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 キシモト牧師の説教『要旨』集




   2013年度〜2015年度、某教会での説教を纏めました。
   賞味期限切れですが腐ってはおりません。
   


  2015年



新しい教会へ赴任しますので、当分お休みします。


「そんな説教止めろ。」
「キリスト教の説教じゃない。」

いろいろ貴重な御意見を賜りました。


ありがたく思っております。




 『自分の心を守れ』 2月8日


海鼠(ナマコ)は、危険が迫ると、
腸(ハラワタ)を体外に放出する。
新しい内臓が再生されるまで、
じっと大人しくしているらしい。

海鼠には、心臓も脳も無い。
心が無いのである。
腸(ハラ)が剥き出しになる。

理性的な人が時に感情的になる。
知的な人も、自制心を失う。
海鼠と変わらない。

心が、誰の持ち物かを知らねばならない。





箴言4章23−24節 
何を守るよりも、自分の心を守れ。
そこに命の源がある。





  『あなたはわが目に尊く』  2月1日


真っ赤に燃え盛る炭火で、
唇を清められたイザヤは、
民を恐れず、預言した。

悔い改めを迫った。
民は、耳を貸さなかった。
「民のこころを頑なにせよ。」と
主がイザヤに、告げたからである。

鞭に換えて、飴を与えた。
民は、増長した。

神の義と愛の両立は、難しい。
義人の身代わりが無くては。

よく聞け、しかし理解するな。
よく見よ、しかし悟るな。





イザヤ書 43章4節
わたしの目にあなたは価高く、貴く
わたしはあなたを愛し
あなたの身代わりとして人を与え
国々をあなたの魂の代わりとする。







  『雲と天幕』    1月25日
 

臨在の幕屋を雲が覆う。
民は、ステイに徹する。
雲が幕屋を離れ、上昇する。
民は、速やかに旅立つ。

荒野の旅は、仮設チャペルの礼拝。
解体と組立が繰り返される。
そのリズムは、ランダムである。
律儀や勤勉を遠ざける。

その場に、居続けたい。
その場を、一刻も離れたい。
人の思いが聞かれる事はない。



民数記9章 18節 
イスラエルの人々は主の命令によって旅立ち、
主の命令によって宿営した。
雲が幕屋の上にとどまっている間、
彼らは宿営していた。





  『その勧めのとおりに』  1月18日(日)



婿の生真面目を見るに見かねて、
舅が、妻子を連れてやって来た。
荒野で、婿は悪戦苦闘していた。

アマレク人には勝利したが、
内輪のガバナンスを欠いた。

外に強く、内に弱い。
理想のリーダーだ。
威張りたくない。
ひとりひとりを大切にしたい。

モーセの舅、エテロは、
民の組織化を助言する。
一人で抱え込むな、
疲れてはいけないと。




出エジプト記 18章 19節 
わたしの言うことを聞きなさい。
助言をしよう。







   『川を渡る』    1月11日  


第一回卒業生に向かって、
新島襄は、「ゴー・イン・ピース」と
スピーチを締め括った。

校長を自由に批判し、
自主、自立を享受した生徒たちに、
将来を約束した。

荒野の民は、幾度とつぶやき、
素直には、モーセに従わなかった。
時に大罪を犯してまで、
神の前に、自己を確立した。

今、イスラエルの民の卒業式。
契約の箱は、「ピース(平安)」。
乳と蜜の流れる土地へ、
ヨシュアの「ゴー(行け)」の号令。



ヨシュア記3章6節 
ヨシュアが祭司たちに、
「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、
川を渡れ」と命じると、
彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。




  『ハンナの祈り』  1月4日


子沢山の夫の愛人を恨み、
自分の子供が欲しいと願う女と
実子の悪行に悩む祭司が、
主の宮で出会った。

祭司は、後継者を願っていた。
実の息子たちに、それは望めない。
嫉妬に狂った女は、
授かった子を神に奉げると誓う。

サムエルは、エリに預けられる。
母ハンナは、実子への執着と、
重苦しい悩みから解かれた。



サムエル記上2章11節
エルカナはラマの家に帰った。
幼子は祭司エリのもとにとどまって、
主に仕えた。





2014年 



   『新しい掟』   
12月28日



ペトロとアンデレは、兄弟。
同じ漁師仲間のヤコブとヨハネも兄弟。
イエスと四人は、乳兄弟。
死ぬも生きるも一緒だ。

殉教一番乗りを願ったが、
ヨハネは、天寿を全うした。
ヨハネは、最後まで残された。

世代交代の要が、ヨハネだった。
「古い掟」を、死守せねばならない。
イエスの母を託された愛弟子、
ヨハネに残された大仕事だった。



ヨハネの手紙一 2章 7節
愛する者たち、
わたしがあなたがたに書いているのは、
新しい掟ではなく、
あなたがたが初めから受けていた古い掟です。
この古い掟とは、
あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。






 『その名をイエスと』  12月21日


新しい時代の夜明けを信じて、
息子に、「日出男」という名を付けた。
親族にそのような人がいた。
機関車の運転士をしていた。

貧しいながらも肩寄せ合って、
親子水入らずの所帯を夢見たヨセフ。
まだ見ぬ息子の名は、「義男」。
ヨセフは、「正しい」人であったから。

マリアの身に起こったことが、
ヨセフのささやかな夢を砕いた。
飼葉桶の赤子の名は、「他助」。
人の思いに依らない、名付けだ。




マタイよる福音書1章21節
マリアは男の子を産む。
その子をイエスと名付けなさい。
この子は自分の民を罪から救うからである。





 
  『諭しと懲らしめ』  12月7日(日)


「憎んでは打たぬものなり笹の雪」
新島襄は幼少の頃、祖父に折檻された。
布団に巻かれ、暗い部屋に押し込められた。

待望の男子として生を受けた新島は、
祖父が思わず発した喜びの声に因んで、
「七五三太(しめた)」と名付けられた。

甘やかされた育った。
我儘の限度を超えたことがあった。
祖父の逆鱗に触れた。
折檻の後、諭された。
「お前の将来を案じて叱ったのだ。」と。
「笹が折れないうちに、雪を払うのだ。」と。

自分の思いのままに生きる。
「レット・イット・ゴー(ありのままに)」
という歌が、流行っている。


箴言3章5‐6節
心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず
常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば
主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。




  『時が近づいた』 11月30日  アドベント



ブレーキの軋む音。
闇に現れるヘッドライトが、眩しい。
地下鉄が、停止線で、ぴたりと止まる。

福音と言う名の電車の到着は、
救済史という時刻表通り。
人は、それを、ひたすら待つ。

待ちきれないからと言って、
線路に飛び降りて、
電車に向えば即死は、免れない。

救いの到来、アドベントを
トンボや蝶を捕えるように、
人の力の範囲とする人がいる。



マタイによる福音書 26章22節
弟子たちは非常に心を痛めて、
「主よ、まさかわたしのことでは」と
代わる代わる言い始めた。


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12月7日 待降節第2主日
説教題『諭(さと)しと懲(こら)らしめ" "箴言(しんげん)』3:1-12
讃美歌 241(21)来たりたまえわれらの主よ
254(21) 小鳥も飛び去る冬のさなか
266(21)イエスは生まれた
交読文  詩編2:1-6






  『仮庵に』  収穫感謝日礼拝


こどもが頭に煉瓦を乗せて、日銭を稼ぐ。
日没まで1000個運んで、70タカ(98円)。
それで、家族がやっと食べられる。
教育を受ける機会なども無い。
そんな国が、今もある。

聖書の民も、そのようであった。
豊かな実りのある地を、神は約束した。
民のつぶやきに、リーダーは、耐えた。
荒野の仮庵(テント)の日々が続く。
約束の地が与えられた。

収穫感謝は、農民だけの祭りではない。
健康を収穫した人。
隣人との和解を収穫した人。
様々な実りが奉げられる。
主に奉げたものは、その人の手を離れる。





レビ記 23章43節
これは、わたしがイスラエルの人々を
エジプトの国から導き出したとき、
彼らを仮庵に住まわせたことを、
あなたたちの代々の人々が知るためである。
わたしはあなたたちの神、主である。








  『近寄って来て』  11月16日(日)
   

