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  きっしゃん             チャペルアワーでのお話し
                             
2009年10月7日

すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』  マタイによる福音書 25章44-45節

すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 
 マタイによる福音書 二五章四四-四五節


MY OLD COTTAGE HOME

I am thinking tonight of an old cottage home     
That stands on the brow of the hill
Where in life’s early morning
I once love to roam
But now all is quiet and still

  (ref.)
  Oh my old cottage home
  Oh my old cottage home
  That stands on the brow of the hill
  Where in life’s early morning
  I once love to roam
  But now all is quiet and still

Many years have gone by since in prayer there I knelt
With dear one around the old hearth
But my mother’s sweet prayers
In my heart still are felt
I’ll treasure them all while on earth

One by one they have gone from the old cottage home
On earth we shall see them no more
But we’ll meet them again
On that beautiful shore
Where partings will come never more



名刺がわりに

おはようございます。只今ご紹介に与りました岸本兵一です。唐突にも何やらヨコモジの歌を歌ってしまいました。本日は生憎の雨ですが、何と申しましょうか、大学の構内に一歩足を踏み入れますと一九歳、二十歳の自分に戻ってしまいます。1960年代後半から70年代初めのキャンパスを思い出して、そこにいるかのような気になってしまい、ついついSMMA同好会にいるような気分になってしまいました。お許しください。                         
今歌って演奏しましたのは、アパラチアの山々に点在する小さなコミュニティーの人たちの伝承歌、つまり、バラッドなるものですが、ジャンルとしては『マウンテン・ミュージック』と呼ばれるものです。このジャンルの音楽は、あの大恐慌の時代、ラジオやSpレコードなどのメディアを通して商業化され大衆の耳に届きました。つまりアメリカン・ポップスの源流となった歌謡曲の類です。あの大学紛争の時代、四十年ほど昔の若者に広く受け入れられたフォーク・ソングのオタクっぽいジャンルと思って頂ければ分かりやすいかも知れません。 
大量生産、大量消費の時代は、土に生きる人々の生活の基盤を破壊し、多くの労働力を田舎から都市へと奪いました。そのパターンの典型のひとつはアメリカですが、それは今も世界中に拡張し続けています。しかし、そういう状況の下で、人々は時代の流れに抗えない切ない気持ちに耐えかねて、『北国の春』のような歌の世界に癒しの場を求め、ラジオに耳を傾けました。今歌いました曲のタイトルは、『My Old Cottage Home』といかにものタイトルなのですが、貧しいながらも楽しい団欒のあったカッテージの生活を懐かしみ、信心深い母の深い家族への愛を宝とし、今は召された家族との天上における再会を願う。そのような内容でした。『大草原の小さな家』の世界ですね。わたしの名刺代わりとお聞き流しください。
さて、今年のチャペルアワーのテーマを「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」と聞いています。この聖書の言葉は、つまり、使徒パウロの言葉は、その当時の教会の信徒たちへの慰めの言葉であったのですが、現代を生きるわたしたちの胸にも強く響くものを持っています。



