聖 書 マタイによる福音書 25章34〜40 節 新約聖書 (新共同訳)51ページ
サムエル記上26章7〜12節 旧約聖書 (新共同訳)472ページ
讃美歌(21) 229今きたりませ
「センセは命の恩人です。危ないところ助けてもろうて」。
何のことか分からない。
「お通りにならんかったら、わたし、今、ここにはおりません」。
息が荒い。ますます、分からない。
間もなく礼拝が始まろうとしている。こんな時に。
その女性信徒は、昨夜、リアルな夢を見たらしい。
車を運転していてカーブを曲がり切れず崖下に転落したが、
木の根に辛うじて車の後部が引っかかり、
深い谷底を見下ろす形で車ごと宙ぶらりんになったらしい。
絶体絶命。
車の重みに木が耐えられなくなり、あわや車もろとも。
その時、崖の上を通りかかった私が救出したと言うのだ。
『遅かったじゃないの!』ってハリウッド映画の女優みたいな台詞を決めませんでしたか
と返して礼拝堂は爆笑の渦。時間通りに礼拝は始まった。
手錠姿の顔見知りの人がテレビのニュース画面に大写しになる。
あの人だと妻が言う。留置場へ面会に行くべきか。
獄中の人は、イエス本人であると聖書は教える。
なんと、非現実的な教えだろうか。
親族ならまだしも趣味の会で顔を合わせる程度の人に『遅かったじゃないか』の一言を得る行動をとるべきなのだろうか。
崖下に助けを求める女性信徒を救出したように。
妻に先立たれて後、息子も病死した。
生きる望みを失った靴屋のマルチンの教会への足は遠いたが
店の前を通り過ぎる人たちへの関心は薄れなかった。
マルチンは、イエスの声を聞く。「今日、お前のところに行く」。
店の前を通りかかる雪かきの老人、赤ん坊を抱いた貧しい母親、リンゴを盗んだ男の子との寸劇が始まる。
マルチンは、それぞれの事情に深く関わってしまう。
そして、イエスの来訪が無いままの一日が終ろうとする。
空耳だったのかと落胆するマルチンに声があった。
「マルツン、マルツン、あれはみんな、ワタスだったのだ」。
ざわめきが起こる。
「誰の声やろ?」。
畳掛けるように、極めつけの津軽弁が舞台奥から響きわたる。
「亀は、愛である!」。
「園長はんの声や!!!」。
リンゴを盗んだ少年を演じた小柄でお茶目な女性入居者が何度も何度もカーテンコールに応える。
経費老人ホームなる施設名が耳新しい時代のクリスマスであった。
『主よ、いつわたしたちは、・・・(中略)・・・いつ、病気をなさったり、
牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか』(25:39)
難儀をしている人の夢の中に現れて救いの手を差し延べる。
あなたに助けられた言われても困惑するばかり。
天の国へ道は、それほどまでに善行の記憶から程遠い人に開かれているのかも知れない。
写真は本分と関係ありません。
讃美歌(21) 229今きたりませ
(1)来たりませ 救いの主イェス この世の罪を あがなうために
(2)きよき御国を 離れて降り 人の姿で 御子は現われん
(3)みむねによりて おとめにやどり 神の独り子 人となりたもう
(4)この世に生まれ 陰府にもくだり 御父にいたる 道を拓く主
(5)まぶねまばゆく 照り輝きて 暗きこの世に 光あふれぬ
(6)御父と御子と 聖霊の主に み栄え 今も とこしえまでも
マタイによる福音書 25章34〜40 節
そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
サムエル記上26章7〜12節
ダビデとアビシャイは夜になって兵士に近寄った。サウルは幕営の中に横になって眠り込んでおり、彼の槍はその枕もとの地面に突き刺してあった。アブネルも兵士もその周りで眠っていた。アビシャイはダビデに言った。「神は、今日、敵をあなたの手に渡されました。さあ、わたしに槍の一突きで彼を刺し殺させてください。一度でしとめます。」
ダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない。」更に言った。「主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない。今は、枕もとの槍と水差しを取って立ち去ろう。」ダビデはサウルの枕もとから槍と水差しを取り、彼らは立ち去った。見ていた者も、気づいた者も、目を覚ました者もなかった。主から送られた深い眠りが彼らを襲い、全員眠り込んでいた。
2021年11月14日 降誕前第6主日
説教題 『番頭はんと丁稚どん』
聖 書 使徒言行録 3章1〜10節 新約聖書 (新共同訳)217ページ
申命記18章 20〜22節 旧約聖書 (新共同訳)310ページ
讃美歌(1) 196 うるわしきは かみのみとの
「わたしたちは、今の教会とは関係ありませんので。お越しにならないでください」。
重ねた。週報や印刷物を持参する無神経を叱られた。
テープに吹き込んだ。
ある日、上がり框(かまち)で長い祈りが始まった。
「センセと教会のために祈らせていただきます」。
その時、床をこする音がするので薄目を開けた。
その人の妻がいた。落語の『青菜』ではないが、二間先の奥から這って来たのである。
足が不自由であることを知った。
「センセ、あの家には行かんでもええと言いましたやろ」。
無理をするなと役員が言う。
イエスの昇天後、聖霊のシャワーを浴びて教会が誕生したが、尖塔に十字架を括りつけた教会がそこにあった訳ではない。
弟子たちの神殿へのお参りに変化はなかった。
ペテロはヨハネを伴って美しの門に向かう。
この光景は、楽しく想像するに、花登筐が描く船場の番頭と丁稚のコンビを連想させる。
あるいは、大学のゼミを。
ペテロ教授はヨハネ神学生をフィールドワークに連れ出しているのである。
神殿の入り口に『生まれながら足の不自由な男』が、たった今、運ばれて来たところだった。
「旦那様方、お恵みを」。
足の不自由な男をペテロは見据えた。
美しの門を通過する人の群れが滞った。
ペテロ教授は、物乞いと喜捨の相互利益を講義するのか。
ヨハネは、後ろポケットからスマホを取り出し動画撮影を始める。
この光景をネットにアップしなければ。
『金銀は、わたしには無い』その決め台詞がSNSに拡散した。
過疎の村の老婆が交通の不便を訴えて、『足が無い』と言う。
政治家は、それが票に繋がると判断すれば金銀を撒き散らす。
生活困窮者に喜捨をすることをパリサイ派も勧めていた。
しかし、ペテロはイエスと人生を共に歩む『足そのもの』を祈り求めよと言い放った。
足の不自由な男は、立ち上がり、踊った。
訪問先の夫婦に一人息子がいた。
窮屈な『エス様、エス様』の生活を嫌い家を飛び出した。
遊び人を極め社交ダンスの先生になった。
母親の足を取り戻したのであった。
そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
使徒言行録3:8
讃美歌(1) 196 うるわしきは かみのみとの
(1)うるわしきは 神のみとの きよき愛の みてる宮よ こころは み神を慕いて 燃え立つ
(2)あめにとどく いのりの家 つかえまつる このよろこび 行かばや うたごえ合わせて み前に
(3)くらき谷も 恐れもあらじ あまつみ国 われを待てば ひかりは 栄の御座より さしいず
(4)したいまつる 愛の神は このみとのに のぞみたもう たたえよ 心のかぎりに みいつを
使徒言行録3章1〜12節
ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。
申命記18章20〜22節
ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。」あなたは心の中で、「どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか」と言うであろう。その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。
2021年11月7日 降誕前第7主日 永眠者記念礼拝
説教題 『持ってけ泥棒』
聖 書 創世記13章 8〜9節 旧約聖書 (新共同訳) 16ページ
マタイによる福音書 3章9〜10節 新約聖書 (新共同訳)4ページ
讃美歌(1) 536 むくいをのぞまで
「見上げたもんだよ。屋根屋の褌」。
少々下品だが、流れるような口上で縁起物やいい加減な便利グッズを叩き売る寅さん。
エンディングに渥美清の糸屑のような細い目が大写しになり客は幸せの余韻を残しながら映画館を出る。
懐は寂しいのに見栄を張る風来坊の気風の良さが人口(じんこうに)に膾炙(かいしゃ)する。
イエスの愛を叩き売る牧師の悲哀に然も似たり。
アブラム(アブラハム)は父テラに伴われ、
あたかも摩天楼時代のニューヨークを彷彿とさせるメソポタミア文明最頂点の大都市カルデアのウルに背を向け
カナンの地へと旅立つ。
その移動は大規模経営の遊牧民のそれであった。
親族、羊飼い、家畜、金銀財宝の大船団が機動性の制約を受けながらも日に日に、着実に、
歪んだモダニズム、ウルの地を離れていった。
日に日に、着実に神の国へ近づいて行ったのである。
船団は霊的な世界に導かれていることを意識していた。
ところが、父テラは移動の途中、ハランの地に腰を落ち着けてしまう。
肉体と信仰のスタミナが切れたのであろう。
途方に暮れるアブラハムに、子々孫々と受け継がれる神からの大いなる祝福が約束された。
『住み慣れた故郷を離れよ』との条件付きで。
76歳にして、アブラハムは大いなるフーテン、自由人となった。
さらには、別嬪の妻と共謀して美人局(つつもたせ)の真似事までしてエジプト王の財をむしり取ったりもした。
アブラハムには甥のロトとの分離を止む無しとするほどの資産が蓄積された。
アブラハムは、ロトに好きな営業地を選んで良いと言った。
アブラハムは気前よく大きい餅を呉れて遣る。
叩き売りだ。
ロトは厚かましくもヨルダンの低地を選んだ。
その地は牧畜に最適な土地であったが享楽の痴態を憚ることのない風土もあった
ロトに大災難が降りかかかる。
神の怒りがソドムとゴモラの町に降り注いだのだ。
アブラハムは神にとりなしを請う。
正しい人が50人いれば赦してもらえるかで始まり、40人、30人、20人と叩き売りを始め10人に落ち着いた。
気短な神が『持ってけ泥棒』と癇癪を起したのである。
しかし、その10人も怪しかった。
ロトが選んだ土地は炎熱地獄と化した。
這う這うの体(ほうほうのてい)でロトの命は助かったが、
『未練を残して脱出するな』と厳命されたにも拘わらず後ろを振り向いたロトの妻は塩の柱とされてしまった。
ロトは泥棒のように伯父から良い方を選び取ったが、全財産と頼りの妻までを失ってしまった。
ヨルダン川に押し寄せる群衆に、バプテスマのヨハネは悔い改めを叩き売る。
「持ってけ泥棒。持って行けるなら」。
『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。
讃美歌(1) 536 むくいをのぞまで
(1)むくいを望まで 人に与えよ は主のとうとき みむねならずや
水の上に落ちて 流れしたねも いずこの岸にか 生いたつものを
(2)浅きこころもてことをはからず みむねのまにまに ひたすら励め
風に折られしと 見えし若木の おもわぬ木蔭に 人をも宿さん
創世記13章1〜18節
アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった。アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった。アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた。その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。そのころ、その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた。アブラムはロトに言った。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。アブラムはカナン地方に住み、ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。
マタイによる福音書3章9〜10節
『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
2021年10月31日 降誕前第8主日 宗教改革記念日
説教題 『待っても来ないのか』
聖 書 マタイによる福音書 25章1〜13節 新約聖書 (新共同訳)49ページ
ヨハネの黙示録章 4〜9節 新約聖書 (新共同訳)476ページ
讃美歌(1) 384 我こそ十字架の
「君とメシ喰うと不味い」。
友は、中華テーブルの料理をリスやハムスターのように口一杯に頬張る。
その後は、ひたすら咀嚼(そしゃく)する。
「なんぼボクらが丑年でも反芻はないで。なにか面白い話しのひとつでもせんかい」。
返事はない。
喋れるはずがない。
その友を一講時が始まる9時前に階段教室の前で見た。
「概論はじまるで」。
声を掛けたが教室には入らなかった。
五講時まで教室前のベンチに座っていた。
「誰か待ってるんか」。
「彼女」。
友は肩を落としてぼそっと返事をした。
そのような日が三日も続いた。
彼女との待ち合わせを延髄で反芻するかのように友は胸を一杯にして待ち続けた。
期待は裏切られたが、三日続けて彼女を待ち続けた友の片恋は同窓会の伝説となった。
イエスは復活の後、天に昇り、見上げる人たちに再び地上に姿を現して神が支配する千年の王国の始まりを約束した。
その日を学校の行事感覚で表現するなら、入学式から五月の連休までの期間、
長目にみても夏休み前までと信じられた。
この短い期間は信徒の生活に極端なまでの倫理性を求めたが、
それくらいの期間ならマジメに過ごせるだろうとの楽観が伴った。
しかし、イエスは、クリスマスを過ぎ、正月、冬休みとなっても現れることはなかった。
年度が替わる春休みになっても姿を見せなかった。
大東亜戦争に終末を見た信徒たちの前にも現れなかった。
二千年の待ちぼうけである。
信徒の倫理生活に苦痛が伴い始めた。
油の予備がない五人の乙女を『愚かな女』とイエスは切り捨てた。
愚かな乙女を律法学者や祭司に譬えたと推測される。
賢い乙女たちは、イエスの周りに集まるスポイルされた人々とするならこの譬えは痛快である。
神に愛される者とそうでない者をフィフティー・フィフティーとしたことも分かりやすい。
ヨハネの黙示録はもっと分かりやすい。
十人の乙女たちは花嫁の付き添いである。
花婿は花嫁の家に向かう。
行先には厄介な関所が待ち構えている。
迎えに行って連れ帰ると盛大な婚宴が始まるのだが、
花嫁の親族や町内の者たちが難癖をつけて到着を遅らせようとする。
「お前みたいな甲斐性無しに大事な娘はやれん」。
「これで勘弁してくださいよ」。
クサイ俄(にわか)芝居に散々付き合わされ祝儀を渡す。
通せんぼは、延々と続く。
花婿の到着時間は不明だ。
イエスの再び来られる日も”God only knows”である。
来ないのである。来ないイエスを待つのだ。
ガス室の中で『いない神に』祈った民がいた。
神と共にある『究極の生』があった。
その夜、賢い五人の乙女たちは花婿を迎えた。
娘たちは姦(かしま)しくブーケトスに興じる。
イエスは既に我々の日々の生活の中に来ておられる。
通せんぼが二千年も続いているはずがない。
油の予備を用意して花婿を待った5人の乙女を
仕事の模範とすると某キリスト教主義学校の事務長のデスク。
讃美歌(1)384 我こそ十字架の
(1)我こそ十字架の つわものなれ 争(いか)でか恥ずべき イエスの御名を
(2)わが主の軍(いくさ)の さきがけして 血の海こえゆき 友は勝ちぬ
(3)いかでか我のみ 花の床に うましき夢路を 辿るべきか
(4)み旗をかざして いざ戦わん なびかぬ仇なき この御旗を
(5)栄にさかゆる わが主イエスと 世を統べ治むる かちはちかし」
マタイによる福音書25章1〜13節
「そこで、天の国は、十人のおとめがそれぞれ灯を持って、花婿を迎えに出て行くのに似ている。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、灯は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれの灯と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆うとうとして眠ってしまった。真夜中に『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれの灯を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。私たちの灯は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が着いた。用意のできている五人は、花婿と一緒に祝宴の間に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『よく言っておく。私はお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたはその日、その時を知らないのだから。」
ヨハネの黙示録章4〜9節
わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。
2021年10月24日 降誕前第9主日
説教題 『なにをえらそうに』
聖 書 使徒言行15章1〜10節 新約聖書 (新共同訳)242ページ
出エジプト記4章24〜26節 旧約聖書 (新共同訳) 99ページ
讃美歌(1) 讃美歌 503 はるのあした
「不愉快だ!」。
その人は、神学者と称するらしい。
その人は、牧師研修会の講師として招かれたのだが、案内係の牧師の段取りの悪さを何度も詰(なじった)った。
それは、召使の不手際を叱責する主人の不寛容そのものであった。
講師は大きな教会の牧師でもあるらしい。
そんな立派な牧師様が、王のように振る舞うことに戸惑いを覚えた。
講演は、型に嵌(はまっ)た授業のようであた。
無知を矯正するかのような高圧があった。
反発があった。
横着に足を組む牧師。
瞑想居眠りを始める牧師。
メモを取るふりをしながら窓の外の景色をスケッチする牧師。
機械的に頷いて熱心に聞くふりをする牧師。
「私への質問は質問用紙に記入してください」。
「何をえらそうなこと言うとんのや」。
隣席の先輩牧師が聞こえるような声で呟(つぶや)く。
質問を紙に書くというようなことを聞いたことがない。
講演後の質疑応答は、ヨイショと決まっている。
理路整然としたアンチもあるが敬意は払われる。
講師と自分がどれほど親しい旧知の間柄であるかを印象付ける目立ちたがり屋の出番であったりもする。
講演の二部を任された。
『開拓時代におけるアメリカ南部農民の伝承歌の紹介』とタイトルに学問的な箔を付けてギブソンでご機嫌を伺った。
「キシモト、何か面白いことやれ」。
呟き牧師が叫ぶ。
講師は演芸館の楽屋に転がっているようなギターを機嫌悪く一瞥し不手際牧師を案内させて別室へと消えた。
『割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』。
この傲慢が教会を危機に陥れた。
偉そうな何様気取りが教会をカビ臭い地下牢に案内した。
ファリサイ派から信者になった一部の者たちが『割礼』の講釈をし始めた。
割礼無き者は自分たちに従属すべき下位の者であると。
教会は大会議を開催せざるを得なくなった。
アブラハムは99歳にして息子や一族郎党と割礼の痛みに耐えた。
ヨシアも荒野の二世に割礼を施し益荒男(ますらお)とした。
モーセの妻は、自らの手で息子に割礼を施し、
証としてその血をモーセの局部に塗り付け「血の花婿」と叫び主の御意を得た。
割礼とは凄まじい信仰の刻印である。割礼には固有の物語がある。歴史がある。
後日、かの講師の勉強会を覗き見る機会があった。
お追従の弟子たちに取り囲まれたご満悦の頂点に若い牧師が思わぬ一言を放った。
「先生の説教には生活の言葉がありませんね」。
言うか。そこまで。
かの講師はモーツアルトが好きらしい。
モーツアルトのお下劣、通俗の極みを楽しむ者としては甚だ不可解な嗜好だと感じた。
洛南教会創立75周年記念礼拝10月10日
讃美歌(1) 503 はるのあした
(1)はるのあした なつのまひる あさのゆうべ ふゆの夜も
いそしみまく 道のたねの 垂り穂となる 時きたらん
(2)みそらかすむ のどけき日も 木枯らし吹く さむき夜も
いそしみまく 道の種の たりほとなる 時きたらん
(3)憂きつらさも 身にいとわで みちのために 種をまけ
ついに実る そのたりほ 神は愛でて みそなわさん
繰り返し かりいるる、時はちかし 喜びまて そのたりほ
かりいるる 日はちかし 喜びまて そのたりほ
使徒言行15章1〜10節
ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。
出エジプト記4章24〜26節
途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、「わたしにとって、あなたは血の花婿です」と叫んだので、主は彼を放された。彼女は、そのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。
2021年10月17日 聖霊降臨節第22主日礼拝
説教題 『そこまでせんでもええやろ』
聖 書 マタイによる福音書 25章14〜30節 新約聖書 (新共同訳)49ページ
創世記 3章11節 旧約聖書 (新共同訳) 4ページ
讃美歌(21) 515 きみのたまものと
「それを、仕事に活かしなはれ」。
「ノウあるタカはヘソ隠すちゅうやろ」。
「それも言うなら爪や」。
「へー、そお」。
「ヘソの洒落かいな」。
休憩室が笑いの渦に包まれる。
野本班長ことノモやんは、器用にサクランボの茎を口の中で結んだ。
「それできるもんはキッスも上手やてな」。
初心(うぶ)なノモやんの顔は耳まで真っ赤に染まる。
パートのおばちゃんたちの追及は激しさを増した。
イエスは天の国を金儲けの世界にたとえる。
カネの話は分かりやすい。
少なくとも、イエスの周りに集まる人たちの理解度に無理がない。
見たこともなければ、手にしたこともない大金の話にビンボウ人たちの聴力が増幅する。
イエスは、天の国を浮世離れさせない。
使用人たちに託されたタラントンを徳や功に擬(なぞら)えたりもしない。
五タラントンを元手にして十タラントンを、二タラントンも同じくして二タラントンを稼ぎ出した使用人たちを主人は褒めた。
しかし、主人は奇妙なことに、
使用人たちの命懸けの大金の管理を等しく『僅かなものに忠実であった』と評定する。
耳蛸鼻高解説を参考にすると労働者の平均日当1デナリオンの6000倍が1タラントンであるらしい。
相当な大金なのに使用人に託したカネを僅かなものと言う。
この主人は相当な資産家であると同時に見上げた成功者である。
ところが主人は、資産を運用をしなかったと言う理由で一タラントンを預けた使用人を完膚なきまで叩きのめした。
芸能人をタレントと呼んで久しい。
タラントンは、通貨の単位だけではなく才能や能力も意味する。
ビンボウ人たちは、一タラントンを土中に隠した使用人の小心を叱る主人を理不尽と感じなかった。
イエスの話にビンボウ人たちの溜飲が下がった。
なぜだろうか。
一タラントンを託された使用人とは、イエスの周りに集まる人々を日々苦しめる既得権益者たちと直感されたに違いない。
ローマ帝国の走狗(そうく)である貴族や政治家、
律法を私物化した慢慢的(マンマンデー)の祭司や学者たちを
神に成り代わった主人が『怠け者』呼ばわりしたことに胸のつかえが下りたのである。
禁じられた園の果実を食べた人間の丸裸が嘲弄されたのである。
容赦がない。
『そこまでせん。でも、ええやろ』。
タオルを投げる者もいない。
ノモやんが天寿を全うした。
ノモやんは、生涯その爪をむき出しにすることはなかった。
キッスの下手なノモやんからもっとキッスの下手なパウロの言葉を言付かった。
写真と本文は全く関係ありません。
『きよい接吻をもって、互に挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会から、あなたがたによろしく』
ローマ人への手紙16:16 (口語訳)
讃美歌(21) 515 きみのたまものと
(1)きみのたまものと 若いちからを 神のみ名のため すべて用いよ
主イェスはさきだち すすみゆかれる ためらわずに行け 後につづいて
(3)どんなよいわざも キリスト・イェスの 十字架の愛には くらべられない
きみの罪とがを すべてゆるして あがないのわざを 主はなしとげた
(繰返し)きみのたまものと 若いちからを 主のわざのために すべてささげよ
マタイによる福音書25章14〜30節
「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
創世記3章11節
神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
2021年10月10日 聖霊降臨節第21主日礼拝
説教題 『皆、今日も生きている』
聖 書 申命記 4章1〜8節 旧約聖書 (新共同訳)285ページ
コリントの信徒への手紙一 3章7〜16節 新約聖書 (新共同訳)302ページ
讃美歌(21) 348神の息よ
「天国良いとこ一度はおいで。酒は旨いし、ネエちゃんは綺麗だ。ワー、ワー、ワー」。
テープを早回したサビがヒットした。
歌の主人公は天国でも持て余し者となり追放されて現世に戻って来る。
朝から晩までラジオから奇妙な歌声が流れていた。
フォークソングが流行した時代のナンセンスソングであるが、
歌い手グループの中にクリスチャンがいることを少なからずの人が知っていた。
荒野の40年は、約束の地を目前にフィナーレを飾ろうとしていたが、
モーセの鉄の掟を他所眼に一部の若者たちが異教の世界の綺麗どころに目が眩み、
乱痴気の限りを尽くした。
神の怒りは凄まじく、その者たちを殲滅したばかりか疫病の罰まで加えたのである。
乱行の地、バアル・ぺオルは、主の民に強く記憶された。
しかし、その『天国・極楽』へ行かなかった者たちは神の慈しみを受けた。
生きることを許されたのである。
宗教における普遍的な原理主義思想を垣間見るのだが、
神の性格を強く輪郭するデフォルメと受け取りたい。
この性格は、まさに、旧約の神が、
自らを『妬む神』と宣しているように一切の物的恩恵を受けない荒野の中にこそ人と神との対等性があることを言わんとしている。
モーセは言う。「今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。
そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう」。
モーセは約束の地に入ることを許されなかった。
だからこそ、約束の地に生きることの勿体なさ、在り難さを強く訴えた。
夜の盛り場の女神を求めてふらついてはならないのである。
約束の地、ヨルダン川を目前にしてなお、民の意識は想像以上に低かったのである。
エジプトからカナンの地まで40年の歳月が求められた。
本来、10日ほどで到達する距離である。
40年(14600日)を10日で割れば、1460となる。
人が普通にすることを1460倍もの時間が必要だと言うことになる。
少し伝統のある教会の歩みが100年としても、まだまだ25日の歩みでしかない。
一ヶ月にも満たない。しかし、その緩慢こそが、ひとりひとりが神の宮であることの証ではないだろうか。
洛南教会創立記念礼拝
昭和6年4月3日 洛南基督教団設立(日本キリスト教団・洛南教会)
「選民イスラエルが、神の導きによってエジプトを脱出し、
約束の地カナンに到着するのに40年の歳月を要したと旧約聖書は語り伝えます。
私達の洛南教会も献堂より40年の歴史を歩み来たりました。」
(写真で見る40年 1989年10月1日発行編集後記より抜粋)
讃美歌(21) 348 神の息よ
(1)神の息よ われに吹きて あらたなるものに つくりかえよ
(2)神の息よ われをきよめ きよき主と共に ゆかせたまえ
(3)神の息よ われをもちい 聖霊のわざに もえたたせよ
(4)神の息よ われを生かし つねに主のものと ならせたまえ
申命記4章1〜8節
イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。あなたたちは、主がバアル・ペオルでなさったことをその目で見たではないか。あなたの神、主はペオルのバアルに従った者をすべてあなたの間から滅ぼされたが、あなたたちの神、主につき従ったあなたたちは皆、今日も生きている。見よ、わたしがわたしの神、主から命じられたとおり、あなたたちに掟と法を教えたのは、あなたたちがこれから入って行って得る土地でそれを行うためである。あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」と言うであろう。いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。
コリントの信徒への手紙一3章7〜16節
わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
2021年10月3日 聖霊降臨節第20主日礼拝
説教題 『娼館のマコト』
聖 書 ヨシュア記 6章1〜16節 旧約聖書(新共同訳)346ページ
ヘブライ人への手紙 11章12〜13節 新約聖書 (新共同訳)415ページ
讃美歌(21) 375 賜物と歌を 世界聖餐日を覚えて
「あんただけに教えたろか」。
銭湯へ行くと必ず顔見知りの散髪屋のオヤジと顔を合わせる。
「ワシはな、父親と後妻の母親に折り合い悪うてな。十八の時、家飛び出したったんや。
それでな、あんたに言うても分からんやろけど、満州国建国(ママ)やちゅうんで大陸へ渡ったんや。
もうちょっと聞きたいか」。
「ええ、聞きたいです」。
散髪屋のオヤジは、その腕を買われて一流の理髪店に雇ってもらったらしい。
ある日、客の喉元に剃刀を当てながら気が付いた。
どこかで見たことのある顔だった。
「甘粕さんですね」。
客は頷いた。
「つまり、その店は、その筋の諜報活動の拠点やったんやな。どや、面白いやろ」。
モーセは約束の地を見ることなく痛恨の記憶と共に120年の生涯を閉じる。
モーセの放った斥候の情報に民の心が萎えてしまった。
立ちはだかる敵に怖気づいてしまったのである。
戦意を失った民に神は40年に及ぶ荒野の試練を与えた。
モーセの後継者ヨシュアはその轍を踏まなかった。
荒野の40年が人を育てたのである。
ヨルダン川を渡ると強大な城壁の町エリコがあった。
ヨシュアも斥候を放った。
二人の斥候は、娼館の客となり、遊女ラハブの協力を得る。
このラハブは、クリスマス説教の定番、キリストの系図にその名を留めるダビデの高祖父サルモンの妻である。
遊女ラハブは、ヨシュアの斥候をナチスからレジスタンスを匿(かくま)うかのような活躍をする。
極めつけは、一個師団の戦力にも匹敵する情報だった。
エリコの町は見掛け倒し、戦闘能力と士気を失っていると。
ヨシュアは、契約の箱と祭司を先導させ、兵士たちにエリコの町を包囲する命令を下す。
先ず六日間、祭司の角笛に合わせて軍靴と軍装の音を轟かせながら町を一周する。
民もゾロゾロとその後に続く。
無言を命じた。
七日目になった。
六周目まで無言を命じた。
七周目、七人の祭司が一斉に角笛を吹き鳴らすと同時に『鬨(とき)の声』が命じられた。
エリコの町は、陥落した。
富士川の戦いさながらである。
水鳥の羽音を敵の襲来と勘違して逃走した平氏の敗北を彷彿とさせる。
乳と蜜の流れる約束の地への突破口が開かれた。
娼館に嘘偽りの無い情報があった。
『遊女は客に惚れたと言い、客は遊女にまた来ると言う』。
浪花節バイエルの一番だが、遠山の金さんが湯屋の二階で得る情報にも似たマコトがあった。
玩具の角笛を改良した。吹き口は、バグパイプ系であると推察した。
エリコの町攻略の際、角笛は、長音・三連-4拍休・短音連続を使い分けたと思われる。
三連-4拍休はトルコの軍楽隊に同じく行進に、長音は戦闘開始合図、短音連続は突撃命令であったと推測される。
(勝手な解釈をお許しください)
讃美歌(21) 375 賜物と歌を 世界聖餐日を覚えて
(1)賜物と歌を 主の前にささげ よろこびのまつり 共に祝おうよ
復活の主が分けられた パンを今、食べよう
(2)主のもとに集う わたしたちひとつ 食卓に招く 主においてひとつ
復活の主注がれた さかずき味わおう
ヨシュア記6章1〜7節
エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、だれも出入りすることはできなかった。そのとき、主はヨシュアに言われた。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」ヌンの子ヨシュアは、まず祭司たちを呼び集め、「契約の箱を担げ。七人は、各自雄羊の角笛を携えて主の箱を先導せよ」と命じ、次に民に向かって、「進め。町の周りを回れ。武装兵は主の箱の前を行け」と命じた。ヨシュアが民に命じ終わると、七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の前を行き、主の契約の箱はその後を進んだ。武装兵は、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前衛として進み、また後衛として神の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。ヨシュアは、その他の民に対しては、「わたしが鬨の声をあげよと命じる日までは、叫んではならない。声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならない。あなたたちは、その後で鬨の声をあげるのだ」と命じた。彼はこうして、主の箱を担いで町を回らせ、一周させた。その後、彼らは宿営に戻り、そこで夜を過ごした。翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱を担ぎ、七人の祭司はそれぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の箱の前を進んだ。武装兵は、更にその前衛として進み、また後衛として主の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。彼らは二日目も、町を一度回って宿営に戻った。同じことを、彼らは六日間繰り返したが、七日目は朝早く、夜明けとともに起き、同じようにして町を七度回った。町を七度回ったのはこの日だけであった。七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。「鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。
ヘブライ人への手紙11章12〜13節
それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。
2021年9月26日 聖霊降臨節第19主日礼拝
説教題 『あなたたちより先に』
聖 書 マタイによる福音書20章1〜16節 新約聖書 (新共同訳)38ページ
列王記下 19章 14〜17節 旧約聖書 (新共同訳)612ページ
讃美歌(1) 298 やすかれわがこころよ
「よう来たな、ま、あがれや」。
「こら!おまえ!センセに何ちゅう口きいとる」。
「いいんですよ。ボクたち友だちですから」。
教会員宅を訪問した。若夫婦を訪ねたのではない。
来春から幼稚園に行く息子に会いたかったのである。
彼とは芋畑で出会った。
一輪車に3台分のサツマイモを掘った。大はしゃぎだった。
一反の畑を独占したのである。
疲れたと言うので小屋で休んだ。
父母は、よちよち歩きの妹と畑にいる。
その光景が我慢ならない様子だ。
まだまだ親に甘えていたい年齢の子どもに妹や弟が出来た時の典型的な反応である。
微笑ましかった。
「きゅうけいしたから、もういちど、お芋ほりにいこう」。
「いえ、ボクは、けっして、けっして、一生、お芋は、ほりません!」。
その時、ふたりは、友だちになった。
彼の気持ちがなぜか良く理解できたのである。
ふたりは、意気投合して脈絡のないエンドレスな会話を楽しんだ。
「そうか、一生、お芋ほらへんのか」。
「うん、そうや、一生ほらへん」。
この兄と妹に思春期を迎える時が来るだろう。
三歳年下の妹が、台所で母親と何気ない会話を交わしている十年先が目に浮かぶ。
「お兄ちゃんは、まだ子どもやわ。お母さん」。
『このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる(20:16)』。
きり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう(21:38)
』。
ぶどう園の働き人の譬えは良く知られている。
朝一番に汗水を流して炎天下にぶどうを摘んだ者も、
わずかな時間そこに居ただけと言える者にも一日分の手当が等しく支払われた。
牧師にはラッキーな聖書箇所である。
説教が作り易い。
朝一の労働者をエリート宗教を自負するユダヤ教に擬え、
小さな群れとしての未熟な初期キリスト教を対比させて
教会の明日を希望なきものとする頑迷な旧体制を皮肉る説教が瞬時に出来上がる。
僅か数年、数か月の信仰歴の差による信徒間の軋轢を調整する説教も
アドリブに任せて好き放題に語ることが出来る。
第三の帝国が行き詰った
他国や特定の民族を蹂躙。自国民をも危機に晒し、自らは身勝手にも安全な地下壕で愛人との心中を図る。
その男は、死の直前、結婚式を挙げた。
「あなたは、アーリア民族ですか」。
「ヤッ。(ドイツ語で『はい』)」。しわがれた低い声だ。
係官は続けて聞く。「規則により、証明書を」。
「無礼者!」。側近が恫喝する。
出生は疑問視されていた。
それゆえに、この男は、早朝からぶどう園で働いた者の正当性に拘り、
その屈折を世界に向けて喚き散らしたのであった。
讃美歌(1) 298 やすかれわがこころよ
(1) やすかれ わがこころよ 主イエスはともにいます いたみも苦しみをも
おおしく忍び耐えよ 主イエスのともにませば たええぬ悩みはなし
(2)やすかれ わがこころよ なみかぜ猛るときも 父なるあまつかみの
みむねに委ねまつれ み手もてみちびきたもう のぞみの岸はちかし
(3)やすかれ わがこころよ 月日のうつろいなき み国はやがてきたらん
うれいは永久に消えて かがやくみ顔あおぐ いのちのさちをぞ受けん
マタイによる福音書20章1〜16節
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
列王記下 19章 14〜17節
ヒゼキヤはこの手紙を使いの者の手から受け取って読むと、主の神殿に上った。ヒゼキヤはそれを主の前に広げ、主の前で祈って言った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたが天と地をお造りになったのです。主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いて見てください。生ける神を罵るために送ってよこしたセンナケリブの言葉を聞いてください。
2021年9月19日 聖霊降臨節第18主日礼拝
説教題 『休ませてください』
聖 書 出エジプト記 20章8〜11節 旧約聖書 (新共同訳)126ページ
ヨハネによる福音書 5章5〜17節 新約聖書 (新共同訳)171ページ
讃美歌(1) 271 いさおなきわれを
「ドーやん! コンベヤー止めるんや!」。ドーやんとは、同志社の学生のことである。
「ボンボンがこんなとこでアルバイトかいな」。
パン工場の夜勤である。
夜の八時から明け方の五時まで働いた。
学生生活が二週間で行き詰った。『人はパンのみによって生くるにあらず』。
働くならパン屋だ。
パンを作ったのではない。
販売店ごとに仕分けたパンを車に積み込みドライバーに渡す。
夜勤者たちは自らを世間様の陰にいる者だと言い、それ以上を語らなかった。
猛烈なスピードでパンを仕分ける。木箱に詰めたパンを2トン車50台に積み込めば口も利けない。
誰かが倒れた。コンベヤーのスイッチなどどこにあるか分からない。
コンベヤーの上に身を投げ出して止めた。「ドーやん、ようやった」。
倒れた男は普通の会社員らしい。
身内の借金を背負っていた。
華奢な体つきであった。
夜勤者たちは、夜間の管理が班長さん一人を良いことにコンベヤーのスピードを上げた。
早く終われば花札の楽しみがある。
野卑な言葉を喚(わめき)き散らしながら作業に景気を付けた。
勝新太郎の映画『兵隊やくざ』のシーンさながらだ。
規律の緩んだ最前線の兵隊と言ったところだ。
倒れた男は、寝ていないと言う。
二年ほど休みを取ったことがないと言う。
ふらふらと立ち上がった。
「ワシら調子に乗り過ぎとったな」。
「悪い事したな」。
「堪忍やで」。
「すまんかったな」。
クレープシャツの袖から彫り物がチラチラする男がその場を仕切った。
ドーやんは、コンベヤーの上のパン箱に挟まったままだ。
アウエイの成功者ヨセフの顔で、神の民は寄留の場を得た。
ヤコブの一族は七十人に満たない心細い集団であったが四百年後にはその数を六百万人近くに増やした。
ヨセフの死後、王が変わり、看過出来ない不穏勢力と見なされ民は奴隷となったが、
その時には約束の地への移動を十分に可能とする力を蓄えていた。
神は、エジプトを脱出し荒野を彷徨う民を導いた。
神はその指をもって民との契約を石の板に刻んだ。
契約の対等性が問われる事はなかった。
主の民は、もはや、疲労困憊して倒れることはない。
安息の日を定めた神は、コンベヤーの前に崩れ落ちた夜勤者の事情を余りにも哀れとしたのである。
三十八年も病苦に苦しんだ男に向かって
イエスは、「床を取り上げて、それを担いで歩け」と言った。
石の板の契約を笠に着たエライ学者たちが、悪意をもってその行為を責める。
床を担ぐのは安息日の規定に反する『労働行為』だと非難する。
預言者ハバククは、『その幻を走りながらでも読める木の板に書き記せ』と檄する。
砂漠の民に与えられた十の戒めを、イエスも石の板から運用軽便な木の板に書き写した。
イエスの福音は、高スペックのモバイルノートなのである。
hyoichiネコ一休み
讃美歌(1) 271 いさおなきわれを
(1)勲(いさお)なき我を 血をもて贖(あがな)い イェス招き給う み許(もと)に我ゆく
(2)罪科(つみとが)の汚(けが)れ 洗うに由(よし)なし イェス清め給う み許に我ゆく
(3)疑いの波も 恐れの嵐もイェス鎮め給う み許に我ゆく
(4)心の痛手に 悩めるこの身をイェス癒(いや)し給う み許に我ゆく
(5)頼りゆく者に 救いと命をイェス誓い給う み許に我ゆく
(6)勲なき我を かくまで憐れみイェス愛し給う み許に我ゆく
出エジプト記20章8〜11節
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
ヨハネによる福音書5章5〜17節
さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
2021年9月12日 聖霊降臨節第17主日礼拝
説教題 『筋道が曲げられる』
聖 書 創世記 45章1〜8節 旧約聖書 (新共同訳)81ページ
詩 編 15編 1節 新約聖書 (新共同訳)845ページ
讃美歌(1) 398 わがなみだわれをひたして
「キシモト君、今から実習に行きましょうね」。ルームシェアの先輩が誘う。
「神学生とは、寄席で勉強するものだからね」。
先輩は落語の人情噺を好んだ。
「キシモト君、あの語りとストーリー展開を勉強しなさい。
自分が泣いちゃいけない。客を泣かせるのサ」。
先輩は後に、スベリ芸の見本のような説教者となった。
先輩は、舞台を走り回る漫才やイロモノと呼ばれる楽器入りの芸を格が低いと決めつけ興味を示さなかった。
その科目の未履修が退屈な説教の原因となったことに今も気付いていない。
度の強い眼鏡をかけた老人が、箒(ほうき)の柄にバイオリンや横笛を仕込み、
穴に棒を立てて皿を回す。
指笛を『ぴゆーっ・うぅーうぅー』と篠笛に似せて吹き、鍋や釜を擂粉木(すりこぎ)で叩く。
古典芸能のパロディーを長男、次男が真剣な表情で演じる。
客席が沸く。
小道具が飛び散って客が我を忘れて手を打つ。
「先輩、これを教会でやらんとあかんのと違いますか」。
「何を馬鹿なことを言ってんだ!」。
このイロモノ漫才を仕切るのがグループの長男である。
愚かな長男を演じる。
阿呆な長男を次男や三男が窮地に追い込む。
逃げ場の無くなった長男はベートーベンの運命を西洋ノコギリで見事に演奏して客を味方につける。
砂漠の民の相続は長男に限ることはなく指定された者が特権に与った。
その者には他の兄弟の二倍が相続された。
五人の兄弟が一億二千万を相続するとすれば、四人が一千万づつ、八千万円を一人が受け取る勘定となる。
ヤコブにはへブル人の祖となる十二人の息子がいた。
十二部族の祖である。
第一夫人の長男ルベンは父ヤコブの側女の寝所を汚したため信用はゼロであった。
長男と残り九人の息子たちは使用人扱いだった。
第二夫人で恋女房の長男ヨセフは序列的には十一男であったが、一番のお気に入りであった。
ヨセフは兄の嫉妬を買いあわや殺害されそうになったが異国の地で王に次ぐ権力の座に上り詰めた。
エジプトの高位神官の婿となり、二人の息子を儲けた。
長男には過去を忘れる意味を込めてマナセ(忘却)、次男にはエフライム(繁栄)と名付けた。
ヨセフには夢解きの能力があった。
その力を狡賢く使って王家の中枢を操作したのである。
ヨセフが宰相であった時、世界が大飢饉に苦しんだ。
実の弟が宰相であることを夢にも思わない兄たちは食料を求めてエジプトへやって来た。
時の流れが親族の確執を溶解した。
父ヤコブの狡賢な性格を引き継いだヨセフは幼い頃の夢解きの通り兄たちの上に立った。
しかし、思い通りにならなかったことがあった。
ヨセフの思惑に反して父ヤコブは、ヨセフの次男、エフライムを祝福した。
血の順列ではなく、性格や資質が継承されたのである。
『後のものが先になる』筋道が曲げられることは無かった。
愚兄賢弟
讃美歌(1) 398 わがなみだ われをひたして
(1)わがなみだ われをひたして たえがたき なやみの夜を
(2)生きの身の われのいだきし のぞみみな 今はついえぬ
(3)みめぐみと 知りてはあれど このなやみ 今は耐ええず
(4)主によりて つよくおおしく なやみにも かたしめたまえ
(繰返し)ひたすらに 主を呼びまつる わが声に答えたまえ わが主よ
創世記45章1〜15節
ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。そこでのお世話は、わたしがお引き受けいたします。まだ五年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、そのほかすべてのものも、困ることのないようになさらなければいけません。』さあ、お兄さんたちも、弟のベニヤミンも、自分の目で見てください。ほかならぬわたしがあなたたちに言っているのです。エジプトでわたしが受けているすべての栄誉と、あなたたちが見たすべてのことを父上に話してください。そして、急いで父上をここへ連れて来てください。」ヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。
詩編15編1節
主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り聖なる山に住むことができるのでしょうか。
2021年9月5日 聖霊降臨節第16主日礼拝
説教題 『仕方がないのか』
聖 書 マタイによる福音書18章10〜14節 新約聖書 (新共同訳)35ページ
エゼキエル書37章15〜23節 旧約聖書 (新共同訳)1358ページ
讃美歌(1) 512 わがたましいのしたいまつる
「実は、ヨメがおるんですわ」。真っ黒な鼻先が特徴の野良猫が言う。
玄関に餌を置いて一週間になる。
物陰に小さな猫が見え隠れする。
「仕方がない。飼ってやるか」。
娘たちは大喜びだ。
ヨメ猫が来たのが日曜日だったのでサンデーのサンから『サンちゃん』と名付けた。
オス猫は、『ハナグロ』と決まった。
去勢を友人の獣医に頼んだ。
「お腹に四匹いるけど処置しておきます」。
「ダメ、ダメ、ダメ、ぜったいダメ」。
三歳の娘が激しく抵抗した。
翌日の明け方から夕方まで、妻は助産師になった。
若いメスは自力で生むことが出来なかったのである。
オス三匹にメス一匹、それぞれの特徴に合わせた名前がついた。
人間は、その日から猫の家の居候となった。
一週間後、サンちゃんが姿を消した。
どうやら、この猫夫婦は歳の差があり、退屈なジジイ猫であるハナグロ旦那は、
遊び足りない若いサンちゃんに逃げられてしまったらしい。
それでも、サンちゃんは仔猫たちのことが気になるのか三カ月に一度は家の様子を見に来た。
仔猫たちはすぐ大人になった。
風来坊のチビは某女子大学のキャンパス報に掲載されることもあった。
ワンポは滅多に外出をしなかった。
夫婦の会話が途切れると猫の話題でお茶を濁した。
「今日、マーブルはどうしてたかな」。
「ハナちゃんは近所のおばあさんの話相手してたよ」。
猫たちは年齢の順に死を迎えた。
猫は家では死なないと言うが、
近くに雑木林があったので亡骸は綺麗な状態で見つけることが出来た。
手厚く葬った。
氷雨のある日、夜遅く所用から戻ると、もう帰ってこないと思っていたサンちゃんが、
家の前でボロ雑巾のようになって死に絶えていた。
若夫人の面影は微塵もなかった。
その目は、家族への詫びを訴えているかのようであった。
『人の子は、失われたものを救うために来た』。
この言葉の後、イエスは、九十九匹を残して一匹の迷い羊を捜しに行くことを当然のように語る。
聞き手を惑わすかのようだ。
ある女性信徒が失踪した。
家族の絆を不慮の出来事によってもぎ取られた心の傷が癒えていなかった。
隣町の牧師と捜し回った。
嵐電の最終が目の前を過ぎて行く。車輪の軋む音の中で、
自分でも意味の分からないことを言った。「もう、あの子は、死んでいるよ」。
「先生!その言葉は、酷すぎるじゃありませんか!」。
「すでに、死んどるから、ボクたちは、捜しとるんやないか」。
『失われたもの』をイエスは『滅ぶ』とも言う。
腐乱して、悪臭を発し、白骨化してゆく。見る影もない。
たとえ、羊が死んでいたとしても、九十九匹を残して捜しに行けとイエスは言う。
そんな当たり前のことも分からないのかと、イエスは畳み掛ける。
失われた信徒、失われた牧師、失われた教会が、たとえ、すでに死んでいるにしても。
讃美歌(1) 512 わがたましいのしたいまつる
(1)わが魂の したいまつる イエス君のうるわしきよ あしたの星か 谷のゆりか
なにになぞらえて歌わん 悩めるときの わがなぐさめ さびしき日もわがとも