イエスの福音に触れた人は、
人を霊魂と肉体に分けたりはしない。
人は、肉であり、霊である。

パウロは、仕方なく、
グレコ・ローマンな人たちの理解に応じて、
へブル的「生」を語ったのである。

肉じゃがの味付けに料理酒を使う。
蒸発するアルコール分を、「霊的」と尊び、
鍋に残った物を、「肉的」と蔑むのか。

英語で、「霊」と「酒」は、
同じ言葉、「スピリット」と言う。




ルカによる福音書20章 38節
神は死んだ者の神ではなく、
生きている者の神なのだ。
すべての人は、神によって生きているからである。




 『主の声』 11月9日


斬首されたヨハネの首は、
盆の上に乗せられ、
宴会の座興となった。
王家の不興を買ったのである。

大衆の機嫌をとることも、無かった。
人々の方から荒野に向かった。
野人に一喝されたいと、願った。
それが、ポンテオ・ピラトの時代だった。



ルカによる福音書3章 1-2節
皇帝ティベリウスの治世の第十五年、
ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、
ヘロデがガリラヤの領主、
その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、
リサニアがアビレネの領主、
アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、
神の言葉が荒れ野で
ザカリアの子ヨハネに降った。






  『過ぎ去った時代』   10月26日


足の不自由な男が、歩いた。
躍り上って歩きだした。
自由になった。

パウロとは、「小さい者」。
バルナバとは、「慰めの子」。
絶妙のコンビが、男を歩かせた。
生まれながら歩けない男を。

男の人生は変わったが、
町の人々は、因習の中に、取り残された。





使徒言行録14章9-10
この人が、パウロの話すのを聞いていた。
パウロは彼を見つめ、
いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、
「自分の足でまっすぐに立ちなさい」
と大声で言った。
すると、その人は躍り上がって歩きだした。





 『地の塩、世の光』 10月19日



木に縛られた捕虜を、

突き刺せと命じられる。

戦地に赴く息子に、父が言った。
御心を為す数少ない場面に、遭遇する。
判断に苦しむ時、天の声を聞け。

命令を拒否した。
凄まじい制裁が待っていた。

祈れども 踏むべき道は 唯ひとつ
殺さぬことと 心決めたり

渡部良三歌集「小さな抵抗」




マタイによる福音書5章 16節
あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
人々が、あなたがたの立派な行いを見て、
あなたがたの天の父を
あがめるようになるためである。





   『実が熟すと』 
 10月12日


洗礼を受けた翌週から、
四十年間、教会を離れた人がいる。
牧師になった。

遺跡から見つかった蓮の種が、
千年の後、開花した。

神の国を、種蒔きに譬える。
「蒔きっ放しと言う事だ!」
丁寧な牧会で定評のある牧師が、言った。

水や肥料をやり過ぎては、いけない。
蒔いた種に、執着する人がいる。
その種が発芽することは、ないだろう。



マルコによる福音書4章 26―27節
また、イエスは言われた。
「神の国は次のようなものである。
人が土に種を蒔いて、
夜昼、寝起きしているうちに、
種は芽を出して成長するが、
どうしてそうなるのか、その人は知らない。






  
『一つになる』  10月5日 世界聖餐日 



会衆派と長老派。
明治の二大プロテスタント教派が、
ひとつになろうとした。

新島襄は、合同に断固反対した。
了見が狭いと批判された。
新島を慕う人たちを落胆させた。
それでも、新島は、反対した。

独立に傾く世論に対して、
女王が、分裂に不快感を示した。
王国は、ひとつであると。

神とイエスが、ひとつであるように、
イエスと我々は、ひとつである。
会衆(信徒)の教会には、意地がある。





ヨハネによる福音書17章22節
あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。
わたしたちが一つであるように、
彼らも一つになるためです。







  『不届きな家来』  9月28日(日)


良い友人関係であったが、
長く音沙汰がなかった。

関係が、復活した。
金を貸す者、借りる者として。

工場は、人手に渡った。
生活費の無心が始まった。

感謝の気持ちを表せと、周囲が迫った。
しかし、借りる者は、平然とした。
自分には、借りがないと言う。

妻への不誠実が、貸し手の泣き所だった。
不貞の罪が、天への大きな借りだった。
その借りは、落伍者の借りの比ではなかった。




マタイによる福音書18章32節
そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。
『不届きな家来だ。お前が頼んだから、
借金を全部帳消しにしてやったのだ。
わたしがお前を憐れんでやったように、
お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』





 『神が清めた物』  9月21日(日)


ペリカンを、食べてはならない。
ペリカンは、汚れた鳥だから。

聖書の通読を命じられた。
一度読むと、二度目が求められた。
二度読むと、三度目を求められた。
ペリカンの四文字が、強く記憶に残った。

600万人の血を代償にしてまで、
ペリカンを食べなかった人たちがいた。

神は、ペテロに、ペリカンを喰えと言う。
モーセの掟が、血祭りに上げられる。
世界宣教の開始だ。




使徒言行録10章15―16節
すると、また声が聞こえてきた。
「神が清めた物を、清くないなどと、
あなたは言ってはならない。」

白ふくろう、ペリカン、野がん、〔レビ記11:18〕





 『苦しみを共に』  9月14日(日)


  
清貧に耐えた牧師がいる。
雪の朝、玄関に、米と味噌があった。
笠地蔵のような話だ。

創立記念日礼拝に、老師を招いた。
会計役員の昔話に、嗚咽が漏れた。

高級乗用車が老師を迎えに来た。
ハンドルを握る上品な婦人は、
老師を父と呼んだ。

くたびれた背広の老人が、
助手席に、満面の笑みを埋める。
その笑顔は、あの雪の朝に変わらない。




フィリピの信徒への手紙4章 11節 
物欲しさにこう言っているのではありません。
わたしは、自分の置かれた
境遇に満足することを
習い覚えたのです。






 『流血と叫喚』  9月7日(日)


教会の窓ガラスが、石礫に砕け散る。
日本にも、『水晶の夜』があった。

終戦の翌日、教会は元通りになった。
米軍のジープが、ガラスを運んで来た。
教会は、後ろ盾を得た。
ジープは、何でも持って来きてくれた。
教会の時代が来た。

その光景に背を向けた牧師がいる。
神が見捨てた教会を、農村に探し求めた。
その結果は、惨めなものではあったが、
今日の教会の現実を先取りした。



イザヤ書57節
イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、
主が楽しんで植えられたのはユダの人々。
主は裁きを待っておられたのに、見よ、流血。
正義を待っておられたのに、見よ、叫喚。






   『柱と梁』 8月31日(日)


組織は、トップダウンだと言う。
いや、ボトムアップだと言う。

聖書は、どちらでも良いと言う。
垂直も水平も、好みに過ぎない。
土台が、何であるか分かれば良い。

ソロモンの神殿は、
王の寝所より大きくはなかった。
立派な神殿は、付属物であった。

真夏の日中、足場を組む人たちがいる。
十字架を無限に生み出すかのように、
縦と横を組み合わせている。



詩編 127編 1節
主御自身が建ててくださるのでなければ、
家を建てる人の労苦はむなしい。
主御自身が守ってくださるのでなければ、
町を守る人が目覚めているのもむなしい。






  『心の包皮』  8月24日(日)


頑固は、いけない。
片意地な人になっては、いけない。

「こだわってますねぇ。」
褒め言葉ではない。

信仰の熱心は、形には現れない。
形にしようとしては、いけない。

アブラハムが割礼を受けたのは、九十九歳。
荒野の二世たちは、無割礼。
イサクが生まれ、カナンの地が与えられた。

割礼の痛みは記憶されても、
エリート意識に固執してはならない。




申命記 10章15-16節 
主はあなたの先祖に心惹かれて彼らを愛し、
子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、
今日のようにしてくださった。
心の包皮を切り捨てよ。
二度とかたくなになってはならない。






  『乳飲み子まで』   8月17日


命は、生まれた瞬間、
「私」に、奪われる。
御しがたい「我(が)」となる。

私の命が一番だから、
私の思い通りにならないことに悩む。

幼子には、その程度が軽い。
重症にならないうちに、
命を、元の持ち主に返さなくては。

乳飲み子までもイエスの所へ連れて行った。
人々の判断は、賢明だった。

弟子たちの無知は、イエスの憤りとなった。



ルカによる福音書18章 15節
イエスに触れていただくために、
人々は乳飲み子までも連れて来た。
弟子たちは、これを見て叱った。

マルコによる福音書10章14節
しかし、イエスはこれを見て憤り弟子たちに言われた。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。
妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。






 『預言状態』  8月10日(日)


荒野の二か月が過ぎて、
誰かが、「肉を喰わせろ。」とつぶやいた。
「そうだ、そうだ。」の声が続いた。
大部屋の役者たちに、モーセは追い込まれる。

クラスの生徒にアイスを奢る教師。
焼き肉屋に部員を連れていく顧問。
前の担任、前の顧問が良かったと言う。

厳しい指導には、愛がある。
嫌われても、心を伝えたい。

七十人の長老たちが、モーセを支えた。
そのうちの二人は、恍惚状態となった。
行き過ぎる程に、モーセの側に立った。




民数記11章27−28
一人の若者がモーセのもとに走って行き、
エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。