泣き虫牧師と横着信徒


牧師の駆け出しだった頃の記憶に鮮明に残っている出来事を紹介したいと思います。アーサー・ヘイリーの『自動車』の冒頭にある気の利いた断り書きを真似して、つまり、『本書の登場人物は作者の創作であり、実在の生存者または故人に似ているとしても、それは偶然である』とわたしも断らせて頂いて、守秘義務の関係からソースが分からないようにお話したいと思います。
ある教会、それは過疎の村の小さな教会、教会とは申しましても十字に組んだ角材に白いペンキを塗って屋根に立てただけの、八畳二間の襖を外して連結した礼拝堂があるだけの、農家を改装した教会なのですが、ひとりの信徒が病気を苦にして自らの命を絶つという事件がありました。
首の青紫色の筋が白布の下から少し見える亡骸を教会員が囲む中、近隣の教会からふたりの牧師が駆け付けました。その教会には専任の牧師がおりませんでしたので、そのふたりが交代で日曜の夜の礼拝を担当していたからです。教会員たちが右往左往する中、さて葬儀をどのようにするかと言うことになったのですが、葬儀をそもそもキリスト教式で執り行って如何なものかとの強い意見が出ました。さらに、このような事態を招いたのは牧師の責任ではないのかとの声もあがりました。適切なケアがなされていなかったのではないかとの批判です。教会に馴染みのない方は、クリスチャンとは聖壇の前に額づいて敬虔な祈りを捧げる人たちであって、言い争ったり、責任者を究明するような人たちではないとのイメージをお持ちかもしれませんが、そのようなことはありません。わたしの見聞きして来たことに限ってのことですが、ごくごく一般的なプロテスタント系の教会では牧師や役員が教会経営や信徒へのケアに対してな批判を受けることは珍しいことではないのです。教会の人間は、ごくごく普通の人、ありのままの自分を隠さない人が多数ですので、それはごくごく自然なことなのです。
ひとりの牧師はその場の空気に耐えかねて、「申し訳ございませんでした。」と畳に頭を擦り付けました。しかし、もうひとりの牧師は、「辛かったんやな。痛かったやろな。」と大声で泣きながら冷たくなった教会員の頬を撫でながら話しかけました。押し殺したような啜り泣きがひとりふたりと続きました。その時、蓄膿症特有の鼻に掛かった声、それも大きな声で「この信徒に神の許しあり!」と御託宣のような声が礼拝堂に響き渡りました。 
その声の主は、亡骸に話しかけている牧師の車の助手席にふんぞり返って収まっていた悪名の評判高い信徒の声でした。自分の教会でもないのにわざわざのお出ましです。この人のクリスチャンらしからぬ横着な態度、偽善者と彼の目に映る信徒への暴言、牧師への無礼な言動は有名で、なんでこの人が牧師の車に一緒に乗って来たのか、みんなそう思っていたのですが、この一言がその場に居合わせた人たちの心を正気に戻らせました。肩の力が抜けて、全員が心行くまで大声で泣きました。神様から頂いた命をいくら苦しいからと言って自らの手で絶つ、それはいけないことだ、クリスチャンに有るまじきことだ、そうさせてしまった牧師にも責任がある、だから「申し訳ございませんでした。」と頭を下げる、下げさせる、そんな間違いの連鎖が断ち切られた瞬間でした。後にして思えば、泣き虫牧師と横着信徒の見事なコラボレーションが淀んだ空間の風通しを良くしたという訳だったのですが、その牧師とその信徒のシタタカに誰一人気付きませんでした。二人一緒に車で来たということから変だと気が付くべきだったのですが。



牧会者

神学部を卒業して教会から招聘を受け、その教会に赴任することを『牧会に出る』と申します。そのタイミングで牧師には三つの働きの側面があると神学部の指導教授や先輩牧師から教えられます。「またキシモトさん、好い加減なこと言うとる!」と痛い視線がそちらこちらのお席から感じられるのですが、ちょっと目を瞑っていて下さい。そう、牧師の三つの働きの側面のひとつは『祭司』としての側面、つまり、平たく言って結婚式や葬式、礼典を上手に執り行うということです。「あのセンセは結婚式がお上手。」とか、「あの牧師の葬式はさすがやな。」という口さがない人たちへの説得力みたいなものです。しかし、これにはその人それぞれの向き不向きがあって長年牧師をしている人でも「あれは照れるネ。」と苦手な表情を隠さない人もいます。
もう一つの側面が『説教者』のそれ、これには『照れるネ』の先生も俄然張り切って命を賭けるほど多くの牧師が求めて止まない目標です。牧師館の書斎、大抵の場合それは名前だけが大仰な、四畳半にミカン箱の机程度の勉強部屋のことですが、そこから珠玉の説教が、多くの不良品にと共に生産されます。歩留まりが悪いのに、大抵の牧師さんはそれを承知しながら頑固にシステムを変えようとせず、着ては貰えないセーターを編むように、ひたすら説教原稿に励むのです。(苦笑)
そして、最後に、三つ目の側面ですが、決定打でありながらもその評価が、例えてみるとフィギュアスケートのイナバウアーみたいに点数にはカウントされない感じなので、やる気のない牧師やもともとその感性を持ち合さない牧師には何の価値もない働きの側面ですが、先ほどからお話している教会員や教会に関係する人たちへの心のケア、すなわち、カウンセラーとしての牧師、『牧会者』としての側面があります。   
この三つの側面のバランスが取れていれば教会員から吊るし上げを喰らうようなことはないのですが、そんな牧師さんには滅多にお目にかかれません。結婚式が上手、説教は名人芸、そんな牧師であるに越したことはないのですが、あの牧師は一緒に泣いてくれる、そんな声がへえぇーと思うような所から聞こえて来る、そんなくすぐったい思いの一度はしてみたい、わたしのような不出来な者には偽らざる気持ちです。