(2)身の煩いも 世の憂いも 我と共に分かちつつ いざなうものの 深きたくみ 破りたもううれしさよ
ひとは棄つれど きみはすてず み恵みはいやまさらん
(繰り返し) きみは谷のゆり あしたの星 うつし世にたぐいもなし
マタイによる福音書18章10〜14節
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。人の子は、失われたものを救うために来た。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
エゼキエル書37章15〜23節
主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に『ユダおよびそれと結ばれたイスラエルの子らのために』と書き記しなさい。また、別の木をとり、その上には『エフライムの木であるヨセフおよびそれと結ばれたイスラエルの全家のために』と書き記しなさい。それらを互いに近づけて一本の木としなさい。それらはあなたの手の中で一つとなる。あなたの民の子らがあなたに向かって、『これらはあなたにとって何を意味するのか告げてくれないか』と言うとき、彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはエフライムの手の中にあるヨセフの木、およびそれと結ばれたイスラエルの諸部族を取り、それをユダの木につないで一本の木とする。それらはわたしの手の中で一つとなる。あなたがその上に書き記した木は、彼らの目の前であなたの手にある。そこで、彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の中から取り、周囲から集め、彼らの土地に連れて行く。わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国となることなく、二度と二つの王国に分かれることはない。彼らは二度と彼らの偶像や憎むべきもの、もろもろの背きによって汚されることはない。わたしは、彼らが過ちを犯したすべての背信から彼らを救い清める。そして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
2021年8月29日 聖霊降臨節第15主日礼拝
説教題 『全員野球』
聖 書 マタイによる福音書13章43〜58節 新約聖書 (新共同訳)26ページ
詩 編 104編31〜35節 旧約聖書 (新共同訳)942ページ
讃美歌(1) 522 みちにゆきくれし
「全員野球で教会に命を取り戻しましょう」。
「なんでも言おう会を定期的に開きましょう」。
「こんど来やはった牧師さんはええ牧師や。みんなでやって行こう言うたはるで」。
「ほんまや、なんでも勝手に決めてしまう前の牧師とはえらい違いや」。
大学の人文系准教授のその牧師には謝儀を弾まずに済むらしく教会員の心は踊った。
大学の講義のような礼拝が始まった。
「うちの先生は、大学の先生やもんな」。
教会員は、退屈な牧師の説教を自慢し、喜んだ。
二ヶ月が過ぎ、三ヶ月が過ぎ、半年を超えた頃、首を傾げる信徒が現れ始めた。
「そういえば、一度も、うちの家に寄ってくれはったことないな」。
「前の牧師さんは、私らでも滅多に行かへん家をよう訪ねたはったな」。
「今にして思うに、何ちゅうても、前の牧師さんは、説教が分かりようて、何ちゅうても、短いのが良かったな」。
「納得できんかったんは、お地蔵さんとお祭りのことを有耶無耶をしやはったことやったかな。
あれは、理解できんかったな」。
「いや、わしは、そうは思わんかったで」。
クリスマスが近づいた。役員会が拡大され全員が準備会に参加した。
子どもたちも参加する大人とのミックス礼拝を前提に提案が飛び交った。
朗読ボランティアの信徒と定年後、自作の移動紙芝居に打ち込んでいる信徒の二人は堂々のエントリー。
さらに、シニア聖歌隊と最近結成したばかりの若夫人たちのゴスペルが火花を散らし合う。
さらに、役員の中学生の息子はバンド仲間に出演を約束してしまったらしい。
蜂の巣を突いた準備会となったが、だれも提案が却下されるとは夢にも思わなかった。
「去年と同じことはしません」。その一言だった。
全員野球を問い直す信徒はいなかった。
いつもの退屈授業の延長のようなクリスマスメッセージだった。
キリストの系図をアブラハムとダビデだけに焦点を当てた。
遊女や異邦人の女性がキリストの系図に組み込まれている部分はカットされた。
畑の中の宝、高価な真珠は単数形になっている。
この世に二つとないのである。
それを『あなた』に見立てたイエスが、『あなた』のために自らの尊い命を投げ出したとマタイは記す。
教会と信徒の関係をイメージしていることは明白だ。
信徒は牧師の宝物である。
牧師のキャリアを充たすための駒ではない。
前任牧師は全員野球のルールで礼拝堂にドラムセットやアンプを許したのではなく、
教会の未来の宝をキープするための専決事項としたのである。
地蔵盆やお祭りは専決事項の範囲ではなかったのである。
無花果への手厳しいイエスのコメントをお忘れか。
讃美歌(1) 522 みちにゆきくれし
(1)道に行き暮れし 旅人よ 仰ぎ 恵みのみ神の 御言葉を聴けや
(2)悲しむみ民よ おじまどう友よ 心をしずめて み力に頼れ
(3)重荷にたええで 悩める世人よ 望みの光を 仰ぎて待てかし
(4)父なるみ神に 涙をぬぐわれ 憩いて楽しむ あしたはまじかし
(繰返し)憂いの雨は 夜の間に晴れて 尽きせぬ喜び 朝日と輝かん
マタイによる福音書13章43〜58節
そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。
詩編104編31〜35節
どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。主が地を見渡されれば地は震え、山に触れられれば山は煙を上げる。命ある限り、わたしは主に向かって歌い、長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ、主に逆らう者がもはや跡を絶つように。わたしの魂よ、主をたたえよ。
2021年8月22日 聖霊降臨節第14主日礼拝
説教題 『歩哨あるいは防人』
聖 書 ハバクク書2章1〜4節 3章1〜6節 旧約聖書 (新共同訳)1467,8ページ
ローマの信徒への手紙8章18〜節 新約聖書 (新共同訳)284ページ
讃美歌(1) 321 わが主イエスよひたすら
「ぼんの名前は、勇ましいのう。兵隊の一番かいな」。
地蔵盆の提灯(ちやうちん)に、黒々と太く『へふいち』の筆が走る。
『ひやういち』と表記されることは知っていたが、
蝶々が『てふてふ』ならば、『へふいち』もあるのかと納得した。
「尋常小学校のあと、学校ちゅうとこへ行っとらん。ぼんが習うとるようには書けへんわ」。
世話役のおっちゃんたちは肩を叩き合い屈託なく笑った。
おっちゃんたちは、子どもたちの茣蓙(ござ)に闖入して来た。
ラッパを下げているおっちゃんがいる。
突然、進軍ラッパを吹き始めた。
正露丸のラッパである。
子どもたちは驚いたが、楽しい気持ちになった。
酒気を帯びていたかも知れないもうひとりのおっちゃんは、
軍のトラックの板バネで蛮刀を作ったと言う。
実話とも法螺とも区別のつかない血なまぐさい話しが次々とおっちゃんたちの口から繰り出された。
それは、地蔵盆に付き物の町内の名人と言われる人の怪談話を凌駕した。
おっちゃんたちは、軍隊とか兵隊と言う言葉をしきりにハッシュタグした。
子どもたちの茣蓙パーティーから数歩のところが自宅だった。
早速、父におっちゃんたちの話をした。
「ボク、兵隊の一番や言われたで」。
病床の父は、静かに諭すように言った。
「お前の名前は、歩哨((ほしょう)、つまり、孤独な警備兵という意味や。万葉集にあるサキモリ(防人)のことや」。
社会から一線を画していた父は、町内のおっちゃんたちのようには戦争を語らなかった。
いや、何も語らなかった。
『わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、
神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう(ハバクク2:1)』
ハバククは、神の本音が知りたかった。
カルデア人、すなわち大国バビロニアが、神に代わって不信仰の民を罰するのは、
神の本心か。同時代人の預言者のエレミヤは、確信をもって、神の心に裏はないと納得した。
その通りの言葉を民に告げ憲兵隊本部に連行された。
ハバククは、それでは余りに悔し過ぎると、一兵卒として、最前線の歩哨、
格好良い表現を借りれば、ロンリー・ソルジャーを志願する。
神からの回答、幻は、直ちに軽い板(スマホのメール)の上に受信された。
不信の民をバビロニアの手に渡すが、そのバビロニアも神の手によって裁かれると。
ハバククは竪琴を胸に抱き、懐かしのエレジー(シグヨノトの調べ)に合わせて祈る。
件名と宛先を確認し、震える手で一斉送信ボタンを押した。
ハバククの名は、『腕組みをする』の意味を持つ。
為す術がなく苦悶するという意味である。
孤高のハバククの苦しみに、神は答えた。
父もあの時、十歳の息子を前に腕組みをしていた。
讃美歌(1) 321 わが主イエスよひたすら
(1) わが主イエスよ ひたすら 祈り求む 愛をば 増させ給え
(2) 世の安きと 楽しみ 求めたりし 身なれど 今は願う
(3)来(きた)れ来れ 苦しみ 憂(う)き悩みも 厭(いと)わじ 勇み歌わん
(4)いまわの息(いき) かすかに残る時も 愛をば 増させ給え
(繰り返し) 主を愛する 愛をば 愛をば
ハバクク書2章1〜4節
わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。定められた時のために。もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
ハバクク書3章1〜6節
預言者ハバククの祈り。
シグヨノトの調べに合わせて。
主よ、あなたの名声をわたしは聞きました。主よ、わたしはあなたの御業に畏れを抱きます。数年のうちにも、それを生き返らせ、数年のうちにも、それを示してください。怒りのうちにも、憐れみを忘れないでください。神はテマンから、聖なる方はパランの山から来られる。その威厳は天を覆い、威光は地に満ちる。威光の輝きは日の光のようであり、そのきらめきは御手から射し出でる。御力はその中に隠されている。疫病は御前に行き、熱病は御足に従う。主は立って、大地を測り、見渡して、国々を駆り立てられる。とこしえの山々は砕かれ、永遠の丘は沈む。しかし、主の道は永遠に変わらない。
ローマの信徒への手紙8章18〜20節
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
2021年8月15日 聖霊降臨節第13主日礼拝
説教題 『Oh! Bon! だよ』
聖 書 マタイによる福音書12章41〜50節 新約聖書 (新共同訳)23ページ
ヨブ記24章12〜17節 旧約聖書 (新共同訳)807ページ
讃美歌(1) 271 あまつましみず
「キシモトさんに、是非、お願いしたいんです」。
子ども会役員の若夫人たちが地蔵盆のイベントに出演して欲しいと言う。
自治会長さんから紹介されてお願いに来たと言う。
応接間が昔の教え子たちがやって来たような雰囲気になった。
長く自宅暮らしをしていなかったので町内イコール地蔵盆に気付くのが遅かった。
幼児から中学生まで百名を超える人数が集まるらしい。
櫓が組み上げられ、特設ステージ、自治会福祉部の屋台まで繰り出す大規模な夏祭りである。
地蔵盆などの地域行事に曖昧な態度を示して批判された苦い過去があるので少々ためらったが、
快諾した。「好きなようにやらせて頂きます」。
百人であろうが二百人であろうが、子ども相手のイベントは苦手ではない。
若いお坊さんが神学生のような前座を務めたが、真打登場に会場が沸いた。
悪ガキの中学生男子が幼児を押しのけて噛付(かぶりつき)に陣取る。
野次を飛ばそうとする隙を与えずエレキギターを炸裂させる。
「おっちゃん、それ何ちゅうギター?」。
「これか、これはやな、ストラト、ストラトキャスターや。
もう一丁、テレキャスもあるで、テレキャスターのことやけどな」。
ブランドメーカーのコピー物に恰好を付ける。
中学生男子を制圧して、自作の詩を付けた聖者の行進でオープニング。
『♪お盆だよ。お盆だよ。みんな集まって。今日は楽しい。お盆のフェスティバル〜♪』。
お盆を『Oh!Bon!だよ』とスクリーンの字幕に洒落てみた。
幼児も中学生も生ライブに沸いた。
漕げよマイケルに合わせて、即興のラップを入れながら、
『ハレル〜ゥヤ〜』の大合唱が夏の夜空に響きわたる。
地蔵盆は夏のCSキャンプに入れ替わった。
今年も、お盆の時期を迎えた。
関係ないと言う信徒もいるだろうが、親族の付き合いに背を向けることは難しい。
その場が、親の介護や遺産相続を巡る親族会議の場となることもある。
本家の奥座敷が愛憎混然のバトルロワイヤルの場と化することも珍しいことではない。
人気上昇中のイエスのもとへ親族が面会に来たが、拒絶される。
「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」。
イエスは、この拒絶の前に興味深い譬えを語る。
汚れた霊、即ち聖霊の反意語であるが、
邪(よこしま)なものが、ひと時、棲家(すみか)を離れたが、
ひょっこり帰ってみると何者かによって家中が綺麗に掃除してあったので、
ツレまで引き連れて心地良く末永く住んだと。
血縁による相続が時に悲惨な結果を生むように、信仰の継承もそれに当てはまるかも知れない。
イエスの血縁者気取りは、汚れた霊の唆(そそのか)しであった。
主の教会を、血縁だけが頼りの継承、
すなわち、汚れた霊が、コンフォタブルに暮らせるような環境を、あなたが、作り出してはいないだろうか。
(注)前半部分は、創作、作り話です。画像と本文は関係ありません。
讃美歌(1) 271 あまつましみず
(1)天(あま)つ真清水(ましみず)流れきて あまねく世をぞ うるおせる
ながく渇きし わが魂も 汲みて命に かえりけり
(2)天(あま)つ真清水(ましみず) 飲むままに きをしらぬ 身となりぬ
つきぬ恵みは 心のうちに 泉(いずみ)となりて 湧きあふる
(3)天(あま)つ真清水(ましみず)受けずして 罪に枯れたる ひとくさの
さかえの花は いかで咲くべき そそげ命の 真清水(ましみず)を
マタイによる福音書12章41〜50節
「ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
ヨブ記24章12〜17節
町では、死にゆく人々が呻き、刺し貫かれた人々があえいでいるが、神はその惨状に心を留めてくださらない。光に背く人々がいる。彼らは光の道を認めず、光の射すところにとどまろうとしない。人殺しは夜明け前に起き、貧しい者、乏しい者を殺し、夜になれば盗みを働く。姦淫する者の目は、夕暮れを待ち、だれにも見られないように、と言って顔を覆う。暗黒に紛れて家々に忍び入り、日中は閉じこもって、光を避ける。このような者には、朝が死の闇だ。朝を破滅の死の闇と認めているのだ。
2021年8月8日 聖霊降臨節第12主日礼拝
説教題 『ジェレミー』
聖 書 エレミヤ書19章10節〜20章6節 旧約聖書 (新共同訳)1213ページ
マタイによる福音書15章21〜31節 新約聖書 (新共同訳)18ページ
讃美歌(1) 331 主にのみ十字架を
「ジェレミーが来たよ」。
ジェレミーとは、近所の喫茶店の息子のことである。
夫婦で勝手にあだ名を付けた。
ジェレミーは、映画の主人公の名前であり、映画のタイトルでもあった。
ジョン・レノンとオノ・ヨーコの息子によく似ていた。
貴公子を絵に描いたような少年だった。
牧師館でジェレミーにタイプライターを教えた。
学生時代、四条河原町の角に丸善があった。
二階の洋書売り場には舶来のタイプライターが所狭しと陳列されていた。
ノートパソコンのことではない。
アガサクリスティーやヘミングウエイが使ったあのポータブルのタイプライターである。
その当時、英文科の学生でもタイプライターを持っている者は少なかった。
飛びついた。
独学でマスターした。
ジェレミーは、優秀な生徒であった。
タイプライターであれパソコンであれ手許を見ないでキーを打ち込むブラインドタッチが求められる。
右側に置かれたテキストを注視し、手許に決して目をくれてはいけない。
他にも数名の生徒がいたが、自信の無さからついついキーを見てしまう。
間髪入れず菜箸の鞭が飛んだ。
「その時のミミズ腫れがまだ残ってますねん。センセ」。
「ほんまか。悪いことしたな」。
「そんなワケないやん」。
パソコン時代になり、生徒たちはデジタル時代に楽々と移行できたらしい。
専門家になった者もいる。
ジェレミーには、速さと正確さを徹底して求めた。
師を遥かに超えていたのであるが、ある日、小さなミスをした。
手許をほんの一瞬見たのである。
そのミスを見逃さなかった。
そんなつもりはなかったが、条件反射的にジェレミーの手の甲に鞭が飛んだ。
ジェレミーは、しかしながら、小さな反応を示しただけだった。
エルサレムの神殿には預言者を取り締まる宗教警察が駐在した。
狂ったように反体制派の預言者を摘発した。
鞭打ちと手枷足枷でいたぶった。
預言者たちの多くは骨抜きになったが、
エレミヤは、侵略者が神に代わって国を滅ぼし、捕囚の憂き目に遭わせると恐れ知らずの預言をする。
度を越えた強烈なメッセージが必要なほど、王と民の心は腐っていた。
エレミヤは取り締まりのターゲットとなる。
宗教警察の総監督パシュフルがエレミヤを鞭打ち、拘束するが、一晩で釈放してしまう。
パシュフルには後ろめたいものがあったのである。
エレミヤは、若さを理由に預言者の召命を辞退しようとしたが、その僭越を神に諫められる。
納得したエレミヤは人を恐れぬ預言者となった。
エレミヤの英語読みは、ジェレミー(Jeremy,Jeremiah)である。
ジェレミーを一晩だけ留置したズル軍鶏祭司は、誰だっただろう。
聞くところによると、パシュフル牧師は、
人のいないところでは手許をチラチラ見ながらタイピングしているらしい。
先週シナモンちゃんと一緒に福知山線に乗りました。
讃美歌(1) 331 主にのみ十字架を
(1) 主にのみ十字架を 負わせまつり 我知らず顔に あるべきかは
(2) 十字架を負いにし 聖徒たちの 御国(みくに)に喜ぶ 幸(さち)やいかに
(3) 我が身も勇みて 十字架を負い 死に至るまでも 仕えまつらん
(4) この世の禍幸(まがさち) いかにもあれ 栄えの冠(かむり)は 十字架にあり
エレミヤ書19章10節〜20章6節
「あなたは、共に行く人々の見ているところで、その壺を砕き、彼らに言うがよい。万軍の主はこう言われる。陶工の作った物は、一度砕いたなら元に戻すことができない。それほどに、わたしはこの民とこの都を砕く。人々は葬る場所がないのでトフェトに葬る。わたしはこのようにこのところとその住民とに対して行う、と主は言われる。そしてこの都をトフェトのようにする。エルサレムの家々、ユダの王たちの家々は、トフェトのように汚れたものとなる。これらの家はすべて、屋上で人々が天の万象に香をたき、他の神々にぶどう酒の献げ物をささげた家だ。」エレミヤは、主が預言させるために遣わされたトフェトから帰って来て、主の神殿の庭に立ち、民のすべてに向かって言った。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの都と、それに属するすべての町々に、わたしが告げたすべての災いをもたらす。彼らはうなじを固くし、わたしの言葉に聞き従おうとしなかったからだ。」主の神殿の最高監督者である祭司、イメルの子パシュフルは、エレミヤが預言してこれらの言葉を語るのを聞いた。パシュフルは預言者エレミヤを打たせ、主の家の上のベニヤミン門に拘留した。翌日、パシュフルがエレミヤの拘留を解いたとき、エレミヤは彼に言った。「主はお前の名をパシュフルではなく、『恐怖が四方から迫る』と呼ばれる。主はこう言われる。見よ、わたしはお前を『恐怖』に引き渡す。お前も、お前の親しい者も皆。彼らは敵の剣に倒れ、お前は自分の目でそれを見る。わたしはユダの人をことごとく、バビロンの王の手に渡す。彼は彼らを捕囚としてバビロンに連れ去り、また剣にかけて殺す。わたしはこの都に蓄えられている物、労して得た物、高価な物、ユダの王たちの宝物をすべて敵の手に渡す。彼らはそれを奪い取り、バビロンへ運び去る。パシュフルよ、お前は一族の者と共に、捕らえられて行き、バビロンに行って死に、そこに葬られる。お前も、お前の偽りの預言を聞いた親しい者らも共に。」
マタイによる福音書10章22節
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。
2021年8月1日 聖霊降臨節第11主日礼拝 平和聖日
説教題 『右も左もわきまえない人たちを惜しむ』
聖 書 ヨナ書3章4〜10節 旧約聖書 (新共同訳)1447ページ
ルカによる福音書15章21〜31節 新約聖書 (新共同訳)139ページ
讃美歌(1) 531 こころのおごとに
『今日も元気だ、タバコがうまい』。
吹田駅を通過する前か後か記憶は定かではないが、車窓から専売公社の大看板が目に飛び込む。
国鉄の時代である。
通勤時の大阪駅ホームは咥(くわ)えタバコがひしめき合い、
ホーム下の線路はもうもうと煙を上げる吸い殻で埋まっていた。
それが、当たり前の光景だったが、
今日、それを記憶として語ってもノスタルジーにも価しない。
レジ袋無しも同様だ。
あっさりと悪習が一夜にして一掃されてしまう。
健康問題、環境問題の大鉈(なた)は大きな抵抗を物ともせず威力を発した。
一夜にしてとは言い過ぎかも知れないが、
線路に吸い殻を投げ捨てていた者にはそう感じられると言っても過言ではないだろう。
旧約聖書に、箸休めのようなページがある。ヨナ書である。
ヨナ書は四章しかない。列王記や歴代誌のような全体像の把握に疲れることはない。
クジラの腹の中に飲み込まれるユーモラな挿絵付きの絵本を子どもと一緒に読んだ覚えもあるだろう。
ピノキオ物語がそのモチーフを拝借していることもご案内のことだろう。
ヨナとは、正しい発音では、『ヨーナー』と長音を含むのであるが、意味は、『鳩』である。
ノアの方舟から放たれた鳩は、洪水の水が引いているかどうか偵察の役目を果たす。
地面が乾いている証拠にオリーブの枝を咥えて帰還した。
平和の使者キャラが出来上がった。
余談になるが、タバコに『ピース』という銘柄があった。いや、今もあるが。
紺色のパッケージに白抜きの英字でPeace、それに鳩がオリーブの枝を咥えている図案があった。
「随分詳しいじゃないか」。鋭いツッコミ。平和な気分で一服やってくれという意味なのだろう。
ヨナは、神からニネベの町の滅びを預言せよと厳命を下されたが、
任務の重圧に耐えかね、反対方向のタルシシュへ向かった。
ところが、船が嵐で沈没しそうになる。原因となった我が身を海中に投げ込ませまる。
クジラがヨナを三日三晩飲みこみ、陸地にペッと吐き出す。
観念したヨナは、ニネベの町に滅びの預言を触れ回る。
命は無いものと思ったが、一夜にしてニネベの人びとは悔い改め、真人間となった。
拍子抜けしたヨナは、神に文句を言う。拗(すね)たのである。
駄々っ子のようなヨナに神は、神の本音を伝える。
十字架のイエスが、自分で何をしているか分かっていない人を赦してくださいと神に祈ったあの愛を告げる。
放蕩息子の兄をなだめる父の心を伝える。
本日、平和聖日礼拝を守っている。この日は、教団の戦争責任告白を確認する日である。
平和を求める声を大にする礼拝である。
強い圧力や圧迫を前にしても、一声を発すれば、
一夜にして悔い改めの世界を目の当たりにすることになるかも知れない。
戦争責任告白は、『教団の明日』を左右すると当時の議長が訴えている。
拗ねている場合ではないのだ。
我が家のオリーブの木が実をつけた。
讃美歌(1) 531 こころのおごとに
(1)こころの緒琴(おごと)に み歌のかよえば しらべに合せて いざほめ歌わん
(2)天(あめ)よりくだれる きよけき平和は まどえる心の かたきいしずえ
(3)主イエスを君とし かしこみ仰げば こころに溢るる 天つみめぐみ
(4)みそばにはべれば 平和は絶えせず なみかぜさわがじ こころの海に
(繰り返し) あぁ 平和よ くしき平和よ み神のたまえる くしき平和よ
ヨナ書3章4〜10節
ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。
ルカによる福音書15章21〜31節
息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
2021年7月25日 聖霊降臨節第10主日礼拝
説教題 『喧しい時代』
聖 書 マタイによる福音書9章9〜13節 新約聖書(新共同訳)15ページ
ルカによる福音書19章 1〜10節 新約聖書(新共同訳)149ページ
ホセア書6章1〜2節 旧約聖書(新共同訳)1409ページ
讃美歌(1) 513 あめにたからつめるものは
「おっちゃん、それ、なんぼやねん。言うてみぃ。オレ、こう(買)たるわ」。
行儀がなってないのだが、どこか憎めない友人の息子。
友人は、つい最近、娘ほどの年齢差のある女性とその子どもの家族になった。
友人の家に一等航海士のコスチュームで遊びに行った。息子が私の船員帽を欲しがった。
いくらでもカネを出して買い求めると言う。
敬愛する故・田中伊佐久先生が牧師会の席で短いスピーチをされたことがあった。
「この頃、ビートルズが良いなと思うようになりました。イエスタデーなんか良いですね」。
1970年代の後半のことである。
私と同年代の娘さんがリアルタイムで聴いていた喧しいビートルズではない。
1960年代の先生の昨日、イエスタデーを知る牧師たちは納得した。
ポール・マッカトニーは、歌う。
『オール・マイ・トラブルズ・シームストゥ・ソウ・ファーラウェイ(私を苦しめた諸問題は遥かかなたに)、イエスタデーとなった』。
人気バンドとなり世界を手に入れたビートルズに『喧しい時代』が去ろうとしていた。
ビートルズの喧しい時代の楽曲が大好きだった。三つあげろと言われると、
『抱きしめたい』、『ハードデイズナイト』と続き、極めつけは『マネー』だ。
ラジオや無線機を組み立て悦に入っていた中学一年生の理系の頭が崩壊した。
恋愛の直進性、無我夢中、それらが即物的であればあるほど、
思考がカネ、カネ、カネが物を言う世界へと歪んでゆく。
そういう若さのジレンマや妄想を大人の目に『チンピラたち』と写った四人の兄貴たちが、あのサウンドに変換した。
自分の頭のサイズに合わない船員帽を乱暴な物の言いようで買い取ろうとする幼い友人の息子の行儀を諫める資格は誰にもない。
カネの亡者がイエスの招きに応じた。弟子になった。
信仰の書を書き残した。
マタイである。
徴税人は、最初に読んだ英語の聖書には、タックス・コレクターとあった。
えぐい表現ではタックスマンとなり、
アメリカ大統領や高官が時に口を滑らす不快、侮蔑語としての『何々・マン』となる。
ギリシア語やラテン語ではお役人様的な響きも感じられるが、
人を見下げた言葉であるニュアンスは否めない。
田舎のタックスマンがマタイであった。
徴税人は入札でローマの税金取り立ての権利を手に入れた。
上乗せは自分の懐に入る。嫌われ仕事の極みであった。
羊飼いとタックスマンは法廷の証人にはなれなかった。
罪人(つみびと)だからである。
大都会エリコの町のタックスマンの大元締めが、ご案内のザアカイであった。
イエスは、この男にも旧知の間柄のように声を掛けた。
マタイから『もっとエゲツナイ奴があの町におりまっせ』と聞いていたのであろう。
イエスは、マタイの家にもザアカイの家にも入っていった。
牧師を辞めてミシガンにいると噂されたことがある。
讃美歌(1) 513 あめにたからつめるものは
(2)すくいぬしのいさおにより うれしき身となりぬ
なやみおおき世もさながら みくにのここちして
(3)主はわがうた わがよろこび ただひとつのすくい
いざや伝えん 世にあまねく このよきおとずれを
マタイによる福音書9章9〜13節
マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
ルカによる福音書19章 1〜10節
イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
ホセア書6章1〜2節
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。
2021年7月18日 聖霊降臨節第9主日礼拝
説教題 『唯一つしかない』
聖 書 ローマの信徒への手紙 9章1〜16節 新約聖書(新共同訳286ページ
ヨシュア記24章 15〜16節 旧約聖書(新共同訳)377ページ
讃美歌(1) 225 すべてのひとにのべつたえよ
「センセ、今日は、なに食べるの?」。「今日は、クリームシチューや。みんなで作るんやで」。
「明日は、なに?」。「明日は、すき焼きや」。
「そんなら、最後の日は?」。「そりゃ、カレーに決まっとるやろ」。
旧海軍の演習地、舞鶴湾に浮かぶ小さな島が中高生の夏のキャンプ場だった。
多い年には150人を超える参加があった。
日陰がほとんどなく、地面はごろごろ小石、三泊四日のサバイバルキャンプであった。
夕方に地元の信徒が船で肉だけ届けてくれる。
持参したジャガイモ、ニンジン、玉ねぎを大きな鍋に入れる。
一日目はシチューの素、二日目は砂糖と醤油、三日目はカレールーで仕上げる。
生徒たちは、クリームシチューやカレーにはそこそこ納得したが、スキヤキには抵抗した。
百人を優に超える中高生男女の引率であった。
教会のことを全く知らない初めての参加者が大半を占めていた。
「夜通し起きていてもかまわない。
ただし、朝の礼拝と聖研クラスには必ず出席すること。ルールはこの一つだけだ」。
守れない者は帰ってもらうなどと野暮は言わなかった。
全員眠そうな目をこすりながら礼拝に集まってきた。
炎天下の聖研も荒唐無稽な質問が飛び出して牧師が狼狽えた。
スキヤキの後の長い自由時間は魑魅魍魎の世界でもあったが、
夜光虫が漂う真っ暗な海を前に、ツレのように、あるいはカップルのように語りあうこともあった。
仮の話ではあるが、
ある牧師が、ポケットから煙草を取り出して、ワルそうな生徒がいたとして、
一本勧めたとしても、「いえ、ボ、ボクは、ここでは、止めときます」。
明け方まで騒いでいた女子たちが帰りの船の中で聖研が面白かったと言う。
「センセ、三日間寝ぇへんかったで。楽しかったわ」。
校内暴力が連日報道されている時代だった。
生徒手帳の校則欄には、こんなことも規則なのかと思われるような項目が次々と書き加えられた。
いわゆる、負のスパイラルである。
教会学校キャンプの三日間、学校の生活指導部が心配するようなことは何一つ起こらなかった。
生徒たちは、初めての経験として、極端に少ない規則の持つ神通力に自由を知り、有効な記憶とした。
パウロは、帝国の中心に聖霊の力によって教会が生まれたことを心の底から喜んでいた。
ローマの教会群の発端はユダヤ教を背景とした信徒の教会であったが、
影響を受けた非ユダヤ教的信徒(異邦人)が多く加わる教会へと発展していた。
ユダヤ教的背景を持つ信徒たちには、それが面白くなかった。
伝家の宝刀とばかりに律法ワールドを持ち出した。
それが、パウロの心痛となった。『人の意志や努力ではなく、神の憐れみ』。
キリストの福音の本質を遠く離れたコリントの教会から発信する。
モーセの律法は、633項目まで細かくされたと言う。
愛のルールは、唯一つしかない。
キャンプ最終日 1980年ごろ
讃美歌(1) 225 すべてのひとにのべつたえよ
(1)すべてのひとにのべつたえよ かみのたまえるみおとずれを
あめなる父はみ子をくだし すくいのみちをひらきませり
(2)あまねくのべよ よき知らせを まことの幸を もとめつつも
むなしきものにさそわれゆく 世のはらからにのべつたえよ
(3)十字架のうえに死にたまえる み子こそ永久(とわ)のすくいなれや
かみのたまえる この知らせを 地のはてまでも告げひろめよ
ローマの信徒への手紙9章1〜16節
私はキリストにあって真実を語り、偽りは言いません。私の良心も聖霊によって証ししているとおり、私には深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがあります。私自身、きょうだいたち、つまり肉による同胞のためなら、キリストから離され、呪われた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエル人です。子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは万物の上におられる方。神は永遠にほめたたえられる方、アーメン。しかし、神の言葉が無効になったわけではありません。実際、イスラエルから出た者がすべてイスラエルなのではなく、アブラハムの子孫がすべてその子どもというわけでもありません。かえって、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる。」すなわち、肉による子どもが神の子どもではなく、約束による子どもが子孫に数えられるのです。約束の言葉は、「来年の今頃、私は来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。それだけではなく、一人の人、つまり、私たちの先祖イサクと結ばれたリベカの場合もそうでした。まだ子どもたちが生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるようになる」とリベカに告げられました。それは、神の選びの計画が行いによってではなく、お召しになる方によって進められるためでした。「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。では、何と言うべきでしょうか。神に不正があるのか。決してそうではない。神はモーセに、「私は憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです。
ヨシュア記24章 15〜16節
もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」民は答えた。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。
2021年7月11日 聖霊降臨節第8主日礼拝
説教題 『よれよれ』
聖 書 エレミヤ書7章1〜11節 旧約聖書(新共同訳1188ページ
マタイによる福音書7章21〜24節 新約聖書(新共同訳)12ページ
讃美歌(1) 447 いさめやはらから
「先生、そのヤカンをこちらに回してください」。
「ワシが先生と呼ばれるのは、お茶汲みの時だけやな」。
よれよれの背広の綻(ほころ)びが気になる。
結婚式場のアルバイト牧師に呼ばれることがあったが、二度とお呼びはなかった。
先生に二人の息子がいた。ひとりは死別した先妻の子である。
毎月、先生に小遣いをせびりに来た。
もう一人は同居の息子である。
先生の教会の後釜に居座った。付属幼稚園を食い物にした。
ヤカンを手にした先生に信徒が質問した。
「先生のお好きな言葉はなんでしょうか?」。
「純情という言葉です」。
その席の会話は、そこで途絶えた。
純情という言葉が余りにも先生の信仰と人格を的確に表していたので、
だれも、自らを省みて話題を展開する力を持たなかったのである。
『純情』という言葉は、エレミヤが、倦み疲れたエルサレムの民に向かって放った神の言葉である。
エレミヤが召命を受けた頃、民は、大国の脅威、捕囚の危機に意気消沈し、その心は濁っていた。
その民に、『あなたの若い日の純情を覚えている』とエレミヤの口を通して神は語り掛ける。
若い日と言うのは、
イスラエルの草創期、彷徨える者たち(イブリーム:ヘブライの元になった言葉)であった頃の共同体の記憶のことである。
四十年に及ぶ砂漠の旅、先住民との血の抗争に明け暮れた日々を忘れたぁとは言わせねえぜ。
思い出したくもない『よれよれの』の民の記憶であっても、民の心は澄み切っていた。
若い日の純情がそこにあった。
『お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、
無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく』。民の心は腐り切っていた。
大人の理屈だと言って、清濁併せ飲む。
大が生き延びるために小を切り捨てる。
大勢に追従する偽預言者の言葉が人口に膾炙した。
そう遠くない日に破壊されるソロモンの神殿を予見出来なかった。
民の声を恐れたのである。
エレミヤは、民の拠り所、安息の象徴、神殿を『主の神殿、主の神殿、主の神殿』と軽く祭り上げるなと警告する。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」。
イエスの言葉を先取りしている。
見栄えのする立派な教会堂や謙遜を知らない聖職者を拠り所としてはならない。
『自らに災いを招いてはならない。
あなたがたのことは、全然知らない』
そりゃなかろうぜ。
洗いざらしのジーパンによれよれの白いTシャツ。
はにかんだ笑顔に白い歯がこぼれる。
エレミヤは、純情を生きる。
真心が土に通じた純情作物
讃美歌(1) 447 いさめやはらから
(1)いさめや、はらから くらき路にも
しるべの星あり あおぎて進め
はるけき行く手に こころ落とさず
み神にたよりて 進め すすめ おおしくすすめ
(4)み神にたよりて まさ道ゆけば
平和とよろこび こころにあふる
いさめや、はらから くらき空にも
しるべの星あり あおぎ進め おおしくすすめ
エレミヤ書7章1〜11節
主からエレミヤに臨んだ言葉。主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。『主の神殿、主の神殿、主の神殿』という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。
マタイによる福音書7章21〜24節
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
2021年7月4日 聖霊降臨節第7主日礼拝
説教題 『両手を天に伸ばして』
聖 書 歴代誌下6章12〜16節 旧約聖書(新共同訳)676ページ
マタイによる福音書7章7〜14節 新約聖書(新共同訳)11ページ
讃美歌(1) 453 きけやあいのことばを
「息子が免許取って車を欲しがるので、私らのタクシー代わりするならと約束させて買ってやりました」。
現在、その息子は大教会の牧師を務めている。
「ところが、私らを乗せたことは一度もありませんでした」。
牧師が伝道牧会に車を使い始めた時代であった。
牧師夫妻は、息子の運転で丁寧な牧会ができると期待したのだ。
それに類した親子の『事件』は珍しいことではない。
互いの損得が、身内の甘えゆえに、見え見えだからである。
父の身長をはるかに超えたのが中学二年生の時であった。
父は、戦地に六年もいたのだが、荒々しい人ではなかった。
蝶ネクタイの軍人であった。弱々しくさえ見えた。
高度経済成長の真っ只中にあって、四十代の後半、息子は中学二年、無職であった。
「お前には、何もしてやれない。何も残すものがないが、一つだけお前にやるものがある」と父は言った。
「お前には、自由をやる。将来、何になっても良い、何をしても良い。
どこへ行っても良い。親の死に目に会わなくても良い」。
息子は父の言葉を真に受けた。
ダビデは、神殿の建設を切に願った。しかし、それは、叶わなかった。
神が許さなかったのである。
ダビデは、ソロモンのひ弱さが心配だった。
しかし、神は、「それは、お前が心配することではない。ソロモンの心配は、わたしがするのだ」と。
ダビデは、私財に加えて12部族に資金を調達させる。
金だけでも、3400トンに及んだと記されている。
苦手な計算をしてみた。
現在の金1キロは、相場によると767万円らしい。
767万円掛ける3,400トン(3,400,000キロ)は、26.078.000 000.000円となる。
読み上げると、26兆飛び780憶円である。
迎賓館をこの時代に造ると2000憶円を下らないというから相当な資金である。
さらに、ダビデは、膨大な資金援助のみならず神殿の設計図まで息子に準備してやった。
ソロモンは、父の意志を見事に成し遂げた。神殿が完成した。
両手を天に伸ばして祈った。
『主よ、今後もあなたの僕、父ダビデに約束なさったことを守り続けてください』。
天に伸ばした両手とは、両手が、剣を帯(佩)びた腰帯、(ガンベルト)から離れた位置にあったことを示している。
1956年(昭和31年)1月20日の大住伝道所の週報には、
その週の金曜日午後八時、故・榎本保郎牧師が、村の青年たちに『自由について』と題して講演を行い、
大いに語り合ったとある。
ダビデとソロモンの関係を彷彿とさせる。
ソロモンの神殿は、戦後の大住村に設立された伝道所(保育園)でもあるのだ。
榎本も私の父にもダビデの時代、血の臭いを消し去ることの出来ない時代の記憶がある。
ソロモンのへブル語発音は、『ショロモー』、『平和』の意味がある。
日常の挨拶、『シャローム』、アラブ語では『サラーム』に溶け込んでいる。
諸手を挙げて主に感謝を奉げる日々を積み重ねたいものだ。
讃美歌(1) 453 きけやあいのことばを
(1)きけや愛の言葉を、もろ国人らの
罪とがをのぞく主の御言葉を 主のみことばを
やがて時は来らん、神のみ光りの
あまねく世をてらす あしたは来らん。
(2)見よや救いの君を、世のため悩みて
あがないの道を開きしイエスを ひらきしイエスを
やがて時は来らん、神のみ光りの
あまねく世をてらす あしたは来らん
(3)うたえ声を合せて あめつちと共に
よろこびにみつる さかえの歌を さかえのうたを
やがて時は来らん 神のみ光りの
あまねく世をてらす あしたは来らん
歴代誌下6章12〜16節
彼は、イスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を伸ばした。境内の中央に縦五アンマ、横五アンマ、高さ三アンマの青銅の台を造らせてあったので、ソロモンはその上に立ち、イスラエルの全会衆の前でひざまずき、両手を天に伸ばして、祈った。「イスラエルの神、主よ、天にも地にもあなたに並ぶ神はありません。心を尽くして御前を歩むあなたの僕たちに対して契約を守り、慈しみを注がれる神よ、あなたはその僕、わたしの父ダビデになさった約束を守り、御口をもって約束なさったことを、今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました。イスラエルの神、主よ、今後もあなたの僕、父ダビデに約束なさったことを守り続けてください。あなたはこう仰せになりました。『あなたがわたしの前を歩んだように、あなたの子孫もその道を守り、わたしの律法に従って歩むなら、わたしはイスラエルの王座につく者を絶たず、わたしの前から消し去ることはない』と。
マタイによる福音書7章7〜14節
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
2021年6月27日 聖霊降臨節第6主日礼拝
説教題 『おのおのに分配』
聖 書 使徒言行録4章 30〜37節 新約聖書(新共同訳)220ページ
詩編14編2〜5節 旧約聖書(新共同訳)844ページ
讃美歌(1) 501 いのちのみことば
「夫、それもですネ、あなたは、夫と夫のふたりの弟さんの妻ということをですね、、
どのように思っておられますか」。
なんと無神経なインタビューであろう。
雲南省からチベットへと茶を運んだ歴史ある交易路は、『茶馬古道』と呼ばれている。
ハイビジョン映像が、南のシルクロードの壮大な自然と人々の過酷な生活を鮮明に映し出す。
荷を積んだ馬や驢馬と人がやっと通れる山道は、一歩誤れば生きては戻れない。
取材班一行は、ある村に宿泊した。ある家を取材した。
一夫一妻が成立しない貧しさがそこにあった。
その家の妻は侮辱に耐えた。ディレクターの品性に疑問が残った。
カラハリ砂漠に狩猟採集の生活を営む民がいる。
『サン人』と呼ばれる人たちである。
ブッシュマン(藪の人)の蔑称で呼ばれたこともあった。
その社会は、狩猟と採集に男女の役割分担はあるものの構成員は対等の関係で成り立っている。
狩猟に関して興味深い慣行がある。
毒矢で仕留められた獲物は10等分され、毒矢の持ち主がその一つを優先的に取る。
しかし、毒矢は頻繁に交換されるので、一番矢の者にその分け前の優先権がある訳ではない。
狩人の心に潜む独占欲を抑止するのである。
『信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足元に置き、必要に応じて、おのおのに分配されたからである。(使徒言行録4章34節)』
聖霊を受けた弟子たちは、自らの罪と信仰体験を大胆に語った。
その反応は、予想を遥かに超えるものであった。
一日に三千人が洗礼を受けたと使徒言行録は記している。
ペテロは、ポピュリズムが作り出す『邪悪な時代』を鋭く指摘した。
洗礼を受けた人々も聖霊を受け、罪の赦しを実感した。
信徒たちは、自由な人となったのである。執着から解放されたのである。
信徒たちは、持ち物を共有した。ロッカーに鍵を掛ける必要がないプレイヤーとなったのである。
日に日に、鼠算のように増え続ける信徒が共にパンを裂く群れに加わる。
そこには、『ひとりも貧しい人がいなかった』とある。
一人の女性を男兄弟たちが妻とする。
一番矢に独占権を持たせない。導き出されるイメージは唯ひとつだ。
信徒が持ち物を共有した時期は一過性のものであった。
詩編にある『満願のささげもの』の限定感を心に深く示されれば、
少しは、謙遜を知る者に近づけるのではないだろうか。
4個の『おやき』を五人で分けることになった。
「ワシが二つもろとくわ」。手強い奴がいる。
讃美歌(1) 501 いのちのみことば
(1)生命のみことば たえにくすし 見えざる御神の むねをしめし
つかえまつる みちをおしう
(2)主イエスの御言葉 いとしたわし 普くひびきて 世のちまたに
なやむ子らを あめにまねく
(3)うれしき訪れ たえずきこえ ゆるしと和らぎ たまうかみの
ふかきめぐみ 世にあらわる
(繰り返し)
生命のみことば たえなるかな いのちの御言葉 くすしきかな
使徒言行録4章 30〜37節
「・・・どうか、御手を伸ばし、聖なる僕イエスの名によって、病気が癒やされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、堂々と神の言葉を語りだした。信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しした。そして、神の恵みが一同に豊かに注がれた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足元に置き、必要に応じて、おのおのに分配されたからである。レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足元に置いた。
信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。(使徒言行録2章 44〜47節)
詩編22編25〜28節
主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。
御顔を隠すことなく助けを求める叫びを聞いてくださいます。
それゆえ、わたしは大いなる集会であなたに賛美をささげ
神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美します。
いつまでも健やかな命が与えられますように。
地の果てまで、すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り
国々の民が御前にひれ伏しますよう
2021年6月20日 聖霊降臨節第5主日礼拝
説教題 『右手はポイ』
聖 書 マタイによる福音書5章18〜30節 新約聖書(新共同訳) 7ページ
詩編14編2〜5節 旧約聖書(新共同訳)844ページ
讃美歌(1) 536 むくいをのぞまで
「えんちょ(園長)センセのおてて、なんで、あらへんの?」。
「悪いことするから、ポイしたの」。
「へえぇ〜」。
和服の袖の中を弄(まさぐ)る園児たち。
園長は、高校の数学の教師でもあった。
ある生徒が、パチンコ店で先生に出くわした。
右手でレバーをひいて球を飛ばす。
左手は小さい穴に玉を送り出す。
「君、球を入れてくれないか」。
先生は、少尉であった。敵機来襲!岩穴に逃げ込んだ。
「貴様、そこをどけ!」。上官の命令だった。
気が付くと、右腕が根元から無くなっていた。
上官は肉片になったと聞かされた。
固い岩穴の中を機銃の弾丸が暴れ回ったのである。
戦争が終わり、先生は牧師になった。
パチンコ店で会った生徒を生活指導部に連れて行かなかった。
先生は、停学中の生徒を自宅に預かったりもしたが、人情家ということではなかった。
マンモス幼稚園のガメツイ経営者であった。
リアリストであった。
風貌は、自身が言った言葉だが、『不細工な小男』であった。謙遜ではない。
大衆説教家、スポルジョンの説教を直訳し、
園舎の小さな椅子に居心地悪く座る教会員に向かって二時間にも及ぶ講義のような説教をした。
躓いた人も多くいたが、、、。
先生は。右手のことを尋ねられると、どの人にも、園児に言った言葉で返した。
しつこく聞く人には、岩穴の機銃掃射を語ったが、戦争体験をネタにすることはなかった。
イエスは、天の国を右手のポイで締め括った。
右手は地獄へ持って行けと言う。
元漁師を筆頭とする弟子たちには衝撃の言葉だ。
網を引き揚げる力が無ければその日の糧にはあり付けない。櫓も漕げない。
観念の世界は現業者に死を意味する。
薄い知識の切れ端であるが、『右』は、権力、正義を意味する。(英語のライト・WRIGHTが分かりやすい)
先ず、利き腕が無ければこの世で生きていけない。
だから、力があれば何をしても良いと言う考えが導き出される。
兄弟に『ばか』と言う者、みだらな思いで他人の妻を見る者となるのである。
周辺の民族を『ばか』、下等と見下し、『他人の妻』、隣国の領土を強欲をもって奪う。
生々しい記憶が残る。
イエスの活動は、絶好調であった。常に大勢の群衆に取り囲まれていた。
思慮の浅い弟子たちはシークレットサービス気取りで荒々しい警備をし始めていたのかも知れない。
その不穏に気付いたイエスは、弟子たちに、神と民の愛の契約、
律法の文字の一点一画への横着を諫めた。
右手のポイを強く迫ったのである。
(注)ヘブル語のDとRの違いは、差金(さしがね)に似た文字の角が
直角かカーブしているかであり、フォークの先の部分に似た文字の
右と左の端に点があるかないかで、『さ行』と『シャ行』の違いとなる。
意味も違うことになる。
我が家に迷い込んだカミキリ虫。
今、噛み切ってほしいものがある。
讃美歌(1) 536 むくいをのぞまで
Cast thy bread upon the waters!