  『呻きながら』  平和聖日  8月3日

帰って来るはずの父。
帰って来るはずの兄。
帰って来るはずの夫。
平和は遠い。

神との和解が必要だ。

炎天下に、ノアは方舟を作った。
舵も帆もなく、洪水の中を漂った。
二等船室の雑魚寝。
被造物の密度が頂点に達する。

人も動物たちも、虹を見た。
神との和解が示された。
そこに、父が、兄が、夫が、いる。



ローマの信徒への手紙8章22節
被造物がすべて今日まで、共にうめき、
共に産みの苦しみを味わっていることを、
わたしたちは知っています。





  『善行と慈善』   7月27日


善行を積めば天国に行ける。
そのような教えがあるかも知れない。

「かもしか」さんには、その考えはなかった。
難儀をする人を放っておけなかった。
その気持ちが、行為となった。
きびきびとした動きをともなって。

「かもしか」さんは、スタイル抜群だった。
小股の切れあがった浮世絵美人だった。
、、、だったのだが、、、、

女性伝道者としてのキャリアが、
彼女の外見を変えたかも知れない。
貫録たっぷりになっても、
善行への俊敏な反応に変化はなかった。


使徒言行録9章36節
ヤッファにタビタ??訳して言えばドルカス、
すなわち「かもしか」??と呼ばれる婦人の弟子がいた。
彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。





  『同じ時刻』  7月20日(日) 上鳥羽教会講壇交換


夏場の小遣い稼ぎにと、
路上でかき氷屋を開店すれば
5分も経たないうちに「誰に断って、、、」と、
新喜劇お決まりのシーンが始まるだろう。

カファルナウムには関所があった。

王の役人が統括していた。
暴力装置付きの役人の権限は相当。

その息子の風前の灯の命をイエスが救った。
洗礼者ヨハネの首を撥ねた王への忠誠は
瞬時に霧散した。





ヨハネによる福音書4章52‐53節
そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、
「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。
それは、イエスが「あなたの息子は生きる」
と言われたのと同じ時刻であることを、
この父親は知った。









 『伝道者と宦官』  7月13日(日) 


准使徒フィリポが洗礼を授ける。
その性を奪われた宦官に。

道を求める者と共に水の中へ。
心中の道連れように。
ふたりは死ぬ。
そして、復活の命に与る。

宦官は、自分の命を取り戻した。
歪んだ人生を振り返った。
性を壊してまで仕えた王への忠誠。

宦官は、人間にもどった。
主に贖われた人となった。
喜びの人となった。

准使徒の姿は、そこにない。


使徒言行録8章38-39節
そして、車を止めさせた。
フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、
フィリポは宦官に洗礼を授けた。
彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。
宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、
喜びにあふれて旅を続けた。







  『その水を』 7月6日(日)



結婚生活の破たんが続く。
バツ五だと言う。
懲りずに人の夫と暮らしている。
長続きはしないだろう。

サマリアの女の前に、イエスが現れる。
今までに出会った男(ひと)とは違う。
求めることなく、与えると言う。

人目を避けて、井戸に来た。
一刻も早く立ち去りたい。

親身に話を聞いてくれた男は、
二度と渇くこと無い水をくれると言う。

ありのままの姿になれた。
真の礼拝者へと導かれた。





ヨハネによる福音書4:13―14
イエスは答えて言われた。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は
決して渇かない。






  『悪霊追放』  6月29日(日)

モーツアルトを聞く。
犬猫と触れあう。
植物を育て愛でる。
良い香りを嗅ぐ。
ストレス解消の処方箋だ。

サウル王は、預言者に見捨てられる。
原因は、自らが招いた。
心が乱れる。

音楽療法が処方された。
琴の音色が王の心を鎮めるのか。
楽器ではない。
ダビデが、癒すのである。

犬猫、植物、芳香ではない。
神に見捨てられた人を深く思う。
祈りが癒す。




サムエル記上 16章 23節
神の霊がサウルを襲うたびに、
ダビデが傍らで竪琴を奏でると、
サウルは心が安まって気分が良くなり、
悪霊は彼を離れた。





  『心を一つに』  6月日(日)  


アサ王は41年間、ユダを治めた。
王に定年はない。
年金暮らしもない。
死ぬまで、民と神に採点される。

アシュラ像を拝む実母を追放。
律法の教えをネット配信する。
専守防衛の徹底。
評価は「優」だ。

治世の36年目が落とし穴だった。
対抗国が大国と同盟を結んだ。
アサ王は、大国に金銀を送る。
大国との同盟は実現した。

国庫の扉を開ける泥棒行為。
民は安堵したが、神は許さなかった。

世界を見渡す神と、
王の心が一つではなかった。



歴代誌下 16章9節
「主は世界中至るところを見渡され、
御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。
この事について、あなたは愚かだった。
今後、あなたには戦争が続く。」







 
『しばらくすると』  6月15日(日)


「少年よ、大志を抱け。」と言い残して、
クラーク博士は、馬上の人となる。
札幌滞在、わずか八カ月。

疾風(はやて)のように現れて、
疾風のように去って行く。
仮面の英雄は、神出鬼没。

「シェーン・カムバック!」
一宿一飯のカウボーイは、
少年の叫びに振り向かない。

イエスは弟子たちに、ゴールを示す。
一つは、翌日の十字架を。
二つは、最後の審判の日を。
その二つの時間は、「しばらく」と表される。
時間の質が等しいのである。



ヨハネ16章17‐18節
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、
またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
そこで、弟子たちのある者は互いに言った。
「何を話しておられるのか分からない。」





 『一人一人の上に』  6月8日(日)


つまらぬことに力を使い果たす。
時間と空間の無駄遣い。
いつの間にか三本が一本。
人生電池の残量に泣く。

眠る、起きる、食べる、動く。
見る、聞く、語る、そして死ぬ。

教会が、誕生した。
聖霊に満たされた信徒の教会が。
人生電池は、フル充電された。

二度と、無為な日々を過ごすことはない。
再び来られる主を待つ。
死の続きがある。




使徒言行録 2章3−4節
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、
一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、
“霊”が語らせるままに、
ほかの国々の言葉で話しだした。






 『雲に覆われて』   6月1日(日)

復活の主を前に、またもやの頓珍漢。
神の国の再建は、今、この時かと問う。
使徒たちの『神の時』への僭越。
イエスは、言う。
「あなたがたの知るところではない。」

イエスは天に上げられる。
弟子たちの前を離れ去って行く。
天を見上げる弟子たち。

御使いの声が聞こえる。
「ガリラヤの人たちよ。」

地の果てまで、主の証し人となる。
聖霊の助け無くしてその視野は得られない。




使徒言行録1章7−9節
イエスは言われた。
「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、
あなたがたの知るところではない。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。
そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、
また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」









  『心の底から』   5月25日(日)


大飯原発を運転してはならない。
福井地方裁判所の判決だ。
人格権は、すべての法分野において優先する。
判決理由の骨子だ。

「古き人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着ける」

厳めしいガウンは、脱ぎ捨てられた。
裁判官は、原色のアロハ姿だ。
南国の強い日差しに白い歯が光る。

イエスとの出会いを忘れた人がいる。
せっかくの新しい服を仕舞い込んでしまった。
その着心地を、悪いと言う。



エフェソの信徒への手紙4章 23‐24節
心の底から新たにされて、  
神にかたどって造られた新しい人を身に着け、
真理に基づいた
正しく清い生活を送るようにしなければなりません。





  『会堂長とその娘』   5月18日(日)



内村鑑三の長女、ルツ子は十九歳でこの世を去った。
臨終を前に、両親と共に聖餐にあずかり、
感謝の言葉を述べたと伝えられている。

内村は、告別式において、
「これは葬儀ではなく、結婚式です。」と述べた。
そして、埋葬の際には、一握の土を掴んで、
「ルツ子さん、万歳!」と叫んだ。

会堂長の愛娘が死んだ。
会堂長に、内村の信仰はなかった。
イエスは精鋭の弟子たちを伴われる。
厳粛な復活の出来事に野次馬は要らない。

ペトロ、ヤコブ、ヨハネと会堂長夫妻、
そして、内村鑑三と妻が、
「タリタ、クム。」、「少女を起きなさい。」との
イエスの言葉を聞く。





マルコによる福音書5章37節 
そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、
だれもついて来ることをお許しにならなかった。