きっしゃん

二年前の大晦日、「ほんなら代わるわな」と聞き慣れた声に続いて、「きっしゃんですか。はじめまして」とジャイアント馬場さんによく似た声の電話がありました。このときの印象で、彼のことは「ジャイアントさん」と呼ぶようになりました。「きっしゃん」のアクセントは、まあ、なんと申しましょうか、昭和の30年代あたりに少年であった人には馴染み深い、「やっさん、山登ってぇ・・・」で始まる得体の知れないあの囃子歌、そんなこと申し上げても、お聞きの学生さんたちには何のことか分かりませんが、あの「やっさん」のアクセントではなく、気取った人が無理に関西弁を使ってウケを狙ったつもりが、肝心のキーワードが関西アクセントにならなかったような響き、アナウンサーが原稿を読む標準語アクセントに近い「きっしゃん」の響きだったので、耳の奥がこそばくなるような違和感を覚えました。
すみません。このようにお話しては皆さんには何のことか分かりませんので、順を追って説明いたします。大晦日の聞き慣れた電話の声は、これまた守秘義務の関係からソースを分かり難くしまして、さらには、若干の脚色を加えましてお話いたしますが、この京田辺から、方角は申せませんが、車で一時間から二時間以内の過疎の山村に住んでいる知人からのものでした。この人は、お酒が過ぎて少々手元がオカシイにもかかわらず、ちょっとした生活用具を器用に作って味噌醤油代を稼ぐ気ままな一人暮らしをしています。ジャイアントさんの声は、年の瀬のややこしい時分に、その知人の家に辿り着いた『漂流者』、でした。そんな過疎の村にどうして何の関係も無い人が辿り着いて年を越すような逗留をしているのでしょうか。「久しぶりにな、きっ、きっしゃん、山下りて『いすか』で飲んどったらこの人と知り合うたんや。行くとこないからどうしょうちゅうんで、ウチに泊まったらええわちゅうて連れてきたんやわ。」で事情が分かりました。ああ、そうそう、『きっしゃん』とは、キシモト、わたくしのことです。人間は立場でものを言ったり、付き合ったりするのではないのだ。対等の関係、キシモトさんとはツレだと言うことです。英語で言うところのBuddyですね。それと、『いすか』とは鳥の『?』のことですが、嘴が上下組み合わないあの鳥のことです。酔っ払い同士が互いに勝手なこと、噛み合わないことを機嫌良く喋り合っているあの感じが店の名前になっています。
多分、連れては来たものの口下手な知人のことですから話題がすぐに尽きてしまい、「ワシの知り合いに面白い奴おるねん。『きっしゃん』ちゅうねんけど声聞いてみいへんか。」ということになったのだと見当が付きました。その関東アクセントの『きっしゃん』を何度も話しの頭に付けながら、ジャイアントさんは身の上話を始めました。まあ一応牧師ですから、そこそこ聞き上手になって聞いてみましたところ、彼はあるプロスポーツの廃業者であることが分かりました。極貧の大家族に生まれ、中学卒業後故郷を出て、正確に言うと家を出され、ご飯がお腹一杯食べられ世界を目指したとのことでしたが、怪我をして廃業の憂き目に会い、全国を転々と渡り歩いて来たとのことでした。しかしながら、丁寧で控えめな言葉遣いは、廃業前の彼が汗を流した業界の厳しい『躾』の名残と思われました。後日ジャイアントさんにお会いする機会がありましたが、身長は一八〇センチを越す痩せた老紳士でした。
この夏、ジャイアントさんが淋しくアパートで衰弱死したとの知らせを知人の電話で知りました。彼は逗留した知人の住む街で暮らしてみたくなり、山の下の居酒屋、『いすか』の近くのアパートに暮らすようになったのですが、間もなくして癌との闘病生活が始まりました。喉を切開した状態での通院を続けていたのでしたが、最低限の生活保障の限界がそこにありました。誰にも看取られることのない孤独の死を迎えてしまいました。遅まきながら駆けつけた知人が葬儀をどうしようとおろおろしていると、あれよあれよと言う間に、市の係りの人たちが段取り良く骨壷に納めてしまい、「ワシャ許せん!」の歯軋りだけが残りました。