(1)むくいを望まで ひとにあたえよ こは主のとうとき みむねならずや
水のうえにおちて ながれし種も いずこのきしにか おいたつものを
(2)浅きこころもて ことはからず みむねのまにまに ひたすら励め
かぜに折られしと みえし若木の おもわぬこかげに ひとをも宿さん
マタイによる福音書5章18〜30節
「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
詩編14編2〜5節
主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのようにわたしの民を食らい、主を呼び求めることをしない者よ。そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。
2021年6月13日 聖霊降臨節第4主日礼拝
説教題 『喜びと心配』
聖 書 フィリピの信徒への手紙2章3〜18節 新約聖書(新共同訳) 363ページ
イザヤ書60章19〜節 旧約聖書(新共同訳)1160ページ
讃美歌(1) 515 十字架の血に
「先生は、牢屋に入れられたこともあるんです。すごい経験をなさっているんです。」
女性信徒のマイクを握る手が震えている。
送別会の席である。敬愛の情がクライマックスに達した。
先生は、リュックひとつで世界を旅した。
爆破前のバーミアンの石仏を知っている。
「飛行機のドアが開いたら、空港は、サウナ風呂ですワ」。
放浪は、先生の人生であった。
留置場が宿であったことも偶(たま)にあったらしい。
先生は、淡々と旅を語ったが、『獄中』のイメージが、さもありなんの風貌に重なった。
牢屋に入れられてまでも、世界の隅々まで旅する人。
先生の飾り気のない一言が、悩み多い人たちの人生観を変えた。
パウロは、ローマの監獄からフィリピの教会に手紙を書いている。
フィリピは、アレキサンダー大王の父、フィリッポス2世が創設した後、ローマの重要な植民都市となった。
その町は、小京都の様相を呈していたらしい。
最初の信徒は、紫布を扱う商人リディアであったが、
パウロとの関係は、京や堺の豪商と利休の交流を彷彿とさせる。
ローマに収監されていたパウロは、この時、特別待遇の囚人、軟禁状態にあった。
皇帝直属の御庭番の管理下にあったのである。
不衛生な檻の中でもなく、人格を剥ぎ取られる拷問、取り調べを受けることも無かった。
さらには、パウロは、『命乞いをしている』といったフェイクニュースを流されることも無かったのである。
死期は近づいていたが、身も心も平安に満たされていた。
パウロは、イエスの神への従順を体現し、信仰者の在り様を先取りしていた。
『とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、
非のうちどころのない神の子として、
世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ』。
一方、パウロは、傲慢なコリントの教会には手厳しい。
『投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、
死ぬような目に遭ったことも度々でした』。
コリントの信徒には、『臭いメシのひとつでも一度は喰ってみろ』と言わんばかりである。
フィリピの信徒たちは、小京都の住人に相応しく慎ましく穏やかではあったが、
教会内の厚かましい勢力には臆し気味であった。
教師不在のホームルームに耐える生徒たちではではなかったのである。
『わたしが共にいるときだけでなく』。
パウロの心配の種は尽きない。
『相手を自分よりも優れた者と』 『自分の事だけでなく他人の事にも』
『何事も、不平や理屈を言わずに』
讃美歌(1) 515 十字架の血に
(1)十字架の血に きよめぬれば 来よとの声を われはきけり
(繰返し)主よ われは いまぞゆく 十字架の血にて きよめたまえ
(2)よわきわれも みちからを得 この身の汚れを みな拭われん
(3)まごころもて せつにいのる 心に満つるは 主のみめぐみ
(4)ほむべきかな わが主の愛 ああ ほむべきかな わが主の愛
フィリピの信徒への手紙2章3〜18節
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わずかえって自分を無にして僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れへりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神が崇められるためです。だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。
イザヤ書60章19〜節
太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず、月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。あなたの太陽は再び沈むことなく、あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる。あなたの民は皆、主に従う者となり、とこしえに地を継ぎ、わたしの植えた若木、わたしの手の業として輝きに包まれる。最も小さいものも千人となり、最も弱いものも強大な国となる。主なるわたしは、時が来れば速やかに行う。
2021年6月6日 聖霊降臨節第3主日礼拝
説教題 『恥を受ける』
聖 書 使徒言行録17章22〜33節 新約聖書(新共同訳) 248ページ
詩編25編2節 旧約聖書(新共同訳)855ページ
讃美歌(21) 522 キリストにはかえられません
「センセ、今日の説教、ちょっと違うのとちゃいますか。
センセは、いろいろ勉強されてるとは思いますがね」。
「高角砲の角度を計算しとったんや。必死でな。戦闘の真っ最中や。
そしたらな、古参の兵隊が、『少尉殿!もう計算はお済でありますか?』、
てなことを意地悪に言いよるんや」。
古狸信徒は、肥えた耳を持っている。ギリシャア語やへブル語の知識を振り回しても動じない。
「聖書は、口伝による教えの断片や有力な信仰集団の記憶などが時系列を超えて複雑に編集されていく高いレベルの書物である。
すなわち、唯一無二の書である」。
「センセ、悪いけどな、浪花節や浪曲でも、『そういえば、今年は、去年死んだ親父の七回忌』、
ちゅうのがおまっせ。聖書をお高く留まらせたあかんのとちゃいますか?」。
敵機を打ち落とす弾道角度を計算するヒヨコ少尉は、
机の上の計算尺や定規に釘付けになり、
百戦錬磨の下士官や兵士たちの小馬鹿にした視線を浴びる。
命令を下す前には、高角砲の照準は定まっている。
パウロは、アレオパゴスの丘で神学校を卒業したばかりの牧師のような説教をしてしまった。
シラスとテモテの二人がペレアから来るのを待っている間の出来事であった。
大人しく滞在していれば良かったのだが、アテネの町の至る所に見られた偶像に憤慨してしまった。
老獪な哲学者や暇人たちがパウロを笑いものにするライブコンサートをお膳立てした。
パウロはその時、五十歳を過ぎていた。
イエスの十字架が二十歳代の中頃、ダマスカスへの途上の回心はその五年後、
六十歳代の後半に斬首刑による殉教の死を遂げているので、
脂の乗り切ったスキルが身に着いていた時期である。
そのスキルは、『知られざる神』を引き合いに出してアテネの人たちの宗教心を導き出すレベルのものではなかったはずである。
「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」。
漫才のツッコミさながら、「いい加減にしなさい」にも似たオチが付いたのである。
アレオパゴスの説教にはパウロの信仰や知性に相似しないという疑問があるかも知れない。
しかし、自らを『月足らずで生まれた』未熟な信徒の自覚の強かったパウロは、
初期キリスト教の『幼さ』を恥じていなかった。
イザヤの面白可笑しい偶像否定の二番煎じをズル軍鶏たちの前で大真面目にやってのける純情こそ、
『わたしが恥を受けることのないように』と祈ったダビデの限界を超えていると言えるのではないだろうか。
梅雨のシーズンが好きな子どもであった。ゴム長靴が大好きだった。
讃美歌(21) 522 キリストにはかえられません
讃美歌二編は、変ニ長調(♭が5個)で演奏されます。
讃美歌21に比べて、緊張感が増すように感じられます・
(1) キリストには代えられません 世の宝もまた富も
この御方がわたしに 代わって死んだゆえです
(3)キリストには代えられません 如何に美しいものも
この御方で心の 満たされてある今は
(繰返し)世の楽しみよ去れ 世の誉(ほま)れよ行け
キリストには代えられません 世の何物(なにもの)も
使徒言行録17章22〜33節
パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりませんまた、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。
詩編25編2節
わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように
敵が誇ることのないようにしてください。
2021年5月30日 聖霊降臨節第2主日
説教題 『幼子のような者』
聖 書 マタイ11章24〜30節 新約聖書(新共同訳) 20ページ
イザヤ書6章1〜11節 旧約聖書(新共同訳)1069ページ
讃美歌(1) 499 みたまよくだりて
「おっちゃん、ボクの番やで。おっちゃんは、ボクの後や!」。
小学生の頃、母親の小さな商売を手伝っていた。
ある日、大金を持たされ、問屋街に一人で仕入れに行かされた。
店では、一人の客に一人の女子店員が付く。
デートをするように広い倉庫を巡り、棚にあるものを指さす。
背伸びをして店員と大人の会話の真似事を楽しんだ。
「毎度おおきに」、「ぼちぼちですわ」、「さっぱりでんな」。
女子店員は三十人ほどいた。人気の店員がいた。
美形の店員である。ある日、美形の店員が担当になった。
仕入れのメモを取り出し倉庫に向かおうとした時、後ろの客に押し退けられた。
中年男の客であった。
「ボクの番や!順番飛ばしはあかんで!」。
ギャラリーが加勢する。「そや、そや、ボンの言う通りや」。
腹巻の中の大金と威勢の良い啖呵が束の間の大人の気分を楽しませてくれた。
今にして思えば、穴があったら入りたいような恥しい記憶であるが、
人と人との関りを、その程度のものと考えていたのであろう。未熟の極みであった。
キリスト教主義学校の中学礼拝に友人の牧師が招かれた。
「今朝、ここへ来る途中、京橋駅で後ろに並んでいた人が割り込んで来たので注意したら喧嘩になったんです。
皆さんもそんな時、腹立つでしょう」。
牧師も人間なのだと言うところから始めたかったのだが、生徒の反応は期待外れだった。
怖い者知らずの生徒が大きな声で反応した。
「大人げないよ、先生」。
礼拝堂がどよめいた。
一端の商人気取りの子どもであれ、牧師であれ、
小さな正義を振りかざして人と争うことは人口に膾炙しない。
多くの共感を得ない。その場には、安らぎがない。
この小さな正義の出所をイエスは、『知恵ある者や賢い者』にあると断言する。
『知恵ある者や賢い者』は、消せる範囲の火事を仕込んでおいて、
おもむろにバケツを持って登場する。
いわゆるマッチポンプである。
小細工に振り回されるなとイエスは言う。
イザヤの唇は、祭壇の炭火によって清められ背信の民の真っ只中へ遣わされる。
イエスの弟子たちは、『知恵ある者や賢い者』としてではなく、
『幼子のような者』としてイエスの軛(くびき)を共にする。
幼子のような者とは、
ペンテコステの出来事によって霊の賜物を受けた初代の信徒をも暗示する。
イエスの柔和と謙遜に学ぶのである。
『疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう』
小指ほどのエンジェルに、小さなマスクを作った。
讃美歌(1) 499 みたまよくだりて
(1)みたまよ くだりて 昔のごとく くすしきみわざを あらわしたまえ
(2)みたまよ くだりて めぐみの雨に かわける心を うるおしたまえ
(4)みたまよ、くだりて かよわきわれを きよけき力に 富ましめたまえ
(繰返し) 代々にいます みたまの神よ 今しもこの身に 満ちさせ給え
マタイによる福音書11章24〜30節
しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
イザヤ書6章1〜11節
ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。」するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」主は言われた。「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために。」わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく、家々には人影もなく、大地が荒廃して崩れ去るときまで。」
2021年5月23日 聖霊降臨節第1主日・ペンテコステ
説教題 『続 編』
聖 書 ヨエル書2章23節〜3章2節 旧約聖書(新共同訳)1424ページ
使徒言行録2章1〜13節 新約聖書(新共同訳) 214ページ
讃美歌(1) 499 みたまよくだりて
「鳩が飛んでます。先生!」。
「すまん、すまん。ちょっと浸け過ぎたかも知れんな」。
牧師は、白ズボンにワイシャツ、革靴のまま川に入る。
そして、招く。
白いアッパッパーを着たら、売られていく子牛になるしかない。
「キシモト君は、直ぐに上げてもらえへんやろな」。周りが言う。
鼻にタオルを当てられ、「我、汝に、洗礼を授けん!」。
沈められる。
目を閉じなかった。
水中から、牧師の顔を見た。
青空を見た。
意識が少し薄れた。
それから、五十年の歳月が流れたが、川の水の冷たさの記憶が消えることはない。
イエスの復活、昇天の後、弟子たちに聖霊が降ったと記されている。
『炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった』のである。
余程の超自然的な現象であったのだろう。
さらに、『すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした』と続く。
その場には、籤で選んだ欠員一名を加えた十二弟子と120人の信徒が寄り集まっていた。
その日は、50番目を意味するギリシア語からペンテコステと呼称される。
イエスの復活から50日目ということである。
同時に、この日は、過越しの祭りから数えて7週目、小麦の収穫感謝祭でもあった。
イエスによる新しい世界の到来とユダヤ教の伝統的時間の流れの圧力の間に弟子たちは苦しんだ。
七週の祭りは盛大に祝われた。
収穫された麦は小さな村から大きな村へ、神殿へと文字通りお祭り騒ぎで奉納される。
古巣へ戻ることが賢明かも知れない。
今なら、イエスに従ったことは、『はしか』のようなものだったと親兄弟、町内の者も忘れてくれるかもしれない。
天に昇るイエスは、重い映画の最後のタイトル、
銀幕の奥から小さな『終』、『END』、『fin』の文字がシンバルやティンパニーのフォルテシモを伴って
画面一杯に広がり暗転するようなシーンであったかも知れない。
もう終わったのだ。
カントの臨終の言葉を借りるならば、『これで良いのだ。(エス・イスト・グート)』だと。
ヨエルの預言を記憶している者がいた。
馬鹿騒ぎの収穫感謝祭は、民の不信仰ゆえに、草の根一本生えない審判を受けたことが無かったのか。
『わたしがお前たちに送った大軍すなわち、
かみ食らういなご、移住するいなご、
若いいなご、食い荒らすいなごの食い荒らした幾年もの損害をわたしは償う』。
イナゴ、バッタは、疑心暗鬼の化身だ。
愛を噛み喰らい、喰い荒らす。
聖霊は、『助け主』と別名される。
イエス映画の『続編』を楽しもうではないか。
ペンテコステ野外洗礼式1966(後列左から三人目)
讃美歌(1) 499 みたまよくだりて
(1)みたまよ くだりて 昔のごとく くすしきみわざを あらわしたまえ
(2)みたまよ くだりて めぐみの雨に かわける心を うるおしたまえ
(4)みたまよ、くだりて かよわきわれを きよけき力に 富ましめたまえ
(繰返し) 代々にいます みたまの神よ 今しもこの身に 満ちさせ給え
ヨエル書2章23節〜3章2節
シオンの子らよ。あなたたちの神なる主によって喜び躍れ。主はあなたたちを救うために秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。元のように、秋の雨と春の雨をお与えになる。麦打ち場は穀物に満ち搾り場は新しい酒と油に溢れる。わたしがお前たちに送った大軍すなわち、かみ食らういなご、移住するいなご、若いいなご、食い荒らすいなごの食い荒らした幾年もの損害をわたしは償う。驚くべきことを。お前たちのために成し遂げられた主、お前たちの神なる主の御名をほめたたえるであろう。わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。イスラエルのうちにわたしがいることをお前たちは知るようになる。わたしはお前たちの神なる主、ほかに神はいない。わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
使徒言行録2章15〜24節
今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
2021年5月16日 復活節第7主日・昇天後主日
5月23日(日)ペンテコステ礼拝
説教題 『川原の石』
聖 書 エレミヤ書10章11〜20節 旧約聖書(新共同訳)1195ページ
フィリピの信徒への手紙4章4〜5節 新約聖書(新共同訳) 366ページ
讃美歌(1) 158 あめにはみつかいよろこびうたえ
「ええお顔したはる。うん、うん、うん」。
川原で拾ってきた石を愛おしく撫でる。その石は仏だと言う。
どこに目鼻があるのか分からないものを。
気難しく、近寄りがたい牧師である。
目が、不自由である。
「先生の信仰はどうなってるんですか?」。
地蔵を足蹴にしたことが自慢の信徒が問い質した。
牧師は、石を撫でながら、何度も何度も同じ言葉を繰り返した。
「ええお顔したはる。ええお顔や」。
知人が奈良市の近郊に陶芸工房を構えている。
「この村には、神社はあるけど寺は一軒も無いんや。面白いやろ」。
廃仏毀釈のモデル村になったらしい。
ブツ(仏)と名の付く物は悉く破壊され投げ捨てられたのである。
ナチス突撃隊の狼藉三昧、水晶の夜の恐怖を彷彿とさせる。
無知の熱狂に対して世界のファイアウオール(防火壁)は脆弱である。
『すべて真実なこと、すべて気高いこと、
すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、
すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、
それを心に留めなさい』 (フィリピ4:8)
エレミヤは偶像を徹底して茶化す。
その表現は、洒落ている。エスプリが利いている。
偶像否定のセンスを保っている。
エレミヤのターゲットは、足蹴にする地蔵ではない。
大国の脅威が迫る状況にあって安い安全を民に請け負う祭司、預言者に批判の矢を向けている。
古代文明世界にあって偶像とは、人を人とさせない巨大な権力の化身と言って良い。
それがあるために、
人に、まことの神に似せて創られた者(Imago Dei Image of God)としての生きる道が塞がれるのである。
教条主義的な信徒の詰問に馬耳東風然として川原の石を撫で続けた偏屈牧師は、
目の不自由な人の当然、見えないものを人に良く示す人であったが、
川原の石を、イエスさまと呼んで信徒のご機嫌を良くする器用な牧師ではなかった。
正直者で、可愛い人であった。
聖書の言葉を勝手に切り取って自分の心に触れる部分だけを偶像化する愚かは誰もが経験する。
その時、恥を知る。
目を抉(えぐ)り取られたサムソンが、
神殿の柱を抱きかかえ巨大なダゴンの像をなぎ倒すハリウッド映画の一シーンを夢想しつつ、
我々の生活の真っ只中にある偶像に気付いてみようではないか。
偶像? わたしゃ、そんなエエもんですか?
讃美歌(1) 158 あめにはみつかい よろこびうたえ
(1)天(あめ)には御使い 喜び歌え つちには世の人 み告げを聞けや
わが君この日ぞ 死に勝ちませる 生命(いのち)もまことも 道もイエスなり
(2)よろずの国民 いそぎ来りて 争いあえりし 昔を忘れ
まことの御国の 基礎(もとい)定めし 独りの御子をば 君とし仰げ
(3)御神は罪ある者をも愛し 御子なるイエスをば 遣(つか)わしませり
許しの御恵み 聖むる力 筆にも声にも 宣(の)べ尽くしえず
(4)御神は我らの 父親なれば 御子なるイエスをば兄上と呼ばん
世人よ親しみ 互いに助け 御旨の成る日を 忍び待てかし
エレミヤ書10章11〜20節
このように彼らに言え。天と地を造らなかった神々は、地の上、天の下から滅び去る、と。御力をもって大地を造り、知恵をもって世界を固く据え、英知をもって天を広げられた方。主が御声を発せられると、天の大水はどよめく。地の果てから雨雲を湧き上がらせ、稲妻を放って雨を降らせ風を倉から送り出される。人は皆、愚かで知識に達しえない。金細工人は皆、偶像のゆえに辱められる。鋳て造った像は欺瞞にすぎず、霊を持っていない。彼らは空しく、また嘲られるもの。裁きの時が来れば滅びてしまう。ヤコブの分である神はこのような方ではない。万物の創造者であり、イスラエルはその方の嗣業の民である。その御名は万軍の主。包囲されて座っている女よ、地からお前の荷物を集めよ。主はこう言われる。見よ、今度こそ、わたしはこの地の住民を投げ出す。わたしは彼らを苦しめる。彼らが思い知るように。ああ、災いだ。わたしは傷を負い、わたしの打ち傷は痛む。しかし、わたしは思った。「これはわたしの病。わたしはこれに耐えよう。」わたしの天幕は略奪に遭い、天幕の綱はことごとく断ち切られ息子らはわたしのもとから連れ去られてひとりもいなくなった。わたしの天幕を張ってくれる者も、その幕を広げてくれる者もいない。
フィリピの信徒への手紙4章4〜5節
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
2021年5月9日 復活節第6主日
5月13日(木)昇天日
5月23日(日)ペンテコステ礼拝
説教題 『主と預言者の昇天』
聖 書 列王記上18章 27〜39節 旧約聖書(新共同訳) 564ページ
マルコによる福音書16章11〜14節 新約聖書(新共同訳) 97ページ
讃美歌(1) 461主われを愛す
「今週末は天気が悪いみたいやで」。トマト、ピーマン、茄子、キュウリの苗を用意する。
タイミングは外せない。
天気予報が外れると気象庁に抗議の電話が鳴りやまなかった時代の記憶があるが、そのような時代は去った。
天気予報は的中する。
紀元前17世紀から11世紀半ば、中国は殷の時代、天候は亀の甲羅や牛の肩甲骨を使って予報された。
甲羅や骨の表に雨が降るか降らないかを問う文言を尖った金属棒で彫り刻み、
裏側から熱した鏨(たがね)を当てると表面にひび割れが生じる。その具合で天候を判断するという。
占うのである。判断は、王に委ねられた。
王は、それによって権威を保った。
稀に予報を外した王の記録もあるらしいが、
占いは、外れてもごま擦り臣下が隠蔽したりすり替えたりして誤魔化したらしい。
預言者エリヤは、暴君アハブ王と妻イサベルの悪行三昧を諫めた。
王国の私物化を強く非難した。
バアルの神から遠ざかり、主なる神への信仰に立ち戻れと迫る。
バアルとは、所有すると言う意味である。
それは、国家の巨大な穀物貯蔵庫をそのものを具体的なイメージとした。
倉庫が神であった。偶像であった。
この神は、貧者には奉仕しなかった。
エリヤは、肉を切らせて骨を断つではないが、
王に富をもたらす穀物収量に決定的な打撃、天からの水源を絶つと予言する。
王に強い改心を迫ったのである。
飢饉は極みに達した。
アハブ王は、バアルの預言者450人を頼みに雨乞いの儀式を始めるが、
その結果は、亀の甲羅占いに等しいものであった。
エリヤは、祭壇を用意させた。
この祭壇は、捧げ物のお下がりに与ることのない焼き尽くしの祭壇である。
多量の薪による火力でもって、牛でも羊でも灰燼に帰すまで焼却するのである。
その香りを天に届けるのである。
主なる神に全てを捧げる潔さを信仰の証とするのである。
エリヤは、祭壇に多量の水を何度も民に命じて注がせる。
その祭壇は、12部族分の石で築かれた。
民の信仰の復活を象徴したのである。
果たして、エリヤの祈りは天に届き、水浸しの祭壇がゴウっと音を立てて燃え上がった。
天から大粒の雨が降り注いだ。
復活のイエスは、星の流れに明日を占っていた不信の弟子たちの前に現れ、
その頑な心を責めた。
イエスは、不信で水浸しになった弟子たちの心の祭壇を燃え上がらせ、
その不信を灰燼に帰した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
エリヤも火の戦車を駆って天に昇って行く。
主と預言者の昇天を見上げる現場に居合わせたいものだ。
この男の意固地も相当なものだ
讃美歌(1) 461主われを愛す
(1)主われを愛す 主は強ければ われ弱くとも 恐れはあらじ
(4)わが君(きみ)イエスよ われをきよめて よきはたらきを なさしめたまえ
わが主イエス わが主イエス わが主イエス われを愛す(折り返し)
Jesus loves me! This I know,
For the Bible tells me so.
Little ones to Him belong;
They are weak, but He is strong.
Yes, Jesus loves me! Yes, Jesus loves me!
Yes, Jesus loves me! The Bible tells me so.
列王記上18章 27〜39節
真昼ごろ、エリヤは彼らを嘲って言った。「大声で呼ぶがいい。バアルは神なのだから。神は不満なのか、それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう。」彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げ物をささげる時刻になった。しかし、声もなく答える者もなく、何の兆候もなかった。エリヤはすべての民に向かって、「わたしの近くに来なさい」と言った。すべての民が彼の近くに来ると、彼は壊された主の祭壇を修復した。エリヤは、主がかつて、「あなたの名はイスラエルである」と告げられたヤコブの子孫の部族の数に従って、十二の石を取り、その石を用いて主の御名のために祭壇を築き、祭壇の周りに種二セアを入れることのできるほどの溝を掘った。次に薪を並べ、雄牛を切り裂き、それを薪の上に載せ、「四つの瓶に水を満たして、いけにえと薪の上にその水を注げ」と命じた。彼が「もう一度」と言うと、彼らはもう一度そうした。彼が更に「三度目を」と言うと、彼らは三度同じようにした。水は祭壇の周りに流れ出し、溝にも満ちた。献げ物をささげる時刻に、預言者エリヤは近くに来て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。
マルコによる福音書16章11〜14節
しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
2021年5月2日 復活節第5主日
説教題 『勇士らは倒れた』
聖 書 サムエル記下1章1〜18節 旧約聖書(新共同訳) 480ページ
ヨハネの手紙一2章9〜10節 新約聖書(新共同訳) 441ページ
讃美歌(1) 140 いのちのいのちに
「この映画には、女はひとりも出てこんのや。砂漠と人殺しばっかりやで」。
果たしてその通りであった。
アラビアのローレンスを梅田の映画館で観た。
戦闘場面は残虐を極めた。
族長が馬上から雑兵の首を刎ねた。
剣で人が殺害される有様を目にしたローレンスの顔が青ざめる。
銃撃戦に慣れた目には刺激が強すぎたのである。
荒野の四十年の旅を終え、イスラエルの民は約束の地にたどり着いた。
その地は、乳と蜜の流れる地ではあったが、無人のパラダイスではなかった。
カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、
アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地であった。
民は、戦いの日々に明け暮れた。
(金太郎は、某手芸教室作品)
短波ラジオや深夜の民放ラジオから保守系福音派の説教が流れていた時期があった。
慰めの言葉の間に攻撃的な言葉が挟み込まれる。
「異教徒のようになってはいけません」、
「あなたの心の中に巣食うカナン人を根絶やしにしなければなりません」。
というようなフレーズが繰り返される。
この種のメッセージがもたらした功罪は多くの人の知る所である。
『ああ、勇士らは倒れた。戦いの器は失われた。(サムエル記下1章27節)』
ダビデとゴリアテの物語は教会人の良く知るところである。
羊飼いの少年ダビデが、ペリシテ人の巨人、鎧兜のゴリアテを投石器ひとつで打ち勝った物語である。
ゴリアテの眉間に小さな石を命中させ、その首をゴリアテの大剣でかき取ったのである。
この瞬間、ダビデは、血筋によらない二代目イスラエル王の名声を勝ち取った。
小さなアイテムで大を制し、世襲によらない経営交代をなす。
経営学の王道を絵に描いたようなエピソードである。
サウル王とその王子ヨナタンは、戦場の露と消えた。
ダビデはサウルと確執があったが、ヨナタンからは友情と尊敬を得ていた。
ダビデは、今、厳かな国葬を執り行っている。
ヨナタンは、弓の名人であった。南北朝時代の貴公子、北畠顕家を彷彿とさせる。
サウル王は、剣の人、血まみれの王であった。
一方、ヨナタンは接近戦の人ではなかった。
パチンコでゴリアテの眉間を割ったダビデに一目惚れ、
恋愛感情にも似た愛を感じたと記されている。
アラビアのローレンスの族長やサウル王の敵も味方も手の届く距離にある感覚が、
弓や投石器の届く範囲に拡大される時が来た。
『今もなお闇の中』(ヨハネの手紙一2章9節)
讃美歌(1) 140 いのちのいのちに
(1) いのちのいのちに ましますイエスよ 主イエスはわがため その身をすてて
ほろびのふちより みちびきいだし くちぬいのちを あたえたまえり
(4)わが身にかわりて 死にたるイエスよ 十字架をあおげば なぐさめもつきず
なやみもおそれも すべて消えゆく 主のめぐみは ありがたきかな
サムエル記下1章1〜18節
サウルが死んだ後のことである。ダビデはアマレク人を討ってツィクラグに帰り、二日過ごした。三日目に、サウルの陣営から一人の男がたどりついた。衣服は裂け、頭に土をかぶっていた。男はダビデの前に出ると、地にひれ伏して礼をした。ダビデは尋ねた。「どこから来たのだ。」「イスラエルの陣営から逃れて参りました」と彼は答えた。「状況はどうか。話してくれ」とダビデは彼に言った。彼は言った。「兵士は戦場から逃げ去り、多くの兵士が倒れて死にました。サウル王と王子のヨナタンも亡くなられました。」ダビデは知らせをもたらしたこの若者に尋ねた。「二人の死をどうして知ったのか。」この若者は答えた。「わたしはたまたまギルボア山におりました。そのとき、サウル王は槍にもたれかかっておられましたが、戦車と騎兵が王に迫っていました。王は振り返ってわたしを御覧になり、お呼びになりました。『はい』とお答えすると、『お前は何者だ』とお尋ねになり、『アマレクの者です』とお答えすると、『そばに来て、とどめを刺してくれ。痙攣が起こったが死にきれない』と言われました。そこでおそばに行って、とどめを刺しました。倒れてしまわれ、もはや生き延びることはできまいと思ったからです。頭にかぶっておられた王冠と腕につけておられた腕輪を取って、御主人様に持って参りました。これでございます。」ダビデは自分の衣をつかんで引き裂いた。共にいた者は皆それに倣った。彼らは、剣に倒れたサウルとその子ヨナタン、そして主の民とイスラエルの家を悼んで泣き、夕暮れまで断食した。ダビデは、知らせをもたらした若者に尋ねた。「お前はどこの出身か。」「わたしは寄留のアマレク人の子です」と彼は答えた。ダビデは彼に言った。「主が油を注がれた方を、恐れもせず手にかけ、殺害するとは何事か。」ダビデは従者の一人を呼び、「近寄って、この者を討て」と命じた。従者は彼を打ち殺した。ダビデは言った。「お前の流した血はお前の頭に返る。お前自身の口が、『わたしは主が油を注がれた方を殺した』と証言したのだから。」ダビデはサウルとその子ヨナタンを悼む歌を詠み、「弓」と題して、ユダの人々に教えるように命じた。この詩は『ヤシャルの書』に収められている。
ヨハネの手紙一2章9〜10節
「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。
兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。
2021年4月25日 復活節第4主日
説教題 『花も嵐も』
聖 書 ネヘミヤ記2章1〜15節 旧約聖書(新共同訳) 739ページ
ヨハネによる福音書11章 25節 新約聖書(新共同訳) 189ページ
讃美歌(1) 529 ああうれしわがみも
「この海苔の佃煮、賞味期限過ぎとるけど大丈夫かな?」。
「なに言うてんのん。大丈夫、大丈夫。腐ってへんから食べられるって」。
タフな夫婦だ。
「もやしの髭、全部きれいに掃除したで」。「もやしの髭は、取らなあかんよ」。
細かい一面もある面白い夫婦だ。
ネヘミアは、アルタクセルクセス王の献酌官であった。
王に酌をする側近である。毒味役である。
毒味役と言えば、落語の『目黒の秋刀魚』に登場する滑稽に自己保身を演じて市井の人たちの笑いを誘う家来たちを思い浮かべる。
落語に登場する毒味役は、殿の機嫌を取る取り巻き、太鼓持ち、社長漫遊記の世界である。
町の映画館を沸かせた森繁久彌や三木のり平が懐かしい。
出世はしたが、故郷無き者となったネヘミアは、顔で笑って心で泣く日々であった。
栄華を極めたソロモンの王国は、北と南に分裂、滅亡、あるいは生殺しの憂き目に遭う。
北王国の滅亡と南ユダ国の捕囚である。
王が国を私物化したことが原因である。
神の愛は深いが、背信には厳しい。
神は、外圧をもって民を裁く。紀元前586年、新バビロニアによって捕囚民とされる。
その期間は五十年近くにも及ぶ。ユダヤの民は、根無し草にされてしまった。
紀元前539年、バビロニアを駆逐したペルシャが捕囚の民を解放しエルサレムへの帰還を許したが、一部の者は残された。
有能な者たちを帝国が手放さなかったのである。
多くのユダヤ人は、エルサレムに帰ったが、国は荒れ放題、再建は、烏合の衆の手に負えなかった。
ネヘミア、その名には、『癒し』という意味が込められている。
外国人として王の命を預かる毒味役、
献酌官という地位に上り詰めるには有能な官僚に求められる以上の何かを持ち合わせていなければ叶うことではない。ネヘミアには、人の心に飛び込んで行く無私があった。
王に盃を勧めながら、王の心を溶解した。
ネヘミアは、汝の敵を愛したのである。
王は、常々、ネヘミアの愛に負い目を感じていた。
「お前は明るく振る舞っているが、その目が悲しげであるのはなぜか」。
やっと導き出した人の心の誠。
エルサレムの荒廃を親族から聞かされ居ても立ってもおれない気持ちが王に通じた。
幾多の月に叢雲、花に嵐の妨害を乗り越え、立派ではないが、僅か52日で、エルサレムの城壁が修復された。
民の信仰も再生された。
修復事業のために王からエルサレム総督に任命され権威も与えられたが、ネヘミアも親族もその給与を固辞した。
神の事業をカネには替えなかったのである。
『わたしを信じる者は、死んでも生きる』
神殿の再建は、イエスの復活を彷彿とさせる。
我が家の城壁。♪寂しかったボクの庭にバラが咲いた♪
讃美歌(1) 529 ああうれしわがみも
(1)ああうれし我が身も 主のものとなりけり 浮世だにさながら天つ世の心地す
(2)残りなく御旨(みむね)に任せたる心に えも言えず妙なる幻を見るかな
(3)胸の波収まり心いと静けし 我もなく世もなくただ主のみいませり
(※)歌わでやあるべき救われし身の幸(さち) たたえでやあるべき御救いのかしこさ
ネヘミヤ記2章1〜15節
アルタクセルクセス王の第二十年、ニサンの月のことであった。王はぶどう酒を前にし、わたしがぶどう酒を取って、王に差し上げていた。わたしは王の前で暗い表情をすることはなかったが、王はわたしに尋ねた。「暗い表情をしているが、どうかしたのか。病気ではあるまい。何か心に悩みがあるにちがいない。」わたしは非常に恐縮して、王に答えた。「王がとこしえに生き長らえられますように。わたしがどうして暗い表情をせずにおれましょう。先祖の墓のある町が荒廃し、城門は火で焼かれたままなのです。」すると王は、「何を望んでいるのか」と言った。わたしは天にいます神に祈って、王に答えた。「もしも僕がお心に適い、王にお差し支えがなければ、わたしをユダに、先祖の墓のある町にお遣わしください。町を再建したいのでございます。」王は傍らに座っている王妃と共に、「旅にはどれほどの時を要するのか。いつ帰れるのか」と尋ねた。わたしの派遣について王が好意的であったので、どれほどの期間が必要なのかを説明し、更に、わたしは王に言った。「もしもお心に適いますなら、わたしがユダに行き着くまで、わたしを通過させるようにと、ユーフラテス西方の長官たちにあてた書状をいただきとうございます。
また、神殿のある都の城門に梁を置くために、町を取り巻く城壁のためとわたしが入る家のために木材をわたしに与えるように、と王の森林管理者アサフにあてた書状もいただきとうございます。」神の御手がわたしを守ってくださったので、王はわたしの願いをかなえてくれた。こうして、わたしはユーフラテス西方の長官のもとに到着する度に、王の書状を差し出すことができた。王はまた将校と騎兵をわたしと共に派遣してくれた。ホロニ人サンバラトとアンモン人の僕トビヤは、イスラエルの人々のためになることをしようとする人が遣わされて来たと聞いて、非常に機嫌を損ねた。わたしはエルサレムに着き、三日間過ごしてから、夜、わずか数名の者と共に起きて出かけた。だが、エルサレムで何をすべきかについて、神がわたしの心に示されたことは、だれにも知らせなかった。わたしの乗ったもののほか、一頭の動物も引いて行かなかった。夜中に谷の門を出て、竜の泉の前から糞の門へと巡って、エルサレムの城壁を調べた。城壁は破壊され、城門は焼け落ちていた。更に泉の門から王の池へと行ったが、わたしの乗っている動物が通る所もないほどであった。
ヨハネによる福音書11章 25節
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。
2021年4月18日 復活節第3主日
説教題 『菓子パン』
聖 書 列王記上17章1〜19節 旧約聖書(新共同訳) 561ページ
コロサイの信徒への手紙3章2節 新約聖書(新共同訳) 371ページ
讃美歌(1) 246 かみのめぐみはかぎりなく
「センセ!教会の台所を粉だらけにして何をしてらっしゃるの!」。
「一握りの粉って、何グラムあるか計ってたんや。
聖書の学者でも、ここまでせんやろ。84グラムあったわ」。
「それは、女の手ですくってと違いますか? センセの大きな手とは違いますよ!」。
「なるほど、ごもっとも」。
手の大きさにかかわらず、一握りのメリケン粉では団子汁の二杯がせいぜいだろう。
ロールパンなら2個と言ったところだ。
湯も沸せない大学教授がいた。
夫人が風邪をひいた。
「キシモトさん聞いてちょうだい。主人たらジャガイモまるごと一個、そのまま鍋に入れて、茹でて、わたしの病人食やて言うのよ」。
見るに見かねて、教授の分も合わせて十日ほど食事を運んだ。
「ボクはまるでエリヤみたいだね。キシモト君ありがとう」。
「ボクはカラスですか?」。
預言者エリヤはカラスや貧しいシングルマザーに何日も食べさせてもらった。
カラスは、パンと肉を運んで来た。豪勢な差し入れだ。
カラスの胡散臭いイメージは、闇社会や反政府軍を暗示しているも知れない。
一方、サレプタの女には、なけなしのメリケン粉と数滴の油しか残っていない。
エリヤは、その貧弱な材料で、真っ先に自分用の菓子パンを作れと言う。
その後で、女と息子のパンを焼いて食えと言う。
女は、最後の食事をして息子と心中するつもりであったが、壺や瓶の底は尽きることがなかった。
女は、マイナスのスパイラルに休止符が打たれたと思ったに違いない。
ところが、息子が病死してしまうのである。
女は悪態をついた。「あんたは、疫病神だ。わたしを苦しめて面白いのか」と。
この後の展開は、賢明な信仰者の良く案内するところである。
復活節第三主日に相応しい場面だが、浪花節のセオリーに従えば、「丁度、時間となりました」となる。
『彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。
「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」
主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。
子供は生き返った』(列王記17章21・22節)
エリヤは偉大な預言者であった。
石をパンに変え、高層ビルから飛び降りて軟着陸もした。
奇跡の人であった。火の戦車を駆って天に昇った。死ぬことのない人であった。
王に厳しい意見をした。王や王妃の暴政を批判した。
エリヤは、国家財政に致命的ダメージを与えると王を脅す。
穀類生産のインフラを止めると言う。旱魃(かんばつ)の預言である。
その瞬間、エリヤは全国指名手配者、逃亡者、キンブル博士(The Fugitive)となる。
逃亡者エリヤがサレプタの女に求めた菓子とは、匙一杯の油を混ぜて練ったパン生地を焼いたものと想像する。
疲れた心と体に、ほのかな油分の甘味を求めたのである。
貧しさの極みにある人に。それを求めたのである。
まさにこの姿は、十字架に相似である。
サレプタの女の死んだ息子に覆いかぶさる命の人、エリヤの姿である。
讃美歌(1) 246 かみのめぐみはかぎりなく
(1)かみのめぐみは かぎりなくとも ゆるさるべきか このつみは
(2)みいつをなみし みわざをあおぎ ながくめぐみに そむきまつりぬ
(3)「いかですつべき まどわで来よ」と み手をひろげて 主は待ちたもう
(4)主のあわれみの なみだにやどる 父のみかみの めぐみはつきず
列王記上17章1〜19節
ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。
「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。
わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
主の言葉がエリヤに臨んだ。
「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。
わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」
エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。
数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。
水はその川から飲んだ。
しばらくたって、その川も涸れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからである。
また主の言葉がエリヤに臨んだ。
「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」
彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。
エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。
彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。
彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。
ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。
わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。
わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」
エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。
だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。
その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。
なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。
主が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることなく瓶の油はなくならない。」
やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。
こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。
主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。
その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。
病状は非常に重く、ついに息を引き取った。彼女はエリヤに言った。
「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。
あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」
エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、
自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。
コロサイの信徒への手紙3章2節
上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
2021年4月11日 復活節第2主日
説教題 『都わすれ』
聖 書 マタイによる福音書28章6〜節 新約聖書(新共同訳) 59ページ
イザヤ書65章1〜18節 旧約聖書(新共同訳) 1167ページ
讃美歌(1) 177 かみのいきよ
「先生、男の一番出来の悪いのと女の一番出来の良いのと、どっちが出来が良いと思うかね」。
先生を『しぇんしぇい』と発音する。「ワシの顔、四角くぅてイカツイやろ。西郷さんみたいや。九州の人間やからな」。
そう言うのだが、実際は、瓜実顔の穏やかで華奢(きゃしゃ)な紳士である。上品が服を着て歩いているような人である。
「男の出来の悪いと女の出来の良いの、どっちかね」と何度も聞く。
福祉事業を広く展開する教会役員である。妻には日常的に圧迫されている。
返答を誤魔化して退散を重ねる。
答えは、簡単だ。イエスの刑を執行した兵士たちは、くじを引いてイエスの衣服を分け合う。
墓の警備兵たちは、金を受け取って、イエスの死体が盗まれたと言われるままの下手な芝居を演じる。
これが、最低男の見本だ。これが、答えだ。組織の中で飯を食った人なら誰もが認める自らの姿だ。
イエスの十字架、葬り、復活と続く砂かぶり席に複数のマリアの名を見る。マグダラのマリアはどの場面にも登場する。
かの紳士に言わせると、一番出来の悪い女の筆頭だ。
イエスの母マリアと妹とされるマリアも弟子の母マリアもいた。
ガリラヤからついて来た婦人たちの中にも多くのマリアがいたであろう。
近隣への外出でさえ夫や家長の許しが必要であった時代、
イエスの周辺には行動の自由を無理にでも押し通した大勢のマリアたちがいたのである。
マリアたちは、イエスが弟子たちに先立ってガリラヤに行くことを弟子たちに伝える道中、復活のイエスに出会う。
混乱と喜びが交差する。
イエスの口からも同じ言葉が発せられる。ガリラヤで待つと。
懐かしい故郷でのリユニオンの喜びはマリアたちや弟子たちの心を躍らせた。
マリアたちや弟子たちは、元の生活がもう一度繰り返されることを期待した。
お気に入り録画番組を何度も観るようなことを望んだ。
しかし、それは、イエスの心と大きく隔たっていた。
イエスは、このリユニオンは最初で最後であると宣言する。
お前たちは、このガリラヤから出て行くのだ。
世界に向けて福音を述べ伝えるのだ。
今から故郷無き者、ハイマートロス、キリスト馬鹿となるのだ。
『兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。
この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている』
福音書は、弟子たちをユダヤ人から切り離した。
弟子たちは、ガリラヤの人、ユダヤ人には戻れない。
『都わすれの苗』 エルサレムを忘れてガリラヤへ行ったのだが、、、、、
讃美歌(1) 177 かみのいきよ
(2)かみのいきよ われをきよめ みかたちの如く ならせたまえ
(3)かみのいきよ われに満ちて みこころを常に なさせたまえ
(4)かみのいきよ われを活かし み(側)そばをはなれず おらせたまえ
マタイによる福音書28章6〜節
「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
イザヤ書65章1〜18節
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する。
2021年4月4日 イースター(復活日)復活節第1主日
説教題 『甘えない甘え』
聖 書 ヨハネによる福音書20章1〜18節 新約聖書(新共同訳) 209ページ
詩編30編4節 旧約聖書(新共同訳) 860ページ
讃美歌(21) 讃美歌(1) 148 すくいのぬしは ハレルヤ
「三日ほど着た下着は、そのまま丸めてクローゼットに放り込んでおくんです。
それから、三日前に放り込んだものを着るんです。それの繰り返しですわ」。
「クローゼットは洗濯機じゃないよ」。
親元を離れた大学生のずぼら生活が始まった。
「イギリスやフランスの若者はみんなそうしてますよ」。いい加減なことを嘯(うそぶ)く。
マグダラのマリアの知らせを受けてペテロとヨハネはイエスを葬った墓所へ赴いた。
墓所は、蛻の殻(もぬけのから)となっていた。
『イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった』。
横着な大学生の下着のように丸めて放置されたシーツ状の布は、イエスの復活のリアルを余すところなく伝えている。
乱暴な物的証拠がそこにあった。ペテロとヨハネは、『見て、信じた』。
そして、アジトへ直行した。
地下運動者たちにとってその現場は余りにも危険すぎたのである。ヤバイ場所だったのである。
マグダラのマリヤは、泣き続けた。イエスの姿が見当たらないことに混乱していた。
マグダラのマリアは、イエスに七つの悪霊を追い出してもらった女である。
イエスに、七つの悪霊、七は多数の象徴であるので、分かりやすくいうとタチの悪い男関係、
あるるいは、悪しき数多の人間関係を断ち切ってもらったのである。
イエスは、マリアから悪霊を追い出しただけではなく、マリアの友となる。
身持ちの悪い女と後ろ指刺されるマリアに頓着が無かった。マリアにはそれが嬉しかった。
十字架を目前にしたイエスに高価な香油を惜しみなく注いだのもこのマグダラのマリアであった。
その高価な香油はどのようにして手に入れたかは想像に難くない。
弟子たちは責めたが、イエスは、マリアの好意を喜んで受けた。
マリアは刑場のイエスを息絶えるまで見守った。
イエスにはもう二度と会えないことを自分自身に言い聞かせた。
ペテロやヨハネは丸めたシーツを見てイエスの復活を確信し始めたが、マリヤにその理解はなかった。
泣き続けた。
イエスの声があった。名前を呼ばれた。マリアと呼ばれた。「先生(ラボニ)」と返した。
マリアはさらにイエスに近づこうとした。当然の行為だ。
イエスは撥ねつける。「わたしにすがりつくのはよしなさい」。
お菓子のマドレーヌもマリリン・モンローのマリリンも『マグダラ』から派生している。
ベタベタした甘さのイメージを伴う。