 『あなたの母』  5月11日(日)
    
      母の日礼拝


イエスは、二度、母に反抗した。
思春期の青年のように。

一度は、母が仕切る結婚式の台所で。
二度目は、苦しみ悶える十字架の上から。
二度、マリアを「婦人よ。」と呼んだ。

余りにも、余所余所しい。
イエスは、愛弟子に母を託す。
十字架の出来事は、親族に占有されない。
マリアは、あなたの母でもあるからだ。





ヨハネ 19章27節 
それから弟子に言われた。
「見なさい。あなたの母です。」そのときから、
この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。





 『群れの模範』  5月4日(日)

去勢された雄牛の血を全身に浴びる。
皇帝の像に、うやうやしく拝礼する。
忌嫌は、死を意味する。

兄弟姉妹と呼び合うことに好奇の目。
聖餐式が、人肉行為と喧伝される。
背徳と猟奇の汚名が降り注ぐ。

一年の半分を享楽の時とした。
それを皇帝の善政と追従した。

そのような日常の中で主の証し人となる。
老練な信徒の導き無くして、それはあり得ない。

ペトロは控え目に言う。
「年寄りの言うことに耳を傾けよ。」

若い人も日々、年の嵩を増す。
全てのキリスト者が信徒の模範への道を歩む。



ペトロの手紙一  5章 5節
同じように、若い人たち、長老に従いなさい。
皆互いに謙遜を身に着けなさい。」






  『信じなかった』   4月27日(日) 


名前と出身地がコンビ。
どこかで聞いたような。見たような。
博徒の名に出身地が冠されて通り名となる。
鬼平の密偵、「小房の粂八」であるとか。
蟹江敬三の役作りが渋い。

「マグダラの」と来れば、
「あのマリア」であっただろう。
七つの霊に憑かれた女のことだ。
「あたいのことを何だって言うのさ!」
そんな大立ち回りが幾度とあっただろう。

マリアは、イエスに出会った。
イエスは、「マグラダの」とは呼ばなかった。
マリアを、「マリアさん」と呼んだ。
それだけのことで、七つの霊が出て行った。

復活のイエスは、一番に、マリアの前に現れる。





マルコによる福音書16章9節
イエスは週の初めの日の朝早く、
復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。
このマリアは、
以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。








  『主の復活』   4月20日(日)


敬愛する尊師の遺骸を清めたい。
エンバーミング(死化粧)を施したい。
それは、女にしか出来ないことだ。
マリアたちは、そう思った。

死んだイエスを探していた。
何も分かっていなかった。

純白の若者が、待っていた。
誰が墓に来るかを知っていた。

驚かす気はなかったかも知れない。
女たちの驚きこそ主の復活の証し。
説得性のある十分な根拠だ。





マルコによる福音書16章 5―6節
墓の中に入ると、
白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、
婦人たちはひどく驚いた。
若者は言った。
「驚くことはない。
あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、
あの方は復活なさって、ここにはおられない。」








   『ロバと救い主』   4月13日(日)


「八重の桜のポスターが、官兵衛に代わりましたなぁ。」
「NHKを使うて私学の宣伝ですからねぇ。」
新島襄の学校は、今年も学生に大人気だ。

二〇歳を超えて、新島の学校に学んだ人がいた。
関東軍の一兵士であった。
泣き喚きながら、自分の生きる道を探した。
立派な人間にならなくて良いことを知った。

妻の持参金を教会と保育園の元手とした。
親にも無理の限りを言った。

イエスを乗せた『子ロバ』を自分だと言った。
園児や信徒も、ロバになった。






マルコによる福音書 11章2節 
「向こうの村へ行きなさい。
村に入るとすぐ、
まだだれも乗ったことのない
子ろばのつないであるのが見つかる。
それをほどいて、連れて来なさい。









  『御子の命』   4月6日(日)


「キシモトさんには、言っておくわ。」
「やっぱり、あのコトですか。」
「家族の中で、わたしだけ教会の人間なのよ。」

その人は、最後の仕事を全うした。
余人に代えがたいオルガン奏者だった。
経験豊かな教育者だった。

土曜日の入学式は満員だった。
オルガン奏者の隣まで補助席が押し寄せた。

「讃美歌、教えてもらったように歌えたよ。」
寮の生徒たちが喜々として礼拝堂から出て来る。

パイプオルガンの演奏ブースに、その人はいない。
意志を継いだ新人が、練習に練習を重ねた。
その人の命が、引き継がれた。



ローマの信徒への手紙5章8節
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、
キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、
神はわたしたちに対する愛を示されました。






 『憐れみの器』  3月30日(日)


洗練された人ほど、心が頑なである。
出来上った自分が大好きなのである。

帝都ローマの教会に、ガリラヤの有機臭はない。
全ての道がローマに通じた。
使徒の血と汗によらない教会が出来た。
差し詰め、インターネット教会という事か。

情報だけで作られた教会は、物理的に弱い。
その弱さが、「洗練」に置き換えられる。

人も教会も泥臭い「土の器」である。
作られたことを忘れてはいけない。
「洗練(ギリシャ語)」の語源は「詭弁」、ヘリクツである。




ローマの信徒への手紙 9:19−20
ところで、あなたは言うでしょう。
「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。
だれが神の御心に逆らうことができようか」と。
人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。
造られた物が造った者に、
「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。






 『ただ一度のいけにえ』   3月23日(日)

「御主人の病気も治りますよ。」
「貧しい生活に別れを告げられますよ。」
「争い、揉め事が解決しますよ。」

親切と熱心が日参する。

「うまい儲け話がありますよ。」
見知らぬ人からの猫撫で声。

弱みが他人の知るところとなる。

静かに、難儀をしている人を祈る。
気付かれないように、利を回してあげる。
思い遣る気持ちとは、本来そのようなもの。

それを執り成しと言う。
御子が大祭司という意味だ。




ヘブライ人への手紙7章28節
律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、
律法の後になされた誓いの御言葉は、
永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。







  『病と痛み』    3月16日(日)


「治る病気は、治るから、よろしいですがな。」
「収まる痛みは、高が知れてますがな。」

歯の治療中を話題にしたのは、不味かった。
病室では、これと言った話がない。
気を紛らわしてもらえると思った。

ハンセン病の末期を、独り静かに迎えた人がいた。
牧師と教会を祈りつつ召された。
その人は、丹波ヨブと呼ばれた。
明治二四年の秋のことであった。

丹波ヨブと渾名した牧師に形見を送った。
母の遺言、『信仰を落とすなよ』の一言を。
若い牧師の前途を祝福した。
彼の英魂は、天に歓迎される。





イザヤ書53章2−3節
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、
多くの痛みを負い、病を知っている。







 『火中の巻物』  3月9日(日)


「早く治らないでくださいね。」
病人を怒らせる牧師がいる。

「おめでとうは言いません。祝福もしません。」
新郎新婦を困惑させる牧師がいる。

病の意味を知れと言う。
結婚が忍耐であることを学べと言う。

国家存亡の危機を目出度いと言う。
神の声に耳を傾ける好機到来だと言う。

エレミヤの預言に激怒した王は、
巻物を切り刻み、火中に投ずる。

羊皮紙の焦げる悪臭が宮殿に充満する。
あなたの家、あなたの教会に無縁なる臭いが。



エレミヤ書36章23節
ユディが三、四欄読み終わるごとに、
王は巻物をナイフで切り裂いて暖炉の火にくべ、
ついに、巻物をすべて燃やしてしまった。







   『贖いの業』  3月2日(日) 


あぜ道の水路で少女Aが、夕餉のタニシを洗う。
その目の先は、遠くの田に、父と水牛。
「ノー・スクール。」と言う。

村の入り口で少女Bは、ブレスレットを売る。
「ミスター(旦那さん)、バイ(買って)。」
片言の英語が命の綱。

少女Cの父母は、街でホテルを経営する。
流暢な英語で、学校が楽しいと話す。

少女ABCの国では、教育の機会が均等でないようだ。
キリスト者ABCには、神の義が差別なく与えられる。



ローマの信徒への手紙3章22節
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、
信じる者すべてに与えられる神の義です。
そこには何の差別もありません。





  『注意しなさい 』  2月23日(日)


右や左の旦那様に、憐れみを請わない。
貧者が、富める者に喜捨を強要する。
善を積んで天国へ行けと言う。

金持ちも負けてはいない。
五月蠅く付きまとう物乞いに、
「私ではなく、神の所へ行け!」と。

「百点とったらゲームソフト買うて。」
「先生、試合に勝ったら焼き肉屋へ連れてって。」
物乞いの声に負けてしまう。

「買うてやったやろ。おごってやったやろ。」
後で言っても空しい。

施しの行為は、見えない神を見る行為。





マタイによる福音書 6章3節
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
あなたの施しを人目につかせないためである。
そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、
あなたに報いてくださる。」