ジャイアントさんとのお別れ

「きっしゃん。なんでもええから、葬式挙げたってぇな。キリスト教でもなんでも構わへんから。その後、ワシがこの人の骨、北海道の海に撒いて来るからな。」
ジャイアントさんと付き合いのあった数人が知人の山の家に集まりました。ジャイアントさんの遺品の運転免許証から彼が七十歳を目前にして死去したことが分かりました。お金に縁のない人間ばかりが集まりましたので、ジャイアントさんの遺影はA四のコピー紙に免許証の写真を無理やり拡大印刷したぺらっとしたものだけです。私は、左手で鞴(ふいご)を操作しながら右手でオルガンと同じように鍵盤でメロディーを出すハルモニュウムというインドの携帯楽器を持っていましたので、それと般若心経、主の祈り、英語の歌詞付きの讃美歌『いつくしみ深き友なるイエス』を印刷して持参しました。数人しか集まらない葬儀ではあったのですが、自称インド帰りの仏教徒に英語圏の人間もおりましたので、そのような仕度となりました。ハルモニュウムという小さな卓上鍵盤楽器にはドローン音のレバーが四つ付いています。それが何故かBフラットだのEフラットだの、フラット系の音なので、このレバーを引いて適当に黒鍵でアドリブすればインスタントなインド音楽の出来上がりです。まずは自称仏教徒に敬意を表して、と申しますか、おそらくジャイアントさんが親族との関係があればごく普通にお寺の葬儀がなされたと思いますので、何よりもジャイアントさんに敬意を表して、般若心経をハルモニュウムに合わせて皆で唱和しました。続いて讃美歌、聖書朗読、知人が故人を偲ぶスピーチして最後に一同の涙を添えました。
 
『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』

およそ私も含め信心深いというような世界からほど遠い者たちの所に、流れ流れて辿り着いた淋しい魂が、我々の心の奥底に深く眠っている何かを激しく揺り動かしたということは確かでした。願っても得難いこと、そういうフレーズがありますが、まさにその言葉の意味を知ることとなりました。ジャイアントさんが、生前、私の拙い演芸館の歌謡漫談の真似事を気に入ってくれていたので、追善供養と言うのも教会人としては逸脱した表現かも知れませんが、その辺に転がっていた適当なギターを拾い上げて、こまどり姉妹の『ソーラン渡り鳥」を遺影に捧げました。この歌は作詞が石本美由起、作曲は遠藤実、絶妙のコンビネーションによって昭和36年、わたしの中学生時代に大ヒットした曲です。振袖姿の双子の姉妹が、ユニゾンで切なく歌い上げるのを感度の悪い白黒テレビで見た記憶があります。それでは、一番の歌詞は『津軽の海を 越えて来た ねぐら持たない みなしごつばめ』で始まるのですが、ジャイアントさんの気持ちに最も近い三番の歌詞をお読みしまして、何、演奏しろって? 手拍子してやるから歌えって? 勘弁してくださいよ。このチャペルの節度というものがございますので、ご容赦くださいませ。それでは、三番の歌詞をお読みしまして締め括らさせて頂きます。

瞼の裏に 咲いている 幼馴染の はまなすの花
辛いことには 泣かないけれど 人の情けが 欲しくて泣ける
ヤーレン ソーラン ソーラン ソーラン 娘ソーラン ああ 渡り鳥


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