官能をも丸呑みにするイエスの愛なのだが、甘えない甘えもあるのだ。
乳と蜜の流れるカナンへの道、未だ遠し。(復活日の朝食)
讃美歌(1) 148 すくいのぬしは ハレルヤ
(1)すくいのぬしは ハレルヤ よみがえりたもう ハレルヤ
かちどきあげて ハレルヤ み名をたたえよ ハレルヤ
(2)十字架をしのび ハレルヤ 死にて死にかち ハレルヤ
生きていのちを ハレルヤ ひとにぞたまう ハレルヤ
(3)主の死によりて ハレルヤ すくいはなりぬ ハレルヤ
あまつつかいと ハレルヤ ともにぞうたわん ハレルヤ
ヨハネによる福音書20章〜18節
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。
「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
それから、この弟子たちは家に帰って行った。
マリアは墓の外に立って泣いていた。
泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。
一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。
「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」
マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。
まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。
『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。
マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
詩編30編4節
主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせ、わたしに命を得させてくださいました。
2021年3月28日 棕櫚の主日・復活前第1主日
説教題 『子ロバかく語りき』
聖 書 マタイによる福音書21章1〜14節 新約聖書(新共同訳) 39ページ
ゼカリヤ書9章8〜9節 旧約聖書(新共同訳) 1489ページ
讃美歌(こども) 5 こどもをまねく
「ロバを飼うてみたいねんけど」。
「あれはな、頑固で、言う事を聞かん。急に蹴っ飛ばっしょる。危険な動物や」。
父が言う。
「ラクダ部隊におったことがあるけど、ラクダは普通に歩いても兵隊は駆け足や」。
脈絡のない父と子の会話であった。
友人に田舎育ちの牧師の息子がいた。
「子供のころサ、親父がサ、ヤギを飼ってたんだけどサ、
そのヤギはサ、三男坊の小さなボクを馬鹿にして、
いつも、思いっきり突進してくるのサ」。
一生に一度だけ主人に反抗したロバがいた。
神の御心に反して誤った方向に進むバラムなる人物の前に剣を振りかざした天使が道を塞ぐが、
バラムはなおも自分の道を進もうとする。
ロバは、狭い道の石垣にバラムの足を押し付け行かせまいとする。
バラムの癇癪が頂点に達し、ロバはしたたか棍棒で打たれる。
ロバは、涙ながらに、主人を思っての反抗だと訴える。
『ろばはバラムに言った。「わたしはあなたのろばですし、
あなたは今日までずっとわたしに乗って来られたではありませんか。
今まであなたに、このようなことをしたことがあるでしょうか。」(民数記22:22-35)
『イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て』(マタイ21章7節)
イエスは、子ロバに乗ってエルサレムに入場する。人
々は歓喜し、上着を道に敷き詰め、手に手に木の枝を振る。
イエスの公的生涯は三年半とされている。
その最も濃厚、濃密な一週間の始まりであったが、
群衆の歓呼は、その週の金曜日には十字架のイエスへの罵倒となる。
弟子たちも蹴散らかされてしまう。
ロバだけは、例外であった。さすが、バラムを諫めたご先祖様の末裔である。
イエスを乗せたのはゼカリヤの預言通り子ロバであった。
母親のロバと一緒だったと書かれている。
バラムのロバは、人間の口をきいたロバとして漫画化されたりするが、
イエスを乗せた子ロバもひょっとして、喧騒に?き消されながらも母ロバに何か言ったかも知れない。
二歳、三歳児の男の子のような口ぶりで。
「お母ちゃん、ボク、イエスさまをお乗せしてるよ。ちっとも重たくなんてないよ」。
弟子たちは、宮浄めまでは大統領専用車のボディーガードさながらの格好良さがあったが、
その後は、ボロボロである。
香油を注いだマリアをもっともらしい理屈で叱る。
鶏が鳴くまでに三度イエスを知らないと言う。
我々も同様である。
バラムのロバを打ち続けている。
一生に一度の反抗
讃美歌(こども) 5 こどもをまねく
(1)こどもをまねく 友はどなた こどもの好きな イエスさまよ
(2)こどもをまねく 王はどなた こどもを守る イエスさまよ
(3)こどものまねく 神はどなた こどもを救う イエスさまよ
(くりかえし) ホサナと歌え ホサナと歌え こどもの好きな イエスさまを
マタイによる福音書21章1〜14節
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山に面したベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。
「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。
それをほどいて、私のところに引いて来なさい。
もし、誰かが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。
すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。へりくだって、ろばに乗り荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に上着を掛けると、イエスはそれにお乗りになった。
大勢の群衆が自分の上着を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように。
いと高き所にホサナ。」イエスがエルサレムに入られると、都中の人が、「一体、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを覆された。
そして言われた。「こう書いてある。
『私の家は、祈りの家と呼ばれる。』
ところが、あなたがたは、それを強盗の巣にしている。」
境内では、目の見えない人や足の不自由な人たちが御もとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。
ゼカリヤ書9章8〜9節
私は私の家に宿営して、行き来する者を見張る。もはや虐げる者が彼らを踏みにじることはない。
私が今、この目で見守っているからである。娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。
あなたの王があなたのところに来る。
彼は正しき者であって、勝利を得る者。へりくだって、ろばに乗って来る。雌ろばの子、子ろばに乗って。
2021年3月21日 復活前第2主日
説教題 『罪深い肉と同じ姿で』
聖 書 ローマの信徒への手紙8章1〜18節 新約聖書(新共同訳) 428ページ
詩編118編5〜6節 旧約聖書(新共同訳) 134ページ
讃美歌(1) 373 うれしやはるべは
「な、キシモト君、こうすると、ふんわりしたスキヤキが出来るんや」。
榎本保郎先生は、白菜と肉を交互に重ね合わせ、割り下を回しかけて後、蓋をして、おもむろに鍋を火にかけた。
得意顔の先生をからかってみたくなった。
「先生、これは、まさしく、先生御自らのお手による絶品の『霊的』なスキヤキですね」。
霊的という言葉を使ってちいろば牧師を揶揄したのである。
速攻の反撃があった。
「何言うとんのや。キシモト君。スキヤキ言うたら、『肉的』なもんと決まっとるやろ」。
中村遥先生ご夫妻の大阪水上隣保館を会場とする春の同信会が懐かしい。
一癖も二癖もある牧師の集会だ。タケノコのシーズンでもある。
昼食はスキヤキと決まっていた。
放言高論の某牧師の顔が見える。そのテーブルには誰も寄り付かない。
その傍若無人に付き合うのはキシモトぐらいである。
老牧師の食前の祈りが長い。
「センセ、お祈りが長いで。早ようスキヤキ食べようや。皆さんの鍋から煙出とるでえ」。
各テーブルから押し殺した苦笑が漏れる。
榎本保郎先生と横に並んで機関紙の発送を手伝ったことがある。
私の分担の折り目の箇所に『保郎』の活字が気の遠くなるほど重なる。
テンポを付けてひたすら折った。
「ヤスロウ、ヤスロウ、ヤスロウはポロウか。
ポロウ、ポロウ、、、、、」と『ポロウ』を口に出して調子を出した。
ちいろば牧師はイライラした。
「キシモト君、ワシの名前はやな、ヤスロウやよってに、確かにポロウや。
ポロウはポーロ、パウロのことや。ワシは生まれた時からパウロなんや」。
―罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り―
初期のキリスト教は、ユダヤ・へブルの枠組みを超えて地中海世界へと波及していく。
キリスト教は、ユダヤ人の宗教ではなくなった。
ギリシアやローマの文化的背景を持つ新しい枠組みが主流となっていく。
パウロはへブル的人間観を異邦人の思考に合わせて人間を霊的存在と肉的存在の両面と通訳する。
さらに、前者に価値を与えたのである。
一方、へブル的人間は霊肉に分離されない。
アダムは、エバとの出会いに歓喜して叫んだ。
『ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉(創世記2:23)』。
パウロの翻訳アプリは、アダムを大きく失望させたかも知れない。
『んがない 世を渡り行く 風狂子(ふうきょうし)』 一休寺近くの電柱
『ん』は、『うん』である。感動詞である。
感動詞は、主語、述語、修飾語になることも他の語に修飾されることもない。
この歌は一休が超えようとした何かを『ゆるやかに』表現しているのだ。
讃美歌(1) 373 うれしやはるべは
(1) うれしや春べは 若草もゆる 野らをたがやして ひばりとともに
ほめうたいつ たねをばまきつ み神にたよれば つとめもたのし
(2) うれしや秋立ち 見わたすかぎり こがねの穂波は しずかに打てり
たゆまずつとめし わざを祝せる み神に謝しつつ ともに刈入れん
ローマの信徒への手紙8章1〜18節
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。
つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。
従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。
キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。
もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、
キリストを死者の中から復活させた方は、
あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、
それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。
しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。
この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
もし子供であれば、相続人でもあります。
神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。
キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
詩編118編5〜6節
苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた。
主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。
2021年3月14日 受難節第4主日
説教題 『この体を仮の宿として』
聖 書 ペトロの手紙二1章5〜20節 新約聖書(新共同訳) 428ページ
出エジプト記24章3節 旧約聖書(新共同訳) 134ページ
讃美歌(1) 525 めぐみふかき主のほか
「センセ、わたし、牧師の経験が薄いと言われました。悔しいんです」。
大学で社会学を教える傍ら牧師資格も持っている。
教鞭を執りながら牧師館の住人になりたいと言う。
「女やからダメなんですか」。
小さな教会の役員会とお見合いをしたらしい。
「あんたはな、留学もして勉強もよう出来る。それを鼻にかけたりもせん。人間性も穏やかで言う所ないけどやな」。
「そんなら、なんで、断られたんですか」。
「それはやね。おそらく、その教会の役員は、『我ローマを見た者なり』を求めとるんと違うやろか」。
「どういう意味ですか」。
「天正のキリシタン少年使節団のことや。
帰国したら国内の事情が変わとって迫害の憂き目に遭うたけど、殉教したひとりの少年が発した最後の言葉や」。
「センセの話は、分かりやすいようで分かりにくいです。わたしが、先方の長老さんにコケにされた事とどう関係があるんですか」。
教会が牧師に求めるもの、それは、教会用語でいう所の『牧会力』である。
牧師がひとりひとりの信徒に寄り添うことを意味する。
その積み上げ、積み重ねが牧会経験となる。
「あなたは、牧会経験が無いですから」。正確にはそう言われたらしい。
経験というものは誰でもスタートはゼロからなのだが、言う方も言う方である。
「要するにや、牧会経験とは、写りの悪いテレビで再々放送の時代劇でも観ながら、シケタ昼飯を食べる。
そのテーブルで来週の説教の原稿を書く。ただ、それだけのことや。
あんたには、そういう生活なかったし、これからも無いやろ。
長老さんは、あんたに、それでええのか問うたのやと思う」。
松村達雄が牧師を演じた。戦争経験者の良心がそこにあった。誰もの記憶にある『牧師さん』だ。
川谷拓三が牧師を演じた。経済成長期の荒唐無稽があった。
昼は牧師、夜は闇の賭けボクシングで生活費を得る。
牧師夫人役の桃井かおりは、お色気グラビアモデルと念が入っている。
この役者たちが演じた牧師が、シケタ昼飯の食卓の前にいる。
ペテロは言う。『わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです』。
ペテロは変えられた。数少ない生前中のイエスを知る者となった。
今や、ペテロは、山上の変容の場に戻った。
後の後悔先に立たず。
鶏が三度鳴く前にイエスを知らない人だと言ったペテロのことは多くの人が知るところだ。
そのペテロが、殉教の死を前に、『自分がこの体を仮の宿としている間』と、無学な者にしては随分と気の利いた、ギリシャの哲学者のような物の言い様で、すなわち、この手紙の読者のインテリジェンスに耐え得る言葉で、最後の力を振り絞って、キリストと共にある生と死の喜びを訴えている。
『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』ペテロの胸にモーセの言葉が響く。
白玉ぜんざいにアイスクリームがON。撮影者によると、大変美味であったとのこと。
讃美歌(1) 525 めぐみふかき主のほか
(1)恵み深き 主のほか、たれかわれを なぐさめん
(2)わが主ともに いまさば 悪魔われを いかにせん
(3)きよきみむね おしえて はたしたまえ みちかい
(4)とうとき主よ、われをば 君のものと したまえ
わが主、わが神、恵みたまえ ただ頼りゆくわが身を (おりかえし)
ペトロの手紙二1章5〜20節
だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、
忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、
わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。
これらを備えていない者は、視力を失っています。
近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。
だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。
これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。
こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。
従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです。
あなたがたは既に知っているし、授かった真理に基づいて生活しているのですが。
わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、
奮起させるべきだと考えています。
わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、
自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。
自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます。
わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、
わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。
わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。
荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。
わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。
わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。
こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。
夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、
どうかこの預言の言葉に留意していてください。
何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。
出エジプト記24章3節
モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、
民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。
2021年3月7日 受難節第3主日
説教題 『そのようなことがあってよいのか』
聖 書 ヨブ記1章 11ー21節 旧約聖書(新共同訳) 775ページ
ペトロの手紙一 4章 12〜13節 新約聖書(新共同訳) 433ページ
讃美歌(1) 139 うつりゆくよにも
「ワシは離婚したんか。ヨメと別れてることになってるちゅうのは、ほんまか」。
「どないなっとるねん。ワシは、離婚届にハンコなんぞ押した覚えはないで。そんなこと勝手にできるもんやろか」。
「ヨメと息子の企みや。ワシの財産みんな持っていきよるんや」。
大きな声が役場に響き渡る。
庁舎が木造であった頃のことである。
聞くなと言っても無理だ。
知らんふりして居合わせた人たちが興味津々に聞き耳を立てる。
係員が丁寧に応対する。
40分は経過した。「そんなら、いっぺん、家に帰ってヨメに聞いてみるわ」。
何やら納得して軽トラックで帰って行った。
都市近郊の典型的な農業者と見受けた。田畑、山林を多く所有する資産家であろう。
「ヨメが息子と結託して相続のことを画策しているらしいんや。それで、ワシを戸籍から外したんと違うやろか」。
多くを所有することは人の悩みを極みに至らせる。
ヨブ記に登場するヨブも多くを所有していた。
良く出来た息子七人に娘三人、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに加えて多くのしもべが彼のものだった。
昔昔亭桃太郎(せきせきてい・ももたろう)という落語家がいる。
自作の「金満家族」が荒唐無稽で面白い。
使っても使っても使い切れないほどの財産があり途方に暮れる。
息子や娘たちも出来が良すぎて金が掛からないどころか良い仕事を得て億、兆単位の収入は増える一方。
金銀ダイヤモンド、書画骨董をどぶに捨てるような扱いをしても資産は減らない。
挙句の果てには出来の良い子に育てた妻を叱責する有様。
オチが何であったか忘れてしまったが、余りの馬鹿々々しさに腹を捩った。
ヨブの豊かさも金満家族に見劣りするものではなかった。
その上、ヨブは『そつ』が無かった。思い上がりが無かった。
へブル的信仰観によると、祝福は精神的な豊かさだけを意味しない。
霊肉混然一体が人を人たらしめている。物的な祝福は必然である。
物的に恵まれない者は信仰が無いとする受け止めが幅を利かす。
多くの資産があっても、ある日無一文になれば、その人は、神に捨てられた者となる。
とある集会所の吊照明が揺れての帰り道、車のラジオが東北の地震と津波を報じた。
帰宅後のテレビ画面に息を飲んだ。
死者、行方不明、2万人を超える。
ヨブもその一人となった。
ヨブ記は、それでは、余りにも余りだとして結末をハッピーエンドで締めくくった。
喪失の回復を強く願った。
ヨブと言う名前は、『そのようなことがあってよいのか』という理不尽を神に強く問い質す意味合いを持っている。
『アンチ氏』、それがヨブの名である。
それが、ヨブ記の内容である。
ミス・デントンは愛する同志社女子学生の卒業式にキャンパスに咲く可憐なすみれをひとりひとりの胸に飾ったと言う。
讃美歌(1) 139 うつりゆくよにも
(1)うつりゆく世にも かわらで立てる 主の十字架にこそ われはほこらめ
(2)聖書(みふみ)の光は 罪をあがなう 十字架のうえにぞ みな集まれる
(3)おそれと悩みの せまるときにも 十字架はやすきと 喜び満てり
(4)十字架のうえより さしくる光 ふむべき道をば 照らしておしう
(5)わざわいさいわい よしあしともに ただ十字架にこそ きよくせらるれ
ヨブ記1章 11ー21節
サタンは答えた。
「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。
彼の手の業をすべて祝福なさいます。
お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。
ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。
面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
主はサタンに言われた。
「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」
サタンは主のもとから出て行った。
ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。
ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た。
「御報告いたします。わたしどもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。
牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
彼が話し終らないうちに、また一人が来て言った。
「御報告いたします。
天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
彼が話し終らないうちに、また一人来て言った。
「御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。
牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った。
「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。
すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。
わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
ペトロの手紙一 4章 12〜13節
愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、
何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。
むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。
それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。
2021年2月28日 受難節第2主日
説教題 『砂漠にさふらんの花が咲く』
聖 書 イザヤ書35章1〜10節 旧約聖書(新共同訳) 1116ページ
ヨハネの手紙一 3章5〜11節 新約聖書(新共同訳) 444ページ
讃美歌(1) 216 ああうるわしき
「アイラブユーの先生や!」。
常連の芝居客が贔屓の役者に声を掛けるような挨拶をしてくれる。
クラブ帰りの男子中学生の集団だ。キリスト教主義学校の朝は礼拝から始まる。
その時間は、寝ているか、騒がしくしているか、どちらかだ。
だから、眼を開いたまま寝る生徒や、口を開かずにお喋りが出来る生徒の未来は明るい。
思春期のしたたかに耐える何かが求められる。寝ておられない、喧しくしておられないお話しが求められる。
説教者には、なりふり構わない『荒唐無稽』の選択を余儀なくされる。
「そんなことしてるのキシモトさんだけやで」と言われてもやるしか無い。
マイクに思い切り近づいて、「アイラブユー!」と挨拶する。
中高生の礼拝堂は、主の民が彷徨った砂漠、捕囚の地バビロンそのものなのだから。
五十年を遥かに超える高校生時代の記憶がある。
その日の礼拝堂も、いつものように船底のハンモックに泥のように眠る水兵たちで溢れていた。
若禿の牧師が講壇に立った。それだけで、生徒たちは自分たちが優位に立っていると感じた。
若禿はマズイ。しかし、良く見た。観察は好きなのである。二千年前のギリシャ彫刻の男前がそこにいた。
男前過ぎた。講壇を注視した。
話が始まった。
「今日、朝、家を出る時に、小さな娘たちが、お父ちゃまも死ぬのって、聞くんですよ。
それを聞いて、ボ、ボ、ボクは、、、、」。若禿先生は、マイクの前に立ち尽くし、目に涙を溜めて嗚咽した。
ゴングと同時に挑戦者の強烈な一発を喰らったチャンピオンの呆然だ。
対応に狼狽えたが、チャンピオンの反撃が始まった。
思春期男子特有の妄想だ。隣席の友人が小声で言った。
「ボクな、あの先生の娘さんと結婚するかも知れん。
姉のほうか妹のほうかそれはまだ分からんけど、年はちょっと離れて下や。
先生はハゲやけど、男前やろ。それに、娘は父親に似るちゅうし、それに、娘は絶対ハゲとちゃうしな」。
妄想を積み重ねることによって人は人になる。
神は自らに似せて人をつくったと聖書の一丁目の一番地に書いてある。
『似せて』は、『イメージ』に同じである。
デジタルに少々明るい人ならイメージと言えば、それは『image』なる小文字の横文字のことであり、
それが、どれほどの実体を示すか日常の退屈なパソコンワークの中で身に染みている。
批判を恐れず断言したい。信仰は、妄想に限りなく近い。
約束の地への長旅、捕囚の民としての諦めの日々、それは、一世代が交代するほどの期間であった。
寝るか、騒ぐか、どちらかのことでしか気の紛れようがない無機の世界である。
荒唐無稽の呼び水でも無ければ一滴の水も生じない。花も咲かない。
口語訳聖書は、『野ばらの花』を『さふらん』と訳していた。学問的な正確さより、イメージを優先させたのである。
リヤカーほどのミニ運搬車。春を運んでみたいものだ。
讃美歌(1) 216 ああうるわしき
(1)あぁうるわしきシオンのあさ ひかりぞ照りそめける
やみにまようくにぐにも いざともにいわえかし
(3)荒れし地にも花は咲き いずみは湧きあふれて
よもの山にひびきつつ よろこびの声すなり
(4)おぉうみよりも陸(くが)よりも み神をたたえまつれ
みちのひかりかがやさて あまねく世を照らせり
イザヤ書35章1〜10節
荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。
花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。弱った手に力を込めよろめく膝を強くせよ。
心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。
そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで荒れ地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなる。
山犬がうずくまるところは、葦やパピルスの茂るところとなる。
そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。
主御自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。
そこに、獅子はおらず、獣が上って来て襲いかかることもない。
解き放たれた人々がそこを進み、主に贖われた人々は帰って来る。
とこしえの喜びを先頭に立てて喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え嘆きと悲しみは逃げ去る。
ヨハネの手紙一 3章5〜11節
あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。
御子には罪がありません。御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。
罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。
義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。
罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。
悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。神から生まれた人は皆、罪を犯しません。
神の種がこの人の内にいつもあるからです。
この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。
神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。
正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。
なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。
2021年2月21日 受難節第1主日
説教題 『艱難に臨む』
聖 書 ヤコブの手紙1章9〜20節 新約聖書(新共同訳) 421ページ
申命記30章17〜20節 旧約聖書(新共同訳) 329ページ
讃美歌(1) 268 まごころもて
「ボクは、けっして、おいもをほりません」。
「そんなこと言わんと。畑にまだいっぱいお芋が残っているよ」。
「それでも、ボクは、けっして、けっして、いっしょう、おいもは、ほりません」。
近所の親子と芋掘りに行った。秋の実りを楽しんだ愉快な日が余韻を残している。
もうすぐ三歳になるその子は、産まれたばかりの弟の兄になったことに戸惑っていた。
初めての芋掘りに大はしゃぎだったが、疲れたと言うので日陰で休憩した。
両親はサツマイモ畑の真ん中にいる。
赤ん坊の弟は母親におんぶされている。父親はスコップを手にしている。
それが、気に入らなかった。自分がないがしろにされているような場所には戻りたくないのだ。
複雑な心が形成される瞬間を目の当たりにした。見事な成長ぶりだ。
初期のキリスト教徒たちは幼子に例えられる。
イエスが幼子を招いて祝福したと聖書は記しているが、それを文字通りの情景としてはならない。
エピソードは、後代の含蓄に富んだ編集と考えられる。
世界史に新参者として登場するキリスト教徒は幼子であった。
生前のイエスを取り巻いていた弟子たち同様に大人への道が遠かった。
イエスの兄弟であり使徒でもあったヤコブがこの手紙を書いている。
ヤコブは、ユダヤ人信徒と異邦人信徒との軋轢を調整する大会議の議長をも務めた初期キリスト教の中心的指導者である。
迫害によって世界に散らされたキリスト者を成熟した信徒へと導きたい思いが手紙に込められている。
兄イエスは、弟子たちに向かって「あなたがは艱難の中にある」と言った。
荒野の試練に耐えたイエスは、自分自身のありように無防備な信仰を許さなかった。
初期キリスト教徒は、迫害によって世界中に追い遣られた。
離散の状態にあった。ディアスポラと言う状況である。
この言葉は、種をパラパラと蒔き散らすと言う意味をさらに強めた言葉である。
連帯の輪がひきちぎられている状況である。
強権的な政府がインターネット回線を遮断し反対勢力の結束を阻止する様に似ている。
しかし、離散の状態こそ、信徒が幼子からの脱皮、成長への好機であるとヤコブは説く。
コロナ禍の影響を受けて信徒が散らされている。
自分よりもちやほやされている弟や妹がいるのではとの妄想に苛(さいな)まれている信徒がいるかも知れない。
今こそ、散らされた信徒の連帯を覚える時ではないだろうか。
福音宣教の拠点を抽象的に理解する力を得たい。
「あなたは、何年、教会に行ってるんですか?」と主にお叱りを受けることはないだろうか。
信仰の核心は覚醒である。ボーッと生きていてはならない。
♪あなたを待つのテニスコート♪
ウオーキングコースのアイドル案山子。
どこかの牧師夫人に似ているような。
讃美歌(1) 268 まごころもて
(1)まごころもて 仰ぎまつらん 世のため
のろいの木に つきたまいし すくいぬし わが主よ
(2)わがつみとが けがれもみな あらいて
今よりのち きみのものと なさせたまえ わが主よ
(3)いとゆたけき めぐみをもて ひえたる
わがこころに きよけき火を もやしたまえ わが主よ
(4)死のかわなみ うちよすとも やすけく
み手によりて あまつ岸に 着かせたまえ わが主よ
ヤコブの手紙1章9〜20節
貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。
また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。
富んでいる者は草花のように滅び去るからです。
日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。
同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。試練を耐え忍ぶ人は幸いです。
その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。
神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆(そそのか)されて、誘惑に陥るのです。
そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。
良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。
御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。
御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。
それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。
わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。
だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。
人の怒りは神の義を実現しないからです。
申命記30章17〜20節
もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、
わたしは今日、あなたたちに宣言する。
あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。
わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。
あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。
それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、
主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。
2021年2月14日 降誕節第8主日
説教題 『あなたの礼拝』
聖 書 マタイによる福音書12章1〜14節 新約聖書(新共同訳) 21ページ
詩 編 85編 2〜8節 旧約聖書(新共同訳) 922ページ
讃美歌(1) 399 なやむものよとくたちて
「パートのシフトの都合でしばらく教会に来れません。どうしたら良いでしょうか」。
このような問いに牧師は確信犯になる。
仏具店の息子が受洗を決意した。
牧師は、家業と縁を切れと迫った。
両者の思いは遂げられた。
熱した鉄板に水滴を落したような一瞬の膨張があった。
それで、良かったのか。
日曜日に休みが取れない信徒が悩んだ。
牧師は、会社を辞めるように指導した。
それが、良かったのか。
「パートに行ってください。日曜日の礼拝に来れなくても悩むことはありません」。
もう一人の確信犯がいた。
スーパーの日曜は戦場だと言う。
鶏唐揚げを調理場でひたすら作ると言う。
「鳥のから揚げは、二度揚げしますよね」。
料理好きの牧師は、スーパーの調理場への興味を示しながら
故郷の鶏唐揚げは『ざんき』と呼ばれ他の追従を許さない味だと自慢する。
「人の目を気にして礼拝を守るか守らないかではないのですよ。
あなたの礼拝出席を監視する者はいません」。
信徒は安堵した。
「唐揚げのひとつひとつを完璧に仕上げることが、あなたの礼拝です」
と気の利いた言葉が自然と湧いて出た。
『そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。
弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。(12:1)』
神の国は近づいていた。
イエスには休みがない。
安息日もあってない。
まるで、高度経済成長期のモーレツ社員か。
否、不眠不休でユダヤ人に日本への手書き通過ビザを書き続けた杉原千畝がイメージに近い。
弟子たちは、今日もまた、イエスに振り回されている。
安息日は厳しい監視の下にある第一の掟である。
社会規範である。兎に角、活動してはいけない。
その日の歩く歩数まで決まっていた。
にもかかわらず、イエスはいくつもの麦畑を通過して神の国を伝える。
弟子たちは、宗教警察の過酷な摘発、拘束に怯える。
極度の緊張が空腹を招く。
柿の種や海老せんべいを貪り喰うように目前の麦の穂を摘み口に運ぶ。
そうでもしないと緊張が緩和されない。
「よくこんな時に喰うね」と言われるような状況が想像される。
インターネットに『マスク警察』がいると聞く。
コロナ禍のもと、公共の場でマスクをしない人を画像付きでこっぴどく叩き、
人格まで否定するような情報を撒き散らすらしい。あな恐ろしや。
イエスは、宗教警察に一言決める。
「君たちは、聖書を読んだことがないのか」。
ダビデが気転をもって祭司をだまし、
聖なる供え物のパンを空腹の部下のためにかすめ取ったこをが『良いことだった』、
と聖書に書いてあることを知らないのかと一喝した。
このイエスこそが、安息日の主、
人と神の安息を知る只ひとりのお方なのである。
ネコ一休み
讃美歌(1) 399 なやむものよとくたちて
(1)なやむものよ とく立ちて めぐみの座にきたれや
天のちからにいやしえぬ かなしみは地にあらじ
(2)さちなき身のなぐさめや くやめる身ののぞみや
天のちからにいやしえぬ かなしみは地にあらじ
(3)見よ いのちのましみずの み座より湧きいずるを
天のちからにいやしえぬ かなしみは地にあらじ
マタイによる福音書12章1〜14節
そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。
弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
ファリサイ派の人々がこれを見て、
イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。
そこで、イエスは言われた。
「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。
安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、
と律法にあるのを読んだことがないのか。
言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。
もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、
あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
人の子は安息日の主なのである。」イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。
すると、片手の萎えた人がいた。
人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。
そこで、イエスは言われた。
「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、
手で引き上げてやらない者がいるだろうか。
人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」
そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。
伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。
ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
詩編85編2〜8節
主よ、あなたは御自分の地をお望みになり、ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました。
御自分の民の罪を赦し、彼らの咎をすべて覆ってくださいました。
怒りをことごとく取り去り、激しい憤りを静められました。
わたしたちの救いの神よ、わたしたちのもとにお帰りください。
わたしたちのための苦悩を静めてください。
あなたはとこしえにわたしたちを怒り、その怒りを代々に及ぼされるのですか。
再びわたしたちに命を得させ、あなたの民があなたによって、喜び祝うようにしてくださらないのですか。
主よ、慈しみをわたしたちに示し、わたしたちをお救いください。
2021年2月7日 降誕節第7主日
説教題 『良い土地』
聖 書 マタイによる福音書13章10〜18節 新約聖書(新共同訳) 24ページ
詩 編 86編 1〜10節 旧約聖書(新共同訳) 923ページ
讃美歌(1) 234A むかし主イエスのまきたまいし
「ふんころがし、、、。虫の名前やけど、知ってる?」。
夜遅くまでミシンを踏む妻に声をかける。
ミシンの断続的な音に苛立つ。
いや、音はどうでも良い。
牛や馬の糞を丸め、後生大事に逆立ちの姿勢でせっせと炎天下を移動する虫の動きに似たミシン踏みが気に入らない。
プチ土産にするつもりの手芸品を大量に製作している妻の姿にふんころがしのイメージが重なったのである。
「その虫やったら、知ってるけど。これ、明日までに仕上げやなあかんねん」。
「あのな、ふんころがしちゅう虫は、下らんもんを大事に大事にするオロカな虫や。ボクもこれを教訓にしてやな、、、、」。
馬耳東風。
イエスの種まきの譬えはふんころがしの譬えに同じく分かりやすい。
イエスは群衆に向かって語った。
農夫が種を蒔く。
道端に蒔かれた種は、鳥が来て食べてしまった。
石地に蒔かれた種は、根が浅いので芽を出したがすぐ枯れた。
茨の茂る土地に蒔かれた種は、日陰に覆われて育たなかった。
しかし、良い土地に蒔かれた種は、良く育った。100倍、60倍、30倍の実を結んだ。
分かりやすい話しであったが、弟子たちは納得出来なかった。
イエスに詰め寄った。
「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか(13:10)」。
弟子たちは、常々、イエスの荒唐無稽にフラストレーションをため込んでいたのだ。
自分たちにも噛んで含めるように平易に神の国を語って欲しい。
イエスは、答える。「お前たちは、シロウトさんなのか。そうではないだろう」。
それならと、イエスは、高名な神学者の注解書を丸写し説教するシロウト牧師のように種蒔きの譬えを説明する。
この作業は、イエスには苦行以外のなにものでもない。
「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。
道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
石だらけの所に蒔かれたものとは、
御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れるが自分には根がないので、しばらくは続いても、
御言葉のために苦難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である」。
茨の地も同様の釈義を加える。
さぞや疲れることだろう。これほどうんざりすることはない。
イエスは、弟子たちに言う。
「お前たちはシロウトさんではなく、
お前たちには、天の国の秘密を悟ることが許されている。
見るべきものを見ている。聞くべきものを聞いている」と。
幸いなことにだと付け加える。
良い土地に蒔かれた種が100倍の実を結んだことも幸いなこと。
イエスと共にあること、それこそが幸いなこと。
徹底したへりくだりをイエスから学んでいれば主をお疲れさせることはなかったのだ。
良い土地
讃美歌(1) 234A むかし主イエスのまきたまいし
(1)昔主イエスの 薪(ま)きたまいし いとも小さき 生命(いのち)のたね
芽生え育ちて 地のはてまで その枝を張る 樹とはなりぬ
(2)歴史のながれ 旧(ふる)きものを 返(かえ)らぬ過去へ 押しやる間に
主イエスの建てし 愛の国は 民よりたみへ ひろがりゆく
(3)時代の風は 吹きたけりて 思想の波は あいうてども
すべての物を 超えてすすむ 主イエスの国は 永久(とわ)に栄えん
(4)父なる神よ み名によりて 世界の民を ひとつとなし
地をばあまねく み国とする みちかいをとく はたしたまえ
マタイによる福音書13章10〜18節
弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。
イエスはお答えになった。
「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。
持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。
わたしは彼らをいやさない。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
はっきり言っておく。
多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
詩編 086編 1〜10節
主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。
わたしは貧しく、身を屈めています。わたしの魂をお守りください。
わたしはあなたの慈しみに生きる者。あなたの僕をお救いください。
あなたはわたしの神。わたしはあなたに依り頼む者。
主よ、憐れんでください。
絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。あなたの僕の魂に喜びをお与えください。
わたしの魂が慕うのは、主よ、あなたなのです。
主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。
あなたを呼ぶ者に豊かな慈しみをお与えになります。
主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈るわたしの声に耳を向けてください。
苦難の襲うときわたしが呼び求めれば、あなたは必ず答えてくださるでしょう。
主よ、あなたのような神は神々のうちになく、あなたの御業に並ぶものはありません。
主よ、あなたがお造りになった国々はすべて御前に進み出て伏し拝み、御名を尊びます。
あなたは偉大な神、驚くべき御業を成し遂げられる方、ただあなたひとり、神。
2021年1月31日 降誕節第6主日
説教題 『喜劇か悲劇か』
聖 書 創世記28章8〜22節 旧約聖書(新共同訳) 45〜46ページ
ヨハネによる福音書20章24〜25節 新約聖書(新共同訳) 210ページ
讃美歌(1) 298 やすかれわがこころよ
「こっちのゴツイほうを前に出しちゃだめですよ。
顔の小さいあんたに似たほうを前に出さなくちゃいけません」。
双子の男の子を若い母親がスマホで撮っている。
遠く離れた父母にラインで送るらしい。
動き回る男の子をカメラに収めるのは大変だ。
母親を取り合いしてどちらも前に出て写ろうとする。
仲良く並ぶポーズが難しい。
スマホの画面を見せられ講評を求められた。
どれもこれも、イカツいほうが前に出て双子感が薄れている。様にならない。
「二卵性なんですけど、こっちのデカいほうが、実は繊細なんです」。さすが、母親だ。よく分かっている。
イサクの妻リベカは、アブラハムの妻サラに同じくして長く子宝に恵まれなかった。
イサクはアブラハム百歳、サラ九十歳にして神の約束として生を得る。
そのイサクも母サラの死後、アブラハムの後妻に六人の子どもが生まれてなお四十歳にして子が無かった。
何の倣いかは知らないがイサクも父アブラハムに同じく妾に後継を求めた。
その結果、父アブラハム同様にイサクも複雑な家族環境に投げ出される。
それから、二十年の時を経て本妻リベカが身籠る。
しかし、生まれて来る子はリベカの胎の中で争っていた。
双子であったのだ。弟のヤコブは兄エサウのかかとを掴んで生まれて来た。
紀元前17世紀にこのような物語が出来上がっていたことに驚愕する。
ご案内の如く、ヤコブは兄エサウの長子相続の特権を一杯の赤い豆のスープと交換に奪ってしまう。
エサウは狩人、野人。ヤコブは母リベカの溺愛するインドアの人、知的な色白男として描かれる。
割を食った兄エサウは、父アブラハムの妾の親族との婚姻という直情的で軽はずみな行為によって地雷を踏んでしまう。
状況は、ヤコブを旅人へと押し出す。
イスラエル、ユダヤをしてへブルとも言うが、
へブルの原語で『イヴリット』と発音し、旅人、流れ者を意味する。
繁栄の町カルデヤのウルをから約束の地へと心細い旅を続ける遊牧の民を意味する。
地上に棲み処は無いとする純度100%の信仰の民を意味するのだ。
ヤコブは、兄エサウの怒りを逃れ、今、野にある。
野宿の日々は過酷である。
冷たい石を枕に想いを巡らす。CPUを冷却するかのようだ。
そして、雲に掛けられた梯子を天使が往来する様を目の当たりにする。
これは、まるで、インターネットを通じたクラウドサービスの先取りだ。
祖父がクラウドにアップしておいたドキュメントが示される。
『あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。
あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう』。
アリストテレスは、悲劇を『優』、喜劇を『劣』とした。
何か分かるような気がする。
祝福は決して喜劇ではない。
祖父母にラインする二人並んだスマホのショットは無い。
この陰は、もうひとりの、私だ。
讃美歌(1) 298 やすかれわがこころよ
(1) やすかれ わがこころよ 主イエスはともにいます いたみも苦しみをも
おおしく忍び耐えよ 主イエスのともにませば たええぬ悩みはなし
(2) やすかれ わがこころよ なみかぜ猛るときも 父なるあまつかみの
みむねに委ねまつれ み手もてみちびきたもう のぞみの岸はちかし
創世記28章8〜22節
エサウは、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないことを知って、
イシュマエルのところへ行き、既にいる妻のほかにもう一人、
アブラハムの息子イシュマエルの娘で、ネバヨトの妹に当たるマハラトを妻とした。
ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。
とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。
ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。
すると、彼は夢を見た。
先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。
見よ、主が傍らに立って言われた。
「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、
あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、
西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。
地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、
必ずこの土地に連れ帰る。
わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
ヤコブは眠りから覚めて言った。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
そして、恐れおののいて言った。
「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。
これはまさしく神の家である。
そうだ、ここは天の門だ。」
ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、
それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた。
ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。
ヤコブはまた、誓願を立てて言った。
「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、
主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、
すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」
ヨハネによる福音書20章24〜25節
十二人の一人でディディモ(双子)と呼ばれるトマスは、
イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、
また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
2021年1月24日 降誕節第5主日
説教題 『スクーター預言者』
聖 書 イザヤ書8章1〜10節 旧約聖書(新共同訳) 1072ページ
ルカによる福音書12章 16〜21節 新約聖書(新共同訳) 132ページ
讃美歌(1) 讃美歌(1) 226 ちにすめるかみのこ
「責任者出てこい!」。「出てきやはったら、どないすんねん」。
「謝ったらしまいやないか」。
「何言うてんのん。このドロ亀!」。
京都花月の午後6時ごろ。客席は、まばらである。
説教学の演習だと先輩牧師に連れられての寂れた演芸場通い。
客に媚びない夫婦漫才の掛け合いに拍手を送った。
ドロ亀師匠は、郵便ポストの色に至るまで因縁を付け、全て総理大臣の責任だと追及する。
客が冷や冷やし始めると妻が鋭く突っ込む。
「言うてるあんたはどないやのん。家のことお客さんの前でみんなぶちまけたろか」。
「お母ちゃん、ごめん」。
たじたじの師匠は、取り舵一杯で話題を交通行政に向ける。
「スクーターが人を撥ねた。安全運転第一や。
だいたい、人を撥ねっとって、救うた(スクーター)とは何事か!」
栄華を極めたソロモンの王国が、客足の途絶えた演芸場の様を呈する時が来た。
王国の分裂、大国の圧迫に怯える時が来た。
無能な王や偽預言者のせいである。
その時、預言者イザヤが現れる。
イザヤの名の意味は、『主は救い(スクーター)』であるから、ドロ亀師匠にあやかってスクーター預言者とでも呼ぼう。
イザヤは小姓として尊敬する王の身近に仕えたが、王の死後、心の支えを失ってしまった。
自暴自棄になっている所に天の使いが現れ、預言者の使命を告げられる。
イザヤは、燃え盛る炭火を唇に近づけられ贖罪の何たるかを教えられる。
イザヤの唇は浄められ、怖い者無しの口を獲得した。
スクーター預言者となったイザヤは、
既得権に胡坐をかく貴族の傲慢や民の無知を歯に衣着せぬ言動をもって激しく攻めた。
イザヤは北王国の末路を預言する。滅亡の預言である。
大衆を敵に回して気の悪いことを言う。それは一人ではできない。
パパゲーノにパパゲーナ、イザヤには預言者の妻がいた。
夫婦漫才ならぬ夫婦預言である。
ミセス・スクーターは、夫をドロ亀とは呼ばない。
火に油を注ぐように夫の過激に拍車を掛ける。
妻が身ごもった。
イザヤは、託宣を受けて生まれて来る子どもの名を
寿限無や延陽伯よろしく『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』と羊皮紙に書き記す。
その名は、サマリヤの陥落を暗示していた。
「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。
お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12:20)
夫婦預言者が仲睦まじく駆るサイドカー付のスクーター
讃美歌(1) 226 ちにすめるかみのこ
(1) 地にすめる神の子ら かえりこよ 主のみちに
ためらうおもいをすて みまねきにしたがいて いさぎよく 主にかえれ
(2) 地はきよく人はみな みめぐみに生くべきを
あだし夢えがきては 代々の国ほろびゆく 世の民よ 主にかえれ
(3) 人みな主にありて むすばれるその日まで
みむね地にならざれば 罪を悔いあがなわれ 世をあげて 主にかえれ
イザヤ書8章1〜10節
主はわたしに言われた。
「大きな羊皮紙を取り、その上に分かりやすい書き方で、
マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)と書きなさい」と。
そのためにわたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカルヤを、信頼しうる証人として立てた。
わたしは女預言者に近づいた。
彼女が身ごもって男の子を産むと、主はわたしに言われた。
「この子にマヘル・シャラル・ハシュ・バズという名を付けなさい。
この子がお父さん、お母さんと言えるようになる前に、
ダマスコからはその富が、サマリアからはその戦利品が、アッシリアの王の前に運び去られる。」
主は重ねてわたしに語られた。
「この民はゆるやかに流れるシロアの水を拒み、レツィンとレマルヤの子のゆえにくずおれる。
それゆえ、見よ、主は大河の激流を彼らの上に襲いかからせようとしておられる。
すなわち、アッシリアの王とそのすべての栄光を。
激流はどの川床も満たし、至るところで堤防を越えユダにみなぎり、首に達し、溢れ、押し流す。
その広げた翼は、インマヌエルよ、あなたの国土を覆い尽くす。」
諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。
武装せよ、だが、おののけ。
武装せよ、だが、おののけ。戦略を練るがよい、だが、挫折する。
決定するがよい、だが、実現することはない。
神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。
ルカによる福音書12章 16〜21節
それから、イエスはたとえを話された。
「ある金持ちの畑が豊作だった。
金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。
『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
こう自分に言ってやるのだ。
「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。
ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。
お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
2021年1月17日 降誕節第4主日
説教題 『ラッパ』
聖 書 民数記10章1〜10節 旧約聖書(新共同訳) 229ページ
マタイによる福音書6章1〜5節 新約聖書(新共同訳) 9ページ
讃美歌(1) 452 ただしくきよくあらまし
「天王寺の亀の池の亀、豆噛めまへんねん(万年)」。
自作の鉱石ラジオで聴いた薄く遠い記憶の断片である。
こってりした上方漫才の面白さに腹を捩った。
笑いのツボが深く分からない小学生にも、
歯をむき出したおかっぱ頭のオッサンが天王寺の亀を「テンノーリノカメ」と言うのが只々可笑しかった。
「淀川の水飲んで腹だだ下り」も「よろがわのみるのんではらららくらり」となる。
大阪弁の泥臭さい部分の誇張である。言うなれば、テキサス訛りである。
そのテキサス訛りで一世を風靡した漫才師が平和ラッパである。
平和ラッパと言う芸名は含蓄に富んでいる。
ラッパは平和とはセットにはならない言葉である。
ラッパは王権と戦争のイメージである。
ファラオや皇帝の荘厳な登場場面や将軍の凱旋にトランペットは付き物である。
ファンファーレである。
出エジプトの民は、脱出の喜びの涙が乾く間もなく一夜にして不平不満の民と化した。
荒野の旅は二週間ぐらいで約束の地にたどり着けるはずであった。
我慢すれば我慢出来ないことはことはない状況を僅かの日数耐えることが出来なかった。
荒野で少しの渇きを覚えた民はモーセに詰め寄った。
給水車を手配しろと。
モーセは、岩に命じれば水が出るとの神の声を聞く。
モーセは岩の前に立った。
民は詰め寄る。
モーセは、苛立ち、言葉ではなく、岩を杖でしたたか打った。
果たして水は岩から湧き出たが、神はその行為を許さなかった。
民とモーセに与えられた罰が荒野四十年の訓練の時となった。
約束の地は、乳と密の流れる地である。しかし、空き地ではない。
血みどろの戦いが待っている。
最大の敵は、自分自身だ。
荒野で足るを知る民であらねばならない。
そのような民、共同体を育て上げたい。それが、神の心だ。
モーセによって、信仰と軍事の訓練が組織化される。
民数記とは兵役検査に合格した者をリストアップすると言う意味である。
原題は、『荒野にて』である。
この時から、民はラッパによって管理される。
宗教における個の喪失への批判を含んでいる。
心すべし。
遠くに聞こえる平和のラッパの音に耳を澄ましてみよう。
この男のラッパは誰を集めようとしているのか。(拙宅玄関のサンチョパンサ)
讃美歌(1) 452 ただしくきよくあらまし
(1)正しく清くあらまし なすべき務めあれば おおしく強くあらまし
負うべき重荷あれば 負うべき重荷あれば
(2)まことの友とならまし 友なき人の友と あたえて心にとめぬ
まことの愛のひとと まことの愛のひとと
(3)またきにむかいて進まん みちにて気をゆるめず うえなきめあてをのぞみ
笑みつつたえずすすまん 笑みつつたえずすすまん
民数記10章1〜10節
主はモーセに仰せになった。銀のラッパを二本作りなさい。
それは打ち出し作りとし、共同体を呼び集めたり、宿営を旅立たせるために用いなさい。
二つとも吹くときには、共同体全体があなたのもとに、臨在の幕屋の入り口に集まる。
一つだけを吹くときには、イスラエルの部族の長である指導者があなたのもとに集まる。
あなたたちが出陣ラッパを吹くと、東に宿営している者が旅立つ。
二度目の出陣ラッパを吹くと、南に宿営している者が旅立つ。
彼らの出発に際してはラッパを吹く。
会衆を集めるときもラッパを吹くが、出陣ラッパは鳴らさない。
ラッパを吹くのは、祭司であるアロンの子らの役目であって、
それはあなたたちが代々にわたって守るべき不変の定めである。
あなたたちの国に攻め込む敵を迎え撃つときは、出陣ラッパを吹きなさい。
そうすれば、あなたたちは、
あなたたちの神、主の御前に覚えられて、敵から救われるであろう。
また、あなたたちの喜び祝う祝日、毎月一日には、
焼き尽くす献げ物や和解の献げ物に向かってラッパを吹きなさい。
そうすれば、あなたたちは、あなたたちの神の御前に覚えられる。
わたしはあなたたちの神、主である。
マタイによる福音書6章1〜5節
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。
さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
だから、あなたは施しをするときには、
偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、
自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。
はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
あなたの施しを人目につかせないためである。
そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。
偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。
はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
2021年1月10日 降誕節第3主日
説教題 『選ばれる』
聖 書 サムエル記上16章5〜13節 旧約聖書(新共同訳) 453ページ
マタイによる福音書3章13〜17節 新約聖書(新共同訳) 4ページ
讃美歌(1) 96 エッサイの根より
コロナ禍のもと、静まり返った繁華街がテレビ画面に映し出される。
なんと寂しいことだろう。あの雑踏が良い。あの賑やかさが良い。
希望や夢がなくても若さだけがあるような時にミナミや新京極の雑踏に揉まれることには快がある。
財布の薄さも自虐の快を増幅させる。
難波から心斎橋を歩いていた。
劇場や映画の看板が楽しい。
『夫・ファーザー』。馬鹿々々しい喜劇のタイトルが一人笑いを誘う。
その看板に並んでセーラー服の金髪美男子が前面に押し出た看板があった。
美男子の背後には、しょぼくれた老大学教授風の男が重なる。『ベニスに死す』。
「わたし、スマップやジャニーズのファンなんです」。
「スマップ? スマップってあの『世界に一つだけの花』を歌ってた若者のグループのことですか?」。
「コンサートにも行きますよ」。
礼拝の後、奏楽者と雑談を交わした。
「ばあさんにも切符売ってもらえるんですか?」。相当叱られた。
預言者サムエルは、初代サウル王の限界を知り後継者を探していた。
王の限界とは、どこにでもある企業の問題にも似ている。
血縁と経営戦略の行き詰まりである。
サムエルの頭には世襲の考えはない。
ジャニーズの社長は自分の眼鏡に適ったアイドルを探し出すために何度もオーディションを重ねる。
老教授も失われた自らの若き日を取り戻すように命がけでセーラー服の美少年への愛を貫く執拗を重ねる。
サムエルは、一休禅師が幼くして寺に入ったように祭司エリの家に預けれられる。
師匠エリには二人の馬鹿息子がいた。
サムエルは、師匠の家庭の事情を目の当たりにしながらキャリアを積んで行く。
サムエルも師匠に同じく二人の馬鹿息子に悩まされる。
晩年の結末は哀れを誘う。
肥満故に階段から転がり落ちて首の骨を折って死んでしまう。
サムエルもエリも祭司、預言者として民の絶大な尊敬を得ていた。
馬鹿息子から多くを学んだのだ。
大事業は世襲されてはならない。
この大儀のための苦渋を享受したのだ。
サムエルの前に、八人兄弟の末っ子で竪琴の上手な羊飼いの美男子が現れた。
ダビデは、ノイローゼのサウル王を慰める小姓、音楽セラピストとして宮廷入りする。
ダビデの将来に栄光と挫折が待ち受けていることを誰も知らない。
「山の彼方の空遠く 幸い住むと人のいう。ああ、われひとと尋(と)めゆきて、涙さしぐみかえりきぬ。
山のあなたになお遠く幸い住むとひとの言う」 (カール・ブッセ作 上田 敏訳)
讃美歌(1) 96 エッサイの根より
(1)エサイの根より 生いいでたる くすしき花は さきそめけり
わが主イエスの うまれたまいし このよき日よ
(2)イザヤ告げし すくいぬしは きよき母より うまれましぬ
主のちかいの 今しも成れる このよき日よ
(3)たえにとうとき イエスの御名の かおりはとおく 世にあまねし
いざやともに よろこびいわえこのよき日を
サムエル記上16章5〜13節
サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。
彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
しかし、主はサムエルに言われた。
「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。
人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。
サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」
「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、
サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。
その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」
エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。
彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。
主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。
その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。
サムエルは立ってラマに帰った。
マタイによる福音書3章13〜17節
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。
彼から洗礼を受けるためである。
ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
しかし、イエスはお答えになった。
「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。
イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
2021年1月3日 降誕節第2主日
説教題 『欲しがりません』
聖 書 詩編23編1〜6節(新共同訳) 旧約聖書(新共同訳) 854ページ
マタイによる福音書2章9〜11節 新約聖書(新共同訳) 2ページ
讃美歌(1) 291 しゅにまかせよ
「ワシの体重と同じ重さの金がそこの金庫に入っとるんや」。
名のある寺の檀家総代を務める社長であったが教会にも相当の援助を惜しまなかった。
自分の体重と同じ金を持つことが人生の目標であった。
社長は、金の延べ板の他にも珍しい書画骨董や刀剣類などを次々と披露した。
豪華な応接間が社長の教室である。生徒は僧侶や牧師である。
金銀財宝をこれでもかこれでもかと見せて台詞を決めた。
「ワシは俗人やからこれが命や、そやけど、あんたらは、こういうもんから離れてなあかんで」。
ある後輩牧師が五十歳を過ぎて大学教授になった。
高級外車の運転席から得意げに手を振り、
「キシモト君、乗って行かないかい」と大声で叫ぶ。
「キシモト君?君付け呼ばわりか。お前も偉くなったな」とつぶやいて、「またな」と返した。
この牧師は、上等の車を次々と乗り換え、夜の社交場からも遠ざかることはなかった。
『主はわが牧者なり。われ乏しきことあらじ』。
文語の響きが良い。
生活の厳しさを知る者には観音経のお題目にも似た響きを感じるだろう。
『わたしには乏しいことがない』と訳されるこの部分は、
『わたしには欠けることがない』とも訳される。
強い意志が含まれる表現なのである。
嫉妬に狂う義父サウル王の追手の陰に怯えるダビデは、
竪琴を手に主なる神への信頼を歌にした。
逃亡者は荒涼とした荒野で真の充足を知ったのである。
イエスは、貧しい大工の子として育ったと記されている。
これを根拠に貧乏を好むクリスチャンは少なくない。
しかし、その程度では、外車に乗る夢が叶った後輩牧師と差異が無い。
金塊社長の教えには遠く及ばない。
今週の6日は、東方の博士、占星術の学者たちがイエスの誕生の場を探し当て黄金、乳香、没薬を献じた日、
すなわち、救い主イエスの世界デビュー(公現)を記念する祝いの日である。
ギリシャ、ロシアなど東方の教会はこの日をクリスマスとしている。
博士たちは大キャラバン隊を率いて宿屋の家畜小屋へやって来た。
ラクダの背中には150キロほどの荷が積めるらしいので
幼子イエスの前に捧げられた金銀は、王侯の品位を保つに十分な財であったであろう。
ヨセフは左団扇のはずである。
『わたしには何も欠けることがない』。
原文を解説すると、マッカーサーの『アイ・シャル・リターン』の文体に似ている。
シャルに強調がある。(私はきっと戻ってくるぞ。雪辱を果たすために)。
主がすべてを備えてくださる。だから私には不足がない。
『アイ・シャル・ノット・ウオント』(欽定訳聖書)なのである。
意訳すれば、『欲しがりません勝つまでは』かも。
マッカーサーの言葉もダビデの言葉も、ダイナミズムにおいてイコールである。
ヨセフは金塊社長の教えに従い、博士たちからの信託財産を密かに神殿の賽銭箱に投げ込んだ。
大胆な人ほど静かだ。
ヨセフはやる時にはやる人だ。
そういう人に違いない。
讃美歌(1) 291 しゅにまかせよ
(1)主にまかせよ、汝(な)が身を 主はよろこび たすけまさん
しのびて 春を待て 雪はとけて 花は咲かん
あらしにも やみにも ただまかせよ、汝が身を
(2)主にまかせよ、汝(な)が身を 主はよろこび たすけまさん
なやみは つよくとも みめぐみには 勝つを得じ
まことなる 主の手に ただまかせよ、汝が身を
詩編23編1〜6節(新共同訳)
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
(The Lord is my shepherd, I shall not want.)
主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。
(文語訳)
主はわが牧者なり われ乏しきことあらじ
主はわれをみどりの野にふさせ いこいの汀にともないたもう
主はわが魂を活かし 御名のゆえもて、我を正しき道にみちびきたもう
たといわれ死のかげの谷をあゆむとも わざわいをおそれじ
なんじ我と共にいませばなり なんじの笞、なんじの杖、われをなぐさむ
汝、わが仇のまえに わがために宴をもうけ
わが頭に油を注ぎたもう わが酒杯はあふるるばかりなり
わが世にあらんかぎりは、かならず恵みと哀れみと我にそいきたらん
われはとこしえに主の宮に住まん
マタイによる福音書2章9〜11節
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、
ついに幼子のいる場所の上に止まった。
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、
幼子は母マリアと共におられた。
彼らはひれ伏して幼子を拝み、
宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2020年12月27日 降誕節第1主日
説教題 『なにくそ』
聖 書 マタイによる福音書1章18〜25節 新約聖書(新共同訳) 1ページ
エフェソの信徒への手紙3章5〜9節 新約聖書(新共同訳)354ページ
イザヤ書60章2節 旧約聖書(口語訳) 1160ページ
讃美歌(1) 87 めぐみのひかりは
「キシモト君、どんな時も、なにくそと言う気持ちが無ければいけませんよ」。
余命の幾何(いくばく)かを静かに受け入れながら、
老教授は、いつもの柔らかい口調で見舞いの返答とした。
『なにくそ』の言葉は意外であった。
しかし、その言葉こそ、教授の『どんな時』にも主のみ心を問う人であったことを再認識した。
俗に言う芯の強い人であったのだ。
教授は、見舞いの小道具、腹話術人形をたいそう気に入った。
人形の名を問われたので、ドイツからの来たシナモンちゃんだと答え下手なドイツ語で人形に挨拶させた。
教授は、大いに喜び流暢なドイツ語でシナモンちゃんと数分会話を交わした。
教授は人形をダシにして私の心を読んだのである。
『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい』。
誰の子か分からない子を身ごもった婚約者を妻として迎える。
イエスの誕生を決定付ける物語だが、その例の数的相対性に鑑みれば、
そのような事は、よくある事だと一蹴されるかも知れない。
正しい人ヨセフは、真剣に悩んだ。
マリアとの結婚は、ヨセフにとって所帯を持てる最初で最後のチャンスであったかも知れない。
よくある事として自分を誤魔化したくなかった。
曲がりに曲がりくねったダビデ家の末裔として、
夢に現れた天使のお告げに一言の言葉を発することなく従った。
イエスには四人の兄弟姉妹がいた。
マリヤは随分年下で家事仕事は未熟であったと思われるから家族の扶養は、
手間賃仕事程度の大工では過酷であっただろう。
イエスは、神を「おとっつあん(アッバ)」と呼んだ。
ヨセフの人柄はイエスのこの言葉がすべてを語っている。
ヨセフは、大工が指矩(さしがね)で寸法を取るように自分のスケールを知っていた。
ヨセフは、静かな『なにくそ』の人であったのだ。
『聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました』。
広く異邦世界に福音の種を蒔いた使徒パウロも自分のスケールを知る人であった。
『なにくそ』の人であった。
今も聞こえる路傍伝道の太鼓の音。
♪神は、愛なり♪
あれは、『やけくそ』ではない。『なにくそ』であった。
クリスマスの出番は少なかったが、
今年も、愛嬌を振りまくたくさんの場面に恵まれたシナモンちゃんであった。
讃美歌(1) 87 めぐみのひかりは
(1) めぐみのひかりは わがゆきなやむ やみ路を照らせり 神は愛なり
(2)うき雲おおえど み顔の笑みは さやかに照りいず 神はあいなり
(3)うれいのときにも のぞみをあたえ なぐさめたまえり 神はあいなり
(4)ものみなうつれど めぐみのひかり とわにぞかがやく 神はあいなり
(くりかえし) われらも愛せん あいなる神を
マタイによる福音書1章18〜25節
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。
母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
夫ヨセフは正しい人であったので、
マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。
マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。
この子は自分の民を罪から救うからである。」
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。
そして、その子をイエスと名付けた。
エフェソの信徒への手紙3章5〜9節
この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、
今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。
すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものを
わたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。
神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、
この福音に仕える者としてくださいました。
この恵みは、聖なる者たちすべての中で
最もつまらない者であるわたしに与えられました。
わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、
すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、
どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。
イザヤ書60章2節
見よ、闇は地を覆い暗黒が国々を包んでいる。
しかし、あなたの上には主が輝き出で主の栄光があなたの上に現れる
2020年12月20日 待降節第4主日
説教題 『マジックの杖』
聖 書 ルカによる福音書2章8〜16節 新約聖書(新共同訳)103ページ
創世記 46章34節 & 47章3〜4節 旧約聖書(新共同訳) 84・85ページ
讃美歌(1) 106 荒野のはてに
「後で喰ってやるから、そこに置いておけと言わんばかりなんですよ。
山羊を飼ってみて分かったんですがね」。
羊では面白くないので山羊を飼育したと言う。
変わり者が言うことや為すことは分かりやすい。
農業者であり牧師である。
百姓牧師と呼ばれたいのだが、風貌はマロ、公家でおじゃる。
山羊はプライドが高く、餌を持って行っても嬉しそうにしないらしい。
ゆえに、聖書には、山羊飼いは登場しない。
似て非なる羊の方は、表向きは従順、温厚でおとなしいので善男善女に例えられる。
実際は偽善の塊のような動物なのだが、弱々しさを武器に羊飼いを丸め込んでしまう。
羊飼いは、羊の嘘が分かっていても、マドロスが港の女に入れ揚げるように羊に夢中になる。
羊飼いは、独り者である。
町には住めない。仲間はいるが孤独である。メシは不味い。何の楽しみもない。
ダビデの少年期のようにロマンティックなシンガーソングライターとして描かれることもあるが、
汗と垢にまみれた汚れ仕事である。エッセンシャルワーカーである。
ちなみに、ピラミッドの時代、
難民となったイスラエルの民は、
住み場所を求めてエジプト人が厭う羊飼い業者としてゴシェンの地域に居住地を得ている。
羊飼いに特有のシルエットがある。杖である。
杖を持たない羊飼いは様にならない。
杖の上部は、フック状になっている。マジック、はてな記号の形を連想されたい。
このフックの部分で群れをはみ出す羊の首や足に引っ掛けて軌道修正したり、
時には、谷底に転落する羊を引き上げることもあるらしい。
絢爛豪華な祭服を纏った大司教が手にしている杖も羊飼いのそれと同じ形状である。
その金ピカの杖は、迷える信徒、窮状にある信徒を助け、教会へと導くシンボルと言うことらしい。
ルカによる福音書は、キリストの誕生の知らせが真っ先に羊飼いたちに告げられたと記している。
寝ずの番をして荒野にいた時の事である。
寝ずの番なので『寝耳に水』は不都合かも知れないが、
夜勤経験者なら直感できるあの辛い時間帯に、それは起こった。
羊飼いたちは栄光の光に包まれた。
その場は照明弾が降り注ぐ野戦場さながらとなった。
マルチンルターは、稲妻に怯えて献身を決意した。
羊飼いたちの恐れはそれ以上であった。
片肌を晒せば、そこに『地べたを這いずり回るような罪人』の烙印があった。
だからこそ、今、神は、羊飼い。羊飼いは、羊である。
羊飼いたちは、
商売道具のフックの付いたマジックの杖に首根っこを押さえられて、
主の降誕の場に導かれて行く。
羊飼いはマジックの杖。私はネクタイ。首根っこを押さえられているのだ。
讃美歌(1) 106 荒野のはてに
(1) あら野のはてに 夕日は落ちて たえなるしらべ 天よりひびく
(2) ひつじをまもる 野べのまきびと あめなるうたを よろこびききぬ
(3) みうたをききて ひつじかいらは まぶねにふせる み子をおがみぬ
(4) 今日しも御子は うまれたまいぬ よろずの民よ いさみてうたえ
(くりかえし)
グロリア イン エク セル シス デオ グロリア イン エク セル シス デオ
グロリア イン エク セル シス デオ グロリア イン エク セル シス デオ
※ Gloria in excelsis deo いと高きところにいます神に栄光が・・・
ルカによる福音書2章8〜16節
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。
この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。
これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
天使たちが離れて天に去ったとき、
羊飼いたちは、
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
創世記 46章34節
『あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます』と答えてください
。そうすれば、あなたたちはゴシェンの地域に住むことができるでしょう。」
羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであったのである。
創世記47章3〜4節
ファラオはヨセフの兄弟たちに言った。
「お前たちの仕事は何か。」
兄弟たちが、「あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、羊飼いでございます」と答え、
更に続けてファラオに言った。
「わたしどもはこの国に寄留させていただきたいと思って、参りました。
カナン地方は飢饉がひどく、僕たちの羊を飼うための牧草がありません。
僕たちをゴシェンの地に住まわせてください。」
2020年12月13日 待降節第3主日
説教題 『せめて二分』
聖 書 マタイによる福音書 2章13〜23節 新約聖書(新共同訳)2ページ
出エジプト記 1章22節 旧約聖書(口語訳) 95ページ
讃美歌(1) 109 きよしこのよる
「四角い仁鶴がまーるく収めます」。土曜日の人気番組の始まりだ。
身近な法律問題が面白可笑しく解説される。
浪花のモーツアルトを自称するキダ・タロー氏が当日のゲストであった。
司会者に紹介されるやいなや、いきなり電子ピアノに向かってハッピーバースデーを弾き始めた。
「それ、何でんねん」とこってりした関西弁で尋ねられて、
「今日は、わたくしの誕生日ですねん」。
九十歳になったと言う。「九十にもなったら誕生日は別に嬉しくも何んともおまへんけど」。
高齢者が身近にいることが当たり前になって久しい。
きんさん・ぎんさんの百歳は、明日の私だ。
意味のある日々を過ごしたい。
浪花のモーツアルトと言えば、モーツアルトの歌劇、『魔笛』の一場面を思い出した。
迷宮に迷い込んだ鳥刺しパパゲーノが老婆に化けたパパゲーナに出会うシーンだ。
パパゲーナは年齢を問われて、十八歳と二分と答える。
自分の年齢を問われた瞬間、二分がすでに経過している。
この二分の意味を知ると自分の年齢、誕生日に無感覚ではおられない。
『そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその
周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた』 マタイ2:16
イエスの誕生に闇が覆う。王のヒステリーが暴発する。
ユダヤの宗教とは何の関係もない最先端テクノロジーが世界のリーダーの誕生を予想した。
場所も特定された。
王は、二歳以下の男子の殺害を命じる。
武装した公務員がそれを律儀に実行した。二歳の命が奪われる。
モーセの時代にまで遡るまでもなく、ガス室に消えた幼い命も我々の記憶に遠くはない。
ヘロデ王に殺害された幼児は後の時代、『聖人』の列に加えられたと言う。
キリスト誕生の犠牲者、殉教者と言うことらしい。
しかし、イエスの十字架を見上げるマリアに、
「あなたの息子は三十歳と二分を生きたが、
わたしの子どもの命はわずか二年。二分はなかった」と詰め寄った母親たちがいたかも知れない。
辛い記憶は消えない。
町内で『あたごさん』と呼んでいる燈明。
家々の良い部屋にお泊めするのである。
マリアたちには泊まる所がなかった。
讃美歌(1) 109 きよしこのよる
(1)きよしこのよる 星はひかり
すくいのみ子は まぶねの中に
ねむりたもう いとやすく
(2)きよしこのよる み告げうけし
まきびとたちは み子のみ前に
ぬかずきぬ かしこみて
(3)きよしこのよる み子の笑みに
めぐみの み代(みよ)の あしたのひかり
かがやけり ほがらかに
マタイによる福音書2章13〜23節
占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。
「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。
ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。
それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、
主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。
そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、
ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。
こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。
ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」
ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。
「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。
この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」
そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。
しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。
ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。
「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
出エジプト記1章22節
ファラオは全国民に命じた。
「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」
2020年12月6日 待降節第2主日
説教題 『この身に』
聖 書 ルカによる福音書1章26〜38節 新約聖書(新共同訳) 100ページ
エレミヤ書2章2節 旧約聖書(口語訳) 1173ページ
讃美歌(1) 111 かみのみこはこよいしも
「わたしは、お茶くみです」。
手にしたヤカンを隣席の信徒に注ぐ仕草をしながら老牧師の思い出話が始まった。
四十年も一つの教会の牧師を務めた。
「先生には十分な謝儀をお渡しすることが出来ませんでした」。
当時の会計役員が嗚咽した。
老牧師の訥々とした祈りで創立記念礼拝が幕となった。
高級外車が迎えに来た。医師夫人の娘さんが運転していた。
牧師家族に清貧を強いた後ろめたさが少し緩和された。
「あの先生は、純情という言葉が好きやったな。隠退しても腰の低いのが変わらんな」。
会堂に残された古い信徒たちは異口同音に牧師の人柄を語った。
『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように』ルカ1:38
マリアが天使のお告げを聞いたのは十三歳ぐらいの年齢だったらしい。
テレビで何度も見た痩せ細った赤ん坊の妹を抱きしめるロヒンギャ難民の少女にそのイメージが近い。
キリストが馬小屋で生まれたことを誰もが知っている。
それなのに、夫となるヨセフがダビデ家、王族の末裔だと聖書は記す。
これは、とんでもない痩せ我慢である。
荒唐無稽な血統書でも持ち出さない限り蓄積された非抑圧感のはけ口が無いのである。
ある牧師が女子中学生を相手にマリアのことを語った。
キリストの誕生と世界の貧困を関連付けたかった。
牧師は、貧しさを美化したくなかった。
貧しさの実際を前提としたかったが、生徒たちの反応は余りにも冷ややかであった。
牧師は感情的になった。
「路上で生まれて、君たちぐらいの年齢の時に無理やり結婚という名のもとに暴行されて子どもを産むようなことが実際にあるのだ。イエスの母もそのような路上生活者に近い環境の人であったのだ」。
牧師と生徒たち、お互いに不快感だけが残った礼拝、一日であった。
医師夫人となったヤカン牧師の娘さんが、
思い出したくもない清貧の館に高級外車で父親を迎えに行く心を誰も覗き見ることは出来ない。
路上生活者の悲哀を心の奥底深くに受け止めた生徒が居なかったとは言い切れない。
マリアは、思いめぐらし、考え込んだ。
天使の言葉を反芻した。
熟慮に熟慮を重ねた。生身の『この身に』約束されたことを納得した。
スペイン語クラスのクリスマスページェント。イエスをスペイン語で『ヘスース』と言うことを知った。
讃美歌(1) 111 かみのみこはこよいしも
(1)神の御子は今宵しも ベツレヘムに生まれたもう
いざや友よ もろともに いそぎゆきて拝まずや いそぎゆきて 拝まずや
(2)しずの女(め)をば母として 生まれましし みどりごは
まことの神 きみの君 いそぎゆきて拝まずや いそぎゆきて 拝まずや
(3)「神にさかえあれかし」と みつかいらの声すなり
地なる人もたたえつつ いそぎゆきて拝まずや いそぎゆきて拝まずや
(4)とこしなえのみことばは 今ぞ人となりたもう
待ち望みし主の民よ おのが幸をいわわずや おのが幸をいわわずや
ルカによる福音書1章26〜38節
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。
そのおとめの名はマリアといった。
天使は、彼女のところに来て言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
すると、天使は言った。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。
神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアは天使に言った。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。
だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。
不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
神にできないことは何一つない。」
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。
お言葉どおり、この身に成りますように。」
そこで、天使は去って行った。
エレミヤ書2章2節(口語訳)
「行って、エルサレムに住む者の耳に告げよ、
主はこう言われる、
わたしはあなたの若い時の純情、
花嫁の時の愛、
荒野なる、
種まかぬ地でわたしに従ったことを覚えている。
2020年11月29日 アドベント 待降節第1主日
説教題 『こりゃダメだ』
聖 書 イザヤ書2章1〜12節 旧約聖書(新共同訳) 1063ページ
マタイによる福音書24章36〜37節 新約聖書(新共同訳) 48ページ
讃美歌(1) 95 わがこころは
「人の歴史に神の歴史が突入した。これを、救いの歴史、救済史と言う。
ドイツ語でハイルス・ゲシヒテと言う。ドイツ語では歴史をヒストリーとゲシヒテの二通りに使い分ける。
年表であらわされる歴史をヒストリー、深い内容を伴う出来事や物語的な歴史をゲシヒテと言う。
この用語は、何かが生じると言う意味のゲシェーエンと言う動詞から派生しているのだ」。
何の事を言っているかサッパリ分からない。
言っている教授本人も分かっていないのではないかと思った。
しかし、それが、神学校の授業であった。
教授の授業は大真面目であったが、「こりゃダメだ」と思った。
また別な日、教授は、聖書の記述には明らかに時間との整合性のない信仰的な時間優先があり、
それらは口伝が根拠となっている。
そういう例は、聖書以外には見当たらないへブル的独自性だと強調した。
口伝と言えば河内音頭や浪曲の独壇場ではないか。
堪りかねて、「先生、浪曲の一節にも、『そういえば今年は、去年死んだ親父の七回忌』
と言うようなくだりが幾らでもありますよ」と広沢虎造の物真似で蛸壺学問をお諫めしたが、
理解を得ることはなかった。
アドベントが始まった。アドベントとは、『到来』を意味するラテン語である。
キリストがやって来るのである。一方的に。
ゲシヒテ的に言うと、
『あなたの生活の真っ只中に、散らかし放題のあなたの家に、イエスさまがやって来る』と言うことになろう。
どうやらクリスマスは、かなり乱暴な出来事のようだ。
師走だけに忠臣蔵、赤穂浪士の討ち入りに似たりである。
『ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
あなたは御自分の民、ヤコブの家を捨てられた。
この民がペリシテ人のように東方の占い師と魔術師を国に満たし異国の子らと手を結んだからだ。
この国は銀と金とに満たされ財宝には限りがない。
この国は軍馬に満たされ、戦車には限りがない。この国は偶像に満たされ、手の業、指の造った物にひれ伏す。
人間が卑しめられ、人はだれも低くされる』 イザヤ2:5〜9
預言者は、浪曲師さながら、「こりゃダメだ」と潰れた声で唸り、呻く。
向かいの家の僅か1メートルほどの隙間からピラミッドの入り口のような我が家の玄関に朝日が差し込む。
讃美歌(1) 95 わがこころは
(1)わが心は あまつ神を とうとみ わがたましい
すくいぬしを ほめまつりて よ ろ こ ぶ
(2)数に足らぬ はしためをも 見すてず よろず代まで
さきわいつつ めぐみたもう う れ し さ
(3)御名は清く 大御業は かしこし 代々にたえぬ
みいつくしみ あおぐものぞ う く べ き
(4)低きものを 高めたもう みめぐみ おごるものを
とりひしぎて 散らしたもう み ち か ら
(5)アブラハムの すえをとわに かえりみ イスラエルを
忘れまさで 救いたもう と う と き
イザヤ書2章1〜12節
アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。
国々はこぞって大河のようにそこに向かい多くの民が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから。御言葉はエルサレムから出る。
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。あなたは御自分の民、ヤコブの家を捨てられた。
この民がペリシテ人のように東方の占い師と魔術師を国に満たし異国の子らと手を結んだからだ。
この国は銀と金とに満たされ財宝には限りがない。
この国は軍馬に満たされ、戦車には限りがない。
この国は偶像に満たされ、手の業、指の造った物にひれ伏す。
人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。
彼らをお赦しにならぬように。
岩の間に入り、塵の中に隠れよ。
主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。
その日には、人間の高ぶる目は低くされ、傲慢な者は卑しめられ、主はただひとり、高く上げられる。
万軍の主の日が臨む。すべて誇る者と傲慢な者に。す
べて高ぶる者に――彼らは低くされる――。
マタイによる福音書24章36〜37節
「その日、その時は、だれも知らない。
天使たちも子も知らない。
ただ、父だけがご存じである。
人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
2020年11月22日 降誕前第5主日
説教題 『マスクとスマホ』
聖 書 ミカ書5章1〜14節 旧約聖書(新共同訳) 1454ページ
コリントの信徒への手紙一1章26〜29節 新約聖書(新共同訳)300ページ
讃美歌(1) 101 いずこのいえにも
連日二千人を超える新型コロナウイルス感染が報じられている。
食べ物を口に運ぶ時だけマスクを外せと政府は言う。
政府は、時同じくしてデジタル化を推進すると言う。
デジタル化とはコンピューターを使って国民の情報を徹底して管理するということである。
ペンだこにアームカバー姿の事務処理時代は終わった。
マスクとスマホは、人々の生活を圧迫、支配している。
マスクの大きさは、『てのひら』ぐらいである。
スマホの大きさも、『てのひら』ぐらいである。小さいのである。
小さいにもかかわらず、マスクとスマホは世界を征服している。
わすか縦10センチ、横20センチのものに。
マスクを軽視した大統領は選挙に敗れた。
『エフラタのベツレヘムよ、
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、
わたしのためにイスラエルを治める者が出る』(ミカ書5章1節)
いよいよ次週からアドベントを迎える。
またかのクリスマスがやって来るのではない。
救済の歴史の起源はどこにあるのか。
預言者ミカの言葉に耳を傾けたい。
ミカは、『美香さん』ではない。その音の響きから離れないといけない。
ミカのヘブル語発音は、『ミーハーヤー』、である。
『ハー』の音は喉の奥から強く発声される『カ』に近い。
その名の直訳は、『だれが主のようであろうか』である。
意訳すれば、『だれも、神の思いを言葉と行いに出来ない』と言うことであろう。
『いと小さき者にこそ神の偉大な計画が秘められる』ことを承知せよと迫るのである。
使徒パウロも『だれ一人、神の前で誇ることがないように』と筆舌を尽くして教会人の傲慢を諫めた。
『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように』。
天使のお告げを聞いたマリアの心に繋がろう。
その名は、ミゼット、軽三輪自動車である。
こんな小さな車が町や村を走っていたのだ。
讃美歌(1) 101 いずこのいえにも
Himmel hoch、da komm ich her 1535
マルティン・ルターが当時流行していた民謡からヒントを得て、
彼の家庭のクリスマスのために作詞した。
(1)いずこの家にも めでたき音ずれ 伝えうるためとて 天よりくだりぬ
(2)マリアの御子なる 小さきイエスこそ み国にこの世に つきせぬ喜び
(3)神なるイエスこそ 罪とがきよむる きずなき子羊 救いの君なれ