 『最初のしるし』   2月16日(日)


お告げを素直に聞いた乙女は、今や肝っ玉母さん。
他所の家のパーティーまで切り盛りする。

葡萄酒のかめが空っぽになってからでは遅い。
「たった今、なくなった」と、現在完了形。

そんな母に育てられたイエスだから、
やいのやいのと言われることは平気。
母の先走りにいらいらしない。

「婦人よ」と語りかけ、距離を置く。
母は、息子がお告げの子であることを思い起こす。

蛇に睨まれた蛙よろしく召使いたちは、
息子の言う通りにせよとの母の指示に従う。

召使いは、原文でディアコニス。
教会の執事や大学の学部長の語源となる。



ヨハネによる福音書2章3節
ぶどう酒が足りなくなったので、
母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。




   『サバイバー』  2月9日(日)


さなぎが羽化して、蝶になる。
その瞬間を鳥が狙う。
脱皮したばかりの越前蟹は、美味だと言う。

迫害下の信徒たちは、復活を確信する。
主の来臨を待ち望む。

地下の礼拝所は、「さなぎ」に似たり。
地上に平和をもたらす羽化の時が迫る。

キリスト者は、互いに励まし、慰め合って、
空中で主に出会う(in the air)、
「生き残る者」、サバイバーとなる。



1テサロニケ 4章17-18節
それから、わたしたち生き残っている者が、
空中で主と出会うために、
彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。
このようにして、
わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。






   『滅びなければ』  2月2日(日) 

『彼は栄え、私は滅びなければならない』
十字架のイエスをヨハネが、指し示す。
十六世紀の修道院に描かれた聖画。

「キシモトさん、何を読んだはりますねん?」
「聖書ですわ。」
「へぇー。」

ぞろぞろと、生徒が礼拝堂に入ってくる。
パイプオルガンの長いエンディング。
ざわめきが、フェイドアウトする。

「へぇー。」と言った人が、壇上にキシモトを見る。
キシモトは、滅びなければならない。




ヨハネによる福音書1章14節
ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。
「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。
わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、
この方のことである。」





    『あなたの口と心』  1月26日(日)

「この学校は、ええ意味で変わってますなぁ。」
改修工事の監督が、感心した様子。

「ご苦労様です。」
「お疲れ様です。」
「いつもお世話になります。」

出入りする工事関係者に、生徒が挨拶する。
監督の目が細くなる。

荒野の旅を終えたモーセは、掟を復唱する。
人を人と思え。
神を神と思え。

三百キロの道のりを四十年、彷徨った。
その甲斐は、あった。



申命記30章14節
御言葉はあなたのごく近くにあり、
あなたの口と心にあるのだから、
それを行うことができる。




  『身を起こして』
   1月19日(日)

「事実、魚のうろこを目に貼り付けて、
目の病気を治すことがあったそうですよ。」
老師の蘊蓄に、中学生が目を丸くする。

パウロの回心は、二千年の時を経ても新鮮。
『目からうろこ』だけが抽出される。
教養人のレトリックに重宝される。

己の正義が、神の領域に踏み込んだ。
大罪の何たるかを知った。
ひたすら、神に許しを請うた。

目から『うろこ』が落ちなくて何とする。




使徒言行録9章18―19節
すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、
サウロは元どおり見えるようになった。そこで、
身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。
(パウロ、パウルスは、「僅かの」あるいは、「小さい」の意)




   『難 儀』  1月12日(日)


誰かの後について行けばなんとかなる。
そんな思いの200万人を引き連れる。
リーダーとはそのようなものかも知れない。

エジプトの戦車軍団が後方に迫る。
目の前は、海。

ハリウッドの映画は、奇跡を再現する。
「ほんまにズブ濡れになると思うたわ。」
梅田のシネラマ映画館の興奮が冷めやらない。

モーセの生涯は、四十年が三回。
八十歳にして、『在りてある者』に出会う。
荒野への出発が、三度目の人生の始まり。

そのようなリーダーに、海を分けることなど、
難儀であるはずがない。




出エジプト記14章16節
杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、
海を二つに分けなさい。
(高く挙げられた杖は、イエス・キリストを暗示)




  『新しい歌』 1月5日(日)


「近頃の歌は、ピンときませんわ。」
「友よ、この調べにあらず。」

歓喜の歌、「第九」は、妥協しない。
もっと心地良いものを。
もっと喜びに溢れるものを歌おうではないか。
あなたの歌には、それが無い。

詩編の作者は、嘆きを知っている。
しかし、嘆きを歌にはしない。
涙は、拭われる。
その口に、喜びの歌がある。

大晦日の歌番組に、新しい歌はない。





詩編96:1-2
新しい歌を主に向って歌え。全地よ、
主に向って歌え。
主に向って歌い、御名をたたえよ。
日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。




  2013年



  『務めを果たす』  歳末礼拝 12月29日(日)


「そこそこで終わることを、肝に銘じなさい。」
学部長止まりで定年を迎えた老師の厳命を賜る。

「欲張っちゃいけませんよ。何事も。」
そう言った舌の根の乾かぬうちに、
学院と名の付く大学の院長を渡り歩く。

大将軍も晩年は入道となる。
大僧正のコスチュームに、その身を包む。

預言者イザヤが心酔した名君ウジヤ王、哀れ。
大祭司の務めを横取りする。

「先生、皿まで食っちゃ駄目ですよ。」
その言葉を墓前に供えたことが悔やまれる。





歴代誌下26章16節
ところが、彼は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、
自分の神、主に背いた。彼は主の神殿に入り、
香の祭壇の上で香をたこうとした。



 『その名をイエスと』   12月22日(日)


クリスマスに、教会が人で溢れた。
そのような時代があった。

飼葉桶の中に、救い主が生まれる。
そのパラドクスを誰もが知りたく思った。
教会は、多くの隣人を得られるはずだった。

神が我と共におられることは、承知した。
しかし、隣人と共におられる神を見い出せなかった。

ヨセフは、神が共おられるマリアを妻に迎えた。





マタイによる福音書 1章:23−25節
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
ヨセフは眠りから覚めると、
主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。
そして、その子をイエスと名付けた。





  『近所の者』 降誕前第2主日 12月15日(日) 


近所の者(もん)が、人の道を説いてはいけない。
馬小屋で、救世主が生まれてはならない。

せっかくの神の親近を人が遠ざける。

神学者の友人を「君づけ」呼ばわりしたことが、
教会員の不興を買った。
「田舎の牧師とは、そう言う扱いだよ。キシモト君。」

尊いものは、「遠い」。
そう言う思想がある。

神は、「近い」。
あなたの所に、アドベント(到来)する。
知己朋友なるイエスが共におられる。




マタイによる福音書13章:55節
この人は大工の息子ではないか。
母親はマリアといい、
兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。





 『遠く離れて』  降誕前第3主日 12月8日(日)


哲学者だからガラの悪いことは言えない。
昔の事は水に流して欲しいと言われて、
「何をぬかす。」とは言えない。

「私はあなたに『はるかな遠さ』から挨拶します。」
ヤスパースは、ハイデガーへの思いを抑制した。

律法の掟を細かく守る者が神から遠い。
無作法なイエスの弟子のほうが神に近い。

神の親近(アドベント)を、
『はるかな遠さ』にしてしまう愚を猛省したい。





マルコによる福音書7章6節
イエスは言われた。
「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。
彼はこう書いている。
『この民は口先ではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。





  『この人を待つ』 降誕前第4主日 12月1日(日) 


クリスマスが近い。
イエスの誕生を祝う日を待つ。
この期間を、待降節、降誕節と言う。
アドベントとも言う。

アドベントとは、何かがこちらに向かって来ること。
「来る」ということは、「行く」ということ。
我々の方に、イエスが(生まれて)来る。
イエスが、人の世に向かって行く。

アドベントとアドベンチャーは仲間の言葉。
神が人の世に来ることは、まさに、冒険。
「汝の敵」の巣窟、アウェーに飛び込んで来られる。



ルカによる福音書6章27節
「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。
敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。




 『土の実り』 収穫感謝礼拝   11月24日(日)


くまさんは、大きなカボチャを作りました。
ヤマネさんは、畑の上の枯れた葉っぱに、がっかり。
でも、土の下に大きなお芋が、どっさり。
森の動物たちが、大喜び。

土の実りは、カインの献げ物。
神さまは、お喜びにならない。
誰が、それを、こどもに言うのか。

農耕文化の奢りを、聖書は戒めている。
運を天に任せた遊牧は、神を知る生活。

麦の粉でパンを作り、
焼いた肉を、それに挟めば、
『ハンバーガー』ではないか。





創世記4章4-5節
アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
主はアベルとその献げ物に目を留められたが、
カインとその献げ物には目を留められなかった。



 『まばたく』  11月17日(日)


≪有難う 物が言えない私は
    有難うのかわりに ほほえむ≫
水野源三さんの詩集より

水野源三さんは、何度も何度も、まばたく。
まばたいて、まばたいて、詩を書く。

公職選挙法違反の代議士も、まばたく。
まばたいて、配下に指令をくだす。

源三さんも、代議士も、大きなギョロ目だ。

源三さんが、代議士だったかもしれない。
代議士が、源三さんになれるかもしれない。

その別れ道は、非常に、単純明快だ。



詩編1編6節
神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。




  『神の友』      11月10日(日)


「グローバルの時代でっせ。」
「英語ぐらいできんとな。」

「好きなように言っておれ。」
大番頭のペテロと分家のヤコブがつぶやく。

「いいね!」
そのつぶやきに賛成だ。

ペテロもヤコブもギリシャ語を話せず、
いわんや、洗練された文章を書けるはずもなかった。
注解書が余計な説明をする。

イエスの教えがギリシャ語で広がって行く。
金の指輪をはめた信徒がふんぞり返る教会が現れる。

番頭と分家は、意固地にイエスの教えを原語に留める。


ヤコブの手紙2章15―16節
もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、
あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。
満腹するまで食べなさい」と言うだけで、
体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。




 
 『主の家に帰る』  永眠者記念日  11月3日(日)


カウボーイの腰の拳銃は、酒場の喧嘩道具ではない。
精度の悪い、なまくら拳銃は、ガラガラ蛇を撃つ。
大切な商品の牛を守らねばならない。

羊飼いは、鞭と杖を携帯する。
鞭とあるのは、原文では「こん棒」である。
「こん棒」は、「こん棒」、「鞭」ではない。
羊の群れを襲う野獣をこん棒の一撃で退治する。

羊の群れは、羊飼いが命を掛けて守る。
羊飼いの少年は、慈しみ深い王となる。
その末裔のイエスは、迷える魂の羊飼い。

礼拝堂のサイドに遺影が並ぶ。
遺影の聖徒たちは、今日も我々と共に礼拝に与る。



詩編23編4節
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。




  『別々ではなく』   10月27日(日)


夫が壺を巻き上げ、妻がタコを取り出す。
板子一枚に命を預ける関門海峡の夫婦漁師。

「あんさん、別れなはれ。」
昔、ラジオで聞いた人生相談の決まり文句。
そう言われて、別れた夫婦は無かった。
「あの人にも、ええとこありますねん。」

神が人を作った。
人が人を作ってはいけない。
自分の枠に相手をはめ込んではいけない。
それが分かれば、別れ話しにはならない。

自分で自分を作ってもいけない。
それは鼻もちならない傲慢への道。




マタイによる福音書10章2節
ファリサイ派の人々が近寄って、
「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。
イエスを試そうとしたのである。




  『五愚五賢』   10月20日(日)


高く売りつけたい花嫁とその取り巻き。
そうはさせまいと入れ知恵する花婿側。
愉快で、したたかな遣り取りが夜半まで続く。
花婿は、お約束事よろしく遅れてやって来る。

「もう来るだろう。」
その瞬間、花嫁の取り巻きを睡魔が襲う。

花嫁の取り巻きは、AKB48にさも似たり。
可愛いアイドルたちは、ライバル同士。
全員が不覚にも眠り込んでしまった。

しかし、ランプの油を準備していたおとめたちは、
花婿を婚宴会場に案内する大役を果たす。

ケアハウス してやったりの 人生と
苦節乗り越え わが棲家(すみか)なり



マタイによる福音書25章2−4節
そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、
ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、
壺に油を入れて持っていた。


    
 

 『お前と言うニンゲンは』  10月13日(日)


「キシモト君、君に姉妹園を任せよう。」
勤め人なら支店長拝命と言ったところだろうか。

「先生、ボクは、感謝はしますが、お受けしません。」
生意気盛りの20歳代の半ばごろ。

主人の資金を10倍にした僕には、10の町が委ねられる。
「お前と言う人間には、私利私欲が無い。」
主人は、そう評価したのだろう。

主人の金を風呂敷に包んで仕舞い込んだ僕もいた。
主人は激怒し、その僕の全ての持ち物を取りあげた。

神さまと人間との関係は、オール・オア・ナッシング。





ルカによる福音書19章16―17節
最初の者が進み出て、
『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。
主人は言った。「良い僕だ。よくやった。
お前はごく小さな事に忠実だったから、
十の町の支配権を授けよう。」




 『親の顔が見たい』   10月6日(日)


蛇蜴のように忌み嫌われた徴税人にも親はいる。
徴税人は、公認の罪人。
そのような人間に好んで育てる親がいるだろうか。

マタイの別名はレビ。
レビは、神殿に仕える祭司職をイメージする名。
親の願いが、ひしひしと伝わって来る。

親が一番嫌がる道を歩む。
繊細な青年にありがちな抵抗だったかも知れない。
理不尽な世俗の力に飲み込まれて、何も言えない親たち。
しかし、子供には、人の道を押しつける。
マルコによる福音書には、親の名が書かれている。

救いようのない者を救う。
通りがかりのイエスが。




マタイによる福音書9章9節
イエスはそこをたち、通りがかりに、
マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、
「わたしに従いなさい」と言われた。




  『鬨(とき)の声』      9月29日(日)


固い守りの城塞都市、エリコの町を主の民が包囲する。
長く響き渡る角笛の合図と共に、鬨(とき)の声。
城壁は崩れ去り、エリコの町は「聖絶」した。

約束の地は、お膳立てされてはいない。
難易度の低いレベルからその獲得が始まらない。

六日間、毎日城を一周し、七日目に、七周した後、
全ての民が聞き終えるまで合図の角笛が、
これでもか、これでもかと鳴り響く。

「もう目ぇ開けてもいい?」
「まだまだ、オルガンの音、まだ終わってないやろ」



ヨシュア記6章5節
彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、
その音があなたたちの耳に達したら、
民は皆、鬨の声をあげなさい。



  『昼夜大変苦労して』     9月22日(日)


「死にも狂いで働いて、泥のように眠るのサ。」
ビートルズのヒット曲の歌い出しを思い出す。
「だって、君のいる家に帰るとほっこりするんだもの。」
そんな歌詞が続いたように思う。

パウロは意固地になって、自給伝道に自らを駆り立てる。
プライドが高いから紐付が嫌なのだ。
余りに真面目過ぎる滑稽さがカワイイ。

霊的熱心を装うが、その本性は、怠惰。
そのような可愛げのない勢力との死闘が続く。

「愛すべき信徒のいる教会があるからさ」
パウロに、” A Hard Day's Night” を聞かせたい。




テサロニケの信徒への手紙二 3章8節
むしろ、だれにも負担をかけまいと、
夜昼大変苦労して、
働き続けたのです。





 『掟と民、民と掟』 敬老の日に寄せて   9月15日(日)
 
自分がその身であったとして、
どのように「敬老」されるべきか考える。

昨日と何も変わらない自分と付き合って欲しい。
高下駄を履かせられたくない。

「若者と若き心のために」
,,,for the young and young at heart,,,
1970年代のファッションコピーだ。

若き心、新しい革袋の自分こそ、年齢に関係のない自分だ。
ご老公、ご意見番などと茶化されたくない。

「君はそう思うけど、わたしは、こう思う。」
誰とでも対等の関係を創り出す存在であり続けたい。





出エジプト記20章12節
あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、
あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。




 『わたしの群れよ』     9月8日(日)


枯れた骨で埋まる谷間に向かって、
エゼキエルは、主なる神の言葉を告げる。
骨の上に、筋が、肉が、皮膚が。

「死者の慰霊なくして、復興はあり得ず。」
1946年、金城和信(きんじょう・わしん)村長は、
米軍を説得して遺骨収集に取り掛かる。

真和志(まわし)村の開墾地は、
耕しても耕しても、骨、骨、骨。
村人たちは、「グブリーサビラ(失礼します)。」
骨に挨拶し、足先から頭蓋骨へと順に集めて
「ウンチケーサビラ(慰霊の場へご案内申し上げます)。」