(6)馬槽のそばにて マリアが歌える み歌に合わせて 我らも主をほめん
ミカ書5章1〜14節
エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
まことに、主は彼らを捨ておかれる。
産婦が子を産むときまで。
そのとき、彼の兄弟の残りの者はイスラエルの子らのもとに帰って来る。
彼は立って、群れを養う。主の力、神である主の御名の威厳をもって。
彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり、その力が地の果てに及ぶからだ。
彼こそ、まさしく平和である。
アッシリアが我々の国を襲い、
我々の城郭を踏みにじろうとしても我々は彼らに立ち向かい、
七人の牧者、八人の君主を立てる。
彼らは剣をもってアッシリアの国を抜き身の剣をもってニムロドの国を牧す。
アッシリアが我々の国土を襲い、我々の領土を踏みにじろうとしても彼らが我々を救ってくれる。
ヤコブの残りの者は多くの民のただ中にいて、主から降りる露のよう。
草の上に降る雨のようだ。彼らは人の力に望みをおかず、人の子らを頼りとしない。ヤコブの残りの者は諸国の間、多くの民のただ中にいて、森の獣の中にいる獅子、羊の群れの中にいる若獅子のようだ。
彼が進み出れば、必ず踏みつけ、引き裂けば、救いうるものはない。
お前に敵する者に向かってお前の手を上げれば、敵はすべて倒される。
その日が来れば、と主は言われる。わたしはお前の中から軍馬を絶ち、戦車を滅ぼす。わたしはお前の国の町々を絶ち、砦をことごとく撃ち壊す。
わたしはお前の手から呪文を絶ち、魔術師はお前の中から姿を消す。
わたしはお前の偶像を絶ち、お前の中から石柱を絶つ。
お前はもはや自分の手で造ったものにひれ伏すことはない。
わたしはお前の中からアシェラ像を引き抜き、町々を破壊する。
また、怒りと憤りをもって聞き従わない国々に復讐を行う。
コリントの信徒への手紙一1章26〜29節
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。
人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、
能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、
力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
また、神は地位のある者を無力な者とするため、
世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
2020年11月15日 降誕前第6主日
説教題 『いとうべき習慣』
聖 書 申命記18章9〜20節 旧約聖書(新共同訳) 309ページ
使徒言行録3章16節 新約聖書(新共同訳) 218ページ
讃美歌(1) 176 いかりとなげきの
「この村には、寺は一軒もないんや」。
近鉄奈良駅が最寄り駅ではあるが、歩いては行けない。
住所表記は奈良市である。
過疎と言っても良いような集落に友人が住んでいる。田畑はあるが農業者ではない。
焼き物で細々と生計を立てる孤高の人である。
自分には友はないと言うが千客万来を拒みはしない。
村は明治の時代、廃仏毀釈の直撃を受けたらしい。
「神社だけある。寺はない。総代することもあるんやで」。
「あんたがウチへ来ると村のしきたりとか昔のことを聞きたがるな。
あんたは、レビ・ストロースか。ワシらは研究対象かいな」。
いつも茶化される。著名な文化人類学者の名前を出して核心を逸らす。
「ま、言うてみると文化大革命みたいなもんやったんやろな。
バーミヤンの石仏爆破やったかも知れん。
小さな村やから歯向かうこと出来んかったんやろな」。
『あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入ったならば、
その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない』(申命記18:9)。
木で鼻を括ったような信仰が大手を振った時があった。
『あった』と過去形にしたい。
キリスト教はレベルが高い。そういう傲慢があった。
神仏、土俗的なるものを忌み嫌った。
教会が地域と関りを持つ時、多様な意見に耳を傾けるべき時、
この傲慢が教会的事業を頓挫させる場面があった。
主の与えられる土地に『いとうべき習慣』が待ち受けている。
荒野を四十年彷徨った民への新たな試練である。
『占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、
口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者など』がいてはならない。
違反者は死をもって滅ぼされる。
『いとうべき習慣』は、よほど、魅力的でご利益があったのだろう。
イエスの名によって足の不自由な男を歩かせたペテロたちの行為は、
土地の者たちには、呪文を唱えたように見えたかも知れない。
奇跡の虜、一神主義の罠が、あった。
工房の片隅にシュールな作品を見つけた。友人に何かと尋ねた。
「これはワシの神や。あんたにも一つ作ってやろうか」。
只でもらった七福神 左右から四人目が友人によく似ている。
我関せずとギターを弾くワタクシは右端ですかね。
讃美歌(1) 176 いかりとなげきの
(1) いかりとなげきの おわりの日はきぬ あめつちくずるる
(2)さばきの主はいま 御座にぞつきます ものみなふるえり
(5)わが主のまえには かくれし罪すら のがるることなし
申命記18章9〜20節
あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入ったならば、
その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない。
あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、
占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、
口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。
これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。
これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。
あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。
あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、
あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない。
あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。
あなたたちは彼に聞き従わねばならない。
このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、
「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」と
あなたの神、主に求めたことによっている。主はそのときわたしに言われた。
「彼らの言うことはもっともである。わたしは彼らのために、
同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。
彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。
彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、
聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。
ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、
勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、
その預言者は死なねばならない。」
使徒言行録3章16節
あなたがたの見て知っているこの人を(生まれながら足の不自由な男)、
イエスの名が強くしました。
それは、その名を信じる信仰によるものです。
イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。
2020年11月8日 降誕前第7主日
説教題 『損得勘定』
聖 書 創世記13章1〜12節 旧約聖書(新共同訳) 16ページ
ガラテヤの信徒への手紙3章1〜2節 新約聖書(新共同訳) 345ページ
讃美歌(1) 496 うるわしのしらゆり
「遺産をね。四分六で分けるちゅうたら話がすっと収まったんや」。
「君も親と同居の長男、介護はヨメ任せやったもんな。
弟さんは遠くに住んで盆正月ぐらいしか顔見せなかったからね。
七三でも良かったかも知れないね」。
「君、勘違いしてるんとちゃうか、四分六の六は弟にやったんやで」。
親の遺産を少な目に相続した友人は人格者でも何でもない。
筋金入りの商売人、経営者である。損得勘定の鬼である。
「何故かちゅうと、それが得やからそうしたんや」と言う。
友人の弟は、何がなんでも半分受け取るつもりで鼻息荒く親族会議の場に現れた。
頭は自分の取り分のことで一杯。
「兄貴、俺は半分もらうで。それが決まりやろ」。
友人は弟の勢いを制して静かに六分の取り分を告げた。
弟は、「やっぱり、兄貴や。ありがとう」
と言って親の霊前に手を合わせることもなく、そそくさと実家を去った。
友人とは高校時代からの長い付き合いであるが、
プライベートの極みとも言える遺産相続の内幕を聞かせられるとは思いもよらなかった。
私への信頼が心地良かった。
「な、あいつは大損したやろ」。損得勘定のオチが付いた。
信仰の父、アブラハムは、神の約束を信じ、従い、馴れ親しんだ土地を離れカナンの地を目指した。
歴史の教科書で習うあのチグリス・ユーフラテス流域に栄えたメソポタミア文明に背を向けたのである。
流れ者となったのである。
カナンの地は、『乳と蜜の流れる地』と形容されている。
物と便利を超える世界が、流れ者の目的地である。
アブラハムは、文明の限界を知った最初の人間なのだ。
アブラハムは、死んだ弟の息子、甥のロトと多くの家畜を連れて旅を続ける。
長い列をなす羊やヤギの呻き声、牧童たちの怒号と鞭が飛び交う埃まみれの旅である。
水と草を巡って親族関係に危機が訪れた。
「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、
お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう」。
「あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう」。
アブラハムは、ロトに選択を委ねた。
ロトは迷うことなく、『見渡すかぎりよく潤っていた』土地を選んだ。
好条件を譲られる結果は、、、、。
丁度時間となりました。
今年も月に遊ぶサンタクロースを庭先にディスプレイしました。
讃美歌(1) 496 うるわしのしらゆり
(1)うるわしの白百合しらゆり ささやきぬ昔を
イエス君きみの墓より いでましし昔を
(くりかえし)
うるわしの白百合 ささやきぬ昔を 百合の花 百合の花 ささやきぬ昔を
(2)春に会う花百合 夢路ゆめじよりめさめて
かぎりなき生命いのちに 咲きいずる姿よ
(3)冬枯ふゆかれのさまより 百合しろき花野はなのに
いとし子ごを御神は 覚さましたもう今なお
創世記13章1〜12節
アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。
ロトも一緒であった。アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。
ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。
そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった。
アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた。
その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。
彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。
アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。
そのころ、その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた。
アブラムはロトに言った。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、
お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。
あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。
あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。
あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」
ロトが目を上げて眺めると、
ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、
主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。
ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。
こうして彼らは、左右に別れた。
アブラムはカナン地方に住み、
ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。
ガラテヤの信徒への手紙3章1〜2節
ああ、愚かなガラテヤの人たち、
十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示されたのに、
誰があなたがたを惑わしたのか。
あなたがたにこれだけは聞いておきたい。
あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。
それとも、信仰に聞き従ったからですか。
2020年11月1日 降誕前第8主日
説教題 『すかんタコ』
聖 書 マタイによる福音書 26章6〜13節 新約聖書(新共同訳) 52ページ
イザヤ書 45章2〜3節 旧約聖書(新共同訳)1135ページ
讃美歌(1) 391 ナルドのつぼ
「靖子の下手な演技をお許しください。
別嬪だけが取り柄で、演劇の何たるかを理解しておらないのでございます。
申し訳ございません。叔父の私からお詫び申し上げます」。
沢口靖子は姉の次女という設定の余興ネタである。
全くの嘘、つくり話だと事前に断るのだが、大半の人が信じてしまう。
叔父の私は、大部屋の役者で飲んだくれ、時折、沢口の家に小遣いをせびりに現れるダメ人間である。
「靖子ちゃん、あんたの演技は無意味な表現が多いな。もっと勉強せなあかんで」。
「おっちゃん、なに言うてんの。おっちゃんこそワンパターンのチョイ役ばっかりやんか。
いらんこと言わんといて。すかんタコ」。
「それ言う前に、おまえの泉州訛りなんとかしたらどうや。関西弁忘れちゃったってやて、笑わすで」。
沢口靖子の名を全国的に知らしめたのはNHKの朝ドラ、『澪つくし』であった。
千葉県銚子が舞台であった。醤油屋の婚外子、健気な娘を演じた。
靖子は、網元の跡取りに恋心を抱くも結ばれそうで結ばれない。
粗野で品位のない青年たちが靖子の清楚を引き立てる。
土地柄が誇張される。
ある日、遊郭から逃げ出した女を追って用心棒たちが醤油屋に押しかける。
「女を出せ」。「お前たちはどこの者だ」。
牟田悌三演じる親方が貫録を見せると、用心棒が店の名を言った。
「その店なら、俺も若けぇころ世話になった」。
大正、昭和がドラマの背景なのだ。
荒くれ男たちを束ねる親方の今に脂ぎった男の匂いはない。
用心棒とのさりげない遣り取りは、牟田貞三ならではの上手がある。
親方も若かりし頃は、そういう店の客であった。
そういう店には、そういう女がいた。
そういう女が、十字架を前にしたイエスの前に、突如、現れる。
マタイ福音書は、一人の女としているが、お馴染のタイトル付きの女、マグダラのマリアのことである。
品位ある注解書はマリアは必ずしも娼婦ではなかったとするが、
岡場所に身を落していた女のイメージは払拭しがたい。
マタイは、高価な香油をイエスの頭に注いだとあるが、
ヨハネ福音書の視線は下半身に注がれる。
『マリアはイエスの足に香油を注ぎ、その足を自らの髪で拭った』と。
性的サービスを行ったとする過激な註解もある。
弟子たちの過剰な反応が、語るに落ちた。
決めつけている。
女がどのようにして高価な香油を手に入れたかを。
貧しい発想だ。
そういう場所に出入りしていた頃と何も変わっていない。
マリアは弟子たちを睨み付ける。すかんタコ。
豊かな刈り入れを祝う。
讃美歌(1) 391 ナルドのつぼ
(1) ナルドのつぼ ならねど ささげまつる わが愛
みわざのため 主よ 潔めて うけませ うけませ
(2)よわき民に ちからを おぐらき世に ひかりを
あたえて主の たかき御旨 なさばや なさばや
(3)怖ずるものに 平和を なげくものに のぞみを
わかちて主の ふかき恵み あらわさん あらわさん
(4)この世のわざ おわりて あまつ国に かえらば
主よみまえに 仕えまつらん ときわに ときわに
※この讃美歌は、フラットが沢山ついている曲ほど弾きやすいと先輩に言われて最初に練習した思い出深い讃美歌です。
讃美歌21にも同曲がありますが、新しく付けられた歌詞がしっくりしません。
マタイによる福音書 26章6〜13節
さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき
、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、
食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。
「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
イエスはこれを知って言われた。
「なぜ、この人を困らせるのか。
わたしに良いことをしてくれたのだ。
貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。
はっきり言っておく。世界中どこでも、
この福音が宣べ伝えられる所では、
この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう
イザヤ書 45章2〜3節
わたしはあなたの前を行き、
山々を平らにし 青銅の扉を破り 鉄のかんぬきを折り
暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える
あなたは知るようになる わたしは主 あなたの名を呼ぶ者
イスラエルの神である、と
2020年10月25日 聖霊降臨節第22主日
説教題 『祈りと暴力』
聖 書 ネヘミヤ記6章1〜9節 旧約聖書(新共同訳) 745ページ
ペトロの手紙一4章7〜8節 新約聖書(新共同訳) 433ページ
讃美歌(1) 453 きけやあいのことばを
「積もり積もった繰越金の一部を還付しようと思います」。
ある牧師親睦会の幹事役が回ってきた。
賛成されると思ったが反対があった。
「お金をある程度残しておかないと何かあった時どうするんですか」。
慎重を装った意見だった。
「皆さんが賛成なら良いんですがね、私の、私の個人の意見として聞いて頂ければと思いましてね」。
会員の顔から笑顔が消えた。
提案は却下されそうになった。
概して、牧師は、個人の意見に弱いのである。
牧師は、概して、世間知らずである。
カネは命であるのにカネの勘定ができない。
仕方がないので親睦会の勘定とはどのようなものかを説明した。
会費の値下げも合わせて提案した。
責任を持つと言ったら賛成となった。
後日、正確に計算したヘソクリ程度のものを封筒に入れて領収の判を貰いに会員の教会を訪問した。
「流石ですね。ボクは先生の提案に賛成していたんですよ」。
牧師たちの顔がほころんだ。
個人的意見を述べた牧師まで同じことを言った。
時化(しけ)た牧師のポケットマネーの遣り取りでさえ『月に叢雲、花に風』である。
良い所で、「お前は黙っておれ」とつい言いたくなるようなヤツが必ず現れる。
『わたしが城壁を再建し、崩れた所が一つとして残らず、あとは城門に扉を付けるだけ』(6:1)
そのタイミングに預言者ネヘミヤの『敵』が現れる。
ネヘミヤはバビロニア捕囚後のエルサレムの荒廃をペルシャ王の冬の宮殿で聞いた。
ネヘミアは王の毒味役(献酌官)を務める高官である。
ダニエル、エズラ、エステルに同じくアウエイの成功者である。
捕囚から帰還した人々は神殿の再建を果たすが城壁にまで手が回らなかった。
画竜点睛を欠くではないが、神殿を囲む堅固な城壁がなければ民の心に安らぎはない。
ネヘミアはペルシャ王のお墨付きまで取り付けて城壁の再建に万全を尽くしたが、
落成の直前に現れた敵に苦しむ。命まで狙われる。
しかし、ネヘミアは神道無念流の創始者、福井兵右衛門嘉平ではないが、刀は抜かなかった。
ネヘミアは祈った。ペルシャ王にでもなく、デマに振り回される民にでもなく、神への信頼に集中した。
同時に、ネヘミアは二十四時間、敵の行動をモニターし分析する諜報活動を怠らなかった。
ネヘミアの祈りは、刀を抜く以上の暴力、破壊力となり、城壁は再建された。
祈りは、決して非暴力ではない。
雨上がりの一休寺(2020年10月23日撮影)静寂は都の荒廃へのアンチテーゼか。
讃美歌(1) 453 きけやあいのことばを
(1)聞けや 愛の言葉を 諸国人(もろくにびと)らの
罪科(つみとが)を除く 主の御言葉を、主の御言葉を
(繰り返し)
やがて時は来たらん 神の御光(みひかり)の
普(あまね)く世を照らす 朝(あした)は来たらん
(2)見よや 救いの君を 世のため悩みて 贖(あがな)いの道を
開きしイェスを 開きしイェスを
(3)歌え 声を合わせて 天地(あめつち)と共に 喜びに満つる
栄えの歌を 栄えの歌を
ネヘミヤ記6章1〜9節
サンバラト、トビヤ、アラブ人ゲシェム、その他わたしたちの敵は、
わたしが城壁を再建し、崩れた所が一つとして残らず、
あとは城門に扉を付けるだけだということを耳にした。
サンバラトとゲシェムはわたしのもとに使者をよこして、
「オノの谷にあるケフィリムで会おう」と言った。
彼らはわたしに危害を加えようとたくらんだのであった。
そこでわたしは使者を送って言わせた。
「わたしは大きな工事をしているので、行けません。
中断して出かけたのでは、どうして工事が終わるでしょうか。」
彼らは同じことを四度も言ってきたが、わたしも同じように返事を繰り返した。
五度目にサンバラトは、配下の者を同じ言葉をもってわたしのもとによこしたが、
その手には開封の手紙があった。
そこには、こう書かれていた。
「あなたとユダの人々は反逆を企てていると、
諸国のうわさにもなっているし、ガシュムも言っている。
城壁を建てているのはそのためであろう。
あなたはユダの人々の王になろうとしているということだ。
また、あなたはあなたのことを宣言する預言者をエルサレムに立てて、
ユダの王だと言わせているそうだ。
今このうわさは、王のもとに届こうとしている。
早速相談しようではないか。」そこでわたしは返事を送った。
「あなたの言うことは事実に反する。あなたの勝手な作り事だ。」
彼らは皆、わたしたちの手が弱り、工事は完成しないだろうと言って、わたしたちに恐怖を与えている。
神よ、今こそわたしの手を強くしてください。
ペトロの手紙一4章7〜8節
万物の終わりが迫っています。
だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。
何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
2020年10月18日 聖霊降臨節第21主日
説教題 『誰に断って』
聖 書 マタイによる福音書22章15〜22節 新約聖書(新共同訳) 41ページ
詩編52編3〜6節 旧約聖書(新共同訳) 886ページ
讃美歌(1) 353 あめなるよろこび
「誰に断って商売しとるんじゃい!」。
扇町公園らしき書割を背景にしたタコ焼き屋の屋台が蹴散らされ、
花月組を名乗るならず者たちが因縁を付ける。
とぼけた役者がスカタンを喰らわして荒唐無稽なドタバタ喜劇が繰り広げられる。
この変化のない週末の昼下がりのテレビ番組を飽きもせず五十年以上も観てきた。
イエスも屈強な弟子たちを引き連れて神殿でひと暴れする。
聖なる空間を汚す両替商を攻撃したのである。
カネでカネを買う。ドルを円で、円をドルで売ったり買ったりする。
それに似たことが公然と神殿で行われていたのである。
為替相場の変動によって差額の収入を狙う外国為替証拠金取引、FXとか外為とか呼ばれるものに同じである。
正確には仲介業者の屋台が神殿内に軒先を連ねていたのである。
利ザヤは大きい。みかじめ料は腐敗した高官や高位聖職者のポケットに入金される。
「父の家が強盗の巣窟となっている」。
イエスは、暴力をもって神殿を清めた。
ハリウッド映画の聖書物語では、
常軌を逸したイエスが両替商の計算台や生贄の檻を破壊し始めると
祭司や神殿警察が駆け付けて捕縛を試みるが、
イエスの背後には赤銅色の片肌を露にした筋骨隆々のペテロたちが腕組みをして無言の圧力を加える。
「誰に断って商売しとるんじゃい!」。
商売を生活と言い換えると意味が通りやすい。
自動車教習所の教官が、
「何人も日本の道路を自動車で運転してはならないのであるが、、、」に続けて、
「よって免許をもって運転して良いこととする」と言ったことを記憶している。
道路の所有者である国に断って車を運転するのである。
生活するのである。
何事も国家に許しを得て生活する。
卑屈な言い方をすれば、させて頂くのである。
介護保険料の年金からの天引きに呟(つぶや)かない人はいないだろう。
強欲なヘロデ派と品行方正なパリサイ派の人たちが妙な化学変化を起こしてイ
エスの前に現れ底意地の悪い疑問を投げかける。
「誰に税金を納めれば良いでしょうか?」。
「誰に断って商売すれば良いでしょうか?」。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。イエスは即答する。
屋台は辛うじて、無事かもしれない。
そういえば、諸外国の硬貨には肖像がある。
讃美歌(1) 353 あめなるよろこび
(1)あめなるよろこび こよなき愛を たずさえくだれる わが君イエスよ
すくいのめぐみを あらわにしめし いやしきこの身に やどらせたまえ
(2)いのちをあたうる 主よ、とどまりて われらのこころを とこ宮となし
あしたにゆうべに いのりをささげ たたえのうたをば うたわせたまえ
(3)われらをあらたに つくりきよめて さかえにさかえを いや増しくわえ
みくににのぼりて みまえに伏す日 みかおのひかりを 映させたまえ
マタイによる福音書22章15〜22節
それから、ファリサイ派の人々は出て行って、
どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。
「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、
だれをもはばからない方であることを知っています。
人々を分け隔てなさらないからです。
ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。
皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。
「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」
彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。
「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。
詩編52編3〜6節
力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか
神の慈しみの絶えることはないが
お前の考えることは破滅をもたらす
舌は刃物のように鋭く、人を欺く
お前は善よりも悪を
正しい言葉よりもうそを好み
人を破滅に落とす言葉、欺く舌を好む
2020年10月11日 聖霊降臨節第20主日
説教題 『攻める』
聖 書 ヨシュア記6章1〜16節 旧約聖書(新共同訳) 346ページ
マルコによる福音書11章24節 新約聖書(新共同訳) 85ページ
讃美歌(1) 492 かみのめぐみは
「お嬢さん、ボクと一緒に喫茶店でお茶でもいかがでしょうか」。
通りすがりの女性に声を掛ける。
俗に『ナンパ(軟派)』と言う。
面識のない者に対して、公共の場で会話、遊びに誘う行為と辞書にある。
大阪ミナミの繁華街でその光景を目にしたことがあった。
その時に聞いた決まり文句は、「茶、シバケへんか」であった。
この乱暴な言葉遣いが軟派を軟派らしく仕立てていた。
無視されてもアタックは止むことが無かった。
次元はかなり異なるが、
モーセの後継者ヨシュアも約束の地への突破口、エリコの町の攻略に苦悶していた。
この町を囲む城壁を攻撃し破壊しなければ民の未来はない。
四十年に及ぶ砂漠の試練、出エジプトを果たしたイスラエルの民は、今、
流れ者の生活に休止符を打とうとしている。
ヨシュアは、武装した精鋭たちに告げる。
「あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。
町を一周し、それを六日間続けなさい。
七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。
七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。
彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、
その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨(とき)の声をあげなさい。
町の城壁は崩れ落ちる」。
「わたしが鬨の声をあげよと命じる日までは、叫んではならない。
声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならない」。
自粛の影響を受けて自宅で過ごす時間が長い。
YouTubeで西部劇を立て続けに鑑賞した。
砦の騎兵隊や幌馬車を盾にした開拓民にインディアン(先住民)が襲い掛かる。
インディアンの闘いは勇猛果敢に描かれる。
奇声を上げ、浜辺に打ち寄せる波のように何度も何度も攻撃を繰り返す。
恐怖の余り命令を待たず発砲した騎兵隊は全滅する。
ヨシュアは沈黙の攻めを命じた。
七日目の角笛が吹き鳴らされるまで勝手なことをするなと命じた。
約束の地への突破口は開かれたのである。
防御一点張りの今日この頃、われわれも、マスクを外して鬨の声でもあげますかね。
小麦粉にラードを加え熱湯で練り、一晩寝かせた生地で皮を作り、
豚バラ肉を叩き荒ミンチにしたものと玉葱だけで餡を作り、
鉄製のフライパンで円形に焼き上げた自家製餃子。
かなり『攻めて』おります。
讃美歌(1) 492 かみのめぐみは
(1) かみのめぐみは いとたかし あおぐ高嶺の しらゆきに
あさ日匂える ヘルモンの 山にもまさり たかきかな
(2) かみのめぐみは いとふかし そこいも知れぬ うなばらに
ゆう日かがやく ガリラヤの 海にもまさり ふかきかな
(3) かみのめぐみは いとひろし はてしもあらぬ まさご地に
月すみわたる アラビアの 原にもまさり ひろきかな
ヨシュア記6章1〜16節
エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、
だれも出入りすることはできなかった。
そのとき、主はヨシュアに言われた。
「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。
あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。
七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。
七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。
彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、
その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨(とき)の声をあげなさい。
町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」
ヌンの子ヨシュアは、まず祭司たちを呼び集め、
「契約の箱を担げ。七人は、各自雄羊の角笛を携えて主の箱を先導せよ」と命じ、
次に民に向かって、「進め。町の周りを回れ。武装兵は主の箱の前を行け」と命じた。
ヨシュアが民に命じ終わると、
七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の前を行き、
主の契約の箱はその後を進んだ。
武装兵は、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前衛として進み、
また後衛として神の箱に従った。
行進中、角笛は鳴り渡っていた。
ヨシュアは、その他の民に対しては、
「わたしが鬨の声をあげよと命じる日までは、叫んではならない。
声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならない。
あなたたちは、その後で鬨の声をあげるのだ」と命じた。
彼はこうして、主の箱を担いで町を回らせ、一周させた。
その後、彼らは宿営に戻り、そこで夜を過ごした。
翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱を担ぎ、
七人の祭司はそれぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の箱の前を進んだ。
武装兵は、更にその前衛として進み、また後衛として主の箱に従った。
行進中、角笛は鳴り渡っていた。彼らは二日目も、町を一度回って宿営に戻った。
同じことを、彼らは六日間繰り返したが、
七日目は朝早く、夜明けとともに起き、同じようにして町を七度回った。
町を七度回ったのはこの日だけであった。
七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。
「鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。
マルコによる福音書11章 24節
だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになる。
2020年10月4日 聖霊降臨節第19主日
説教題 『僅 差』
聖 書 マタイによる福音書20章1〜16節 新約聖書(新共同訳) 38ページ
コヘレトの言葉3章14節 旧約聖書(新共同訳) 1037ページ
「バーミアンへも行きました。爆破前の石仏がまだあった時ですわ」。
「飛行機のドア開けたらサウナ風呂でしたわ」。
新婚旅行は世界一周の貧乏旅行だったらしい。
こういう人が教育者に相応しい。
校長になった。七不思議と言う人もいた。
成績に悩む生徒が校長室のドアを叩いた。
「成績、、、。そんなものは僅差の世界や」。生徒は、救われた。
真面目とトボケが秒単位で入れ替わる数学の教員がいた。
数学とは何かと問われて、即答した。
「要するに近似ですわ」。この人も、多くの生徒や同僚を救った。
朝の早くから働いた者も夕方の五時から働いた者にも同じ賃金が支払われる。
それが天国だとイエスは言う。
伝統的な聖書解釈も朝から働いた労働者を宗教エリートや富裕層に、
夕方の一時間しか働けなかった労働者を初期キリスト教徒や貧困層、
あるいは異邦人とイメージして瞑想を得よと勧めている。
『素人名人会』と言うテレビ番組があった。
日曜日の『NHKのど自慢』が終わった後の午後一番の民放番組であった。
関西人好みの大人の文化祭だ。
これでもかこれでもかと名人、迷人が登場する。
出場者の中に淡いピンクのスーツに真珠のネックレス姿のマダムがいた。
司会者が「どちらからお越しですか」と尋ねる。
「芦屋から参りました」で会場がどよめいた。「どこか違うと思うてましたわ」。
目玉を大きく見開く芸が売り物の司会者が大袈裟に反応する。
「何をお歌いになられますか」とマイクを向けられて、『釜ヶ崎人情』。
その日その日の雇用で生計を立てる生活がある。
手配師の持って来る仕事に一縷の望みを託す。
自らを商品として市に晒すのである。上等の商品は、朝一番に売り切れる。
売れ残る商品もある。
天候もその日の運を左右する。
一日、道に立ち尽くすのである。
♪立ちん坊人生 味なもの
通天閣さえ立ちん坊さ
じんわり待って出直そう
ここは天国 ここは天国 釜ヶ崎♪
芦屋マダムは天真爛漫に『釜ヶ崎人情』を歌い上げた。
鐘は連打であった。
審査委員長の大久保玲がレシーバーを片耳に当てながらマダムを褒め称える。
芦屋に住まいすることが他の世界とそれほどの差があるものではない。
僅差、近似を知る者でありたい。
中秋の名月の翌日の月。「何故、翌日なのか!」と朝から働いたぶどう園の農夫が詰め寄る。
讃美歌(1) 368つとめいそしめ
(1)つとめいそしめ 花の上の きらめく露の 消えぬまに
とき過ぎやすく 暮れは近し あさ日てるまに いそしめよ
(2)つとめいそしめ あまつ空を わたる日かげの 過ぎぬまに
いそぐ日脚(ひあし)は 矢よも速(と)し 真昼のうちに いそしめよ
(3)つとめいそしめ 青田そよぐ すずしき風の たえぬまに
わざやむる夜の くるははやし 夕日さすまに いそしめよ
マタイによる福音書20章1〜16節
「天の国は次のようにたとえられる。
ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
それで、その人たちは出かけて行った。
主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
五時ごろにも行ってみると、
ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。
主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、
『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。
しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
それで、受け取ると、主人に不平を言った。
『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。
まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
主人はその一人に答えた。
『友よ、あなたに不当なことはしていない。
あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。
それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
コヘレトの言葉3章14節
わたしは知った。
すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。
神は人間が神を畏れ敬うように定められた。
2020年9月27日 聖霊降臨節第18主日
説教題 『フィギュア』
聖 書 エフェソの信徒への手紙5章1節〜16節 新約聖書(新共同訳) 357ページ
マタイによる福音書 19章 20節 新約聖書(新共同訳) 37ページ
讃美歌(1) 262 十字架のもとぞ
「あの父親には大学へ行かせてもらえなかったのです」。
実業家であり慈善家であるその人は、父親の葬儀の後、恨みを漏らした。
牧師にだけは心を許していた。父親は立派な人であった。
教会のみならず地域からも人格者、信仰者として敬愛されていた。
クリスマスの一週間前に召された。
「長老は、クリスマスを前に、
まさに、東方の博士たちを主の降誕の場へと導いた不思議な星の如くの
信仰の生涯を全うされました」。
新米牧師にして上出来な告別式の説教だった。「センセ、ええ説教やった」。褒めてももらった。
長老は、伝統的な教派の信徒であったが、何かを感じ、
近所の純福音系の教会に通い始めた。
清貧に甘んじる牧師、純朴な信徒たちに出会った。
その教会では、禁酒禁煙は言うに及ばず、この世の知恵も真正面から否定された。
「信仰に学問は要らないのであります!」。牧師の説教は力強く単純明快であった。
息子は大学への進路を絶たれた。
『あなたがたは神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい』(エフェソ5:1)。
神は、自らに似せて人を創った。
ご案内の創世記の一丁目一番地である。意味を正確に伝えたいために『創った』とする。
『作る・造る』ではない。
『創った』は、神以外の者を主語としないヘブル語の動詞を苦労して訳したものである。
立派な人間、信仰者であることは、ただただ、神のお心次第である。人間の努力によって到達されない。
「タバコだけは我慢できませんでな、ゴミ箱を漁って吸い殻を探しましたんやわ」。
人が吸ったタバコの残りを懐かしい言葉で『シケモク』と言うが、
大長老、代々続く商家の大旦那がゴミ箱をひっくり返しシケモクに吸い付く様を想像した。
何と可愛らしいことかと思った。
しかし、息子の大学への進路を絶ったことは、冷たい言い方かもしれないが、『罪』と言えるだろう。
立派な人間、品行方正な人間、
それは、十字架のへりくだりを学ぶ者が結果として得られるイメージである。
長老は、小柄な人であったが、その半分の小さな小さな体となった。
胸まである豊かな白い髭が黒紋付にコントラストを与えた。
立派な人間のイメージそのものであったが、
不遜を恐れずに言わせてもらうと、
長老は、棺を囲む人たちの前に、ひとつの『フィギュア』としてディスプレイされた。
息子の恨みは既に癒えて久しい。
見上げると首が痛くなるような立派なビルだが、『お前も木になれよ』とまわりの木々たちが迫る。
讃美歌(1) 262 十字架のもとぞ
(1)十字架のもとぞ いとやすけき 神の義と愛の あえるところ
あらしふく時の いわおのかげ 荒野(あれの)のなかなる わが隠れ家
(2)十字架のうえに われはあおぐ わがため悩める 神の御子を
妙にもとうとき かみの愛よ 底(そこ)いも知られぬ ひとの罪よ
(3)十字架のかげに われは立ちて み顔のひかりを たえず求めん
この世のものみな 消ゆるときも くすしく輝く そのひかりを
エフェソの信徒への手紙5章1節〜16節
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。
キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、
つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、
あなたがたも愛によって歩みなさい。
あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、
あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。
卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。
それよりも、感謝を表しなさい。
すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、
つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。
このことをよくわきまえなさい。むなしい言葉に惑わされてはなりません。
これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。
だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。
光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――
何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。
実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。
しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。
明らかにされるものはみな、光となるのです。
それで、こう言われています。
「眠りについている者、起きよ。
死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。
時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。
マタイによる福音書19章20節
そこで、この青年は言った。
「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
2020年9月20日 聖霊降臨節第17主日
説教題 『マスクを外す』
聖 書 創世記45章1〜10節 旧約聖書(新共同訳) 81ページ
マタイによる福音書 18章 22節 新約聖書(新共同訳) 35ページ
讃美歌(1) 294 みめぐみゆたけき
「七人も子がおると、中にほんまにスカン子がおるのう。混じっとるけん」。
祖母の言いたい放題に座が盛りあがる。
盃をコップの手酌に持ち替えた三番目の叔父が、
「それは、まさかボクのことじゃなかろうね」。
「兄さんをおいて他に誰がおるじゃろね」。
祖母の気質を引き継いだ末っ子の叔母が叔父の肩をしたたか叩く。
子沢山の時代は、危機の時代である。スペアが必要なのである。
戦争と飢饉が常態化している国や地域における子どもの出生率は高いが生存率は低い。
コップ酒の叔父は、あの時代を生き抜いた。
七人の子どもたちは、誰一人欠けることはなかった。
スカン子も生き残ったのである。
「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と神は祝福を約束する。
しかし、それは、リスクを伴う繁栄であることを覚悟せよとの意味も持っていた。
アブラハム、イサク、ヤコブは危機の時代を乗り越えて行く。
ヤコブの時代に子沢山となる。
ヤコブの最初の妻に十人の男子、後妻に二人の男子が与えられた。
前妻と後妻は姉妹であった。
前妻の死後、器量良しの妹を妻に迎えたヤコブは、年老いての子、ヨセフを異常に可愛がった。
教会学校の紙芝居は、擦り切れた野良着の兄たちとカラフルな余所行きの晴れ着を着たヨセフをこれでもかと誇張して描く。
ヨセフは十人の異母兄たちの嫉妬を買いエジプトに売り飛ばされてしまう。
ヤコブの依怙贔屓が余りに度を過ぎていたのである。
ヨセフは、奴隷身分からエジプトの宰相にまで上り詰める。
貧乏人の子沢山とはいえ、ぼんぼんに育てられたことが憎めない性格を形成していたのであろう。
ヨセフは、人が見た夢を解く特殊技術を持っていた。
十人の兄を身近な人間観察の実験材料にしていた。
その能力が王の心を捉え宰相に任じられたのである。
カナンの地に大飢饉があった。
兄たちは、恥を忍んでエジプトの援助を求めるべく宰相に謁見した。
兄たちは、成長したヨセフに気付かなかった。
ヨセフは散々、兄たちに底意地の悪い仕掛けを試みたが、
根がぼんぼん故に、
王から賜った名、『ツァフェナト・パネア(神は語り、神は生きておられる)』を兄たちの前に押し通すことが出来なかった。
ヨセフは、『マスク』を外した。
行き交う人々が心までマスクをしているかのような日常に、慣れてはいけない。
千早(ちはや)ぶる神代(かみよ)もきかず龍田川(たつたがは) からくれなゐに水くくるとは
(昨日撮影)
讃美歌(1) 294 みめぐみゆたけき
(1)みめぐみゆたけき 主の手にひかれて この世の旅路を あゆむぞうれしき
(くりかえし) たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ
みあとをゆくこそ こよなきさちなれ
(2)さびしき野べにも にぎわう里にも 主ともにいまして われをぞみちびく
(3)けわしき山路も おぐらき谷間も 主の手にすがりて やすけくすぎまし
(4)世の旅はてなば 死のかわなみをも 恐れずこえゆかん みたすけたのみて
創世記45章1〜10節
ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、
「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。
だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。
ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。
ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」
兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。
ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」
兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。
「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。
しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。
命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。
この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、
まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。
神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、
あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。
わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。
神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。
急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。
『息子のヨセフがこう言っています。
神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。
ためらわずに、わたしのところへおいでください。
そして、ゴシェンの地域に住んでください。
そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、
そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。
マタイによる福音書 18章 22節
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
2020年9月13日 聖霊降臨節第16主日
説教題 『なんでも言おう』
聖 書 列王記上3章1〜11節 旧約聖書(新共同訳) ページ
コリントの信徒への手紙一15章2節 新約聖書(新共同訳) ページ