枯れた骨が、再び、主の群れとなる。



エゼキエル書 34章 22節
しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。
そして、羊と羊との間を裁く。




  『一本の木』   9月1日(日) 


エゼキエル、その名は、「神は、強める」を意味する。
目的語、「S+V+O」の「O」が抜けている。

左脇を下にして390日、右脇を下にして40日、
寝返りを打てないようにその身を縄で固定し、
大国に飲み込まれる民の罪を負う。

さらに、神は、その期間中、エゼキエルに、
人糞で焼いたパンを食べるように命じる。
それだけは勘弁して欲しいとの願いは牛糞で良いとなるが、
物乞い芸のプロ、インドの聖人も驚きの荒行。
インドの聖人もエゼキエルも「俗」から遠い。

それほどまでにして、エゼキエルは、
分裂、弱体化するイスラエル・ユダの民の行く末を案じた。



エゼキエル書37節19章
それをユダの木につないで一本の木とする。
それらはわたしの手の中で一つとなる。




 『天に属する』  
     8月25日(日)


若者たちは、今、自分が何かをしている状態を『なう』と言う。
「図書館で勉強している・なう。」
「彼女と花火大会・なう。」

第一世代の信徒たちは、主の来臨を固く信じていた。
イエス『なう』の信徒たちは、
来臨を待たずにこの世の生を終えることはない、と。
「千年王国の開始・なう。」

主の来臨の遅延のジレンマから解放される時、
愚かな熱狂と排他主義から自由になり、
おごり高ぶりの土の人から、
神の似姿、第二のアダムへと変えられ、
神の歴史への介入の真の意味を知る者となる。



コリントの信徒への手紙一 15章47節
最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。




  『共に呻き』  8月18日 


炎天下のホームセンターの駐車場。
真横の黒いワゴン車が、日除けとなる。
買い物が終わるまで動くことはなかった。

エルサレムの教会には、大番頭ペテロに御分家のヤコブ。
ローマには、パウロの息が掛からない単立教会。

使徒は、そのような人たちの「日除け」となる。
「涼」を享受する者には、炎熱に耐える「呻き」が分からない。

イエスの十字架から二十年が過ぎた。
本家筋もサロンの教会も虚無に襲われようとしている。
復活信仰への距離が生じ始めようとしている。

猫や犬を飼う人が、「うちの家には、生き物が、、、」と言う。
被造物の第一の意味は、人間、
第二に、身近にいる生命あるもの。
パウロは、自分をも含めた教会の生き物(被造物)が、
呻きを伴いながら忍耐の暁に、栄光の姿に変えられると訴える。



ローマの信徒への手紙 8章:20a &22b
被造物は虚無に服していますが、、、、、
神の子とされること、つまり、体の贖われることを、
心の中でうめきながら待ち望んでいます。





 『手加減はないのか』  8月11日(日)


「もっと国策に協力的な説教をして頂けませんでしょうか。」
「けしからん! 先生は、国家に不忠実です。」

そんな批判を受けながら講壇に立った牧師がいた。
日本の終末を感じていた。
「でも、結局、ボクは、召集を受けて戦場に赴いたのです。」

そんな人だからこそ、聖書を深く語ることが出来た。
ラジオを通して、聖書を分かりやすく解説した。
説教に行き詰る多くの牧師を助けた。

イエスの名は、「イェシュア」と発音されたらしい。
「イェシュア」の「イェ」は、神、
「シュア」の部分は、「救い」。
「シュア」は、横文字言語のルーツで、
「広く、窮屈でない場所」、「解放された空間」を意味する。

自分を解放できない窮屈が、他者を批判する。
その心は、腐った卵となり、
戦時下の講壇に投げつけられた。



マタイによる福音書10章35節
わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。




 『勝利をのぞみ』 (平和聖日)   8月4日(日)


「心の貧しい人々は、幸いである」

この101号室のドアを開くと、
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」に至る
全てのドアが開く。

「このクッキーは、
バターの風味がリッチで濃厚な味わいです。」
「あ、そうか! そういう意味なのか。」

リッチ(豊富)の対義語はプアー(貧弱)。
あなたの心は、(おごり高ぶりの)心が貧しい、
リッチでない。

101号室のドアは、
「悲しむ人々のドア」、「柔和な人々のドア」、
「義に飢え渇く人々のドア」、「憐れみ深い人々のドア」、
「心の清い人々のドア」、「平和を実現する人々のドア」を
次々と開いていく。




マタイによる福音書5:3-9
心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。




 『何が不満なのか』     7月28日(日)


「あなたは、一度、死んだことがありますか?」
大魚の腹の中から生還したヨナが、今日も、
主を大胆に語ることに、
二の足を踏むわたしたちに問いかける。

悪徳にまみれた100万都市の民が悔い改めた。
王が率先して、その手本を示した。

余りにも簡単に、困難なミッションがポッシブルとなった。
アッシリアの首都、ニネベの町には天罰が下るはずなのに。

気に入らない。癪に障る。自分に腹が立つ。
ヨナは、まるで思春期の子供のような不満を神に漏らす。

慈しみの主は、信仰熱心な者にのみ占有されるお方ではない。
ヨナの不機嫌は、我々も、時にそうであるような、
抑えがたい神への甘えかも知れない。





ヨナ書3章5節
すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、
身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。




 『御前に生きる』       7月21日(日)


乳飲み子を背にキャバレーの裏口で女房を待つ。
預言者ホセアのイメージだ。
ホセアは、妻の放縦を許す夫であれと神に命じられる。

同じイニシャルの友人が二人いる。
女性の方をKさん、男性の方をK君とする。
ふたりとも天涯孤独の身で余命を宣告された。

Kさんは、辛い治療を受け入れると言う。
K君は、痛みのない死を選択すると言う。
Kさんを後回しにして、K君を祈った。

「良い格好をして死んではいけない。神様は、格好悪いから神様なのだ。」
本読みで頭の良いK君に、精一杯のパラドクスを投げかけた。

癖のある字で埋まった葉書が届いた。
「ボクは、今、放射線治療を受けています。髪の毛がありません。
下痢と嘔吐の毎日です。全身だるくて、死にそうです。
ボクは、今、格好悪く、生きてます。」




ホセア書6:2
二日の後、主は我々を生かし
三日目に、立ち上がらせてくださる。
我々は御前に生きる。





 『あなたが信じたとおりに』      7月14日(日)


百人隊長の信仰が、イエスの心を打つ。
百人隊長は、ラテン語で「ケントゥリオ」と言う。
「剣太郎」とあだ名したい。

「剣太郎」は、彼の左前に佩びた短剣が、
周辺民族を黙らせ、世界を皇帝に跪かせることを知っていた。

「剣太郎」は、ユダヤの会堂で、
主なる神の名が崇められると同時に、
貧しい者へ援助が教えられていることに深い関心を持っていた。

「剣太郎」は、謙遜な心で、イエスに配下の者の癒しを求める。
イエスは、「剣太郎」の「自分を第二」とする思いを称賛し、
神の国に属していると思っている者たちへの警告とされた。





マタイによる福音書8;13
そして、百人隊長に言われた。
「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」
ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

 





 『みずから災いを』        7月7日(日)


「センセ、一言お願いします」
「わたしは、今、お茶汲みしているところです」
隣席の若い牧師にヤカンを向ける老牧師。

N先生は、「純情」という言葉が好きだった。
ヨシャ王の宗教改革に身を投じたエレミヤの純情を、
熱く語られることが多かった。

先生は、万年青年だった。
信仰が、純粋だった。

イエスの許を立ち去った「富める青年」には、
生涯、青春が訪れることはなかったであろう。




エレミヤ書 7:6
この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、
寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、
異教の神々に従うことなく、
自ら災いを招いてはならない。




 『小さいパン菓子』        6月30日(日)


「キシモト君、君に会うとボクは、まるでエリヤみたいだね」
「ということは、わたしは、カラスですか」

今は天上の人となられた恩師の言葉が忘れられない。
先生は、私のクッキーを大変よろこばれた。

烏に養われて後、預言者エリヤは、
サレプタの町でひとりの「やもめ」に声をかける。
烏の次に、貧しいシングルマザーがエリヤの賄い係となる。

女は、二本の薪と一握りの粉でパンを焼き、
息子と最後の食事をして死を待つと言う。

エリヤは、その粉と残る油で菓子パンを作れと言った。
女は、その言葉に従った。

その菓子(スウィーツ)は、
預言者に尽きることのない霊力を漲らせた。




列王記上17勝13節
エリヤは言った。
「小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。





 『冷たい水一杯でも』 (@西小倉めぐみ教会)  6月23日(日)