讃美歌(1) 270 信仰こそ旅路をみちびく杖
「あなたは、わたしが挨拶を差し上げても知らんふりなさるのね」。
「教会のお台所をわたしに無断で勝手に仕切ったからよ」。
「あなたのお料理下手には皆さんどれほど眉を顰めておられてるかご存知ないのね」。
教会の風通しを良くしようと『なんでも言おう会』が開催された。
教会員が本音で教会の問題を語り尽くそうという企画だった。
牧師は渋い顔をしていた。
話し合いの結果は惨憺(さんたん)たるものであった。
最初は、教会の長期計画を抽象的に語り合う程度の意見交換であったが、
司会者が、文字通りの『なんでも言おう』を煽った。
些細なことでも良いかと前置きして、一人の女性信徒が台所問題を提起した。
全人格否定の応酬となった。プロレスの場外乱闘さながらであった。
全身不随の信徒伝道者、矢部登代子師を教会に招くことがあった。
ストレッチャーの女史を京都駅に迎えた。
傍には、瀬戸内寂聴さんをサポートするような感じの女性信徒が数人いた。
その信徒の中に見覚えのある顔を見た。
小学生の頃、裏に住んでいた婦人だった。
その家からは、オルガンに合わせて讃美歌が聞こえていた。
一度だけ、家庭集会に招かれたことがあった。
雑多な生活音や怒鳴り声のような会話が飛び交う町内にパラダイスがあった。
子ども心に、クリスチャンと呼ばれる人たちに対して非常に良い印象を持ったのである。
「お宅から聞こえてくるお嬢さんや奥様の綺麗なお声の讃美歌、出入りする人たちの雰囲気が印象的でした。
牧師になった動機の一つにもなっています」。
婦人は、罰の悪そうな顔をした。
牧師になって三年目であったが、おばちゃんの心は何となく読めた。
「HYOちゃんは、わたしたちのことをそんなに良く見ていてくださっていたのね。ありがとう」。
寂聴さんや矢部登代子さんのような人のお伴、お世話ができるということは、
相当な修羅場を潜り抜けて来たということだろう。
自分に対する『なんでも言おう』を重ねて来られたのであろう。
『実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました』
(コリントの信徒への手紙一 1章10〜20節)
困っている人をタビタのように見捨てなかったある姉妹の棺 (使徒言行録 9章36〜42節)
讃美歌(1) 270 信仰こそ旅路をみちびく杖
(1)信仰こそ旅路を みちびく杖 よわきを強むる 力なれや
こころ勇ましく 旅を続けゆかん この世の危(あやう)き 恐るべしや
(2)わが主を頭(かしら)と 仰ぎ見れば ちからの泉は 湧きて尽きず
めぐみ深き主の 御傷みまつれば わずかに残る火 ふたたび燃ゆ
(3)主イエスの御跡を たどりゆけば けわしき山路も 安けきみち
いかで迷うべき などて疲るべき ますぐに御神へ 近づきゆかん
(4)信仰をぞわが身の 杖と頼まん するどき剣も くらぶべしや
世々の聖徒らを 強く生かしたる 御霊を我にも 与えたまえ
さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。
皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。
わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。
あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」
「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。
キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。
パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。
あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。
クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。
だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。
もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、
それ以外はだれにも授けた覚えはありません。
なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、
しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、
言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
それは、こう書いてあるからです。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」
知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。
この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではない
エゼキエル書 37章17節
それらを互いに近づけて一本の木としなさい。それらはあなたの手の中で
2020年9月6日 聖霊降臨節第15主日
説教題 『レバノンの森』
聖 書 列王記上3章1〜11節 旧約聖書(新共同訳) 531ページ
コリントの信徒への手紙一15章2節 新約聖書(新共同訳) 320ページ
讃美歌(1) 298 やすかれわがこころよ
「宝くじが当たったら教会に半分寄付させてもらいます」。
「後で考えたんですけど、その半分にさせて頂けませんか」。
「申し訳ないですが、十分の一でも構いませんか」。
ソロモン王は、先代ダビデ王の悲願を成し遂げた。
ソロモン王は、ダビデ王が為し得なかった神殿建設の許しを神に問うた。
民を治める知恵を求めた。
千頭の牛を灰にした。
ただただ焼き尽くして肉の焦げる匂いを天に届け、神の心を喜ばせた。
神殿は、『レバノンの森』(7章2節)とも称された。
レバノン杉をふんだんに用いる贅沢な神殿であったからである。
堅牢な石造りのフレームに美しく柔らかな杉材の内装が施されたのである。
おそらく、セントラルヒーティングも完備していたであろう。
しかし、杉の森や神殿の熱エネルギーを確保する雑林は伐採されたのち二度と緑を回復することはなかった。
神殿と同じ大きさのソロモン王の家があった。
妻700人、側室300人のハーレムが付属していた。
神殿だけの建設ではなかったのである。
余談ではあるが、カバン持ちをさせて頂いた先生の名が「後宮(うしろく)」であった。
「先生のお名前は徳川家の大奥みたいですね」。
「そんなこと考えたこともなかったな。ワッハハッ」。
ヨーロッパの王家、名家もプライベートな礼拝堂付の住まいを好んだ。
徳川家も豪華な仏間を持っていた。
ストレスの多い王者の生活とはそのようなものかも知れない。
ハーレムでちやほやされないと政治が行えないのである。
『レバノンの森』と聞いて『ノルウエーの森』が響いた。
ご案内のビートルズである。
テンションの緩いインドのシタールなる楽器の音色が脳裏を離れない。
1960〜70年代の若者たちの現実逃避が肯定された。
ふらふらと迷い込んだ娼館。北欧の洒落た木工家具もどき、ワインにふかふかのベッドがそこにあった。
『遊女は客に惚れたと言い。客は遊女にまた来ると言う』。
ノルウエーの森と訳されてしまたっのでTOKUINGAIのイメージが遠ざかった。
若者のやるせない逃げ場と妄想を切なく歌いあげているのである。
森と訳されたウッド(wood)は単数形なので家具の意味である。
複数形ウッズ(woods)となって森、ソロモンの神殿の別名、『レバノンの森』となるのである。
ソロモンは、アブラハムがイサクに望んだようにではなく、
やや傾きかけていたとはいえ大国の王女を妻とした。
列王記記者は、『ソロモンは、エジプトの王ファラオの婿となった』と皮肉る。
ソロモンの1000人の妻をソロモンの『徳』と読み替える無理な解釈があったが、
ダビデの最後やソロモンの背信を知る者には、遊女の心にこそ真があると信じたい。
台風接近 昭和30年代、蟄居閉門よろしく家屋を板で覆い釘を打つ金槌の音が町内に響く
讃美歌(1) 298 やすかれわがこころよ
(1) やすかれ わがこころよ 主イエスはともにいます
いたみも苦しみをも おおしく忍び耐えよ
主イエスのともにませば たええぬ悩みはなし
(2) やすかれ わがこころよ なみかぜ猛るときも
父なるあまつかみの みむねに委ねまつれ
み手もてみちびきたもう のぞみの岸はちかし
(3) やすかれ わがこころよ 月日のうつろいなき
み国はやがてきたらん うれいは永久に消えて
かがやくみ顔あおぐ いのちのさちをぞ受けん
列王記上3章1〜11節
ソロモンは、エジプトの王ファラオの婿となった。
彼はファラオの娘を王妃としてダビデの町に迎え入れ、
宮殿、神殿、エルサレムを囲む城壁の造営が終わるのを待った。
当時はまだ主の御名のために神殿が建てられていなかったので、
民は聖なる高台でいけにえをささげていた。
ソロモンは主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだが、
彼も聖なる高台でいけにえをささげ、香をたいていた。
王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。
そこに重要な聖なる高台があったからである。
ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた。
その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、
「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。
ソロモンは答えた。
「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、
あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。
またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、
今日、その王座につく子を父に与えられました。
わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。
しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。
僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、
その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。
どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、
この僕に聞き分ける心をお与えください。
そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」
主はソロモンのこの願いをお喜びになった。
神はこう言われた。
「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、
また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。
コリントの信徒への手紙一 15章2節
どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、
しっかり覚えていれば、
あなたがたはこの福音によって救われます。
2020年8月30日 聖霊降臨節第14主日
説教題 『シンガーソングライター』
聖 書 ハバクク書3章 17〜19節 旧約聖書(新共同訳) 1468ページ
ローマの信徒への手紙8章10〜20節 新約聖書(新共同訳) 33ページ
讃美歌(1) 537 わが主のみまえに
そこに強い緊張があった。ギターを抱えた先輩牧師が現れた。
女性部を婦人部と称していた時代である。
教区婦人部総会は300名を優に超える大集会であったと記憶している。
昼食後の活動報告の進行役が先輩牧師に委ねられていた。
先輩牧師は教区総会の聖餐式司式の大役を式文に目を通すことなく、
流れるような作法で執り行う『名人上手』であった。
その先輩の口がこわばり、ギターの指板に置く指があの聖餐式の滑らかさを欠いている。
『ギターを弾いたりする者は不良である。そのスタイルは教会に持ち込んではならない』。
そのような空気が会場にあった。
先輩は、まるで大国バビロンに囲まれた風前の灯の町のようであった。
私は、新しい試みのスタートの目撃者、証言者となる瞬間に立ち会った。
ざわめきの中、教会学校用に作曲された新しい讃美歌が披露された。
キャンプファヤーを囲む子どもたちが喜ぶリズムがそこにあった。
複雑な反応があったが、教会の浮世離れへの警告は充分に果たされた。
ハバククは竪琴に合わせて歌い祈る神殿付きの預言者であった。
言うなれば歌うチャプレン、シンガーソングライターである。
胸に抱える小さな楽器は吟遊詩人のそれに同じく聞く者の心を揺さぶる。
エレミヤと同じ時代に生きたハバククも大国バビロンの脅威に怯える人々にポップな弾き語りを披露してみせた。
ハバクク書全体は、昔懐かしいSPやLPレコードジャケットの裏面に印刷された歌詞紹介のようなものである。
いちじくの木に花は咲かず ぶどうの枝は実をつけず
オリーブは収穫の期待を裏切り 田畑は食物を生ぜず
羊はおりから断たれ 牛舎には牛がいなくなる
ハバククはフォーク歌手のような雰囲気の人であったかも知れない。
歌って語るスタイルは竪琴の名手ダビデによってジャンルが成立していた。
有効な説法テクニックだったのである。
ハバククの心は、『神に従う人は信仰によって生きる(2:4)』の一点に集中していた。
婦人部総会の後、
先輩牧師から、「君もギター弾くらしいね」と言われて妙に嬉しかったことが思い起こされる。
『日が暮れるまでに町を出て行け』 預言者に安らかなベッドはない。 堤防の日没
讃美歌(1) 537 わが主のみまえに
(1)わが主のみまえに よろこびつどいて うえなきみめぐみ うたいたてまつれ
わが主にならいて ひとをばへだてず かたみになぐさめ たがいにたすけよ
(2)わが主のためには その身をわすれて ちからのかぎりに つかえたてまつれ
わが主はみ弟子の 足をもあらいて しもべのみちをば しめさせたまえり
(3)わが主をおのれの かしらとあがめて ひとつとなりにし 友よ、はらからよ
いよいよしたしみ こころをあわせて わが主のおおみよ ことほぎまつれや
ハバクク書3章 17〜19節
いちじくの木に花は咲かず、ぶどうの枝は実をつけず、
オリーブは収穫の期待を裏切り、
田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、
牛舎には牛がいなくなる。
しかし、わたし
は主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。
わたしの主なる神は、わが力。
わたし
の足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる。
(指揮者によって、伴奏付き)
ローマの信徒への手紙8章10〜20節
キリストがあなたがたの内におられるならば、
体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。
もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、
キリストを死者の中から復活させた方は、
あなたがたの内に宿っているその霊によって、
あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、
それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。
しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、
神の子とする霊を受けたのです。
この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
もし子供であれば、相続人でもあります。
神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。
キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、
取るに足りないとわたしは思います。
被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
被造物は虚無に服していますが、
それは、自分の意志によるものではなく、
服従させた方の意志によるものであり、
同時に希望も持っています。
2020年8月23日 聖霊降臨節第13主日
説教題 『血と知』
聖 書 マタイによる福音書 10章34〜40節 新約聖書(新共同訳) 19ページ
創世記24章1〜6節 旧約聖書(新共同訳) 33ページ
讃美歌(1) 398 わがなみだ
「戦時中、ヤソの子、臭い、臭いと囃し立てられました」
「牧師の家に生まれて名前が伊佐久ですからね」
「キシモト君、伊佐久を反対に読んでみなさい。クサイになるでしょう」
八月を英語でオーガストと言うが、ローマの初代皇帝、アウグストゥスの名に因んでいる。
アウグストゥスは、紀元14年に75歳の生涯を閉じている。
紀元14年はイエスの思春期に重なる。
言うなれば、イエスはその時、高校一年生だったのである。
アウグストゥスは後継者問題に悩んだ。娘の放蕩にも悩んだ。
血の繋がりへの固執が仇となったのである。
皇帝家族のゴシップは誇張に誇張を重ねてイエスの耳にも届いていただろう。
アブラハムは、神の祝福が息子イサクに継承されることを望んだ。
そのためには、イサクの妻が地元の娘では具合が悪い。
アブラハムは、テントの奥にいる存在が大きな力を持っていることを身に染みていた。
百歳のアブラハムに、神の約束によるイサクが与えられることを冷笑したのは妻サラであった。
『イサク』の名は、真剣な話に薄ら笑いを返す懐疑や侮蔑の笑いを意味するヘブル語の語呂合わせになっている。
アブラハムは資産家であった。イサクのヨメ探しは大番頭に委ねられた。
アブラハムの故郷から信仰深い家の娘を連れて来るためにラクダ十頭のキャラバンが仕立てられた。
ラクダは最高150キロの荷物を運べる。アブラハムの願いは叶った。
イサクの妻となるリベカは乳母や使用人まで連れて輿入れて来た。
富裕層クリスチャンホームの一丁出来上がりと言う訳だ。
イエスには六人の兄弟姉妹がいた。
落語に出てくるような貧乏人の喜怒哀楽を日常としたであろう。
父ヨセフは後継者問題に悩むことはない。
イエスは、貧しい職人の家に生まれたが勉強家であった。
『知』の世界に精通していた。
市井の人々の心をベースに聖書と世界を研究していた。
皮肉の人は、『血』の世界から抜け出せない信仰の父や皇帝には手厳しい。
イエスは、『自分の家族の者が敵となる』というキャッチ―な言葉を使って神の国への招待状とした。
リベカがアブラハムの僕とラクダに水を汲んだ井戸の勝手なイメージ
讃美歌(1) 398 わがなみだ
(1)わがなみだ われをひたして
たえがたき なやみの夜を
ひたすらに 主を呼びまつる
わが声に答えたまえ わが主よ
(2)生きの身の われのいだきし
のぞみみな 今はついえぬ
ひたすらに 主を呼びまつる
わが声に答えたまえ わが主よ
(3)みめぐみと 知りてはあれど
このなやみ 今は耐ええず
ひたすらに 主を呼びまつる
わが声に答えたまえ わが主よ
(4)主によりて つよくおおしく
なやみにも かたしめたまえ
ひたすらに 主を呼びまつる
わが声に答えたまえ わが主よ
マタイによる福音書 10章34〜40節
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。
わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
自分の命を得ようとする者は、それを失い、
わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、
わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。
創世記24章1〜6節
アブラハムは多くの日を重ね老人になり、
主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた。
アブラハムは家の全財産を任せている年寄りの僕に言った。
「手をわたしの腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。
あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、
わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」
僕は尋ねた。
「もしかすると、その娘がわたしに従ってこの土地へ来たくないと言うかもしれません。
その場合には、御子息をあなたの故郷にお連れしてよいでしょうか。」
アブラハムは答えた。「決して、息子をあちらへ行かせてはならない。
2020年8月16日 聖霊降臨節第12主日
説教題 『ある人の死』
聖 書 エレミヤ書 20章14〜18節 旧約聖書(新共同訳) 1215ページ
マタイによる福音書27章45〜52節 新約聖書(新共同訳)
58ページ
讃美歌(1) 136 ちしおしたたる
♪Oh, Bon!だよ。Oh, Bon!だよ。今日は楽しいお盆のフェスティバル〜♪
数年前、地蔵盆のステージを依頼された。
「牧師さんちゅうことは、よう分かってまっせ」と言われて策が無いのも情けない。
お盆とフランス語のBon(良い)をもじって『聖者の行進』に潜り込ませ、
『漕げよマイケル』のアドリブで町内の子どもたち200人のハレルヤを夏の夜空に届けた。
教会学校の夏期キャンプで積み上げたノウハウを駆使したのである。
死への強い想起が際立つ季節や行事があり、そこには、必ず、子どもたちの賑わいがある。
日常の人の流れを堰き止めた子どもたちのパラダイスがある。
初盆に涙が乾かない人もはしゃぎ回る子どもたちの屈託に慰められる。
子どもたちの命は携帯電話が100%充電された状態のようなものだ。
ある人の死をお伝えしたい.。三十年も前のことである。
一通のファックスが届いた。
パソコンのメールがそれほど普及していない時代である。
震える手で書いたと思われる比較的大きな字がプリントアウトされ始めた。
最初の一文が強すぎた。「わたしは、数時間内に死を迎えます」。
次々とミミズのような字が打ち出されて来た。宛先は限定された教え子たちのようである。
組織神学の教授であった。理路整然と死を迎える心情が書かれていた。
キリスト教の『キ』の字もイエスの『イ』の字もない。
恥ずかしがり屋の先生だった。
大きな声を出さず、少し引きつったような、語尾が聞き取り難い話し方をされた。
その時、少し赤面されるのが印象的だった。
ドイツ語が相当出来ないと単位は頂けなかった。
そんな先生の講義を登録した。
「今年の登録者は、君ひとりですね」。
最初の授業で周囲に誰もいないことに気付いた。
「君は、どの程度ドイツ語が出来ますか」。
「下手な歌曲を謡える程度で、意味も分からず歌っています」と答えると、
「講義は今日で終わりにします。
ところで君は、何点付けて欲しいですか?」。「そうですねぇ。90何点とかを希望します」。
「私は、マタイ受難曲を聴きながら死を迎えています。
これまで我儘な私を忍耐した皆さんに感謝し、
再びお目にかかる日を楽しみします」と先生は、遺言を結ばれた。
「お前は、先生のドイツ語演習、それも院の授業で93点も付けてもらったのか」。
その点数は地蔵盆の子どもたちに配られるお菓子のようなものだったかも知れない。
讃美歌(1) 136 ちしおしたたる
(1)
血潮したたる 主の御頭(みかしら)
とげに刺されし 主の御頭
悩みと恥に やつれし主を
我はかしこみ 君と仰ぐ
(2)
主の苦しみは 我がためなり
我は死ぬべき 罪人なり
かかる我が身に 代わりましし
主の御心は いとかしこし
(3)
懐かしき主よ、計り知れぬ
十字架の愛に いかに応(こた)えん
この身と霊(たま)を とこしえまで
我が主のものと なさせ給え
(4)
主よ、主のもとに 帰る日まで
十字架の蔭(かげ)に 立たせ給え
御顔を仰ぎ 御手によらば
いまわの息も 安けくあらん
エレミヤ書 20章 14節
呪われよ、わたしの生まれた日は。
母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない。
呪われよ、父に良い知らせをもたらし『あなたに男の子が生まれたと言って』大いに喜ばせた人は。
その人は、憐れみを受けることなく、主に滅ぼされる町のように、
朝には助けを求める叫びを聞き、昼には鬨の声を聞くであろう。
その日は、わたしを母の胎内で殺さず、母をわたしの墓とせず、
はらんだその胎を、そのままにしておかなかったから。
なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い、生涯を恥の中に終わらねばならないのか。
マタイによる福音書27章 45〜52節
さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。
そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、
葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。
ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、
地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、
眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
2020年8月9日 聖霊降臨節第11主日
説教題 『求めると欲、与えると愛』
聖 書 ヨナ書 4章 1〜10節 旧約聖書(新共同訳) 1447ページ
エフェソの信徒への手紙3章6節 新約聖書(新共同訳) 354ページ
讃美歌(1) 531 こころのおごとに
「あんた、トウモロコシを三本も買ったけど、レシートをよう見てみ」。
「三本で250円のはずやけど?」。
750円に消費税が付いたレシートを妻に見せた。
どうやら、トウモロコシ『3L寸250円』を『3本で250円』と見間違えたらしい。
その店には、人の道を説く標語が掲げられていた。
『求めると欲、与えると愛』。毛筆の自由な字体が躍っている。
「な、よう見て見み。この店には、こんなこと書いてあるで」。
そのスーパーには、客の真理を逆手にとった哲学があった。
安くて良い物を売るのがスーパーの使命ならば、
それを自分の欲を満たすためではなく、
家族やあるいは隣人の喜びとする買い物を客は心掛けねばならない。
妻はひとりでトウモロコシを三本も食べようと思ったのではないのだが。
さて、お馴染のピノキオのモチーフにもなったヨナの物語に戻りたい。
『主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた』(2:1)
ヨナは、悪名高いニネベの町に悔い改めを迫る使命を神から受けたが、
怖気づいて真逆の方向に向かう連絡船に乗って逃走した。
ところが、神の荒業によってニネベの町へ連れ戻されてしまう。
ヨナは一回りに三日を要する大きな町を渋々巡り回って神の怒りを触れ回った。
命がけの任務を果たさねばならない。民衆の反感を買ってなぶり殺しにされることを覚悟した。
ところが、以外にも、王も人々もヨナの警告にあっさりと従い悪の道を離れたのである。
拍子抜けしたヨナは小さな子どものように拗(す)ねて町を見下ろす小高い丘に小屋を建てて町の正常化を監視した。
炎天下の下、意地になって粗探しを始めたのである。
その執念を不憫に思い、神は唐胡麻の日陰をヨナに恵んだが
唐胡麻は翌朝には虫に喰われて枯れてしまった。
ヨナはこのことが癪(しゃく)に障り神への不平不満を爆発させた。
神はヨナの勘違いを諫めた。
ヨナが惜しむ一本の唐胡麻と神が惜しむ12万人の命が、
『求めるは欲、与えるは愛』に上手く対応しているように思えるのだが。
(注)唐胡麻(とうごま);その種から蓖麻子(ひまし)油を採る。
讃美歌(1) 531 こころのおごとに
(1) こころの緒琴(おごと)に み歌かよえば しらべに合せて いざほめ歌わん
(繰り返し) ああ平和よ くしき平和よ 御神のたまえる くしき平和よ
(2)天(あま)よりくだれる きよけき平和は まどえる心の 固きいしずえ
(3)主イエスを君とし かしこみ仰げば こころ溢るる 天つめぐみ
(4)みそばにはべれば 平和は絶えせず なみかぜさわがじ こころの海に
ヨナ書4章 1〜10節
ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。
彼は、主に訴えた。
「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。
だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。
わたしには、こうなることが分かっていました。
あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。
主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」
主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」
そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。
そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。
すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。
とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。
ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。
日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」
神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」
彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」
すると、主はこう言われた。
「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。
それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。
そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
エフェソの信徒への手紙3章6節
すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、
同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。
2020年8月2日 聖霊降臨節第10主日 (平和聖日)
説教題 『生まれ変わって』
聖 書 コリントの信徒への手紙二 5章 16〜21節 新共同訳(新約) 331ページ
詩 編 107編 1〜 6節 新共同訳(旧約) 947ページ
讃美歌(1) 239 さまようひとびと
♪影か柳か、勘太郎さんか♪
皆様ご案内のとまでは言えないが、戦時中の流行歌、『勘太郎月夜』の歌い出しである。
昭和十八年に封切られ大ヒットした映画の主題曲である。
窮地に追い込まれた水戸勤皇党を伊那の勘太郎なる渡世人が道案内を勤めるという荒唐無稽な映画である。
この歌は譜面通りに歌ってみるとかなり難しい。
下のラから上のファまで音域が広くサビが短調になる。
繊細である。
極めつけは歌の最後の『ホトトギス』の部分である。『ほとぉぉぉ・・・・とぎす』となる。
人の記憶に強く残る歌がある。
この歌が、戦争の結果を知らず南の島のジャングルをさ迷った元日本兵たちに向けられたのである。
元上官がハンドマイクを握りしめ声を枯らしてこの歌を歌った。
「我々を信用してジャングルから出て来い。この歌を知っているだろう」。応答はなかった。
蟻の這う音にも目を覚ます三十年にも及ぶジャングルの生活は、
殺す側の人間が殺される側の人間となった三十年でもあった。
かの小野田さんは、実際に人を撃ったのかとの質問に、
「銃口を向ける者に躊躇はない」と語っている。
そのような人たちが『勘太郎月夜』に心を開く訳がない。
『キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです』
自分というものを作り上げてしまってから新しい自分になることの難しさを思い知らされる。
この歌の二番には、『生まれ変わって天竜の水に』とある。
(注)水とは自由の意か?
『主は彼らを苦しみから救ってくださった』 詩編 107編6節
梅雨明けの入道雲
讃美歌(1) 239 さまようひとびと..
(1)さまよう人々 たちかえりて あめなる御国の 父を見よや
罪とがくやめる こころこそは 父より与うる たまものなれ
(2)さまよう人々 たちかえりて 父なるみかみの みまえに行き
まことの悔いをば 言いあらわせ 世人は知らねど 知りたまえり
(3)さまよう人々 たちかえりて 主イエスの御許に とくひれふせ
わが主は憐れみ み手をのべて こぼるる涙を 拭いたまわん
(4)さまよう人々 たちかえりて 十字架の上なる イエスをみよや
血潮の滴る み手をひろげ 「生命をうけよ」と まねきたもう
コリントの信徒への手紙二 5章 16〜21節
それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。
肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、
また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。
つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、
和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。
ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。
キリストに代わってお願いします。
神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、
神はわたしたちのために罪となさいました。
わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
詩編 107編 1〜 6節
「恵み深い主に感謝せよ 慈しみはとこしえに」と
主に贖われた人々は唱えよ 主は苦しめる者の手から彼らを贖い
国々の中から集めてくださった 東から西から、北から南から
彼らは、荒れ野で迷い 砂漠で人の住む町への道を見失った
飢え、渇き、魂は衰え果てた
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らを苦しみから救ってくださった
2020年7月26日 聖霊降臨節第9主日
説教題 『デリカシー』
聖 書 マタイによる福音書 8章 5〜10節 新共同訳(新約) 13ページ
詩 編 9編 8〜11節 新共同訳(旧約)
841ページ
讃美歌(1) 500 みたまなるきよきかみ
「お父つぁん、お粥ができたわよ」。「すまねぇ。お前には苦労かけるなぁ」。
悲しげなギターの音色に合わせて小汚い煎餅布団に伏したハナ肇が娘役のザ・ピーナツを相手にシリアスな役どころを演じる。
ハナ肇は中風の症状を誇張する。
そこに何の脈絡もなくお調子者の植木等が現れて突飛な仕草を始める。
白々しくなったところで、「お呼びでない」のギャグで幕となる。
脳梗塞や脳出血の後遺症を笑いものにした時代があった。
人の痛みに対して無神経な時代があった。
イエスはガリラヤで伝道を始める。
その拠点をカファルナウム(慰めの村)とした。
その地を『闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る』とイザヤは預言したが、
現実は由緒正しいユダヤ人からすれば宗教的デリカシーを欠く無作法な人々の吹き溜りであった。
百人隊長がイエスに近づいた。
僕(しもべ)が寝込むほどの中風で苦しんでいると状況を説明した。
イエスは、「行って治してやろう」と言う。
正確には、『他の誰でもない、私が(?γ?・エゴ―)行ってやろう』と言う。
エゴイズムという言葉があるが、あのエゴのことである。
百人隊長は洗練された京都人のように
『主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
ただ、ひと言おっしゃってください。
そうすれば、わたしの僕はいやされます』と丁重にイエスの物理的負担を遠慮する。
バロック音楽の対位法のように謙遜と意志が響き合う。
このデリカシーがイエスの心を動かした。
このデリカシーが兵士や僕に尊敬される人間性を形成していたと想像したい。
あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない 詩編9編11節
うかうかしていると、通過する列車のように無為な人生が目の前を通り過ぎて行くかも知れない
近鉄新田辺駅踏切
讃美歌(1) 500 みたまなるきよきかみ
(1)みたまなるきよきかみ わがよわきたましいを
主のもとにみちびきて かくれしめたまえかし
≪繰り返し≫
みたまよ みたまよ わがたまぞあこがるる
すがりまつる手をばとりて 主にみちびきたまえかし
(2)おののける手をささぐ ねがわくはとりたまえ
みめぐみのきみならで たれかよく主をしめさん
(3)あたいなきわが身をも なみだなく死もあらぬ
とこしえのみくにへと きみはしも入れたまわん
マタイによる福音書8章5〜10節
さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、
「主よ、わたしの僕(しもべ)が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。
そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
すると、百人隊長は答えた。
「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。
わたしも権威の下にある者ですが、
わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、
他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。
「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
詩編9編 8〜11節
主は裁きのために御座を固く据え とこしえに御座に着いておられる
御自ら世界を正しく治め
国々の民を公平に裁かれる
虐げられている人に 主が砦の塔となってくださるように
苦難の時の砦の塔となってくださるように
主よ 御名を知る人はあなたに依り頼む
あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない
2020年7月19日 聖霊降臨節第8主日
説教題 『かの時を知る』
聖 書 ペトロの手紙一 5章 6〜14節 新共同訳(新約) 434ページ
詩 編 119編 105〜109節 新共同訳(旧約) 964ページ
讃美歌(1) 242 なやむものよ
・・・・・正直言うてコロナで助かりましたワ。家族葬で送りました。
・・・・・お悔やみに行こうと思ってましたけど。
・・・・・お気持ちだけで十分。ありがとうございます。
水車が回りハトが飛ぶ。豪華な装束の僧侶が三人。
名刺を交換しただけの付き合いでも長い焼香の列に並ぶ。
教会も例に漏れない。
故人の業績や教会への貢献を告別式終了時刻をはるかに超えて、牧師が長々と説教する。
教会の非常識が顰蹙を買う。そのような時代が終わって久しい。
家族葬が定着して来た。その内容も進化している。
コロナで助かったと本音を吐露した知人も従来の形で父親を送るべきかどうかを悩んだ。
しかし、親族だけで見送ったことが知人の心に大きな安らぎをもたらした。
生と死の意味を深く考える機会と真の慰めの時を得たのである。
俗にいう外野席の見物がなかったのである。
ペテロは、『自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます』と迫害下にある信徒を励ます。
『かの時』を知る者であれと訴える。
立派な葬儀をするための人生が人生ではない。
それは、傲慢、不遜、独善に踊らされた滑稽な人生である。
ペテロは、その落とし穴を『あなたがたの敵である悪魔』と言う。
懐かしい記憶だが、信仰熱心な教会で飛び交った『サタン』のことである。
ペテロは、出来立てのほやほやの信徒たちに、
『ほえたける獅子のように食い尽くそうと探し回っている』悪魔への抵抗を求める。
くじけることがあっても、『愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい』と勧める。
口語訳聖書の『潔い接吻』の訳が懐かしい。
あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。詩編119:105
雨に煙る井手町の山々(山城大橋より撮影)
讃美歌(1) 242 なやむものよ
(1) なやむものよ われに来よと めぐみの主は まねきたもう
重荷を負いて あえぐ友よ 主のみもとに きたりいこえ
(2)なやむものよ われに来よと ひかりの主は まねきたもう
くらきみちに まよう友よ 主のみもとに いそぎかえれ
(2) なやむものよ われに来よと すくいの主は まねきたもう
つみを悔いて なげく友よ 主のゆるしの みこえきけや
ペトロの手紙一 5章 6〜14節
だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。
そうすれば、かの時には高めていただけます。
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。
神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
身を慎んで目を覚ましていなさい。
あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。
あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。
それはあなたがたも知っているとおりです。
しかし、あらゆる恵みの源である神、
すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、
しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、
強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。
力が世々限りなく神にありますように、アーメン。
わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、
これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。
この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。
共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。
愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。
キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。
詩編 119編 105〜109節
あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。
わたしは誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります。
わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり、命を得させてください。
わたしの口が進んでささげる祈りを。主よ、どうか受け入れ、あなたの裁きを教えてください。
わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。
それでも、あなたの律法を決して忘れません。
2020年7月12日 聖霊降臨節第7主日
説教題 『我(が)を通すな』
聖 書 マタイによる福音書 7章 1〜5節 新共同訳(新約) 11ページ
詩 編 143編 1〜6節 新共同訳(旧約) 983ページ
讃美歌(1) 385 うたがいまよいの
「キシモト君、ボクの家はサ、教会なんだけどサ、クリスチャンが一人もいないのサ」。
牧師の息子は面白いことを言う。
「親父はサ、説教の中で気に入らない役員をサタンと名指したりするんだよ。教会員もよく言い争いをするのサ」。
神学生時代、牧師家庭に育った友人がいた。
「だからサ、君も赴任する教会にクリスチャンがいると思ってはいけないよ」。
この友人の言葉は大きな支えとなった。修羅場を乗り越えることもできた。
含蓄に富む言葉だった。
キリスト教は愛と許しの宗教だと世間の人が言う。教科書にもそう書いてある。
だが、よくぞ言ってくれたと胸を張る教会人は少ないだろう。
立派なクリスチャンはいるだろうが、それは決して私のことではない。
この感覚を麻痺させてはいけない。
イエスは、今にも取っ組み合いが始まりそうな場面に遭遇して、
居合わせた人たちに向かい、『裁くな!』と一喝した。
鈍(なまく)らな信徒でも良く記憶している聖書の言葉だ。
この命令は、『なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか』(口語訳)と続く。
新共同訳は、『兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか』と訳している。
原文を正確に訳した翻訳者のしたり顔が垣間見えるが、
建築現場に舞い上がるチリや埃と組み上げられた梁を対立させる口語訳の方が分かりやすい。
イエスは、大工であった。
イエスの目の前で、今、自分の技術や美学が絶対だと信じて疑わない職人たちが揉めている。
この譬えは、『兄弟』、すなわち、内輪の問題なのである。
『小さなことからコツコツと』。どこかで聞いた漫才のギャグのようだが、
グローバルなキリスト教に慣れていると小さな世界の深刻な日常問題が分からなくなる。
イエスは、職人たち(熱心な信仰者)に、『我(が)』を通すなと速攻の命令を下す。
『自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる』。
根拠は明確に示された。
宮本ヲスヱの遺品(象牙の聴診器)
ヲスヱさんは今日も私たちの胸に聴診器を当てている。
讃美歌(1) 385 うたがいまよいの
(1)うたがい迷いの 闇夜をついて 恐れずたゆまず われらは進む
行手にかがやく み光あれば 共に手をとりて よろこび進む
(2)われらを結べる み霊はひとつ われらに通える 生命もひとつ
ひとつの御糧に 育まれつつ ひとつの目的(めあて)に むかいて進む
(3)ほまれも栄えも たがいに分ち 憂いもなやみも 相互(かたみ)にうけて
一つのみいくさ 共にたたかい 一つのかちうた 斉(ひと)しくうたう
(4)いざいざ同胞(はらから) 十字架を負いて み国のみちをば おおしく歩まん
世の旅おわりて 栄(さかえ)の主より 生命のかむりを 賜る日まで
マタイによる福音書7章 1〜5節
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。
自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。
そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
詩編 143編 1〜6節
主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。
あなたのまこと、恵みの御業によって、わたしに答えてください。
あなたの僕を裁きにかけないでください。
御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません。
敵はわたしの魂に追い迫りわたしの命を地に踏みにじりとこしえの死者と共に闇に閉ざされた国に住まわせようとします。
わたしの霊はなえ果て、心は胸の中で挫けます。
わたしはいにしえの日々を思い起こし、あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、
御手の業を思いめぐらします。あなたに向かって両手を広げ、
渇いた大地のようなわたしの魂をあなたに向けます。
2020年7月5日 聖霊降臨節第6主日
説教題 『ソーメン博士』
聖 書 イザヤ書49章 14ー20節 新共同訳(旧約) 1144ページ
ヨハネによる福音書14章15〜20節 新共同訳(新約) 197ページ
讃美歌(21) 331 主はよみがえられた
忘れるほど昔のことだが、教会学校の子どもたちを引率してキャンプに連れて行くことがあった。
そのキャンプ場は三田の山奥にあり携帯電話も通じない不便な所にあった。
キャンプ場に着いたら設営と同時に昼食の用意をしなければならない。
引率者は私と妻のふたりだけ。
キャンプ場の近くの古民家に高校時代の先輩が一人暮らしをしていることを思い出した。
「いつでも遊びに来てや」。その言葉を思い出して電話を掛けた。
「素麺でも湯がいておくから、みんなで食べてや。待ってるでえ」。
「素麺はボクが作りますから、何もせんといて下さい」と念を押した。
素麺だけは誰にも手出しさせない。私は、ソーメン博士である。
古民家のかまどを使って子どもたちに食べさせる。
「こんな美味しいい素麺食べたことないわ」。想像するだけでもワクワクする。
ところが、隠遁生活の長い先輩は、子どもたちを招待する嬉しさに心躍り早朝からから素麺を茹で始めた。
我々が到着した時、それは、離乳食のような、介護食のような、ふにゃふにゃ、ぐちゃぐちゃの素麺であったが、
後々の楽しい夏の思い出の一コマとなった。
教会の青年たちに素麺を振る舞ったことがある。
「センセ、こんな美味しいの食べたことないです」。
異口同音とはこの事なり。たかが素麺、されど素麺。
このシンプルな調理は徹底した奉仕、愛の精神が無ければ成り立たない。
私は、他の追従を許さないソーメン博士なのである。
つい最近、今年になって初めて、家族の者たちに素麺を作った。
半夏生(はんげしょう)の意味などを講義しながら絶妙のタイミングで調理した。
もちろん、家族の反応は、いずれの家庭にもあるような、『それが、どうした』である。
田植えのタイミングは、半夏生がリミットである。
素麺の湯がき加減にも通じる奥義なのだが、家族にはその講釈が煩いのである。
素麺の調理など、どうでも良い事かも知れない。
しかし、このどうでも良いことが何の疑いもない日常であることの意味は深い。
ユダヤの民は紀元前586年、バビロニアの捕囚民となっておよそ五十年もアウエーの生活を余儀なくされた。
『根』を抜かれたのである。
『主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた』
呑気に素麺など茹でておられない日が、ある日、突然訪れる。
『わたしは、あなたがたを孤児(みなしご)にはしておかない』
ルターは、「明日が世の終わりであっても私はリンゴの木を植える」と言った。
今年の夏も昼食はソーメンで良いのですね。神さま!