二十歳の頃、阪急梅田のシネラマで、
「アラビアのローレンス」を観た。

砂漠の井戸から水を汲んだローレンスの従者が銃弾に倒れる。
「この男は、水泥棒。故に死罪!」
ライフルを持ったベドウインの頭領が大写しになる。
「しかし、旅人のお前は、わたしの井戸から飲んでも良い。」

イエスの弟子を、「この小さな者」とイエスが言う限りは、
そのサポートとしての「冷たい水一杯でも」は、
逆説、レトリックとして聞くべきだろう。

それは、ライフルの標的となるに等しい行為に違いない。
神が報いてくださる事とのバランスが取れているが故に。




マタイによる福音書10章42節
わたしの弟子だという理由で、
この小さな者の一人に、
冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、
必ずその報いを受ける。
       





 『始めたからにはやり遂げる』  6月16日(日)


赤ん坊を背中に、税理士試験の猛勉強。
そんな新婚時代の苦労話に、物真似のコロッケがうなずく。
夫婦のリクエスト曲は、
アコーディオンの伴奏に合わせた「お富さん」だ。

「キシモトさん、この家よ、粋な黒塀、見越しの松よ。」
「この家の信徒がな、
ワシの説教を下手で聞いとれんと言うたんや。」
新米牧師時代の回顧を助手席と後部座席に聞く。

黒塀の住人は、戦時中にあっても
信仰を棄てなかった。

助産婦として、命に向き合い、
命が創造主と出会うことを日毎の祈りとした。

村の保育園設立にも貢献した。
主の証し人たちが、今もその精神を受け継いでいる。



コリントの信徒への手紙二 8章6節
わたしたちはテトスに、
この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、
やり遂げるようにと勧めました。






  『役立たず』       6月9日(日)


みずみずしい野菜を積んだ軽トラック。
八十を優に過ぎた農家の女性が運転している。
農道から踏切へと、坂道発進もなんのその。

車好きの若者でも、ミッションの軽トラは難しいだろう。
軽トラの御婆さんには、ミッション車が体の一部となっている。

ミッションとは、歯車が噛み合った状態、
ミッションスクールとは、キリスト教の学校、
伝道目的の学校と言う意味だ。

「あなたは、地の塩だ」と、イエスは、
少量の塩が、みずみずしい野菜を美味しい漬物にするように、
宣教の使命、ミッションを私たちに託すと言う。





マタイによる福音書 5章13節
あなたがたは地の塩である。
だが、塩に塩気がなくなれば、
その塩は何によって塩味が付けられよう。
もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、
人々に踏みつけられるだけである。






  『いずれまた』     6月2日(日)


土地の神々(地元企業)に失礼のないように、
人々の信仰心(顧客の嗜好)にも敬意を払って、
主の復活(新製品)をプレゼンしたのだが、

契約は、取れなかった。

パウロは、古典文化の中心の町、アテネで、
エピクロス派やストア派と呼ばれる人たちから、
漫才のボケ役のように、
「もうええわ!」と、軽くあしらわれてしまう。

パウロの轍を踏む者でありたいですね。




使徒言行録 17章32節
死者の復活ということを聞くと、
ある者はあざ笑い、
ある者は、
「それについては、
いずれまた聞かせてもらうことにしよう」
と言った。
      





 『賢い者には隠して』    5月26日


「あんたみたいなカシコイ人には、
 言うても分からんと思うけどな。」

これを言われたら、お仕舞い。

神は、ツーカーで分かることを、
思い上がった者には隠すとイエスは言う。

「ほれ、それ、何ですがな。」
「ああ、あれ、あの何のことですか。」
「そうや、その何や。」

疲れた者、重荷を負う者に、
神さまが何をして下さるのか。
カシコイ人には、言っても分からない。




マタイによる福音書11章25節
そのとき、イエスはこう言われた。
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。
これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、
幼子のような者にお示しになりました。






 『生まれ故郷の言葉』  5月19日(日) ペンテコステ礼拝

お笑いコンビの『ロザン』が大阪駅周辺で、
旅行中の外国人に、おせっかいな道案内をする。

夕方のテレビ番組だ。

京大卒のクイズ王の相方、菅ちゃんが、
破れかぶれ、滅茶苦茶な英語で話しかける。

菅ちゃんの英語は、ネイティヴを混乱させる。

しかし、菅ちゃんの善意は、
あらゆる修辞学を駆使したネイティブの言語を超えている。



使徒言行録 2章4節
すると、一同は聖霊に満たされ、
“霊”が語らせるままに、
ほかの国々の言葉で話しだした。





  『マブタの母』   5月12日(日)


『愛をもって互いに忍耐し、』

料理研究家の栗原はるみさんがNHKの番組で、
「お弁当作りは、がまん。」と言っていた。

こどもの弁当作りの期間は長い。
料理上手な人でも
毎日の弁当作りは忍耐を意味するのかも知れない。

思春期の娘に、
自らの死期を知らせることなく貧弱な弁当を作った母がいた。
「もう作らんといて!」

詫びる気持ちで一杯の娘に、
その後悔が一生続くものでないことを伝えたい。




エフェソの信徒への手紙 4章1―3節
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。
神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、
柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、
平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。





  『忘却と繁栄』  
       5月5日(日)


新島八重の夫、新島襄(にいじま・じょう)は
国禁を犯して幕末の日本を脱出したのだが、

アメリカ東海岸までの船中で、
「ジョー!(おい、小僧!)」と呼ばれた。

無一文のサムライが船長の召使いとして
我が身を船賃の『カタ』にしたからである。

兄たちの嫉妬を買いエジプトに売り飛ばされたヨセフは、
奴隷から大臣にまで出世する。

ヨセフとは、英語読みでジョセフ(Joseph)、
つまり、ジョーのことである。




創世記41章51―52節
ヨセフは長子をマナセと名づけた。
「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた。」からである。
また、二番目の子をエフライムと名づけた。
「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた。」からである。







  『はたら苦 はた楽』  4月28日(日)


「奥様は、どちらからお越しで?」
司会者がスタンドマイクを奉げ持ちながら尋ねる。

「芦屋(あっしゃ)から来ましてん。」
上品なマダムが答える。

審査委員長がヘッドホンを片方の耳に押し付ける。

「お歌は何を歌いはります?」
「『立ちんぼ人生』を歌わせて頂きます。」

この芦屋マダムは、
ぶどう園の労働者の悲哀を知っている。





マタイによる福音書 20:5−7節
主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、
同じようにした。
五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、
「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねると、
彼らは、「だれも雇ってくれないのです」と言った。
主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。






 『愛の絆』     4月21日(日)


無人島に辿りついた男が、
手許にあったバレーボールに
「へのへのもへじ」を書いてウイルソンと名前を付け、
彼と会話を交わすうちに絶望感を克服し、
無人島を脱出した。

そんな筋書きの映画を見た人の話を聞いた。

イエスに繋がっている人も、無人島で絶望しないだろう。
イエスは、「へのへのもへじ」以上のお方、
「まことのぶどうの木」だから。
あなたは、今、
無人島で自暴自棄になっていませんか?



ヨハネによる福音書15章5節
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
人がわたしにつながっており、
わたしもその人につながっていれば、
その人は豊かに実を結ぶ。






    『時を憎む』 
     4月14日(日)


「キシモトさん、何事にも時があると聖書は言うけれど、
ボクには忸怩(じくじ)たる思いで一杯の人生でした。

時を逃してばかりの日々でした。」と、
定年を勤め上げたある人が胸の内を語ってくれました。

「タイミングを逃してばかりの人生だったと反省できる
今があることは素晴らしいじゃありませんか。

あなたをそんなにも謙虚にさせる時の流れに
感謝ですね。」とお返事しました。





コヘレトの言葉 3章:1-4節
何事にも時があり、
天の下の出来事はすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時。 
植える時、植えたものを抜く時。 
殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時。 
泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時。





  『うぐいす信徒にホトトギス牧師』  4月7日(日)


ホトトギスが、うぐいすの巣に
うぐいすの卵のいくつかを押し出して、

自分の卵を産み落とすことはよく知られています。
うぐいすは、自分とホトトギスの卵を同時に育てます。

ペテロは、天国の鍵(複数形)というイエスの卵を、
自分の『我』と言う卵を少々犠牲にして、
自らの巣(人生)の中で育てます。

その卵は、地上と天上を繋ぐ天国の鍵として
私たちの巣(生活の場)にも、
私たちの留守中に産み落とされています。



マタイによる福音書16章 19節
わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。
あなたが地上でつなぐことは、
天上でもつながれる。
あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。


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