讃美歌(21) 331 主はよみがえられた
イザヤ書49章 14ー20節
シオンは言う。主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。あなたを破壊した者は速やかに来たが、あなたを建てる者は更に速やかに来る。あなたを廃虚とした者はあなたを去る。目を上げて、見渡すがよい。彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。わたしは生きている、と主は言われる。あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい花嫁の帯のように結ぶであろう。破壊され、廃虚となり、荒れ果てたあなたの地は彼らを住まわせるには狭くなる。あなたを征服した者は、遠くへ去った。あなたが失ったと思った子らは再びあなたの耳に言うであろう。場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。あなたは心に言うであろう。誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか。わたしは子を失い、もはや子を産めない身で捕らえられ、追放された者なのに。誰がこれらの子を育ててくれたのか。見よ、わたしはただひとり残されていたのに、この子らはどこにいたのか、と。
ヨハネによる福音書14章15〜20節
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたを孤児(みなしご)にはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
2020年6月28日 聖霊降臨節第5主日
説教題 『心まで貧しい』
聖 書 マタイによる福音書 5章 1〜12節 新共同訳(新約)
6ページ
箴 言 19章:1〜7節 新共同訳(旧約) 1015ページ
讃美歌(21) 289 みどりもふかき
「カネは、持ってる者が持ってると言うたらあかんのや」。
教会の財政的危機に強い一癖も二癖もある役員が若い牧師に経済学の奥儀を伝授した。
大株主でありながら会社の丁稚を自称している人らしい物の言い様であった。
難解で誤解を招く表現だったが、
『持っているといえるほど』の資産とは何か、
その資産とは誰のものかを人生経験の浅い牧師に伝えようとしたのである。
『財産は友の数を増す』、箴言の一節である。
拾い読みをすると、『実の兄弟も皆、貧しい人を憎む。友達ならなお、彼を遠ざかる』とまで言い切る。
貧しいことが否定されている。
箴言は、学問的には正確ではないが、栄華を極めたソロモン王の格言集である。
社訓のようなものである。怠惰と虚偽が徹底して否定される。人生の敗者に容赦がない。
脱線するが、箴言の続きは、コヘレトの言葉(伝道の書)、雅歌と続く。
学問的には正しくないが、ソロモン王の作として読むと分かりやすい。
ソロモンは大企業の創立者、成功者のようではあるが神の厳しい審判を受けた人間でもある。
主な原因は驕り高ぶりである。
王は絶頂期に完璧な組織論(箴言)を展開したが、晩年、後継者問題や勝者の論理に疑問を持ち虚無感に苛まれる。
コヘレト言葉(伝道の書)のコヘレトとは『集会』、教会のようなものを意味する。
王のタイトルを捨て、一人の伝道者となる。
頭を丸めて、『ソロモン入道』となり人生を語る。
開口一番は、『伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である』であった。
彼はやっと無一文の世界の喜びを知り、
恋多き若き頃の甘いラブソング(雅歌)も恥ずかしげもなく歌う。
王として成功し、失敗する。そして誰よりも人らしい人となった。
イエスは、『心の貧しい人々は、幸いである』と弟子たちに教えられた。
『山に登り』、すなわち、人の目線ではない高い所からという暗示である。
ビジュアル的にも分かりやすい状況の下で語られた。
『貧乏していても心は豊かです。心が貧しいとは何事ですか』。
そういう見当違いな反応が長くあった。
牧師は、イエスの真意なるものを伝えようと必死で説明したが、
聞いた人たちは言うに及ばず、本人も納得できるものではなかった。
ルカによる福音書では『心の』が外されている。
箴言的に言えば貧乏人と言い切ったのである。 無一文は幸いだと言ったのである。
マタイはそれに輪をかけて文字通り『心まで』貧しいと言い切ったのである。
持っている者が持っていると言ってはいけない。
しかし、心まで貧しい者は、その貧しさを大声で叫んで良いと主は言われるのである。
それが『幸い』。祝福の根拠となるのである。
右手をイメージしたパンを焼きました
讃美歌(21) 289 みどりもふかき
(1)みどりもふかき 若葉のさと (2)その頭には かむりもなく
ナザレの村よ 汝がちまたを その衣には かざりもなく
こころ清らに 行きかいつつ まずしき村の 木工として
そだちたまいし 人を知るや 主は若き日を 過ぎたまえり
(3)人の子イェスよ 君の御名を
みつかいたちの ほむるときに
めぐみににおい 愛にかおる
み足のあとを 我はたどらん
マタイによる福音書 5:1ー12 節
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。
腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、
あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
箴言 19章:1〜7節
貧乏でも、完全な道を歩む人は、唇の曲がった愚か者よりも幸いだ。
知識がなければ欲しても不毛だ。あまり足を急がせると過ちを犯す。
人は無知によって自分の道を滅ぼす。しかも主に対して心に憤りをもつ。財産は友の数を増す。
弱者は友から引き離される。うそをつく証人は罰を免れることはない。
欺きの発言をすれば逃げおおせることはない。
高貴な人の好意を求める者は多い。贈り物をする人にはだれでも友になる。
実の兄弟も皆、貧しい人を憎む。友達ならなお、彼を遠ざかる。
彼らは言っていることを実行しようとはしない。
2020年6月21日 聖霊降臨節第4主日
説教題 『地の塩、世の光』
聖 書 マタイによる福音書 5章 13〜16節 新共同訳(新約)
6ページ
フィリピの信徒への手紙 2章 1〜8節 新共同訳(新約) 362ページ
讃美歌(2) 195 キリストにはかえられません
広い歩道もある四車線の道路を走っていた。
一休寺の大きな看板を右手に見て直進していた。交通事故を目撃した。
正確には、事故そのものではなく、
中学生の男の子が歩道に寝かされ運転手と思われる男性が手当てをしている状況を見たのである。
男の子の傍らには自転車があった。
救急車や警察車両はまだ到着していない。
見続けることは出来ず交通の流れに従ってその場を後にした。
何があったのだろう。中学生の男の子は無謀運転の犠牲者ではなさそうだ。
手当している男性は不可抗力を訴えるような目を通過する車に投げかけていた。
私もその男性と目が合った。しかし、それは一瞬であった。
憶測は良くないが、男の子が何かの拍子で突発的に歩道から車道に飛び出たのであろう。
前方に中学生の女の子が自転車に乗っているのが見えたので
思春期にありがちな説明のつかない心の動きが何らかの引き金になったのかも知れない。
警察の取り調べを受けるであろう男性のことが気になった。
もちろん、怪我あるいは骨折をしているかも知れない男の子のことは一番に気になったが。
浮かない気分で一日を過ごした。その気分は就寝まで続き、ついに眠れなくなった。
リバイバル時代の挿絵にあるようなベッドサイドで祈る人の姿が心に浮かんだ。柄に無く祈った。
何も出来なかったことを悔やむのではない。
車を降りて救援を手伝うことは物理的に無理なことは百も承知。
道端に困窮した人を見る。教会人なら誰でも良きサマリア人の事をイメージする。
着の身着のままの難民の列に遭遇すれば、必ずあの目と目が合うだろう。
私たちは、地の塩、世の光であると主は言われる。
ややもすると、私たちは、塩や光になろうと努力する。
塩や光は無くてならないものである。
しかし、それは、神が整えてくださるものであること知らなければならない。
「そんなお前でも、塩なのだ。光なのだ」と主が言っておられる。
一個17円で買った水兵のマスコット人形
讃美歌(2) 195 キリストにはかえられません
(1)キリストにはかえられません 世の宝もまた富も
このおかたがわたしに 代わって死んだゆえです
(くりかえし)
世の楽しみよ 去れ 世のほまれよ 行け
キリストにはかえられません 世のなにものも
(3)キリストにはかえられません いかにうつくしいものも
このおかたでこころの 満たされているいまは
マタイによる福音書 5章 13〜16節
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
「あなたがたは地の塩である。
だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。
もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。
燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。
廃止するためではなく、完成するためである。
はっきり言っておく。
すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、
律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
フィリピの信徒への手紙 2章 1〜8節
そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、
“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、
同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、
思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、
へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、
それも十字架の死に至るまで従順でした。
2020年6月14日 聖霊降臨節第3主日
説教題 『辛酸を舐める』
聖 書 エゼキエル書 18章 21〜29節 新共同訳(旧約) 1322ページ
マタイによる福音書 3章 10〜11節 新共同訳(新約) 5ページ
讃美歌(1) 234 ああ主のひとみ
「おい、お前、流れもん、そこのギターで下手な故郷(クニ)の歌でも歌うてみい。」。
バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って わたしたちは泣いた
竪琴は ほとりの柳の木々に掛けた
わたしたちを捕囚にした民が 歌をうたえと言うから
わたしたちを嘲る民が 楽しもうとして
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから
どうして歌うことができようか 主のための歌を 異教の地で (詩編137)
誰も何も言わないのに強い強制が働く社会をたった3ヶ月過ごしただけで私たちの生活が一変した。
マスクをしないでスーパーに入ろうとしたがドアを前にして駐車場に引き返した。
「私らは仮面の夫婦、マスクで本心を隠した夫婦ですからね。」
そんな冗談も言えない世間様の壁がある。
聖書の民はバビロニアの捕囚民となった。王の不信仰の結果だと人々は考えた。
しかし、実際に、住み慣れた土地を追われ異国の地で辱めを受けた時、
人々は、自分の罪について考え始めた。『個』に目覚め始めたのである。
神を賛美するアイテム、ダビデがこよなく愛した竪琴を慰めとし、
肌身はださず携帯していたが、
その竪琴で一曲やってみろと囃し立てられた時、憤りは涙となった。
かのピラミッドの労働者たちは、一段一段、石を積み上げながら自らの徳というものを感じた。
ハリウッドの映画に出てくるような古代世界の奴隷のイメージはない。
何時の時代も人々は自らの善行に敏感である。因果に縛られる。
エゼキエルは、すべての生活の場を失った人々に寄り添い、因果からの解放を告げた。
『悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、
わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、
必ず生きる。死ぬことはない。』
先輩の遺作(マンドリン製作者)
讃美歌(1) 234 ああ主のひとみ
(1)ああ主のひとみ まなざしよ
きよきみまえを 去りゆきし
富める若人 見つめつつ
なげくはたれぞ 主ならずや
(2)
ああ主のひとみ まなざしよ
三たびわが主を いなみたる
よわきペトロを かえりみて
ゆるすはたれぞ 主ならずや
(3)
ああ主のひとみ まなざし
うたがいまどう トマスにも
み傷しめして 「信ぜよ」と
宣らすはたれぞ 主ならずや
(4)
きのうもきょうも かわりなく
「友よ、かえれ」と まねきつ
血しおしたたる み手をのべ
待てるはたれぞ 主ならずや
エゼキエル書18章 21〜29節
悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、
正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。
彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。
わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。
彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。
しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、
悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。
彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、
彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ。
それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。
聞け、イスラエルの家よ。
わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、
それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。
しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、
彼は自分の命を救うことができる。
彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、
必ず生きる。死ぬことはない。
それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。
イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。
正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
マタイによる福音書3章 10〜11節
斧は既に木の根元に置かれている。
良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、
わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。
わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
2020年6月7日 聖霊降臨節第2主日
説教題 『汚れた唇』
聖 書 イザヤ書 6章 1〜8節 新共同訳(旧約) 1069ページ
エフェソの信徒への手紙 1章3〜4節 新共同訳(新約) 352ページ
讃美歌(1) 324 主イエスはすくいを
「あんた、口、口も消毒しときや」。スーパーの入り口で冗談が飛び交う。
どこへ行ってもマスクと消毒が求められる。相互監視が厳しい。まるで江戸時代だ。
ソーシャルディスタンス、このような横文字に戸惑いを感じるのだが、
スーパーの買い物客は掃除ロボットのように距離を保っている。特売に群がる光景は過去の記憶となった。
感染症の脅威に晒されている。戦争であるとも表現されている。
紀元前8世紀のイスラエル・ユダヤの民も飛ぶ鳥を落とす勢いの大国に飲み込まれようとしていた。
いや、すでに北王国イスラエルの方は滅亡していた。
そのような時、預言者イザヤが現れた。
イザヤは、国家滅亡の原因を、自らの唇の消毒の足りなさに見た。
嘘で塗り固められた自らの唇に気が付いたのである。
うわべの信仰の無力とはかなさに打ちのめされたのである。
『災いだ。わたしは滅ぼされる』・・・
イザヤは、神が共におられない(インマヌエル)恐怖を初めて感じた。
イザヤは、王の近くにいた預言者である。
宮廷預言者などとも呼ばれているが、
思うに、シェークスピアの戯曲に出てくる道化のような人であったかも知れない。
そのイザヤが敬愛して止まないウジヤ王が死んだ。
この王は立派な王であったが、晩年、勘違いをして大祭司の真似事事件を起こして神の怒りを買った王である。
牧師さんごっこをしたくてたまらないどこかのどなた様のようなことをしでかしたのである。
イザヤは尊敬する人がいなくなり自分を見失っていた。
イザヤは、『人』を頼りとしていたのである。
その時、主なる神は、『聖なる、聖なる、聖なる』を天使たちに三唱させ、
ご自身の臨在をイザヤに示された。それは非常にリアルな光景であった。
イザヤは、アルコールやまがい物の消毒液ではなく、真っ赤に燃え盛る炭火で唇を清められた。
イザヤは、その瞬間、罪の許しを実感した。インマヌエルなる神を預言する者として立てられた。
本日は聖霊降臨節第二主日である。
聖霊降臨節は10月21日の第21主日まで続き、52主日の40%を占める。
先週の説教を『主の霊にたっぷりと浸された人々によって教会が誕生した』と結んだ。
この思いを持続しようではないか。私たちの唇が清められることを願い、祈りつつ、、、、
そろそろ手芸教室再会か。
讃美歌(1)324 主イエスはすくいを
(1)
主イエスはすくいを もとむるこの身に
ゆたけきめぐみを そそがせたまえり
いよいよわが主を 愛せしめたまえ
(2)
ひさしくそむきし この身をみすてず
すべてをゆるして あわれみたまえり
いよいよわが主を あいせしめたまえ
(3)
みめぐみうくべき いさおしなき身を
かくまでめぐみて すくわせたまえり
いよいよわが主を あいせしめたまえ
(4)
この身とたまとを ことごとささげて
とうとき御名をば ひたすらほめつつ
いよいよわが主を あいせしめたまえ
イザヤ書6章 1〜8節
ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。
衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。
「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。
わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。
しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。
その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。
「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」
わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
エフェソの信徒への手紙1章3〜7節
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。
神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、
キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、
御心のままに前もってお定めになったのです神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、
わたしたちがたたえるためです。
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。
これは、神の豊かな恵みによるものです。
2020年5月31日 聖霊降臨節第1主日
説教題 『神を語る』
聖 書 使徒言行録 2章1〜13節 新共同訳(新約) 215ページ
ヨエル書 3章 1〜5節 新共同訳(旧約) 1425ページ
讃美歌(1) 399 みたまよくだりて
本日は五旬節あるいは、七週の祭りとも呼ばれるペンテコステ礼拝。
ペンテコステとはギリシャ語で第50日目、過越しの祭りの2日目から50日目に祝われた春の収穫祭のことである。
この度のコロナ感染予防の自粛期間を連想させるかのような期間、
イエスの十字架と復活から50日目、この日、様々な地方から大勢の信心深いユダヤ人たちがエルサレムに来ていた。
彼らは、無学な田舎者、ガリラヤ出身の弟子たちが話せるはずのない
ラテン語やギリシャ語、アラビア語その他諸々の言語で『神を語った』ことに驚愕した。
教会が誕生し、世界的な広がりを持った瞬間なのであるが、
昨今よく耳にするグローバルという言葉が思い浮かぶ。
最近聞いた話であるが、ある大学ではグローバル対策、そんな感じで受け止めたのだが、
国際色を打ち出すために外国人教員枠を広げようとしたが経営上の制約から「外国人など」とし、
一年ほどの海外研を終えた教員を「など」の枠に入れて苦肉の策を講じているとのこと。
そのような教員にネイティブの教授に同じく英語やドイツ語などで授業をするように求めても
本人の苦しみは言うに及ばず学生には迷惑千万、たまったものではない。
高い専門性を備えた教授や准教授であっても
バイリンガル環境になかった者が外国語を自由に操ることは難しい。
国際政治学者としてテレビにもたびたび出演するようなレベルの人でも、
「わたしが、英語が自由に話せたらと思う。その損失は計り知れない。」と
忸怩たる思いを吐露している。
無学なガリラヤ人であるイエスの弟子たちが、世界の言葉を駆使する。
言葉の習得は、その言語に浸るということにあるらしいが、
ペンテコステの出来事は聖霊が弟子たちに降り、『満たされた(浸された・バプティーゾ)』とあるように、
弟子たちは、あたかも、フレンチトーストを作る際のミルクと卵の攪拌液の中にパンがたっぷりと浸され、
今、まさに、バターをひいたフライパンに投げ入れられようとしているような状態にあったのである。
イエスの苦難と復活の環境、『イエスの生』という言語にたっぷり浸っていたゆえに、
彼らは『イエス語』を語り得た。
ニンニクを収穫しました
讃美歌(1)399 みたまよくだりて
(1)御霊よ降りて 昔のごとく
奇くすしき御業を 現あらわし給え
(2)御霊よ降りて 恵みの雨に
渇かわける心を 潤うるおし給え
(くりかえし)
代々にいます 御霊の神よ
今しもこの身に 満ちさせ給え
(3)御霊よ降りて 汚れをきよめ
尊とうとき救いに 入らしめ給え
(4)御霊よ降りて か弱きわれを
きよけき力に 富ましめ給え
使徒言行録2章1〜13節
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、
彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
この物音に大勢の人が集まって来た。
そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
人々は驚き怪しんで言った。
「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、
また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、
パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。
また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、
クレタ、アラビアから来た者もいるのに、
彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
ヨエル書3章1〜5節
その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。
その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。
主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように、
シオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこに
2020年5月24日 復活節第7主日
説教題 『こころの目』
聖 書 ルカによる福音書 24章44〜53節 新共同訳(新約)161ページ
エレミヤ書 10章 1〜5節 新共同訳(旧約)1194ページ
讃美歌(T) 85 主の真理(まこと)は荒磯(ありそ)の岩
復活のイエスが焼き魚を食べた。
生前の仕草そのままにパンを裂いた。
弟子たちの心の目が開かれた瞬間だった。
少々脱線するが、食べ物にまつわる先輩牧師のエピソードをお伝えしたい。
A先生としておこう。A先生は不器用で生真面目な人。説教の準備に人一倍の時間と集中が必要。
とりわけ、土曜日はぴりぴりした空気が牧師館に充満する。
反対に、牧師夫人は思い付きの人。
何を思ったのか翌日の礼拝後にお萩を会員に振る舞いたいと言い出した。
夫人は前日から仕込んだもち米や小豆を早朝から炊き始めた。
A牧師の説教準備はいつも以上の書いては消し、消しては書きの連続となりイライラは頂点に達した。
耐えかねて、夫人のお萩作りの助っ人たちとのお喋りに雷を落そうとしたその時、
夫人の一言が先を制した。「あなた、お手伝いお願いします。」。
鉢に盛られた山のような餡子を丸めるお役を仰せつかったのである。
翌朝の説教は、いつもに増して支離滅裂だった。
「いや、そうではなくて、、、」、
「ようするに、、、」、
「むしろ、、、」が繰り返され、何の話かさっぱり分からない説教となった。
餡子を丸める作業が祟ったのである。
牧師は、もがいた。
いつもの長い説教がさらに長くなりそうになった時、決断した。
祝福の祈りを力強くして今日の礼拝を終えようと。
『願わくば、、、、主イエス・キリストの御恵み、、、父なる神の、、、神の、、、御アン!』
よほど丸めた餡子が忌々しく脳裏にあったのであろう。
『御愛・おんあい』という所を噛んでしまったのである。
今は故人となった先輩牧師の記憶が祝祷の度に思い起こされる。
復活のイエスを弟子たちは必死で伝えようとした。
その有様は、不器用な牧師が準備する説教にも似ていた。
しかし、弟子たちは、イエスに心の目を開かれて、
いつもの『お萩を食べるイエス』に気付いたのである。
それが主の復活であった。
イエスは、『祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。』
来週のペンテコステ礼拝を心待ちにしたい。
満車状態のホームセンター駐車場
非常事態宣言が解除に向かっている。
エレミヤの言葉に耳を傾けたい。
『彼ら(作り物の神)は災いをくだすことも幸いをもたらすこともできない。』
讃美歌(T) 85 主の真理(まこと)は荒磯(ありそ)の岩
(1)主の真理(まこと)は 荒磯の岩
さかまく波にも などか動かん
(くりかえし)
くすしきかな あまつみ神
ただ主を仰ぎて 救いをぞえん
(2)主のめぐみは 浜のまさご
その数いかでか 計りうべき
(3)うつりゆく世、 さだめなき身
ただ主に頼りて 安きをぞえん
(4)つもれるつみ、ふかきけがれ
ただ主を仰ぎて 救いをぞえん
ルカによる福音書24章36〜53節
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。
亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、
イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。
これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。
「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。
エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。
わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。
高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
エレミヤ書10章1〜5節
イスラエルの家よ、主があなたたちに語られた言葉を聞け。
主はこう言われる。異国の民の道に倣うな。
天に現れるしるしを恐れるな。
それらを恐れるのは異国の民のすることだ。
もろもろの民が恐れるものは空しいもの、森から切り出された木片、木工がのみを振るって造ったもの。
金銀で飾られ、留め金をもって固定され、身動きもしない。
きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず、歩けないので、運ばれて行く。
そのようなものを恐れるな。彼らは災いをくだすことも幸いをもたらすこともできない。
2020年5月17日 復活節第6主日
説教題 『犠牲と施し』
聖 書 マタイによる福音書 6章5〜?節 新共同訳(新約) 9ページ
列王記上 18章 20〜24節 新共同訳(旧約) 563ページ
讃美歌(T編) 310 しずけき祈りの
ニューヨークの地下鉄駅構内で、幼い娘の手を引く母親が屈強な四名の警察官に取り押さえられる様子がニュース報道された。
マスクを顎に引っ掛けただけの着用を警察官に咎められた母親が猛反撃したことが逮捕の理由だった。
自粛要請が徐々に解除されつつある。理由の第一は、『経済』である。
人々の生活が成り立つかどうかの瀬戸際に追い詰めらている。
ニューヨークの事件も逮捕された母親の生活と無関係ではないだろう。
『我らの日用の糧を今日も与えたまえ』。
イエスが教えたこの祈りは、日々の生活がいかに成り難いものであるかを背景としている。
本日の聖書箇所には、『わたしたちに必要な糧を今日与えてください』とある。
『今日・も』ではなく『今日一日・だけでも』と祈っている。切羽詰まっている。
大学に入って二週間目、ポケットに昼食代がなかった。
このままでは学業を続けられない。遠い昔の話しである。
『人はパンのみによって生くるにあらず』の言葉に逆らってパン工場の夜勤の仕事を見つけた。
そこには様々な事情を抱えた人たちが働いていた。
昼の仕事を終えてから働いている人がいた。その人がある日弱音を吐いた。
「もう少し作業を緩めてもらえませんか」。
その言葉が終わるか終わらないかコンベアーのスピードが加速した。
ふらふらになって今にも倒れそうな作業員の言葉に耳を貸すどころか倒れるまで追い詰めるのが、『経済』である。
そういう経済を元に戻してもこの度の世界的な危機を脱出することは困難であろう。
ワクチンの開発と共有が急務であるにも関わらず大国の思惑が先行して世界支配のチャンス到来となっている。
しかし、どうやら、ワクチンは日本が最初に開発するらしいとの憶測がある。
世界の政治や経済に照らして能天気でお人好しと揶揄される日本がその任を果たすとしたら、
実に結構なことではあると思うのだが。
バアルの預言者450人と対決したエリヤは、水浸しにした犠牲の祭壇の薪を燃え上がらせた。
イエスも主の祈りを教える前に、真の施しとは何かを語った。
『施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない』。
今、知らねばならないことがある。
讃美歌(T編) 310 しずけき祈りの
(1)しずけき祈りの ときはいとたのし
なやみある世より われを呼よびいだし
父のおおまえに すべての求めを
たずさえいたりて つぶさに告つげしむ
(2)しずけき祈りの ときはいとたのし
さまよいいでたる わがたまを救い
あやうき道より ともないかえりて
こころむるものの 罠をのがれしむ
マタイによる福音書6章1〜15節
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。
さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、
自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。
彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
あなたの施しを人目につかせないためである。
そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。
偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。
彼らは既に報いを受けている。
だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
列王記上 18章 20〜24節
アハブはイスラエルのすべての人々に使いを送り、預言者たちをカルメル山に集めた。
エリヤはすべての民に近づいて言った。
「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。
もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」
民はひと言も答えなかった。
エリヤは更に民に向かって言った。
「わたしはただ一人、主の預言者として残った。
バアルの預言者は四百五十人もいる。
我々に二頭の雄牛を用意してもらいたい。
彼らに一頭の雄牛を選ばせて、裂いて薪の上に載せ、火をつけずにおかせなさい。
わたしも一頭の雄牛を同じようにして、薪の上に載せ、火をつけずにおく。
そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。
火をもって答える神こそ神であるはずだ。」
民は皆、「それがいい」と答えた。
2020年5月10日 復活節第5主日 (母の日)
説教題 『六百歳になっても』
聖 書 ヨハネによる福音書8章31〜38節 新共同訳(新約)182ページ
創 世 記 6章6〜16節 新共同訳(旧約) 9ページ
讃美歌321(T編) まぼろしの影を追いて
『天災は忘れた頃にやってくる』を言ったとされる物理学者であり随筆家であり俳人である寺田寅彦(1878年−1935年)は、
その著書『天災と国防』の中で以下の言葉を述べている。
『文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を十分に自覚して、
そして平生からそれに対する防禦策を講じなければならないはずであるのに、
それが一向に出来ていないのはどういう訳であるか。その主なる原因は、
畢竟そういう天災が極めて稀にしか起らないで、
丁度人間が前車の?覆を忘れた頃にそろそろ後車を引き出すようになるからであろう』
10万年前、人類はアフリカの東部を抜けてメソポタミア、インダスとエジプト、ギリシアと黄河の五大文明を築き上げた。
その基盤を支えたのは大河であった。豊かな農産物に恵まれたのであるが大災害がセットになっていた。
一夜にしてすべてを失う人々の運・不運を納得させるためにはシンボルを伴った絶対権力が必然だった。
宗教が生まれた。おどろおどろしい偶像が人々の心を縛った。
聖書の民も忘れた頃にやってくる大災難に直面した。
『ノアが六百歳のとき、洪水が地上に起こり・・・』。
大洪水はノアが600歳の時に起こった出来事であったことを見落としていた。
この度の新型コロナ感染症の大災難に際して、巷の年寄りの口から溜息が漏れる。
「長いこと生きて来ましたが、こんな事は初めてですな。」
『平生からそれに対する防禦策を講じなければならないはずであるのに、
それが一向に出来ていないのはどういう訳であるか』(寺田寅彦)。
非常事態宣言の下、人々は当たり前の日常を奪われ不自由な生活を強いられている。
学校も長く休業している。インターネットによる授業は5%しか整っていないらしい。
子どもたちには辛い未来が待ち受けているだろう。老い先短い者にも安楽がない。
『主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた』。
ドアが閉まってからでは遅い。
炎天下に方舟を作るノアを人々は嘲笑した。
神の国への招きはイエスの十字架刑見物となった。
私たちは、、、、、『真理』から遠い。はるかに遠い。
収穫のドアが閉まってネギぼうずとなりました(笑)
讃美歌510(T編) まぼろしの影を追いて
(1)まぼろしの影を追いて うき世にさまよい
うつろう花にさそわれゆく 汝が身のはかなさ
(ref.)
春は軒の雨 秋は庭の露
母はなみだ 乾くまなく 祈ると知らずや
(2)おさなくて罪を知らず むねにまくらして
むずがりては手にゆられし むかしわすれしか
(3)汝が母のたのむかみの みもとにはこずや
小鳥の巣に帰るごとく こころやすらかに
(4)汝がためにいのる母の いつまで世にあらん
とわに悔ゆる日のこぬまに とく神に帰れ
ヨハネによる福音書8章31〜38節
イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。
「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」彼らは言った。
「私たちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。
『あなたがたは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。
「よくよく言っておく。罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である。
奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。
だから、もし子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる。
あなたがたがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたがたは私を殺そうとしている。
私の言葉を受け入れないからである。私は父のもとで見たことを話しているが、あなたがたは父から聞いたことを行っている。」
創世記7章6〜16節
ノアが六百歳のとき、洪水が地上に起こり、水が地の上にみなぎった。
ノアは妻子や嫁たちと共に洪水を免れようと箱舟に入った。
清い動物も清くない動物も、鳥も地を這うものもすべて、二つずつ箱舟のノアのもとに来た。
それは神がノアに命じられたとおりに、雄と雌であった。七日が過ぎて、洪水が地上に起こった。
ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。
雨が四十日四十夜地上に降り続いたが、まさにこの日、ノアも、息子のセム、ハム、ヤフェト、ノアの妻、この三人の息子の嫁たちも、箱舟に入った。
彼らと共にそれぞれの獣、それぞれの家畜、それぞれの地を這うもの、それぞれの鳥、小鳥や翼のあるものすべて、
命の霊をもつ肉なるものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。
神が命じられたとおりに、すべて肉なるものの雄と雌とが来た。
主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。
2020年5月3日 復活節第4主日
説教題 『無垢な甘え』
聖 書 出エジプト記16章1〜8節 新共同訳(旧約) 119ページ
ヨハネによる福音書6章 34〜35節 新共同訳(新約) 175ページ
讃美歌452(讃美歌T編) ただしくきよくあらまし
440年に及ぶ抑圧からエジプトを脱出したイスラエルの民ではあったが、わずか出発の一か月後には、不平不満の奴隷となってしまった。
『私たちはエジプトの地で主の手にかかって死んでいればよかった。
あのときは肉の鍋の前に座り、パンを満ち足りるまで食べていたのに、
あなたがたは私たちをこの荒れ野に導き出して、この全会衆を飢えで死なせようとしています。』
どこかの町内会にでもありそうな文句言いの場面である。
コロナ感染予防の緊急事態宣言が出されてひと月が経過した。在宅が要請されている。
こういう時に有効なのが横文字のアピールだ。
『ステイ・ホーム(Stay Home)』が呼びかけらている。
正確には、『!』(びっくりマーク)が付いた命令文だから、『家にいろ!』と言われているのであるが。
イスラエルの民は、ステイ・ホームしなかった。出て行ったのである。
リスクは充分承知していたはずであったが、今日のパンが尽きた時、主なる神への信頼を失った。指導者への批判を繰り返した。
先週の説教の中で、『イエスはパチンコ店におられる』と言った。
賢明な皆さまはその真意を正確に受け止めてくださったと思う。
緊急事態宣言の只中での遊興施設を取り巻く人間模様こそ福音理解への核心なのである。
営業を止めない経営者と府県を超えてやってくる客の言い分がテレビ的に編集される。
「従業員に給料を払わねばならない。」、
「家にいるとストレスがたまるのでやって来た。」、
「自己責任でやってる。何が悪い。」、
「コロナになった時は、なった時ですわ。」、、、、、。
イスラエルの民は、我を忘れて主なる神への不信を露わにする。
しかし、丁寧に聖書そのものを繰り返し繰り返し読むと、この不信は、『無垢な甘え』であることに気付く。
好きな歌で慰問のステージでもよく披露する川中美幸の『二輪草』の中の『♪喧嘩したって 背中合わせの温もりが♪』が思い浮かんだ。
古女房、古亭主にありのままの感情をぶつけるような、
とても人様にお見せできるものでない、
お恥ずかしい場面を、
主は、今日も、『命のパン』で養って下さる。
牧師館に咲く薔薇の花
讃美歌452(讃美歌T編) ただしくきよくあらまし
(1)正しく清くあらまし (2)まことの友とならまし
なすべき務めあれば 友なき人の友と
おおしく強くあらま あたえて心にとめぬ
負うべき重荷あれば まことの愛のひとと
負うべき重荷あれば まことの愛のひとと
(3)完全(またき)にむかいて進まん
途(みち)にて気をゆるめず
うえなきめあてをのぞみ
笑みつつたえずすすまん
笑みつつたえずすすまん
出エジプト記16章1〜8節 新共同訳(旧約) 119ページ
こうして、イスラエル人の全会衆はエリムをたち、エリムとシナイの間にあるシンの荒れ野に入った。
それは、エジプトの地を出て、第二の月の十五日のことであった。イスラエル人の全会衆は荒れ野でモーセとアロンに向かって不平を言った。
イスラエルの人々は二人に言った。「私たちはエジプトの地で主の手にかかって死んでいればよかった。
あのときは肉の鍋の前に座り、パンを満ち足りるまで食べていたのに、
あなたがたは私たちをこの荒れ野に導き出して、この全会衆を飢えで死なせようとしています。」
そこで主はモーセに言われた。「今、あなたがたのためにパンを天から降らせる。
民は出て行って、毎日、一日分を集めなさい。これは彼らが私の律法に従って歩むかどうかを試すためである。
六日目に持ち帰ったものを整えると、日ごとに集める分の二倍になるだろう。」
そこでモーセとアロンは、イスラエルの人々すべてに言った。
「夕方には、あなたがたは主があなたがたをエジプトの地から導き出されたことを知り、
朝には、あなたがたは主の栄光を見る。あなたがたの主に対する不平を主がお聞きになったからだ。
あなたがたが私たちに向かって不平を言うとは、私たちを一体何者だと思っているのか。」
さらにモーセは言った。
「主が夕方にはあなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、
あなたがたが並べ立てた不平を聞かれたからである。
私たちを一体何者だと思っているのか。
あなたがたが不平を言ったのは、私たちに向かってではなく、主に向かってなのだ。」
ヨハネによる福音書6章 34〜35節 新共同訳(新約)175ページ
そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
イエスは言われた。
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、
わたしを信じる者は決して渇くことがない。
(Repeat!)
イエスは言われた。「わたしが命のパンである。
わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、
わたしを信じる者は決して渇くことがない。
2020年4月26日 復活節第3主日
説教題 『パチンコ店と礼拝堂』
聖 書 ヨハネの手紙一 4章7〜12節 新共同訳(新約) 445ページ
コリントの信徒への手紙一 15章 50〜58節 〃 322ページ
讃美歌321(讃美歌21) しずかな喜び
今月の24日から来月23日までイスラム暦(ヒジュラ暦)では断食期間となっている。
『ラマダン(月の名)』という言葉が親しく浸透しているが、正確には『ラマダーン』と発音するらしい。
断食を通して信徒の連帯を図り寄付や施しが行われる。争い事なども忌避される。
それゆえに、ラマダーン明けは達成の喜びに満たされる。
大規模な礼拝は言うに及ばず通りすがりの人にまで食事が振る舞われる。
しかし、それは、『3密』状態そのものを意味し、新型コロナ感染症(COVID19)拡大の由々しき事態が予測された。
先週金曜日の朝一番のニュースに驚いた。モスク(礼拝堂)の物理的空間を閉じると報道された。
私たちが知る限り、イスラムの人たちの礼拝を重んじる生活は不動のものであるが、
信徒の命を第一にした。流石と思った。
しかし、夕方のニュースには、若干の修正が加えられた。
『3密』を緩和するために2メートル以上の距離を保つなどの苦肉の策が講じられたとのこと。
日本キリスト教団の広報誌が届けられた。教団は礼拝堂での礼拝を守ると言う。
細かな対策を講じている教会の例が紹介されていた。それを社会への証だとしている。
関係者の苦労が分からないわけではないが、『内側』が過ぎると感じた。
信徒は神に愛された『聖なる供え物』であるから、命を優先すべきだと明言したい。
大勢の人が集まる物理的空間に『聖・俗』の隔てはない。遊興施設も礼拝堂も尊い命の入れ物だと認識したい。
勇気を持って言いたい。『イエスは、今、パチンコ店の中におられる。』
イエスのおられる場所は、感染症対策万全の信心深い信徒が集まる礼拝堂ではないかも知れない。
『そこにはおられない!』とまで言う勇気はないが。
社会、すなわち世間様は、今、この時に、キリスト者の信仰心に興味はない。
教会人への評価は既に決まっている。
大切な礼拝堂を感染者用のベッドに提供する提案がなされることを望みたい。
その根拠を、『愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです。愛さない者は神を知りません。神は愛だからです。神は独り子を世にお遣わしになりました。』に求めたい。
『肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。』
主の復活のリアルに繋がっていようではないか。
某キリスト教主義学校でひとりの教員が
30余年の長きに亘って培ったアンネの薔薇を譲り受けました
讃美歌321(讃美歌21) しずかな喜び
(1)しずかな喜び 声あわせ歌おう
みんなでたたえよう こころをあわせて
主イェスは死に勝ち 永遠の救い
われらに与えた
(2)死をうち滅ぼし 主は勝利された
力といのちの 主はまことの神
み国へみちびく 確かな約束
われらに与えた
(3)ことばとわざとで 栄光をあらわせ
主はその恵みで 死よりときはなち
天のみ国へと われらをみちびく
喜びたたえよう
ヨハネの手紙一 4章7〜12節
愛する人たち、互いに愛し合いましょう。
愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです。
愛さない者は神を知りません。神は愛だからです。
神は独り子を世にお遣わしになりました。
その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。
ここに愛があります。愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。
いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちの内にとどまり、神の愛が私たちの内に全うされているのです。
コリントの信徒への手紙一 15章 50〜58節
兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。
肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。
わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。
わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。
最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。
主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
2020年4月19日 復活節第2主日
説教題 『死んだ子の歳を数える』
聖 書 マタイによる福音書 2章13〜18節 新共同訳(新約) 2ページ
ヨハネによる福音書19章 25節 〃 207ページ
マルコによる福音書15章 41節 〃 96ページ
出エジプト記1章15〜17節 新共同訳(旧約) 94ページ
讃美歌225(讃美歌1編) すべてのひとにのべつたえよ
「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」(マタイ26:73)と
指摘されたにもかかわらず、「そんな人は知らない」と標準語のペテロ。
「そげな人は知らんぞなもし」とでも訳すべし。
「そったらストはスラねぇっス」でも「ほんな人知りまへんがな」も可。
「わが神、わが神、なんぞ我を捨てたもうや(注)」。
イエスは十字架刑のマニュアル通り、惨めの極みを曝け出して果てた。
そして、そこには、鶏が三度鳴く前にイエスを知らないと言ったペテロを始めとする弟子たちの姿はなかった。
(注)詩編22編の冒頭の言葉は神への絶対信頼への修辞学的導入
「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、
クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。(ヨハネ19)」、
「なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。(マルコ15)」。
辛うじて、最年少のヨヘネだけがイエスの母マリアに寄り添っていた。
大勢の女性たちだけが十字架のイエスを仰ぎ見ていた。
この際、フェミニズムを展開することも有益かもしれないが、
『オンナ・コドモ』扱いされて手に掛けられることはない約束事の下での出来事だったと思われるので
深読みは避けたい。この女性たちもオトコであればペテロであったと言うのが正しいフェミニズムだ。
大勢の女性たちの中に、
イエスの誕生が元でヘロデ王に虐殺された二歳以下のこどもの母親たちがいたであろうことに思いを馳せたい。
必死で我が子を抱きかかえる母親から赤ん坊がもぎ取られ、
その小さな胸に短剣が振り下ろされたあの日を忘れない女たちがいたことを。
「我が子も生きていればあの男と同い歳なのか」。
そのような思いで十字架を見上げていた女性たちがいたはずである。
十字架のイエスを憎しみ続け、死んだ我が子の歳を数え続けるのか。
復活の主に出会う者となり、我が子の『生』を取り戻すのか。
ペテロのオトコを取り戻すのは集まった大勢のオンナたちの『新生』に委ねられている。
新型コロナウイルス感染症の休業要請によって正門が閉ざされた同志社大学京田辺キャンパス
讃美歌225(讃美歌1編) すべてのひとにのべつたえよ
(1)すべてのひとに のべつたえよ
かみのたまえる みおとずれを
あめなる父は み子をくだし
すくいのみちを ひらきませり
(2)あまねくのべよ よき知らせを
まことの幸を もとめつつも
むなしきもの にさそわれゆく
世のはらからに のべつたえよ
(3)十字架のうえに 死にたまえる
み子こそ永久の すくいなれや
かみのたまえる この知らせを
地のはてまでも 告げひろめよ
マタイによる福音書 2章13〜18節 新共同訳(新約) 2ページ
占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。
ヨハネによる福音書19章 25節 新共同訳(新約)207ページ
イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
マルコによる福音書15章 41節 96ページ
なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
ルカによる福音書23章 48節 新共同訳(新約) 159ページ
見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。
出エジプト記1章15〜17節 新共同訳(旧約) 94ページ
エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。
2020年4月12日 復活日(イースター)復活節第1主日
説教題 『信じられないことを信じる』
聖 書 ルカによる福音書 24章8 ~12 新共同訳(新約) 59 ページ
マタイによる福音書 28章 8〜10節 〃 160 ページ
マルコによる福音書 16章9〜11節 〃 97ページ
ヨハネによる福音書 20章9〜10節 〃 209
ページ
讃美歌333(21) 主の復活、ハレルヤ
緊急事態宣言が人々の生活を静止画像にしてしまった。
踏切を通過する電車の窓に人影がない。
学校や会社の四月といえば活気に漲っているはずである。
入学式に集う新入生や保護者の満面の笑み、
新入社員を歓迎する少々羽目を外した花見のお愛嬌などが
夕食時のテレビのニュースを盛り上げるはずなのに。
春のスタートを経験しなかった人たちは生涯この年を忘れないだろう。
比べるようなことではないが、私は1976年の四月をスタートすることが出来なかった。
当てにしていた教会に四月から赴任する予定であった。
小さな伝道所だったので自活を覚悟していたが自由に牧会が出来ることを楽しみしていた。
自信が不安を上回っていた。慢心していた。
親教会の役員が私を喫茶店に呼び出した。
「勝手なことをしてもらっては困ります」。
二月に結婚していた。妻は勤めを辞めていた。
「君は一年浪人やな」、「どこでも行きます。どこへでも行きます」、
「どこへでもと言うたな」。
その伝道所には、妻と勝手に住み続けた。
伝道所は教会学校の子どもたちで溢れた。
教授や神学生たちも往来した。
神学部長から電話があった。「お前の行先があるぞ、断るなよ」。
その年のイースターは4月18日だった。牧師検定試験は凍結していた。
4月20日付けの招聘状を携えた二人の役員が伝道所にやって来た。
招聘状には、『牧師として招聘する』と記されていた。
「私は、まだ牧師じゃありません。それに試験は受けられない状態です」と答えたが、
「私らがあんたを牧師と言うたら牧師や」。
信じられないことを信じる。
それは選ばれた者だけが救いに至るという考えを真正面から否定している。
イエスを信じる者、復活を信じる者は、人の法を超えて実のある世界に繋がる。
春まだ浅き丹後の海(天の橋立)
千葉昌邦先生(1980年頃) キシモト(2015年)
写真は、春とはいえまだまだ肌寒い天の橋立にたたずむ
敬愛する故・千葉昌邦先生である。教師試験凍結、
教団内の対立の難しい時代であったので、
先生が私の按手礼式でひと暴れされると覚悟していたが、
「キシモト君、おめでとう!」と言って下さった。5年前橋立を旅した時、
その記憶が鮮明に浮かびあがった。
讃美歌333(21) 主の復活、ハレルヤ
(MFURAHAINI, HALELUYA) タンザニア民謡
1 主の復活、ハレルヤ ほめうたえ、ハレルヤ
墓も死も憂いも 打ち破る主イェスよ
死のとげさえ滅ぼし 人の罪をあがなう
主の復活、ハレルヤ 歌声は ハレルヤ
4 「さあ行って、この知らせを弟子たちに告げなさい
主は復活なされた われらは救われた」
死のとげさえ滅ぼし 人の罪をあがなう
主の復活、ハレルヤ 歌声は ハレルヤ
ルカによる福音書 24章 8〜12節
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、
そして一緒にいた他の婦人たちであった。
婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、
婦人たちを信じなかった。
しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、
亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
マタイによる福音書28章 8〜10節
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、
弟子たちに知らせるために走って行った。
すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、
婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
イエスは言われた。
「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。
そこでわたしに会うことになる。」
マルコによる福音書16章9〜11節
イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、
まずマグダラのマリアに御自身を現された。
このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。
マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。
しかし彼らは、イエスが生きておられること、
そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
ヨハネによる福音書 20章 9〜10節
イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、
二人はまだ理解していなかったのである。
それから、この弟子たちは家に帰って行った。
2020年4月5日 棕櫚の主日・復活前第1主日礼拝 (おまけ付き)
説 教 『これはどういう人だ』
聖 書 マタイによる福音書 21章 1〜10節 39ページ 新共同訳(新約)
マルコによる福音書11章1〜11節 83ページ 〃
ルカによる福音書 19章28〜39節 147ページ 〃
ヨハネによる福音書12章12〜19節 192ページ 〃
讃美歌 311(21) 血しおしたたる
大パニックから人々を勇敢に救い出したヒーローに、
「まるで、ジョン・ウエインみたいだね」と賛辞を送ると、
「ジョン・ウエイン? そりゃ誰です?」
と若いヒーローに言わせるのが最近のアメリカ映画らしい。
あの戦争から身も心もボロボロになって復員したひとりの青年が、
食うや食わずの時代に生来の生真面目さから
「人はパンのみよって生くるにあらず」の道を暗中模索する中で
出会ったのが子ロバに乗ったイエスだった。
勝った者が正義の時代に振り回された若い魂が、
小さなロバに乗り、世に棄てられた人々の歓呼の中、
世界を救う王として神の都に入場する荒唐無稽に人生の賭けを試みた。
その人こそ、榎本保郎牧師、あだ名は『ちいろば牧師』である。
「エノモト? ちいろば牧師? そりゃ誰です?」
本日の礼拝は、教会暦の用語を借りれば、『棕櫚の主日』である。
四福音書にそれぞれのニュアンスが滲んでいる。
じっくり読んで頂きたい。
子ロバに乗り後光がさした救い主の一団を後代に書かれた絵画の中に見ることができる。
さて、それは、エノモトがイメージした光景だろうか?
イエスのエルサレム入場は、
映画などでお馴染の捕虜収容所の監視塔のような所から
ローマ軍の兵士によってロックオンされていた。
されてはいたが、それは、緊急ダイヤルを回して司令部に伝令されることはなかったようである。
四福音書をじっくり読み込めばその光景は浮かび上がる。
しかし、この荒唐無稽が、地上の支配者や堕落した宗教集団への脅威となり、
世に顧みられることが無かった人々への確かな救いの約束となったのである。
あなたの着ているものを脱ぎ捨てて主のみ前に敷き詰め、
棕櫚の枝を振りながら子ロバの手綱を引こうではないか。
(おまけ)
ちいろば牧師 2003年5月22日(木)
牧師の見習をしていた頃のことです。
尊敬するE本先生は、
十字架に赴くイエスを乗せた小さなロバのようでありたいと願い、
それを説教の中でもたびたびお話されていたので、
『ちいろば牧師』とあだ名されていました。
ある日、牧師館ですき焼きをごちそうになりました。
先生は、鍋に白菜と肉を交互に敷き詰めて、その上から割下を注がれました。
「な、こうすると、ふんわりしたすき焼きができるんや」と、得意そうに仰るので・・・・・
私は先生が平素、『聖霊の導き』、『霊の賜物』、『霊的成長』等々、
そういうフレーズを強調されるのを思い出し、ここぞと・・・・・
「先生、これはまさしく、先生オリジナル、
『霊的』なすき焼きというわけですね」と、からかってみました。
すると先生は、
「キシモト君! 何言うとんのや。
すき焼きちゅうのは、『肉的』なもんに決まっとるやないか」
2020年3月29日 復活前第2主日礼拝
説 教 『易し過ぎて、難し過ぎて』
聖 書 イザヤ5章:1〜7節 マルコ12章:1〜12節
讃美歌 470(21) やさしい目が
近所の家から弾んだピアノの音が聞こえる。
その曲は、誰もが一度は聞いたことのある旋律、モーツアルトの『トルコ行進曲』だった。
左手のドとソの繰り返しにたどたどしい右手の旋律を聞いたのは数年前。
努力を重ねたのであろう。よどみのない速弾きに拍手を送った。
ある演奏家がモーツアルトについて興味深いことを言っている。
「モーツアルトは、こどもには易し過ぎて、大人には難し過ぎる」。
トルコ行進曲を我が物にした近所のピアニストにも近い将来お定まりの挫折が待ち受けているかも知れない。
無学な漁師には易し過ぎたイエスの言葉。
律法学者たちには殺意を抱くほどに難し過ぎたイエスの言葉。
そのような連想を試みた。
『わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を』。
ぶどう畑の経営者は神、イスラエルの民は豊かな収穫の配分を約束された農夫、社員である。
その自覚が欠如すれば会社は他人の手に渡る。
バビロニア捕囚をイザヤはそのようにイメージする。
イエスのぶどう園の譬えも分かりやすい。
ぶどう園は、まさに、モーツアルトだ。
ぶどう園の農夫たちは収益を自分たちのものにしようと企み、
主人の僕たちから跡取り息子まで殺してしまう。
農夫たちは主人の激しい怒りを買った。
『農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与える』。
イエスの言葉には容赦がない。
この恩知らずの農夫たちも約束されたものを人手に渡してしまった。
コロナウイルス感染への人々の反応が通常ではない。
マスコミも罪深い。疫病にかからない加持祈祷が人気のようだ。
教会でも、いまだに、よく似た祈りが聞かれる。
「わたしや自分たちの教会に災いが降りかからないように」と。
そのような祈りを捧げている限りこの世界、この時代は、私たちのぶどう園とはならないだろう。
教会は人手に渡ってしまうだろう。
伝道の拠点、シンボルとして建てられた会堂が売却され物置になってしまった実例がある。目撃したのだ。
『さあ、お前たちに告げよう。
わたしがこのぶどう畑をどうするか。』
宮本ヲスヱの墓所に咲く可憐なすみれの花
イザヤ5章:1〜7節 ぶどう畑の歌 新共同訳(旧約)1067ページ
わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。
わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。
よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。
その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り良いぶどうが実るのを待った。
しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ、わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。
わたしがぶどう畑のためになすべきことで何かしなかったことがまだあるというのか。
わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。
さあ、お前たちに告げよう。わたしがこのぶどう畑をどうするか。
囲いを取り払い、焼かれるにまかせ石垣を崩し、
踏み荒らされるにまかせわたしはこれを見捨てる。
枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。
雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。
イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々。
主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、
見よ、流血(ミスパハ)。
正義(ツェダカ)を待っておられたのに、
見よ、叫喚(ツェアカ)。
マルコ12章:1〜12節 ぶどう園と農夫のたとえ 新共同訳(新約)85ページ
イエスは、たとえで彼らに話し始められた。
「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、
これを農夫たちに貸して旅に出た。
収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。
そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。
更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。
そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
まだ一人、愛する息子がいた。
『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
農夫たちは話し合った。
『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。
戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。
聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」
彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、
イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。
それで、イエスをその場に残して立ち去った。
2020年3月22日 復活前第3主日礼拝
説 教 『嘲りの中で』
聖 書 イザヤ28章:14〜22節 マルコ8章:31〜38節
讃美歌 313(21) 愛するイェス
「この町にクリスチャンは何人ぐらいいますかね?」。ある伝道者が寄り合いの席で意地悪な質問を受けた。
「そうですね。あなたの思っているとおり数人の信徒しかおりません。
しかし、ひとりひとりがキリストの十字架を背負う者、命がけの信徒ですよ」と答えたという。
四十年前、愛媛県宇和島の諸教会を訪問したことがある。先輩牧師がひとりの信徒を紹介した。
「この方はね、原発に反対している骨のある信徒ですよ」。
その人は、京都や大阪の教会で見かけるクリスチャンという雰囲気の人ではなかった。
偏屈な年寄りにしか見えなかった。
三歩下れば海、目を反対に向ければすぐそこには山。その狭間に人が住んでいる。
原発事故時の避難は想定されていないということになる。
今でこそなのだが、その老信徒の危機意識は正しいものであった。
原子力発電所と人口減少の町村との関係は今や誰もが知っている社会矛盾の最たるものの一つである。
昨今、「原発は危険だ」と発言しても村八分になったりはしない。
論として正義の衣をまとう時代となった。しかし、「遅かった」のである。
『今、嘲ることをやめなければ、お前たちの縄目は厳しくなる。
わたしは定められた滅びについて聞いた。
それは万軍の主なる神から出て国全体に及ぶ(イザヤ書28章22節)』
、原発賛成、あるいは止む無しの人たちは、小さな教会のひとりの老信徒の命がけの訴えを嘲った。
『今』その嘲りを止めなかった結果が福島の事故に繋がった。
『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』
(マルコによる福音書8章 34節)
ただでさえ会員数の少ない田舎の教会で、
その中でもたったひとりの超少数派の偏屈信徒の生きた道は神の目に適っていた。
恥ずかしながら、その時の私は、「こんな田舎の小さな教会にも遣り難い信徒がいるのだな」と思った。
しかし、その変人は、自らの生業とするミカン畑の経営には実に筋の通った見識をもっていた。
「ここらでは、最高級品のミカンは、地元ではなく築地へ直行です。
良い物は、良い市場に持って行かないと良い値が付きません」。
まるで、イエスの譬え話の導入のようである。
そう言いながら、老人は、ミカンのとっておきの保存方法を講釈して、
しわくちゃのミカンを三歳の娘の手の上に置いた。
そのミカンは姿とはうって変わって美味なること美味なること。
良い人に出会った。素晴らしい信仰に触れた。
何度も何度も心に刻んだ。
瀬戸内の穏やかな春風を大型フェリーの船上に楽しみながら帰途についた。
新型コロナウイルス感染の影響が計り知れない。
第一次世界大戦下の死亡者一千万人に対して1918年のスペイン風邪の死亡者が四千万人。
十六世紀のスペイン・アステカ征服においては
戦闘による死者をはるかに凌ぐヨーロッパ由来のインフルエンザによる死者が五千六百万人と言われている。
最近の事としてはSARSや鳥インフルエンザ等が記憶に新しい。
人の欲が戦争となり環境破壊となる。
地球の南半分の自然が文明の便利に置き換えられる。
その速度は異常に早い。ウイルスが寄生していた森の生き物が行き場を失い人に寄生する。
ウイルスそのものも突然変異を繰り返し見えない恐怖となって蔓延する。
自らの文明を驕っている人々は、イザヤの時代に同じく神の言葉を嘲り続けるのだろう。
宇和島で出会った信徒は、私共のあるべき姿なのではないだろうか。
菜の花畑の後方が宮本ヲスエの墓
讃美歌(21)313 5番の歌詞
なんと深い 主のみ心よ なんと広い イェスの愛よ
責め苦の道 歩まれたのは 私のため
イザヤ28章:14〜22節
お前たちは言った。「我々は死と契約を結び、陰府と協定している。
洪水がみなぎり溢れても、我々には及ばない。
我々は欺きを避け所とし、偽りを隠れがとする。」
それゆえ、主なる神はこう言われる。
「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石
堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。
信ずる者は慌てることはない。わたしは正義を測り縄とし
恵みの業を分銅とする。雹は欺きという避け所を滅ぼし
水は隠れがを押し流す。お前たちが死と結んだ契約は取り消され
陰府と定めた協定は実行されない。洪水がみなぎり、溢れるとき
お前たちは、それに踏みにじられる。」洪水は溢れる度にお前たちを捕らえる。
それは朝ごとに溢れ、昼も夜も溢れる。この御告げを説き明かせばただ恐怖でしかない。寝床は短くて身を伸ばすことができず、覆いは狭くて身を覆うことができない。主はペラツィム山のときのように立ち上がり、ギブオンの谷のときのように憤られる。それは御業を果たされるため。しかし、その御業は未知のもの。また、働きをされるため。しかし、その働きは敵意あるもの。
今、嘲ることをやめなければ
お前たちの縄目は厳しくなる。
わたしは定められた滅びについて聞いた。
それは万軍の主なる神から出て国全体に及ぶ。
マルコ8章:31〜38節
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、
長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、
三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
しかも、そのことをはっきりとお話しになった。
すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
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